▷ 書評:小川哲『こうやって作家は言葉を紡ぐ』(実業之日本社)
なんだかんだ言いながらも、小川哲の著書はぜんぶ読んできた。
これまでその理由を考えたことはなかったが、本書を読んでそのあたりの事情が了解できたように思う。
それは、小川哲の小説が特別に面白かったからということではなく、デビュー作からして「諦観」を漂わせていたこの作家が、何をどんなふうに考えて生きているのか、私はそのあたりを知りたかったのだろうというようなことだ。
どこか、この世界そのものを突き放したような、諦め切っているような、それでいて、それを嘆く訳ではなく、「それが現実なのだから仕方ない」と、冷徹に受け止めているようなドライな雰囲気。
諦めという消極的なものではなく、そんなことは俺には関係ないと、世界の方を突き放して、ただあるがままを受け入れているような、独特に「硬質な」とでもいうような、その「立ち姿」に対して、私は、その正体を見極めたいという感情を持ったのではないだろうか。
その点、本書『こうやって作家は言葉を紡ぐ』は、小川哲の正直な姿や言葉が、最も端的に表れた著作ではないかと思うし、その意味で、とでも興味深かった。

本書は、自身へのインタビュー記事を冒頭に置いて、そのあとに、都合14人の作家との対談と鼎談を収めている。
作家相手の対話であり、また「ゲンロン」主催のトークイベントとして行われ、課題図書を設けてなされた対話が多いため、その内容は、ハッキリと小説論であり創作論に傾いている。
つまり、時事問題や社会問題をテーマとしたようなものはなく、もっぱら書き手目線からの小説作法論が中心だと、そう考えていいだろう。
だが、そんな対話の中で小川哲自身「こうした作家どうしの創作論を聞かされても(読まされても、作家でもない人たちが)楽しめるのかな?」あるいは「こんなこと説明されても、理解できないだろうな」といった言葉を何度も口にしているとおりで、本書は、読んだから小説が書けるようになるとか、文章が書けるようになるとかいった、そんな内容のものではない。

タイトルどおり、『こうやって作家は言葉を紡ぐ』ということが語られてはいるのだが、ここで語られていることが、読者にも理解できるとか真似できるとまでは、言っていないのである。
もちろん、ぜんぜんわからないとまでは言わないけれども、やはり「プロの作家」でなければわからない、リアルな実感がそこでは語られている。
だから、小説家でもなければ、ましてやプロでもない者には、ピンと来にくいところのものが、小説作家どうしの、相互の理解のための言葉が、そこでは語られている。
つまり、小川哲は、対話の観客や読者のためではなく、純粋に自分の興味において、多少なりとも自分とは違っているだろう(有能な)対話相手と向き合っている。
その違うところと同じところを確認したいと、そんな気持ちでやっているというのがよく伝わってきて、そこが良かった。お客様サービスではなく、純粋な知的好奇心において対話しているところが良かったのだ。
これまでに読んだエッセイなどでも語られていたことではあるけれども、自身の「覚めた性格」を率直に認め、さらに「積極的に小説家になりたかったのではなく、やりたくないことをしないためには、自由業としての作家になるのがベストだと考え、どうすれば職業作家になれるのか、それを調べ上げた上で、最も効率の良いハヤカワSFコンテストに応募した」のだとまで明言してしまうところには、心底感心する。
また、これも小説の中だかエッセイだったかにも書いていたことなのだが、高校総体か何かのサッカーの決勝戦で敗れた際、チームメイトはみんな泣いていたのに自分(ともう一人)だけは泣かなかったというエピソードを紹介して、その理由を「泣いたって、どうにもならないんだから、泣く意味がわからない」と感じていたからだと、そんな説明にもこの人らしさを感じると同時に、それをそのまま語る正直さに、好感をおぼえた。
結局のところこの人は、少なくとも自分の感覚においては、よかれ悪しかれすべて合理的に見切っており、感情に流されるということのできない人なのであろう。
こうした性格がどのようにして培われたものなのかまでは定かではないのだけれども、当人も気づかないうちにそんな性格の人間になっていたということなのであろう。
そんなわけで、小川哲という人は、基本的に非合理な「夢」を見ない。感情的に、あるいは情熱的に、損得を抜きにして、その「思い」にすべてを賭けるというような、無茶で幼いことなどしない。
あくまでも、冷静に現実を観察し、分析した上で、最良の選択肢を選んで、それにベストを尽くそうとする人なのである。
無論、そんな生き方は、合理的なものではあってもつまらないと、そう感じる人は多いだろう。
それは確かにそうなのだが、しかしながら、それは「夢を見ること」や「情熱的に生きること」に魅力を感じていればこそそう思えるのであって、そうしたこと、つまり「夢を見ること」や「情熱的に生きること」に、紋切り型の「感情論」を見る者には、共感できるものではないのだ。
それは単に、現実を見ない、愚かで幼稚な感情論にすぎないと、そうなるからである。
つまり、小川哲という人は、よく言えば、根っからの合理主義なのだ。
合理主義を主義として選んだというのではなく、選ぶ以前に、元からそういう人間であり、感情で動く人間、失敗の見えていることに、感情に任せて挑んでしまうような人間のことが、理解できないのだ。単なる馬鹿にしか見えないのである。
言い換えれば、自分とは違った、そんな一般的な人間を、馬鹿にしているのでも見下しているのでもなく、単純に理解し難いのだ。
一般に人間とはそういうものだとわかってはいても、どうしてもそうなってしまうのかが、実感として理解できない。
だから、合理的な興味において、小川哲は、自分とは違うタイプの、「一般的な人間」というものに、宇宙人でも見るような興味を持っているし、知りたいという積極的な気持ちがある。
それは「他者(自分とは違ったもの)に惹かれる」というのとはちょっと違って、言うなれば、「合理的な興味」なのだ。知らないものを知りたいという、純粋に「知的な興味」。
また、他者を知ることは自分を拡張することであり、必ずや小説を書くことにも役立つはずだと、そんな功利的な判断もあろう。
積極的に小説家になりたくてなった訳ではなかったとしても、本を読むこと、小説を読むことが好きだったというのは事実だし、書くこと自体も好きだった。
だから、小説家になったからには、できるかぎり良い作品を書きたいと思うし、そうであれば自分でも楽しいし、またそれは、プロの作家として食っていくためにも必要なことだからだ。
小川哲がいくら合理主義者だと言っても、それは自身の快楽を否定するものではない。
サッカーをするのが楽しかったからサッカーをし、勝てば嬉しいから勝とうとした。一一そこは、普通の者となんら変わらないのだが、しかし、負けたから泣くという感情(的な快楽)の部分は欠落気味だったからこそ「泣く意味がわからない」と、そう呆れ気味に感じていたのであろう。
「呆れていた」のだから、感情が無いのではなく、合理性に欠けると思えるような種類の感情を持ちえなかっただけなのだ。
で、小川哲のそんなバルカン星人的なところが、カーク船長タイプの私には、興味深くてならないのである。
○ ○ ○
ともあれ、小川哲は「対話」においては、本気である。
本気の興味を持って、自分とは違うタイプの人たちに、興味を持って対している。だから、きわめて正直なのだ。
この人は、興味のないことには冷淡だが、そのぶん、興味のあることには真っ直ぐだから、正直であり率直で、それを隠そうとはしない。
だから、自分の「変わり者」エピソードも隠そうとはしない。
自分はこんな人間だが、あなたは多分そうではないでしょう? なら、私とどこがどう違うか、どこが同じなのか、それを教えてくれませんかと、率直にぶつかっていく。
小川哲は「まえがき」で、次のように書いている。
『 まえがき
小説家と会って話をするのはいつも緊張する。同業者としてつまらない人間だとは思われたくないし、失礼なことを言ってしまって不快な思いをさせることも避けたい。でも、その緊張を少し超えるくらい、会うことを楽しみにしている自分もいる。自分が読んだ本の著者に会って直接話が聞けるということは、(普通に考えたら)とんでもなく贅沢なことだ。
僕が緊張するのはきっと、僕が小説家だからだ。同じ仕事をしている人間にがっかりされたくない。できるなら嫌われたくもない。
一方で、僕が楽しみに感じているのは僕が読者だからだ。奇跡にしか思えない創作物の秘密に迫ることができる。自分の感想を本人にぶつけることができる。夢のような時間だ。
緊張よりも楽しさが優っているのは、僕が小説家である前に、一人の読者だからだと思う。』(P1)
一見、当たり前のことを言っているように思えるかもしれないが、そうではない。
普通の人は、こういうことを心の中では思えても、あけすけに書いたりはしないからだ。
『がっかりされたくない。できるなら嫌われたくもない。』
この『できるなら』という言葉がポイントなのだ。
この言葉が意味するのは、「絶対に」ということではなく、「できるならそうありたいが、無理ならそうでなくでかまわない」という意味であり、要は「必要とあらば、嫌われてもかまわない」と、そういうことなのである。

だから、『失礼なことを言ってしまって不快な思いをさせることも避けたい。』と言っていながら、一般的な意味では、対話相手に対して、かなり「失礼」とされるようなことも言っている。
相手の作品や創作姿勢について、自分の思うところを、かなり率直に語っているのだ。
それは、嘘偽りのない「率直な意見」であり感想であって、決して相手を貶めようとするものではないのだけれど、しかし、この手の公開の対話においては、きわめて珍しいものであり、驚くほどに「正直」な発言なのだ。
『飛(飛浩隆) (※ 自作の短編)「デュオ」は「象られた力」の後(※ に書いたもの)ですね。
小川 後か。僕、そこのところがあまり整理(※ 正確に把握)できていなくて。でも、「象られた力」や『グラン・ヴァカンス』を最初に読んだときは、本当に驚きました。こんな文章を書く人がいるんだって。だから、僕の中で飛さんが一番すごいところ、飛距離が出る部分っていうのは、やっぱり表現なんですよね。
飛 やっぱり(※ 君には)そう言われる(※ ことになる)んですね。なるほど、(※ でも、自分としては)他の部分もがんばってるんだけどなぁ‥‥‥(※ そこまでは評価してもらえないのか)って思っちゃう(笑)。
小川 いやいや。でも、たとえば『ラギッド・ガール』も、これすごく失礼な言い方になったら申し訳ないんですけど、僕自身が小説を書くときにも感じていることがあって、飛さんもたぶん、アイデアが強いときは文章はさらっと進んでいて、逆にアイデアが弱いときに、文章、つまり文芸で勝負しているような印象があるんです。』(P154)
つまり、小川哲に言わせると、飛浩隆は美文的に「凝った文章」を書ける作家であり、そこがすごいとは思うけれど、その一方、その美文的な文章力で、自身の弱点をフォローしているところもあると、そう言っているに等しいのだ。
言い得れば「あなたは、全面的に優れたすごい作家だ」とまでは言っていない。「時に、ここはアイデアに自信がないから、文章で押し切ろうとしているなと、そう見えちゃうことがありますよ」と、そう言っているも同然なのである。
これは、同じ作家なら、当然そう感じる(その手の内が見える)こともあるのだが、しかし、だいぶ年長の先輩作家で、しかもSFの世界では、寡作ながら出せばすべて話題作のいう人気作家をつかまえては、なかなか言えることではないのだ。
無論、こうした物言いは、相手を見てのことではあろう。
つまり、飛浩隆はSFプロパーの、言うなれば身内であり、そうした親近感もあれば面識もあり、飛の人柄も知っているから、誤解されることはないだろうという信頼もあってのことなのだろう。
しかしそれでも、「オフレコ」ならばともかく、こうした公開の場では、そうした「身も蓋もない指摘」は、普通なら無難に控えるだろうし、ましてや活字にもしないはずだ。
だが、小川哲にしてみれば、そこの「本音の部分=本当のところ」こそが面白いのであり、益があるのであって、そこが出せずに、上っ面だけの褒め合いみたいなものでは、対話する意味もなければ、活字にする意味もない。また、それ以前に、自分としてもつまらないと、そう感じるからなのであろう。
つまり、対話相手にも読者にも、すすんで嫌われたくはないけれども、しかし、だからといって、つまらないことで、無駄に時間を浪費したくもない。
また、誠実に、意味のある対話をしようとしているだけなのに、それを「世間並みの礼儀作法」に反しているとかいって腹を立てるような馬鹿なら、別に嫌われたってかまわないと、そんな気持ちもあるのだろう。
読者や編集者に嫌われたら、おまんまの食い上げだけれど、他の作家に嫌われたって、実害は無いんだし、一一くらいのことは、「合理的」に考え、自覚的にやりたいことをやっている人なのだ。
そしてそれで「小川哲って、そういう人なんだ。あれは天然で、悪気はないんだよ」で、通させてしまっているような、そこまで計算してやっている人なのである。
つまり、私が小川哲の小説に感じた「諦観」というのは、小川哲のこうした「とうてい普通じゃない、醒めた合理性」の表現されたものなのであろう。
飛浩隆との対話では、あえて言ってはいなかったが、他の対談で小川哲は「文飾的なものには興味がない」と明確に語っている。
なぜそうなのかと言えば、小川哲にとっての小説とは「芸術至上主義」的なものでもなければ、ましてや「自己表現」などではない。もっぱら「読者を楽しませるための商品」だからである。
つまり、小川哲は、小説に「作家自身の自己満足」的なものを認めない。
あくまでも、読者を楽しませるために書いているものなのだから、そうしたものにするために必要な文章の書き方ということでは工夫し努力もするけれども、誰よりも書いた本人が喜んでいるような自己満足的なものには価値を見出していないのだ。
それはあまりにも、主観的であり、感情的な満足だと、そのように感じられるためであろう。
ことほど左様に、小川哲という人は、ユニークに「合理的」であり、その意味で「変人」なのだ。
一一そこが、そここそが、私には面白い。その作品以上に面白いのだ。
だから、いま思い返せば、私が小川哲に興味を持ったのは、ゲンロンカフェでの、東浩紀と樋口恭介との鼎談において、樋口がやっている「SFプロトタイピング」のことを、「詐欺みたいなものだと思っている」とまで言ったことに感心したからだろう。
私もまったく同感は同感だったのだが、しかし、年下とは言え、身内に等しいSF作家の樋口のやっていることについて、公開の場で「そこまで言うか」と、さすがの私でさえ呆れたのである。
そんなわけで、私にとって本書は、「小説論」「創作論」としては、さほど面白いものではなかったけれど、小川哲その人を楽しめたという点では、とても面白い本だった。
誰とは言わないが、小川哲の対談相手は、人によっては、「この人は正直な人だ」と真情を吐露したり、「なんだこいつ。面白いやつだな」と呆れ気味に応対したり、「この人、ちょっとヤバイかも」と感じていそうな感じが窺える人などもいて、そうした反応も面白かった。
よほど鈍感な人でなければ、おおむねみんなが「こいつ、ユニークなやつだな(でも、扱いには要注意だな)」と、そんな印象を受けたようだし、小川哲の方も、そうし向けている部分もあるから、相手のそうした感情を察して、内心愉快がっている節も見受けられた。
一一ことほど左様に、小川哲という人は、本当に観察しがいのあるユニークな人なのである。
あと、これは「なるほどな」と思い、その意味で面白かったほのは、万城目学との対談での「小説を書く/書かないタイプの違い」という小川哲の議論で、これは私自身にも関わることとして、とても興味深かった。
『山月記』などで知られる中島敦に、「悟浄歎異」を含む連作短編があるのだが、これが中島の早逝によって、未完になった。
それを惜しんで、中島敦ファンである万城目が、書かれなかった続編として書いたのが「悟浄出立」という作品で、この作品についての小川哲の議論が「小説を書く/書かないタイプの違い」ということなのだ。
かの『西遊記』における、沙悟浄というキャラクターの「立ち位置」に着目した議論である。
周知のとおり『最遊記』と言えば、主人公は孫悟空であり、彼の活躍が中心に描かれるのだが、その次に目立つのは三蔵法師か猪八戒であり、三蔵一行の中では、沙悟浄はいかにも影が薄い。
しかし、そんな影の薄い沙悟浄だからこそ、この三蔵一行のなかでは「文章(記録・小説)を書きそうなのは悟浄だろう」と、そういう議論なのだ。
主役にはなれない、主役の近くにいながら、半歩離れて立っているような、その位置から、仲間たちを冷静に観察しているような人物というわけだ。
つまり、悟浄の視点というのは、小川哲の視点でもあるし、小説家になるような人間は、だいたい、自分自身は「主役」にはならないタイプ。半歩下がった位置にいて、状況を観察しているタイプ。
だからこそ、書けるし、書く気にもなるタイプなんじゃないかという理屈なのである。
その点、悟空は無論、三蔵も八戒も、自分にしか出来ないものがあり、事実それをやるのに忙しくて、わざわざ他人を観察して、それを物語として語り直すなんてことは、している暇もなければ、思いつきもしない。
要は、「自分を生きるのに忙しい」タイプには、仮に書きたくなったとしたも、小説は書けないだろう、という見解なのである。
で、これは、私としても、我がこととして非常に納得できる。
と言うのも、私自身、何度も小説を書こうとして書けなかった人間、せいぜい短編を途中まで止まりの人間であり、評論ならいくらでも書けるのに、なぜ書けないんだろうと、常々そんなふうに感じてきたからである。
で、自分をこの「悟浄理論」に当てはめて考えれば、私は間違いなく、孫悟空タイプなのだ。
主役だと言いたいのではなく、何かあれば、黙ってられなくて、自ら前へ出ていかずには気の済まないタイプなのである。
例えば、何か不満な状況があった時に「誰か言ってくれないかな?」ではなく「誰も言わないんなら、俺が言ってやる」というタイプだということである。
で、そういう「状況の渦中に身を置くこと」が好きなタイプ、そうしないでは気が済まないタイプは、小説など、まどろっこしくて書いていられないということになるし、一方、前へ出たくても、そこまで突っ込んではいけないタイプは、その抱え込んだ思いを、物語に昇華したいという衝動を持てるのだろうと、大筋そういう話だ。
そう考えれば、やっぱり私には、段取りが必要な「小説」というのは、どうにもまどろっこしい。
言いたいことがあれば、それを端的にズバッと表現できる「評論」、ということになってしまうのである。
そしてこれは、先日、中井久夫著『分裂病と人類』のレビューで論じたばかりの「分裂病親和気質と執着気質」の違いという話とも重なるだろう。
小川哲は、自作『地図と拳』(直木賞受賞作)を、「建築」という構造において書いた作品であり、小説を書くという行為は建築と類比的である、という説明を本書で何度もしていたのだが、私の場合は、そういう、細かく設計して、その部材をひとつひとつ組み上げていくというようなことが大の苦手で、直観的に全体像を発見して、パパッと作ってしまうタイプたる、「分裂病親和気質」の人間なのだ。
そのため、小説のような「構築的なもの」が書けないのだろうし、「地道な研究」的なことも苦手なのだ。

また、いま思い出したので付け加えておくと、本書で気になったのは、小川哲が「小説家は、書けば書くほど上達する」と言い、自身もいろいろと小説というものがわかってきて、デビュー当時よりも上達したと、当たり前のことのように語っている点だ。
だが、小川哲の言に反して、読者としての実感からすれば、小説に限らず、芸術作品の少なからぬ部分において、技術的に拙いはずの初期作品の方が、むしろ面白いことが多くはないかと、そう感じることが、決して稀ではないという事実だ。
これは単に、初期にはその作家の作風が新鮮だったからということではなく、初期作品にはその作家固有のものが、濃縮されたかたちで込められているため、そこが面白いということなのではないかと、私は思う。
ということは、読者にとっては、作家の技術的な進歩というのは、作家自身が思っているほどには重要なものではないのではないか、ということだ。
しかしながら、作家当人にすれば、むしろ技巧の方が気になる、ということなのだろう。
しかしまたそうした技巧論には、小川哲が否定的に語った「美文」の問題にも似た、ある種の作家的自己満足的の部分もあるのではないだろうか。
ごく大雑把に言えば、多くの読者は、作品に、小手先の洗練ではなく、非凡なパワーを求めている、ということである。
しかし、小川哲と対話している作家たちは、作家は成長するということ、失うものより得るものの方が大きいというのを、まるで自明なことのように、語っているように見える。
自分たちは日々精進成長しており、以前の作品より良い作品を書いていると、本気で自負しているかの様子なのには、「読者視点と作家視点」の違いというものの大きさを、あらためて感じずにはいられなかった。
小川哲は、自身が、よく読む良い読者であったことが、そのまま作家として力にもなっているとくりかえし語って、自身が今も「読者の目」を失っていないと、そう自負している様子なのだが、私としては、それが少々疑わしくも感じられたのだ。
つまり、面白い小説の本質は、技術的なところではなく、もっと実存的な何か、リビドー的な何かではないのか、と。
またその点で、小川哲のものの見方は、「執着気質」的に合理的すぎて、小説というものへの「直観」を欠いているのではとも思えるのである。
小川哲だって、読者としては「小説家の少なからぬ部分が、初期に代表作を書いている」という事実を知ってはいるはずだ。
だからそのあたりのことも、本書での対話における「創作論」の一側面として語ってほしかった。
小川哲の好みとして、そうした「非合理的な天与の作品」というのは、あまり好みではないのかもしれないし、また、論じてみてもどうにもならない、取り返せない部分だということもあるのかも知れない。
だが、読者視点に立つ者としては、そのあたりについても、小川哲の忌憚のない話を聞きたかったのである。

(2026年9月6日)
○ ○ ○








コメントを残す