▷ 書評:エイミー・ティンテラ『記憶にない殺人』(早川書房)
「また、つまらぬものを読んでしまった…」
もちろん『ルパン三世』でおなじみ、石川五ヱ門による決め台詞のパロディてある。
本作の評価については、Amazonの本書紹介ページに(現時点で)唯一投稿されている「斉藤高史」氏のレビューのタイトル、「稀に見るイヤな小説。しかし、ページ・ターナー」という言葉に尽きよう。
したがって、私のこのレビューは、その蛇足となることを避けた、「斉藤氏のレビューの解説」だと、そうご理解いただければ幸いである。
もちろん斉藤自身、そのレビューのなかで、本作についての評価やその根拠を語ってはいるのだが、私は斉藤氏の語ったその評価の根拠について、さらに深掘りの解説を加えたいと思うのだ。
例えば、氏はレビューの冒頭で、本作についての結論的な評価とその根拠を、次のように端的に語っている。
『 先に言ってしまいますが、稀に見るイヤな小説です。あまりにも“sisterfood”過ぎて呆然としてしまいますが、ページ・ターナーであることは間違いありません。』
つまり、読ませる作家(筆力のある作家)だというのは、私もまったく同感するところなのだが、その一方の『あまりにも”sisterfood”過ぎて』というのが、どういうことを意味しているのかということまでは、氏は説明していない。
なぜならば、それは「説明しなくても、わかりますよね?」ということだからだ。
たしかに、詳しく説明されなくても、その問題点については、よく「わかる」。
よく「わかる」のだが、一一しかし、ただ単に「わかるわかる」では不十分だと、私にはそう思えるのだ。
「#MeToo」運動以降、小説の世界でも、映画の世界でも、「sisterfood(シスターフッド)」というものを、意識的かつ肯定的に描いた作品が増え、それを肯定的に評価する向きも増えて、一種の流行現象のようにもなっている(これが「フェミニズム・ウォッシング」的なものでなければいいのだが)。
無論、「女性どうしの友情」が悪いものであるはずがないとは言え、しかし現実の人間社会においては、しばしば「過ぎたるは及ばざるが如し」というようなことも現にあって、そうした悲喜劇は、歴史的に何度も繰り返されてきた。
つまり、「共産主義の理想」も「シスターフッドの理想」も、それ自体としては(理念としては)立派なものなのだが、それを現に実行に移す主体というのが、欲にまみれていながら、しかしその自覚の十分ではない「生身の人間」だということを忘れてしまうと、「スターリンの大粛清」だとか、「北村紗衣のオープンレター」なんてことにもなってしまう。
つまり、斉藤氏の言う『あまりにも”sisterfood”過ぎて』という点について、ただ『呆然としてしま』うだけでは不十分なのだということを、私はここで、根拠を示して解説したいのである。
○ ○ ○
本作の「あらすじ」については、斉藤氏のレビューでのそれも、本書の「訳者あとがき」における服部京子のそれも、ほとんど同じなので、ここでは、服部の方を紹介しておこう。
『 殺人事件が発生したのは五年前。ルーシーの出身地、テキサス州プランプトンで当時二十四歳のサヴァンナ・ハーパーが林のなかで遺体で発見された。その数時間後、殺人の現場近くの道路をふらふらとさまよい歩いていたルーシーが保護される。全身にサヴァンナの血を浴び、しかも爪のなかにはサヴァンナの皮膚片が。だが当のルーシーには事件当日の記憶はいっさいなく、その後も記憶は戻らなかった。犯人として逮捕はされなかったものの、ルーシーはプランプトンの住人のほぼ全員から犯人とみなされて敵意を向けられ、逃げるようにカリフォルニアへ移住する。サヴァンナを殺害した犯人はいまだ逮捕されていない。
事件から五年がたち、プランプトンの未解決殺人事件を題材にした犯罪ドキュメンタリーのポッドキャストがはじまった。タイトルは嘘に耳を澄ます)で、ホストは未解決事件オタクのベン・オーウェンズ。ベンはプランプトンを訪れ、さまざま人物にインタビューをして事件を新たな角度から見なおし、事件解決に挑もうとする。そんな折、祖母ベヴァリーの誕生日パーティーに出席するために地元に戻っていたルーシーとペンは顔をあわせ、ともに真実の解明に乗りだす。
以上が本作品のあらまし。』(P415〜416)
さて、こうした「要領のよい、あらすじ紹介」も、昨今では「生成AI」の登場により、すっかりありがたみがなくなってしまった。
横着な私なんかは、これまでに何度か書いているとおり「あらすじ紹介などは、召使いどもにやらせておけ」というリラダン主義者なので、レビュー内でのあらすじ紹介は、その本に刷られている版元による公式紹介文や、その転用のAmazonの紹介文、あるいは、Wikipediaの紹介文を、そのまま引用させてもらうことが多い。もちろん、引用元を明記してだ。
ところが、プロの書評家ともなると、そうもいかないので、自力で「あらすじ」の紹介文をまとめるしかないのだが、これがきわめて面倒なのだと、どこかの書評家がどこかで書いていた。
そりゃそうである。自分の評価や意見は思うとおりに書けば良いが、「あらすじ紹介」は、字数制限の範囲内で、誤りなくかつ要領よくまとめないといけないから大変なのだ。
ところが、生成AIの登場で、「あらすじ紹介」が子供にでも出来る作業になった以上、書評に本来もとめられていた部分としての評価や意見の中身が重視されることになる。
だがまた、得てして「提灯持ち的な紹介屋」になり下がったような書評家たちは、それをする力がそもそもないので、生成AIに仕事を奪われることにもなりかねないのだ。
その点アマチュアには、プロの書評家的な縛りがないから、生成AIも恐るるに足らずで、前述のような貴族的なディレッタンティズムに徹した方が、むしろ有利。
カネ欲しさ名誉欲しさの貧乏人根性があると、あれこれ(ウケねらい)のしがらみに縛られて、レビューを書いても「楽しくない」ということにもなるのだが、それはまあ、自業自得だから仕方のないことなのであろう。
閑話休題。
そんなわけで、私が本作を読もうと思ったのは、ひとえに、本書に寄せられたスティーヴン・キングによる次のような推薦文のせいである。
『世界最高峰の犯人当てミステリ』
一一しかしながら、本来ならばここで、
「キングって、本格ミステリがわかる人だったっけ?」
という心の声に耳を傾けるべきだった。

だが、その前にとても良くできた「犯人当て(フーダニット=誰が犯人か)ミステリ」である、楠谷佑の 『猫鳴く森で謎解きを』を読んでいたので、つい『世界最高峰の犯人当てミステリ』とやらが、どの程度のものなのかと、うかつにも本書を買ってしまった。
キングがそこまで言うからには、それなりを面白い小説なのだろうと、そうも思ったのである。
まあ、もともと私は、キングを含めた「ストーリーテラー」タイプの小説家(物語作家)は、あまり好みではなかったのに、である。
だが、前述のとおり、「よく書けた小説=よく書けた本格ミステリ」ではない。
小説としてはよく書けていても、本格ミステリ味の薄い作品もあれば、本格ミステリとしての肝をはずしている(理解していない)作品も少なくない。
「それは、本格ミステリではなく、単なる〝ミステリー小説〟にすぎないよ」と、そう言いたくなるような作品が少なくないのだ。
で、斉藤氏のおっしゃるとおり、本作はまさに、それだった。
『ページターナー』であるのは間違いないが、「本格ミステリ」ではない。
所詮は「よく書けたミステリー小説」でしかないのである。
で、これを、わたし流に言うなら、本作の面白さとは、かのサイコサスペンス映画『スクリーム』(ウェス・クレイヴン監督・1996年)シリーズと、まったく同じパターンなのだ。
私は以前、この喩えで、日本のミステリ作家のある作品を、「だからダメなんだ」と否定的に評価したのだが、本作は、それに比べれば、小説としては「まあ、それなりにはマシ」だとは言え、「本格ミステリ」マインドが無い、という点では、むしろそちらにも劣っていると言えるかもしれない。
そちらの作品は「シスターフッド」を描いた作品ではないのだが、「本格ミステリのツボをはずしている」という点では似たようなものだから、日米の女性ミステリー作家として「シスターフッド」を結んだらよいのかも知れない。
だがまあ、「シスターフッド」が売りのミステリということなら、日本のミステリでは断然、次の作品の方が有名だから、こちらと「シスターフッド」を結ぶべきなのかもしれない。
一一また、脱線したので話を戻すと、本作『記憶にない殺人』の面白さとは、『スクリーム』的なものであり、要は「登場人物の多くがやたらに変」という点にある。
ある意味では、極端な二重人格であるサイコパスっぽい人の、オンパレードなのだ。
テキサス州を舞台とする本作の主人公ルーシーは、その地元への嫌悪を隠さず、「テキサス人は礼儀正しい。ただし、中身はそうでもない」というようなことを語り、それが本作の伏線にはなっているのだが、それにしても、そんな奴ばかりというところが、いささか極端だ。
最初は、大半の人が「いい人」そうに描かれるのが、次々と裏情報が小出しにされて、読者は「あいつが怪しいな。いや、こいつかもしれない」という感じで、右に左に作者に鼻面を引き回される。
こうした点では、デイヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』を、ちょっと思わせるような物語ではあるのだが、しかし、『ツイン・ピークス』とは違い、本作の雰囲気は「ハーレクイン・サスペンス」という感じの、テレビドラマ風の「ラブ・サスペンス」であって、リンチのような「芸術性」などは、良くも悪くも、微塵もない。

じつは主人公のルーシーも小説家なのだが、(ろくに読まないくせに)「文学」好きの嫌味な(毒親に近い)母親に対しては、「文学が悪いとは思わない(言わない)」という趣旨の言葉を返している。
つまり、本音では「文学が何様だ」と、そう思っている作家なのだ。
一一 ルーシーも、作者も。
作者自身「ページターナー」であり、「リーダビリティーの高い物語作品」の書き手としての強い自負があり、それが自身の売りなので、文学性は無論のこと、「読者限定」的な本格ミステリ性にも、ほとんど興味がない模様。
つまり本音では「そんなの、一部のオタク趣味でしょ」と、そんなふうに思っいてること、まず間違いなしで、本作を最後まで読むと、作者のそうした「偏見」がよくわかるオチとなっている。
本作の作者は「一般の娯楽小説読者も、文学ファンも、本格ミステリファンも、みんなを楽しませ唸らせるような作品」を書こうなどとは、露ほども思ってはいない。「博(読書)愛」主義者ではないのだ。
したがって、そんな作者自身、「ハーレクイン・ロマンス」に出てくるような、カッコよくてセックスもうまいタイプの男性が大好きなのだが、しかし現実には、すべての男に絶望している。一一それ故の「シッターフッド」なのだ。
現実の男なんて(オタクは無論、見栄えのする男だって)、もとより中身はさほどのものではないと、そんな高くて厳しい期待水準の持ち主だからこそ、本作に登場する「ハーレクイン・ロマンス」的なイケメン・ヒーローたるベンでさえも、最終的にはルーシーと結ばれることにはならず、彼女のために頑張ったわりには、最後は一方的に距離を置かれてお終いという、男性へのルサンチマンを隠し持った作者にふさわしい、そのシニシズムの隠しきれないラストとなっている。
ともあれ、ヒロインのたどり着く結論は「ことの真相なんて、どうでもいいのだ」と、結局のところそれなのだから、これでは「本格ミステリ」になるわけもない。
したがって、前述のとおり、本作の面白さとは、もっぱら『スクリーム』的な「後出しジャンケン」性によって、担保されたものでしかない。
つまり、当初は容疑者たちを全員「いい人」のように描き、その後に「じつは、しかし」と否定的な要素を小出しにすることで、容疑者たちを順次疑わせ、しかしまたその後には「でも、それほど悪い人でもない」みたいな情報を与える。
これを複数の登場人物についてやるのだから、読者にはまともな推理など不可能であり、恣意的な情報操作による濃霧の中を、作者がライトで照らし出す「半歩先」だけを見て、読み進めることになるのである。
だから「本格ミステリ」の、
「ここまでで、犯人を特定するためのヒントは、すべて出揃いました。さあ、推理してください」
などという、茶目っ気のある「フェアプレイ精神」など、本作にはかけらも無い。
まるで、気まぐれな性悪女が、あなたのことが好きだとか嫌いだとかと言を左右にして、馬鹿な男を弄んでいるかのような小説であり、そんな作者からすれば、「本格ミステリ」などはきっと、
「そんなの、所詮は暇なオタク向けのお遊びでしょ」
と、そんな感じなのであろう。
一一たしかに、もとより本作は、そういう「非共感的なスタンス」に立った作品なのだ。
だから、それならそれで「本格ミステリ」ぶらなければいいのだが、それをやってしまっているのが、作者その人ではなく、前述の「本格ミステリ」オンチの推薦者スティーブン・キングであり、翻訳者の服部京子なのである。
服部は、「役者あとがき」次のように本書を紹介している。
『『記憶にない殺人』は記憶喪失もの、かつ、バディもので、犯人当ての本格ミステリの味わいもあり、ルーシーの一人称の語りも楽しい作品。』(P418)
『犯人当ての本格ミステリの味わいもあり』という、じつに巧妙な言い回しは、少なくとも服部京子自身は、本作が「本格ミステリそのものではない」ということを、半ばわかって書いている、ということなのであろう。
「犯人当ての本格ミステリでもある」とは断言せずに、その「味わい」もあると言うに止めて、うまく誤魔化している。
本作『記憶にない殺人』は、犯人当ての本格ミステリではないけれども、その「味わい」なら「無いわけではない」と、そういう「二重否定のレトリック」なのだ。
喩えて言うなら本作は、カレーではないが「カレー風味のスナック菓子」一一みたいなものであり、カレーではなくても「やめられない、止まらない」という、そんな美味しい駄菓子(エンタメ作品)なのである。
一一さて、残るは本作の「シスターフッド」性の問題だ。
Amazonへのレビュー投稿者である、前述の斉藤高史氏のおっしゃる、本作における、
『あまりにも”sisterfood”過ぎ』
とは、どういうことなのだろうか?
適切な「シスターフッド」ではなく、その過ぎたるがゆえに及ばざるが如き問題点とは、具体的に言えば、本作のどのようなところに見出せるのか?
それは、本作に二度ほど登場する、次のような言葉に、その本質を見出すことが出来る。
『わたしのまわりにいたほとんどの男と同様に、(※ 元夫のDV男)マットはつねに男のほうの言い分を信じる人だし。』(P409)
これは、同趣旨の言葉が二度目に登場した際に、私が付箋を貼った部分である。
無論、作中人物がこうした「男はつねに男の方を信用する(しがちだ)」という「偏見」を持っているのはかまわない。
言い換えれば、作者がこうした偏見に基づいて本作を書いたのでなければかまわないのだが、残念ながら、本作は「作者個人の、男性に対するルサンチマン」に由来する「偏見」に染め上げられた作品だと、そう評するしかないものなのだ。
そのことをAmazonレビュアーの斉藤氏は、次のように指摘している。
『 今回(※ 本作)はどうだったのか? 基本的にが要なわけですが、根底には私には理解できない<性>のあり様と相変わらず何とも受け入れられない不埒な男たちのあり様が荒れ狂う嵐のように私に降りかかってくることになります。だから、「稀に見るイヤな小説」という言い方になってしまうのかもしれません。』
だが、本作の場合、男に限らず、とにかく「誰も信用できない」という「人間不信」が、その根底にはある。
だからこそ、両親も友達も素敵な男性も、すべて最終的には信用できず、本作で信用できる人物と言えば、過剰なまでに「理想化されたおばあちゃん」と「死んだ親友の女友達」だけ、ということになってしまう。
つまり、この世の現実から下りてしまっている「思い出の中で美化された存在」しか信用できないという「著者の世界観」によって、本作の世界は、どす黒く染め上げられているのだ。
表面的には「ハーレクイン・サスペンス(的ピンク色)なのだが、「文学」的に読むならば、本作は、著者の、この「ままならない世界に対するルサンチマン」をそのまま反映した、一種の「この世に対する復讐譚」でしかない。
だからこそ斉藤氏は、
『しかし次はもっと清冽な小説を読めれば良いなと思ったりもしました。
結果、私はまたしても読んではいけない小説を読んでしまったと言えるでしょう。あの本を読めば、この本は読めないというのに。』
と、レビューをまとめておられたのだ。
たしかに世の中には、酷い男も大勢いる。
だが、当然のことながら、同じくらい酷い女もいる。
一一私の「専門分野」で言わせていただくならば、武蔵大学の教授で自称フェミニストの北村紗衣なんかが、さしづめその代表格であろう。
前述のとおり、本作ヒロインのルーシーは、
『わたしのまわりにいたほとんどの男と同様に、マットはつねに男のほうの言い分を信じる人だし。』
と言うけれど、しかしそれは、こうも言い換えることができる。
「私たちの知っているほとんどのフェミニストは、つねに女のほうの言い分を信じる人たちだし。」
事実、そうした「フェミニスト特有の党派的偏見」によって、冤罪に問われ、酷い目に遭わされた人もいるのだ。
「男はいつでも嘘つきなのだ。今のところ確たる証拠はなくても、とにかくやってないはずがない」呼ばわりされたのである。
まるで、本作のヒロインが陥った、理不尽な逆境のように。
こうした現実を見てみると、本作主人公ルーシーと、理想化された祖母との、ラストでの会話は、作者自身の「世界観=思想」を、ストレートに表現したものと見て、まずは間違いはない。
『「(※ ことの真相は)あれで全部じゃないんだ」わたしは小声で言う。
「なにが全部じゃないって?」
「ベンがポッドキャストで語った(※ 私がベンに打ち明けた)話。真実は語りつくされていない(※ 真相の一部しか、ベンには話さなかった)」祖母と目をあわせる。「そのこと、おばあちゃんも知ってるよね」
「まあね」祖母が小さな声で言う。
「おばあちゃんには話したいけど、(※ 殺された親友)サヴィのためにできることって、もうそれ(※ サヴィのイメージを悪くする真実は語らないというやり方)しか残ってないから」わたしは前かがみになり、ふとももに肘をつく。「秘密を守ること。それだけが、わたしにできること」
「そう。わかった」祖母は手をのばし、両手でわたしの片方の手をつかむ。「あなた自身の話だって、無理に人に話す必要はない。もちろん、サヴィの話も」
わたしはうなずき、ごくりとのどを鳴らす。
「ベンには自分の手で真実を見つけたと思わせておけばいい。わたしたちがやってほしいことをベンはしてくれた。ルーシーの言うとおり、どんなに説明したところで、あなたの言い分を絶対に信じようとしない人はいる。ほんとに、すべての人を満足させるのは無理。
あなたを最悪な人間だと決めつけた人たちの気持ちは、どうしたって変えられない」
「そういう人たちも、サヴィのことは最高な人間だと(※ そう一面的に)思っている。(※ サヴィの味方である私としては)もうそれで充分なのかもしれないね」
「そのとおり。ほんとうのサヴィの姿も、あなたたちふたりが共有していた秘密も、それはあなたたちだけのもの」』(P410〜411)
「本格ミステリ」の「名探偵」が、しばしば残酷なまでに「真相を明らかにする」ことにこだわるのに対して、本作で語られるのは「真相なんてどうでもいい。大切なのは自分の胸のうちにあるものだ」という思想なのだ。
そしてそれは、最終的には「自分の大切なものを守るためなら、嘘をついてもかまわない」とする思想。
さらに言えば、「(縁のない)他人を犠牲にするのもやむを得ない」とするものなのである。「それが、人間的な正直さ」なのだと。
一一しかし、これでは、本作が「本格ミステリ」にならないのも、当然のことであろう。
「本格ミステリ」の場合、本作や本作の作者とは真逆に、「真実を明らかにする」ことにこだわる。
仮に、そのことでかえって不幸になる人が出たり、誰も幸福にはなれなかったとしても、それでも「真実には、それ自体に重要不可欠な価値がある」と、そういうスタンスを採るのが、近代主義的な「本格ミステリ(の名探偵)」というものなのだ。

しかし、こういう「観念的=理念的」な立場は、フェミニストの女性からは、「いかにも男性的(男の子的)な、マンスプレイニングな独善だ」と非難されるかもしれない。
しかしまた、そう言えるのだとした、本作の作者のような「自分にとって大切なものを守るためなら、嘘をつき、事実を曲げてもかまわない」という理屈は、いかにも「女性的」に現実主義(実利主義)的なものだ、とも言えるのではないだろうか?
無論、すべての男性やすべての女性がそうだとは言えない、というのは大前提としてなのだが、しかし例えば、男性の方が「腕力がある」という「傾向」が客観的な事実として存在するとするのであれば、「女性的な傾向」というのも、客観的な事実として存在すると、そう考えるのが「フェア(公正)な考え方」だと、そういうことにもなるのではないだろうか?
もっとも、こうした「フェアプレイ精神」にこだわるところが、いかにも「男性的(男の子的)」だと言われるのかもしれないが、しかし、仮にそうだとしても、「フェアプレイ精神」は、性別を問わずに追求されるべき価値であり、人間的な理想(統整的理念)であろう。
しかし、それをも否定するために「私(個人)にとっての大切なもの」を持ち出すというのは、「論理階梯の誤謬」でしかない。
喩えて言えば、「すべての生命は大切だ」という思想に対して、「私は猫の命の方が大切だ」と反論するようなものである。
こうした非論理的な主張を、「共感できる」という理由で支持でき、そこに「矛盾」を感じないような人ならば、本作を無条件に楽しむことも出来るだろう。
だが、そのかわりに、「本格ミステリの美学」は理解できないはずである。一一Q.E.D.
(2026年8月22日)
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