▷ 書評:中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会)
精神分裂病、今で言うところの統合失調病というものに、私は昔から興味を惹かれた。
理由はよくわからないが、たぶん「見えないものを見る(幻覚)」というところが興味深かったからだと思う。どうして、存在しないものが見えるのか?一一と。
私にとってのそれは、嫌悪の対象ではなく、興味の対象であり、さらに言えば私を魅惑するものであったとさえ言えよう。
警察官をやっていた当時、不謹慎な物言いだが、私は同僚に「頭のおかしい人は嫌いじゃない。そうではなく、狂ってもいないのに、問題を起こす奴(問題性格者)だとか、自制心がないだけの酔っ払い(酒乱)の方が、よほど嫌いだ」と、よく言っていたものだ。
そんな私なので、明らか「妄想」を思わせる通報があった場合、私は内心「面白い妄想だったらいいな」と期待しながら、現場に向かったものだ。
言い換えれば、認知症の高齢者にありがちな、侵入妄想などではまったく物足りなかった。かなり、よくあるパターンだからだ。
どうせなら「そんな発想、どこから出てくるんだろう」というようなものを期待したのだが、そうしたものは、40年間の警察人生で、三度ほどしかお目にかかることは出来なかった。
しかしまたそれは、人間というものを考える上で、とても貴重な体験だったと思っている。
そんなわけで、中井久夫の著作には、かなり前から興味があって、初めて読んだのは、中井自身の著作ではなく、中井の訳したジュディス・L・ハーマンの著者『心的外傷と回復』の新版刊行時(2013年)だったと思う。当時、「心的外傷(トラウマ)」ということに興味を持っていたためだと思うが、それが「震災」がらみだったか「戦争」がらみだったのか、あるいは「偽の記憶問題」がらみだったのか、今となっては定かではない。
ともあれ、「心の不思議」に興味があったというのは間違いなく、しかもその中では、特に精神分裂病(統合失調症)に興味があったから、中井久夫の著書を読みたいと思ったのだが、何冊かは買ったものの、結局はまた積読の山に埋もれさせて、そのままにはなってしまったはずである。
今回ひさしぶりに中井久夫の本を読みたいと思ったのは、先日レビューを書いた『柄谷行人ディスカッション』に、木村敏と中井久夫という、日本を代表する精神科医2人との座談会が含まれていて、これが面白かったからだ。
ちなみに、この座談会での柄谷のパートナーは、浅田彰である。
しかしまたそれ以前に、こちらも先日レビューを書いた、与那覇潤の『危機のいま古典をよむ』で、中井久夫の『分裂病と人類』への言及があって、それで中井久夫のことを思い出していたから、中井久夫の初期の著書である同書を真っ先に入手したという次第である。
ちなみに、与那覇の『危機のいま古典をよむ』での、中井久夫言及部分で興味深かったのは、与那覇が中井久夫を引いて、分裂病気質の人間と執着気質の人間を比較して、現代の日本人に起こっているのは、「後ろ向きの統合失調症」ではないかと、批判的に指摘していた点だ。
『 二二年(※ 2022年)の八月に亡くなった中井久夫は主著『分裂病と人類』等の業績で、統合失調症(同書刊行時の名称は精神分裂病)の存在を人類史に位置づけることを試みた。
(中略)
中井に従えば、統合失調症寄りの気質を持つ人は「認知の微分回路」が極度に強く、いま目の前にある事象を未来の予兆(徴候)として把握する。そして、「系統発生的には、おそらく積分回路的認知(※ 広く情報を集め、総合的に判断するという認知形式)よりも微分回路的認知(※ 一つの情報を直観的に深く掘り下げて判断する認知形式)のほうが古いだろう。たとえば、運動するものしか認知しないカエルの視覚を考えてみればよい」。
カエルの眼球は、いま、新たに生じた変化だけに着目し、「餌が飛んでくる」「敵が襲ってくる」といった未来を予感して即座に反応する(舌を出して捕まえるか、池に飛び込んで逃げる)。こうした現在を徴候として把握する知覚は、人類もまた他の動物と同じく捕食(狩猟採集)によって生活した時代には貴ばれる才能であり、病気として否定的に扱われるものではなかったと中井は主張した。
しかし定住農耕が始まると、むしろ現在を過去から毎年繰り返してきた営みの所産と捉え、索引を手繰るように往時の体験を思い返す知覚(積分回路。うつ体験と関わる)の方が優位となる。「強迫的な農耕社会の成立とともに、人間は自然の一部から自然に対立する者となったとは複数の人々の指摘するところだが、私はそれと同時に分裂病者が倫理的少数者となったと言いたい」。こうして豊かな微分回路を持つ統合失調者たちは、病者として貶められるか、そうでなければ前近代の宗教者や近代の科学者のような、未来の予言者として振る舞いうる例外的な生を選ばざるを得なくなった。
対していま人類に起きている反転とは、積分回路ではなく微分回路の方で過去にアクセスするような、新たな認知様式の一般化だろう。書物の本編を読み終えた後に附される「素引」ではなく、絶えずデフォルトの画面に表示される「検索」の習慣化は、その原因であり結果でもある。
二〇二〇年のトランプ落選や、二二年のウクライナ戦争開戦の後に起きたことを思い出そう。
まず眼前で、いま、事件が起きる。すると私たち(の何人か)は検索窓に殺到し、「中国が投票集計機に細工した」「米国がウクライナ政府にロシアを挑発させた」といった闇の事象の徴候らしきものをかき集める。今日の陰謀論は未来の予見以上に、過去を説明し「納得」するために用いられる点に特色がある。
統合失調症を患う人は現在がすべて未来の予兆に見えるがゆえに、「みんなが自分を襲おうと狙っている」といった妄想に苦しめられる。しかし索引ならぬ検索が人間の認知の基礎をなすいま広まっているのは、瞬間的な情動に即して過去を再構成する営みが私たちの脳裏に沁みとおった結果生じた、いわば「後ろ向きの統合失調症」だともいえよう。』(P 12〜14)
ここで面白いのは、与那覇自身はうつ病を患ったことがあることからもわかるとおり、基本的には、近代的な「積分回路的認知」の人だという点である。だからこそ「研究者」だったのだ。
そして、そんな与那覇からすれば、今どきの人は、「積分回路的な認知」が満足に出来ず、かと言って、古代人のような「微分回路的認知」も失われているから、それを補うための「ネット検索」によって、過去の情報の中に、目の前の(今の)現象の原因を、視野狭窄的に探るという「後ろ向きの統合失調症」的な認知の歪みを持ってしまっていると、大筋そのように批判しているのだ。
そして私は、ここを読んで「なるほど与那覇は、うつ病気質の人だな。だから分裂病気質的なものの方に問題を見るのだろう」とそう考えた。
無論、与那覇は「分裂病気質=微分回路的認知」が、「積分回路的認知」に劣っていると言っているのではない。
現代人の問題点は、「微分回路的認知」能力を失っていながら、「ネット検索」的な手段を得たために、中途半端に倒錯的な「先祖返り」をしていると、そういった批判しているのだ。
つまり、今どきの「陰謀論気質」の人というのは、古代人のような「直観」能力(微分回路的な認知能力)が無い上に、近代人的な「研究的総合能力」も無いと、そう批判しているのである。
じつに面白い分析だが、しかし、与那覇がここで批判しているような人は、仮にこの与那覇書を読んだとしても(上の引用文を読んでも)、決して与那覇の語らんとしたことは、理解できないだろう。
なにしろ、直観も論理的思考も、どちらも無いのでは、理解のしようなどないから、理解したフリをするしかないためである。
ともあれ、じつのところ私は、最初に上の引用部を読んだ際には、このようなことまでは考えなかった。
ただ、ここを読んだおかげで、中井久夫の「主著」のひとつとして、本書『分裂病と人類』を読むことにしたのである。
○ ○ ○
中井久夫の『分裂病と人類』を読んで、最も面白かったのは、中井が「分裂病気質」というものを、近代的な(執着気質的な)人間社会の中で、積極的に位置づけしようとしていた点だ。

本書は、全3章からなっており、目次的には、次のようになっている。
第一章 分裂病と人類 一一予感、不安、願望思考
第二章 執着気質の歴史的背景 一一再建の倫理としての勤勉と工夫
第三章 西欧精神医学背景史
私が特に面白かったのは、第一章で、この章で、「分裂病気質」の積極的な位置づけがなされている。
第二章では、「分裂病気質」と対照的な「執着気質(うつ病気質)」というものの性格を、二宮尊徳に代表させ、「分裂病気質」との違いを対比的に描いている。
第三章は、タイトルのとおりで、西欧における精神医学の歴史を、ギリシャ・ローマ時代に遡り、主に「宗教」との関係で描いた通史である。
この章は、はっきり言って、密度が高すぎて、教養のない私にはついていくことが出来なかった。もっと薄めてもらわないと到底むりで、じつに「執着気質的な教養」の横溢した研究論文であった。
なお、この第三章については、執着気質の松岡正剛が本書のレビューの中で、短くまとめて紹介しているので、気になる方はそちらを参照していただきたい。
ただし、私の「直観」からすると、あまり良い要約ではないようにも感じられた。
さて、本稿では、もっぱら第一章に限って、感じたところを書いてみたいと思う。
第一章で面白かったのは、与那覇潤が本書から引用して紹介していた、「微分回路的」つまり「分裂病気質的」な性格類型についての、中井久夫の説明だ。
(1)『 私は一方では、分裂病になる可能性は全人類が持っているであろうと仮定し、他方では、その重い失調形態が他の病いよりも分裂病になりやすい「分裂病親和者」(以下、S親和者とよぶ)を考える。(※ Sは、スキゾフレニーの頭文字)軽い失調状態ならば軽うつ状態をはじめ、心気症などいろいろありうると思う。
分裂病親和性を、木村敏が人間学的に「ante festum (祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな(※ 懐の深い)捉え方である。別に私はかつて「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっとも遠くもっとも杳か(※ かすか)な兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な事態を代表するのが「統合指向性」である)。
ここで先取り的な構えの長所と短所をもう少し具体的にみるために、一次近似的モデルとして、入力の時間的変動部分のみを検出し未来の傾向予測に用いられる「微分回路」の諸特性をとりあげてみよう。ただし私は電気工学には全く素人なので誤解がないとはいえない。また「微分回路」が一次近似にすぎないことは、回路は入力が外に発生することを前提とすることからも明らかで、人間においては入力が〝回路〟内部にも発生することが問題である(要するに思考や情動や、すべて認知の対象となる〝内的事象〟のことだ)。
系統発生的には、おそらく積分回路的認知よりも微分回路的認知のほうが古いだろう。たとえば、運動するものしか認知しないカエルの視覚を考えてみればよいが。さらに古型の知覚である嗅覚、味覚などは著しく微分的であり、変化の瞬間から知覚の強度が次第に低下する。この古型の、したがってふつうはそう揺るがない認知方式が人類に至って混乱の原因となったとすれば、「入力の内部発生」という、人類に近づくにつれて著しくなった事態によるかも知れない(微分回路はノイズの吸収力がほとんどない)。
微分回路は見越し方式ともいわれ、変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる。まさに先取り的回路ということができる。またウォッシュ・アウト回路と言われるごとく、過渡的現象に敏感でこれを洗いだす鋭敏さがあり、t≒0(※ 最初の瞬間)において相手の傾向を正しく把握する。しかしこの〝現実吟味カ〟は持続しない。すなわち出力が入力に追随するのは、t=0付近だけで、時がたつにつれて出力は入力に追随できず、すぐ頭打ちとなり漸次低下する。増幅力の維持も不能で不定となる。中等度の増幅力では突変入力にも漸変入力にも合理的に対応できるが、ある程度以上の増幅に弱い。また過度の厳密さを追求してt=0における完全微分を求めようとすると相手の初動にふりまわされて全く認知不能になるという。またさきに述べたように高周波ノイズが介入すると出力が乱れる。また未来指向的な回路であって過去のメモリーが生かされない。』(P8〜10)
引用文後半の「電気工学」的な比喩は、私のような典型的な「文系」にはわかりにくいところだが、ひとまずここで語られていることをごく簡単に要約すれば「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」は、わずかな一次情報で、問題の本質を捉える「直観力」に秀でているその反面、情報をたくさん仕入れて蓄積しても、それを無理に生かそうなどとすると、かえって混乱してしまうという弱点がある一一と、だいたいそういうことだ。
つまり、「研究者」タイプである「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」とは、真逆なのである。
で、ここを読んで思ったのが、「これって、私のことじゃないか。私は分裂病親和者タイプだったのか」と、そういうことだったのだ。
(2)『 しかし、S親和者を「世直し」を唱える者として、「立て直し」路線に立つメランコリー親和者(次章参照)と対照させらるにしても、現実の世直し一一革命一一がS親和者によって遂行されるとするのは単純にすぎる。彼らのなかには革命の予言者もあるが、破局の予感に満ちみちつつ体制を守らんとする者もある。ただ、いずれにしてもS親和者が「歴史に選ばれた」気質の持ち主として行動するのは(※ する場合は)、問題解決者としてでなく主に問題設定者である。彼らは杳かな徴候から全体を推定し、それが現前するごとく恐怖しつつ憧憬する。さきに述べたベニョフスキーの流言はそれまで好事家的に蘭癖(※ オランダ好み)を楽しんでいた江戸の(※ 分裂病気質の)知的少数者を震撼させ、彼らを化して警世家とさせた。モリソン号の漂着は、蛮社の獄を惹き起こす。もとより一船長のモリソンを英国海将モリソンと同一視するのは今日からみればいかにも早とちりであり、「英国艦隊の日本進攻迫る」と叫ぶのはさらに現実離れといえるかもしれない。しかし、アヘン戦争が中国よりも日本をはげしく展想させ、知的選良の兆候優位的な予感感覚が極度にとぎすまされていたことの傍証にもなるだろう。』(P32〜33)
要は、「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」は、「世直し=革命」気質の人間だとは言え、実際に革命をおこなう主体であるとは限らないし、その危機感のゆえに、保守(立て直し)の側に回る場合もある。
『いずれにしてもS親和者が「歴史に選ばれた」気質の持ち主として行動するのは、問題解決者としてでなく主に問題設定者である。彼らは杳かな徴候から全体を推定し、それが現前するごとく恐怖しつつ憧憬する。』
というのは、「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」というのは、鋭い直観者(幻視者)として問題提起はするのだが、その問題についての、建設的な解決能力やヴィジョンはあまり持たない、ということだ。
なにしろ「建設的な解決能力」というのは、二宮尊徳のような「立て直し」タイプである「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」の専売特許なのだから、そんなものが得意なわけがないのだ。
一一で、これももろに「私のことではないか」と。
じつのところ、私は「二宮尊徳的なもの」というのは、自分に無いものでありできないことだから、頭では「偉いなあ(立派だなあ)」とは思うけれど、一言で言えば「退屈でつまらないタイプ」だと感じてしまう。
言うなれば、予習復習を欠かさず、宿題をきちんとしてくる、生真面目な優等生タイプだ。
そりゃあ「1+1=2、2+2=4、4+4=8…」と、手堅くやっていけば間違いはないけど、それではあまりにも退屈だと、途中で放り出してしまうタイプなのだ、私は。
だから、英単語も数学の公式も科学の方程式も歴史の年号も、覚えようとしなかったのだ。
例えば、そんな私は、先日書いた、三宅香帆著『推したちとどう生きるか』のレビューで、三宅香帆を評して、次のように書いた。
『何はともあれ、「推し」文化にも「歴史」がある、というのは、当たり前の話にすぎない。
なのに、話を戦前の「童謡少女歌手」にまで遡らせ、そこへ先行研究のある「日本のカワイイ文化」を結びつけて、そこからさらに、その発展形としての「宝塚歌劇」へつなぎ、さらには同じ「阪急電鉄=小林一三」文化つながりの「高校野球」へとつなげていく手際は、「お話」としては、なかなかお見事ではあるものの、「文化理解」としては、いかにも浅薄だ。
年表の表面を滑らせる指のように、その物語は浅いのである。』
『三宅香帆は「文芸評論家」を名乗っているのだが、やっていることは、文化社会史的なものであり、しかもそれは、その種の本をたくさん読んで、自分の語りたいテーマに関連するところを寄せ集め、それを、テーマの「細い糸」でつなぎ合わせただけ、といった体のものでしかないのだ。
だから、一応のところ、三宅の提示する「ご都合主義的に編集された物語」については、ひとつの考え方としてなら、「それもありだな」程度には読めるものの、そこには何の鋭さもない。
目から鱗が落ちるのではなく、新たな鱗を目に重ね貼りされる程度のものなのだ。』
つまり、三宅香帆は、典型的な「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」なのだ。
しかも、「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」的な部分がかけらも無いから、私に言わせれば、三宅香帆の「文系評論家」という肩書きに反して、そんな退屈なもんは「文芸評論」じゃない、ということになるのである。
もっとも、三宅香帆は、武蔵大学教授でフェミニストの北村紗衣に比べれば、ずいぶんマシである。
というのも、北村紗衣には「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」的な直観力が無いだけではなく、「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」的な勤勉さも無く、不勉強なくせに、見え透いた知ったかぶりばかりであり、何とかのひとつ覚えみたいな、文字どおりに紋切り型の「フェミニスト批評」しかできないからだ。
やれ「ミソジニーだ」「ホモソーシャルだ」「マンスプレイニングだ」、まさに「ワントリック・ポニー(一つ芸の小馬)」なのだ。
一一小馬の尻尾ほども可愛くもないし。
ともあれ、ここで肝心なのは、人間には、大別して「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプと「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」タイプがいるけれど、これはどちらか一方の性格しか持たないということではない、という点だ。
どんな人でも、この両方の成分を幾らかずつは持っているのだが、その比率の偏りによって、大まかには、一方のタイプに見える、という話にすぎない。
つまり、ベストなのは、どちらの成分もバランスよく大量に持っている人で、例えばそれは、本書著者の中井久夫がまさにそうだ。
中井は、優れた精神科医らしく直観力に優れているが、しかしその反面、膨大な読書に裏づけられた、執拗なまでの思考力もあって、後者については本書第三章の「西欧精神医学背景史」などに明らかなのである。
しかし、両方を大量に持っている人がいれば、どっちもほとんど持っていない可哀想な人もいる。それは前記のとおり。
つまり、この問題で大切なのは、この二つの能力については、「片方だけでは偏頗かつ不安定な能力でしかないため、両方が必要」だということなのだが、まさにそのことを柄谷行人は、『柄谷行人ディスカッション』所収の、木村敏・中井久夫との座談会で、次のように指摘していたのである。
『柄谷 あまり将棋の例はよくない(※ 棋士が、一瞬で正しい読み筋を直観するという例は、誤解を招くのであまり良くない)のかもしれないと思ったんですけど、それはどうも判断の速さということ(※ だけ)と結びつくからです。前に木村さんと対談した時に非常に感銘を受けたことがあります。それは医者の前で嘘をつけるのではないかとぼくが言った時に、私どもが患者を診たというのは十年診たということであり、十年付き合えばまず偽ることはできないと言われたことです。ぼくはそれに感銘を受けました。そうすると今の症状というのも、ウェイ・オブ・ライフというのも、そういう関係として時間が入っているかどうかで違ってくると思うんです。治療による診断と言われたことには、そういう「時間」が入っていると思う。コミュニケーションといっても一回きりじゃない。そういう長い時間をかけてほとんど共存していくという感じでなされた判断と、いっぺんで見抜いたのとは違うと思うんですね。
中井 いっぺんで見抜くというのは危ない。柄谷さんは非常に大事なポイントを言っておられるので、(※ 犯罪容疑者などに対する精神)鑑定というのは一瞬のこと、稲妻の光で診た風景を求める(※ 診断結果を求めるということな)ので、それは鑑定に一年かけようとかわらない。(※ それは診察のために患者とつきあうということと同じではない)』(P60〜61)
つまり、「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプ的な直観力では、いかにも危うく、本当に優れた直観というのは、その自覚はなくても「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」タイプの「経験」的なものに裏打ちされていなくてはならない、ということなのだ。
私自身、いくら「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプだと言っても、しかしそこに、本をあれこれたくさん読み、巡査としての現場経験的な蓄積が無かったなら、「思いつき(直観)」を、意味不明な言葉で喚いているだけということにもなってしまっていただろう。
言い換えれば、直観的な認識を、他人にもわかるように伝えるためには、「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」タイプ的な「経験」的なものが必要だ、ということなのである。
まあ、それにしても、そんな両方がある柄谷行人ではあるけれど、やはり、そのベースは「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプだというのも明らかだ。
例えば柄谷はよく「私にとっては、マルクスやカントが、実際に何を考えていたのかいった、そうした伝記的、実証研究的なところには興味はない。そうではなく、そのテクストから読み取れたことが大切なんです。つまり、彼らのテクストは、マルクスやカントその人を超えていくものであり、その可能性の中心において、私は彼らを新たに読んできたのです」という趣旨のことを語るのだが、ここで言っているのは、「事実ベースではなく、本質ベースだ」ということであり、まさに柄谷行人の「読み」とは「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプのそれだということになるのである。
また、柄谷がよく使う、「統整的理念と構成的理念」という対概念があって、柄谷の重点は明らかに前者の「統整的理念」の方にある。
で、この2つの言葉も、統整的理念が「本質を貫く観念」的なものであり「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプの「直観」に親和性が高いのに対して、「構成的理念」というのは明らかに、「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」タイプの「構築」あるいは「立て直し」的な、経験主義的なものだというのがわかるはずだ。
柄谷行人は、わかりやすく前者タイプであり、直観的な理念によって生きているタイプであり、だからこそ「NAM(ニュー アソシエーショニスト・ムーブメント)」などの「運動」においては、あえなく失敗したりもするのである。
そもそも、そういうタイプではなかったからなのだ。
(3)『 ここで、〝非定型精神病〟を周到に培養発症させることによってS親和者が分裂病となることを回避させるという意味をシャーマニズムが持ちうることに注目したい。それはあるいは失調を起こしはじめた時期における人類社会の自己治療の試みであったかも知れない。「生得のシャーマン」となる生涯は、人々の群から離れていることや森のほとりに独りいることを好む子供に、シャーマン集団がそっと目をつけることから始まる。その子が思春期に達したとき、集団は彼を勧誘し〝シャーマン学校〟に入れる。そのカリキュラムは幻覚能力、同時に二カ所に存在する能力、空中飛翔能力、俗界冥界間の往復能力、トランス(脱我)に入る能力等々をさずけ、同時にトリックの使用法を教える。シャーマンになる道にはもう一つあって、シャーマンに治療を受けて治った者であるが、シャーマンは些細な、あるいは局所的な疾患は治療の対象としないから、この者は大疾患とくに精神病から治癒したものといってよい。』(P26)
『人々の群から離れて(略)独りいることを好む子供』って、これもまさに私のこと。しかも、現在の私である。
とにかく私は、群れるのが嫌いで、だから「お祭り」だの「集団行動」だの「繁華街」だのが嫌い。
だから、「オリンピック」だ「万博」だ「WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)」だとかには、興味がないと言うよりも、そんなことで騒いでる奴らにイライラさせられる。
そして、私が「シャーマン」タイプの直観型だというのは、先日アップした、円城塔のSF小説『土人形と動死体』についてのレビューに明らかだろう。
私はこのレビューの後半で、かなり飛躍的な「読み」を提示して、それをみずから「魔法」的なものだと、次のように締め括っている。
『これは、解釈であろうか?
あるいは、過剰解釈と呼ぶべきものなのか?
あるいはまた、合理的な「解釈」ではなく、非合理的な「魔法」(ペテン)の類いなのだろうか?
しかし、「充分に独創的な解釈は、魔法と見分けがつかない」と、アーサー・B・クラークも言っていたではないか。』
(4)『 幼児の行なう、母親の表情認知は兆候性への最初の開示である。とくに分裂病になりやすい人は、人生の早期におけるこの兆候性に圧倒されるほどにも過敏なのかも知れない。でなければ、そもそも「手のかからない良い子」でありうるだろうか(四二ページ参照)。この過敏性は麻痺的に作用し、安全保障感を決して育てないのだろう。』(P35〜36)
(5)『 また、幼時における母親役の人の表情認知にも関係してこよう。彼らが幼いとき、めだたず、手のかからない、反抗しない子であるのは、この相貌知覚一一微分的な変化知覚一一にすぐれるためもあるかも知れないというわけだ。一時の過適応が後時の不適応の原因である例は少なくない(この種の認知性がいわゆる基本的信頼の乏しさによって促進される可能性は十分にある。少なくとも両者は矛盾しない)。』(P37〜38)
このあたりについては、これまでに何度も書いているから、最近どこに書いたのか思い出せず、引用はできないけれど、要は、私は幼いの頃、とても厳しい母方の祖母と暮らしていたので、人の顔色(気分や心理)を読むのが得意になったという話、そのままなのである。
実際、子供の頃の私は「手のかからない良い子」であり、学校では、学業はイマイチでも「生活態度における優等生」タイプだった。
そして、そんな私は、基本「人間嫌い」であり「大衆憎悪」の持ち主だ。
つまり『基本的信頼の乏しさ』が、私の人間理解の根底にある。
だから、「人類は早晩、間違いなく滅ぶ」と考えているし、よく引用するのは、シオドア・スタージョンの次の言葉だ。
『SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである。』
一一そんなわけで、本書における、中井久夫の「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプの分析は、じつに鋭い。
だが、ひとつだけ、明らかに間違っている箇所もある。それが次だ。
(6)『 かつてのジュリアン・ハクスレーの設問一一なぜ分裂病はかくも多いか、彼の合意では、なぜS親和者は淘汰されてしまわないかは、その従来の答えである「困苦欠乏」への耐性よりもむしろ性的パートナーの獲得における有利性にあり、それが子孫を残す可能性を高くしているという答えのほうを私は選びたい。それは一般に高等動物の淘汰の線に沿ったものである。アイゼンクが「神経症親近性」と区別し、むしろ対立するものとして抽出した心理的次元の「精神病親近性」において「不屈の精神」因子の存在を指摘するとしても、それが利いてくるのはイク族のごとき極限の場合でなければ、孤独な決断・行動者としてであると私は思う。』(P36)
中井はここで、「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプは、人の顔色を読むのが得意で、他人の感情に敏感だから、『性的パートナーの獲得における有利性』があるため、意外に滅びないのだろうと、そう言うのだが、そうではない。なぜなら、
(7)『 生物学的な「見えざる手」か否かは知らず、木村もすでに指摘したごとく、ante festum (事前・先取り)的な構えは恋愛において優位を占める。杳かな兆候への予感能力を欠いてはそもそも恋愛は成り立ちにくいであろう。これをくだくだしく解説する必要はなかろう。もとより不安や願望思考も介入してくるので、ここでもt=0において完全に未来の傾向を知ろうとすることは、相手の初動(一憫一笑!)にふりまわされる結果になるであろうけれども一一。』(P35)
と、中井久夫自身も書いているとおり、人の感情の読み取りに優れているがゆえに、恋した相手の『相手の初動(一憫一笑!)にふりまわされる結果』、疲れ果ててしまうから、「もう恋なんて面倒なことは、ごめんだ」と、槇原敬之に反した戦略を採りもするからである。
まあ、その代わりと言っては何だが、敵の心理を読むのが得意だから、相手の言って欲しくないこと的確に突くことができる。
だから、嫌われてもかまわない相手との「論争」なんかは、抜群に強いのだ。一一あまり、自慢にはならないかもしれないが。
さて、そんなわけで、結論として重要なのは、次の箇所である。
(8)『 このような社会との「折り合い」のむつかしさにもかかわらず、S親和者が人類の相当多数を占めることが、おそらく人類にとって必要なのであろう。かりに執着性格者のみからなる社会を想定してみるがよい。その社会が息づまるものであるか否かは受け取る個人次第で差があるだろうが、彼らの大問題の不認識、とくに木村のpost festum (事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある一一この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。』(P34〜35)
つまり、私が大岡昇平の、
『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』
(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)
という言葉を引用しつつ、今の世の中のあれこれについて、「馬鹿じゃねえか」という調子で批判するのも、結局のところは、人類のためだということである。
だから、感謝してほしい。
それにしても、このレミングの喩えも、最近どこかで書いたな。
まあ、そうした記憶力の弱さや、それを自分には「記憶力が無い」とまで言い切れるようなところも、私が「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプである証拠だろう。
要は、情報を蓄積して、体系的に整理するとかいったことが苦手な、行き当たりばったりの出たとこ勝負タイプなのだ。
先日どこかで誰かが「情報というのは、集めるだけではなく、整理して、いつでも使えるようにしていなければ意味がない」という趣旨のことを書いているのを読んで、「なるほどな」と思う反面、「私には無理だ」とそんなふうにも思ったのは、私が「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプだからなのであろう。
そもそも、今になって思い出したが、私が、ひとつのジャンルに凝り固まるのではなく、あっちに飛んだりこっちに飛んだりして、とにかく意識的に「散らす」タイプだというのは、私のサイトを見てもらってもわかるはずだ。
とにかく、同じことを単調にずーっと続けるというのが嫌だから、いろいろ散らしながら本を読んで、いろいろ散らしながらレビューを書く。
また、それでいて、そうしたかたちにおいては一貫しており、それなりにどれもそこそこ深めていくところが、私の「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプらしからぬ、「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」タイプ的な長所でもあるのだ。
最後に、好きな「本格ミステリ」についても書いておくと、「本格ミステリ」の魅力とは、「緻密な論理(推理)」と「アクロバチックな論理(どんでん返し)」という二面性であって、当然のことながら両者は、「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」タイプと「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプという二面性に対応するだろう。
だから私は、どっちかと言うと、後者の「アクロバチックな論理」のタイプ、つまり「初期島田荘司」的なタイプが好きで、あまりにも「チマチマした推理」は好みではないのだが、しかし、それの魅力や必要性も理解していないわけではないのだ。
言い換えれば、私は基本的に「分裂病親和者=分裂症気質者=微分回路的認知者」タイプだという事実に疑いはないのだが、しかし「うつ病親和者=執着気質者=積分回路的認知者」的な気質の大切さも理解しており、それなりに実践できている。
その象徴が、数十年にわたる「笠井潔葬送派」としての活動あり、近年では「北村紗衣批判」なのだ。
私は、自身に「コレクション趣味」があることから、長らく自身のことを「執着気質」だと思い込んでいたのだが、本書を読んで、その誤解にハッキリと気づいた。
私の基本は「執着気質」ではなく、「分裂病親和気質」であり、気が多くて、あまりひとつのことにはこだわらない、意外にあっさりした「躁病」タイプなのだ。
だが、あっさりしているからこそ、倦むことのない持続も可能なのだと、そういうことだったのである。
中井久夫は、本書の「あとがき」で、じつは、この『第一章の発表には、いささかの勇気を要した。』と書いている。
『 第一章の発表には、いささかの気を要した。もし、私が、自身のなかに「失調すれば分裂病となるもの」の種子を感じつつ、まとまった年月、精神科医として分裂病者といわれる人たちと相渉ってきたのでなければ、編集者門倉弘氏の、いささか異常なほどの奨めを別としても発表に踏み切ったかどうか、疑わしい。そもそも、発想が私のなかに生じ得たかも、また。一見理論的な形態を持ちながら、ほとんど個人的とさえ言いうるかも知れないほどに、もっとも経験密着的なものが、おそらく、本章であろう。』(P249)
要は、本書刊行の1982年当時としては、分裂病の患者を扱う精神科医が「自分にも分裂病的なところがある」ということを仄めかすには、かなりの抵抗があったということである。
だが、今の私には、そんな懸念は毛ほどもない。
無論、中井久夫とは、地位も名誉もすべてにおいて違うけれど、ひとまず「私って、分裂病親和タイプなんです。だから、直観が鋭いんですよね。自分でも、サトリの妖怪タイプだなんて言ってますし」と、そんな自慢が平気で出来るというのは、間違いなく楽しいことなのだ。
そして、私が「変なやつ」や「変な作品」が好きなのも、その意味で「統合失調症」の人に対し、気味悪さなど絶えて感じず、逆に積極的な興味を持ったというのも、すべては「似たもの同士」の共感ゆえだとわかって、じつにスッキリしたのであった。
いまさらながらだが「スキゾキッズで行こう!」なのである。

(2026年9月4日)
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