▷ 書評:円城塔『土人形と動死体』(早川書房)
とても面白く読めた。
円城塔は、芥川賞受賞の表題作を収めた2012年の『道化師の蝶』を最初に読み、私自身、メタフィクション作品が好きなはずなのに、なぜか同作をあまり面白いとは思えず、そのせいで長らく円城を敬遠することになった。
だが、一昨年(2024年)、とても評判の良かった『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』を、仏教についてはそれなりの知識があったから読んでみたところ、抜群に面白く、円城塔を見直すことになった(のちに読売文学賞を受賞)。
円城塔が変わったのか、私が成長したのか、あるいは、その両方なのかは、2冊読んだだけではわからないが、とにかく私にとって円城塔は、読める作家になったのである。
そしてその後の短編集『ムーンシャイン』も買ったのだが、これは他の本との兼ね合いで後回しにしているうちに、例によって積読の山に埋もれさせてしまい、さらにその後で買った本作を読むことになった。
本書購入以前、大森望の「新刊めったくたガイド」2026年7月号(WEB本の雑誌)で、本作のフォーマットは「ファンタジーもの」だと知り、私は元来「ファンタジーもの」には興味が無かったのだが、円城塔が当たり前の「ファンタジーもの」を書くとは思えなかったので、読んでみることにしたのである。
で、開巻10ページもすると、やはり本作は、当たり前の「ファンタジーもの」ではなく、言うなれば「メタ・ファンタジー小説」であり、さらに正確に言えば、人類の(リアルな)文化・社会史を「ファンタジー小説」の形式において検討した、文化・社会批評小説とでも呼ぶべきものであることがわかった。
もっとも、物語の大筋は、わりあいオーソドックスな「メタフィクション小説」であり、そちらはそちらでよく出来てはいるのだが、メタフィクションが好きで読み慣れている私としては、どうしても既視感が拭えず(例えば、飛浩隆の諸作などが連想されたので)、個人的に面白かったのは、前記の「文化・社会批評小説」の部分であった。
その点では、『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』と同様の意味合いにおいて楽しめたのである。
○ ○ ○
Amazonの本書紹介ページでの「本の概要」は、次のとおり。
『魔術都市ミスルカラを支配する大魔術師のノーシュ・アレグラは、魔法が使えないソウルレスの弟子エスノダのために世界中の魔術を消去することを宣言、自由都市連合軍と熾烈な戦いを繰り広げた末に地下迷宮の奥に閉じこもる。魂と世界の在り処を探る15篇の連作』
ここで、ポイントになるのは、物語の焦点人物であるノーシュ・アレグラ(表紙画の女性)の弟子であったエスノダが、「ソウルレス」であったという点だ。
この魔法世界における「ソウルレス」とは、文字どおり「魂の無い存在」という意味であり、要は「人間ではない」(人間だとは認められない存在)ということなのだ。

ではなぜ、エスノダはソウルレスと呼ばれているのかというと、この魔法世界では、魔法が使えて一人前の「人間」だと考えられているから、エスノダのような魔法の使えない(見かけだけの)人間は、人間の魂を持たない「人間の見かけを持つ非人間」、言うなれば「人間もどき」にすぎないと、そう考えられていたのである。
本書タイトルの『土人形と動死体』というのも、要は「ゴーレムとゾンビ」であり、どちらも「魂を持たない、外見だけの人間もどき」だから、エスノダのような魔法を使えない者は、それらに準じたものとして人間だとは認められず、例えばエスノダの場合だと、ノーシュの「所有物」だと考えられたのだ。
今で言うなら、人型の動くAIチャットボット、昔で言えば、家畜扱いだった黒人奴隷のようなものである。
で、本作の魔法世界における「常識」とは、そうしたものだったのだが、ノーシュだけは、そうは考えなかった。
SFの世界では有名な言葉だが、『2001年宇宙の旅』などで知られるSF作家アーサー・C・クラークが、
「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」
と言ったとおりで、実際のところ、どこまでが、合理的な技術でどこからが魔法なのか、その境界線というのは、案外曖昧なものであり、言うなれば考え方ひとつなのだ。
例えば、私たちは「合理的な物理法則に裏付けられた技術」を「科学技術」だと考え、「魔法」とは「物理法則に縛られない技術」だ、くらいに考えている。
たしかにこの考え方は、私たちのこの現実世界においては正しいと言えるのだが、しかし、魔法世界が実在するとすれば、そこでは、この説明は意味をなさない。
と言うのも、魔法世界の物理法則は、私たちの現実世界のそれとは、まったく別物だからだ。
つまり、魔法世界には魔法世界の「独自の法則性」がある。
一見したところ、私たちの世界と同じような物理世界のうえに、「魔法」という「例外的なもの」が付け加わったような世界なのだが、その世界では、それはそれで「例外」などではなく、そこまで含めた一体のもの(全体)として合理的なものなのであり、すべては合理的な法則性の内なのだ。
「この世(魔法世界)には、不思議なことなど何もないのだよ」一一というわけである。
私たちの世界で、誰ひとり魔法を使うことが出来ないのは、「魔法世界におけるような物理的法則性」が存在しないからなのだ。
だが、本作を含む、普通のファンタジー小説では、私たちの世界における当たり前の物理法則に付け加わえられたようなかたちで、魔法の合理性が、一体のものとしての(総合的な)物理法則を構成している。
言い換えれば、魔法とは「偶然」や「デタラメ」や「好き勝手」な現象ではなく、ある「条件」が揃わないかぎり、発動しないものなのだ。
その術者に、その能力(体力・技巧)があり、特定の呪文が、特定の条件下で唱えられなければ、「魔法」は発動しない。
なぜ、発動しないのかと言えば、それは魔法世界の物理法則に即していない(物理的な条件を満たしていない)からである。
したがって、例えばこの魔法世界において、普通に魔法を使える者が空を飛ぶのも、魔法を使えない「ソウルレス」が地上を歩くしかないのも、それはどちらも、魔法世界の物理法則に準じた「運動」であることに、違いはない。
だからこそ、例えば、とんでもなく早く走れる人の能力を、魔法とするか魔法ではないとするかは、恣意的あるいは慣習的な基準によるしかない。
例えば、島村ジョーが、「加速装置!」という呪文を唱えて奥歯を噛み締めると、自動車よりも早く走れるとしたら、それはどう見ても「魔法」だろう。
同様に、マッチ(燐寸)というものが存在しない魔法世界で、マッチを作ってそれで火をつけるのも、一種の魔法だと言えるだろう。
なぜなら、それもまた、魔法世界の物理法則に沿った、合理的な技術だからだ。
私たち読者が、そうしたことを「魔法」だと考えないのは、私たちの現実世界における物理的合理性においてもそれは可能なことであり、だからそれは「魔法ではない」と思ってしまうからなのだが、しかし、それは、魔法世界の物理法則に沿った技術である以上、魔法世界においては、それも「魔法」の内だと考えても、決して間違いではないのだ。
私たちの現実世界の物理的な合理性だけで、魔法世界の物理的合理性を考えては、間違うのである。
一一ご理解いただけるだろうか?
ともあれ、魔法が使えないというだけのことで、そうした人たちを「ソウルレス」と呼び「非人間」扱いにする魔法世界の「常識」に、ノーシュは反発をおぼえた。
いわゆる「魔法」(っぽい魔法)ではなくても、魔法世界の物理的な根拠に基づき、並はずれた能力や技術を使えるのなら、それは魔法と呼んでも、なんら差し支えないではないか。
なのに、どうして「特定の段取りを踏む行為」だけを魔法と呼んでありがたがる(特権化する)のか。
ノーシュにはそれが、非合理な「因習的思考=歴史的偏見」だとしか考えられなかったのである。
これは、例えて言うなら、「日本語で『君が代』を歌えない者は、ソウルレスであって、人間ではない」と呼ぶようなものである。
「日本語で『君が代』を歌えることが、そんなに偉いのか?」という、当然の疑問だ。
だが、魔法世界の慣習にどっぷりと浸かっている人たちには、自身のそうした「自己中的世界観」というものが相対視できない。
例えば、昔の日本の「男性優位社会」においては、妻は夫の前を歩いてはならず、夫の後を「三歩(三尺)下がって」歩くものだとされ、それが男女ともに「常識」だったというのと、同じようなことなのだ。
だが、ノーシュは「魔法を使えなければ、人間ではない」という「常識」に疑義を覚えて、反発した。
魔法など使えなくても、有能であったり、善良であったりする「ひと」はいるからで、そこを公平に評価しないのは、恣意的な評価に過ぎると、そう考えた。
だからノーシュは、魔法世界から、魔法という「特権的能力」を消し去って、平等な世界を実現するための戦いを開始したのである。
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で、このように説明すれば、本作で描かれる「魔法世界」が、じつは私たちの「現実世界の似姿」であることに気づくだろう。
つまり、本作に描かれた「魔法世界の悪しき因習」が、内容を少し変えたかたちで、そのまま私たちの「現実世界」にも存在しているのだ。
したがって、この「魔法世界の不完全性」を描くことが、そのまま私たちの「現実世界」の「不完全性(問題点)」を描くことにもなるのである。
「結局、やってることは同じだよね」と。
そしてこれが、本作を「文化・社会批評小説」と評する所以なのだ。
本作はまさに「スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説=SF)」なのである。
そんなわけで私としては、本作の第三部で、急速に前面化してくる「メタフィクション」的な物語構成よりも、それまでの第一部・第二部において語られる、個々の「比喩的な文化・社会批評」の方が面白かった。
なぜ、面白いのかと言えば、よその世界の話に置き換えることで、私たちの抱えている問題の輪郭を、くっきりと際立たせることに成功しているからである。
この「比喩的な文化・社会批評」については、例えば、「ゴースト・マシンの問題とは、コンピュータの問題だ」とか「天体顕微鏡のお話は、量子力学の話だ」とか「蜥蜴人殺人事件は、人種差別問題を扱ったものだ」といった調子で具体的に挙げてゆき、それがどうしてそうなのかまで説明し始めるとキリがなく、本稿が無用に長くなってしまうので、以下では、私が特に興味ぶかく読んだ一節についてだけ、検討を加えたいと思う。
それにしても、あらかじめ強調しておきたいのは、本作には、こうしたレベルの「比喩的な文化・社会批評」が、数多く仕込まれているという事実であり、それは決して、魔法世界を描くための「小道具」などではない、ということである。
そこを読み飛ばしていては、円城塔の小説を読んだとは言えないのだ。
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『「(※ その内部に「無限階段」が設られた、ノーシュの)迷宮は『塔』の形として、遠くからでも見えることになりませんか」
ハムライのその問いに(※ 賢明なる)竜族の長は特に感銘を受けた様子はなかった。むしろ(※ 自身の)講義を中断されたことにへそを曲げているように見えた。
(※ 竜族の長の三本の首のうち)中央の首と左の首は何やら自分たちだけの議論をはじめていて、やや所在なげな右側の首だけがハムライを見下ろしている。右の首はゆっくりと大きく揺れてみせてから、ハムライにつきあうことに決めたらしい。
「外宇宙へ向かう『塔』ならば当然そうなる」
というのが右の首が発した言葉である。
「だがしかし、内宇宙へ向けて建造するならば、その限りではない」
(※ 竜族の長)イノクラルメヘルボヌクスラクスの(※ 三つの頭のうち)新参の(※ 右の)頭はそうハムライへ告げた。
魔術用語としての内宇宙は、いわゆる内面の広がりを意味する(※ 単なる心ではなく、文字どおりの、内なる空間である)。
(※ しかし)そうした(※ そう言い換えた)ところで何かを言えたようではない。
(※ 内宇宙など)妄想の宇宙とでも呼んだ方がよさそうだが、それが宇宙と呼ばれるためにはもう少し曲折が必要となる。ただ「妄想しているだけ」では、「本当に妄想している(※ その内宇宙を生きている)」のかどうかがわからない。
「自分は妄想している」という主張は単純な嘘かもしれず、動機はわからないなりに(※ 「俺は内宇宙を生きられるんだぜ」と)見栄を張って(※ 有能ぶって)いるだけでありうる。
(※ したがって)「壮大な魔術世界へ行って還ってきた」
という主張をどこまで信じることができるかという話である。
さらには、妄想できるだけではまだ足りないという見方もあって、強固な世界観や別の宇宙といったものは、それだけではただの設定(※ 自己規定=自己満足)である。設定の場を通じたやりとりが可能となって(※ 共同行為が可能となって)はじめて、それは宇宙と呼びうるのではないか。可能であるならその設定は、魚にとっての水のように、自分たちがその設定の中にいるということに気づかせないようなものである方が(※ より)よい。
その点、アレグラの迷宮に発見された無限階段は、「まるで外宇宙に存在する」ようにしか思われず、外宇宙とはこの場合、誰かの心の中にあるものではなく、とりあえずは物質宇宙に存在することを意味する。
無限という条件さえなければ、それが内宇宙の存在であることは誰にも気づかれなかったかもしれず、そこで起こるあらゆる現象は単に「魔術的」なもの(※ 当たり前の現実)と扱われたかもわからない。
竜族の長には直感的に明らからしい「内」や「外」といったものの区別がハムライにはいま一つよくわからない。人間は竜族と異なり、夢と現実と可能世界と他世界を区別する器官を持たない。』(P172〜173)
これを、どう「読み替える」か?
私なら、こうだ。
「 しかし、そうした「感動した」とか「素晴らしい作品だ(この作品の素晴らしさがわかった)」とか、そう主張したところで、それで何かを言えたようではない。
根拠の明らかではない「感動」とか「理解」などというのは、個人的な妄想とでも呼んだ方がよさそうだが、それが「批評」と呼ばれるためにはもう少し曲折が必要となる。ただ「私はこの作品を理解していると言うだけ」では、「本当に理解している」のかどうかがわからない。
「自分は理解している」とか「感動した」とかいう主張は単純な嘘かもしれず、動機はわからないなりに見栄を張っているだけでありうる。
「本作を読んで、私は壮大な魔術世界へ行って還ってきた(私はそこに描かれた世界を完璧に理解した)」
という主張をどこまで信じることができるかという話である。
さらには、理解できると言うだけではまだ足りないという見方もあって、強固な理解や別様の解釈といったものは、それだけではただの供述である。したがって、作品設定の場を通じた、他者とのやりとり、すなわち「対他的なコミュニケーションとしての説明」が可能となってはじめて、その解釈は理解であり、批評と呼びうるのではないか。さらに可能であるならその批評における理解は、魚にとっての水のように、自分たちがその解釈の中にいるということに気づかせないような、自然なものである方がよい。
その点、アレグラの迷宮に発見された無限階段は、「まるで外宇宙に存在する」ようにしか思われず、外宇宙とはこの場合、誰かの心の中にある、個人的なもの(=理解)ではなく、とりあえずは物質宇宙に存在すること(客観的な理解であること)を意味する。つまり、自然な存在である。
作品解釈とは、原理的には無限に可能だという条件さえなければ、それが内宇宙の存在、すなわち個人的な解釈であることは誰にも気づかれなかったかもしれず、そこで起こるあらゆる現象は単に「読解的」なものと扱われたかもわからない。」
これは、解釈であろうか?
あるいは、過剰解釈と呼ぶべきものなのか?
あるいはまた、合理的な「解釈」ではなく、非合理的な「魔法」(ペテン)の類いなのだろうか?
しかし、「充分に独創的な解釈は、魔法と見分けがつかない」と、アーサー・B・クラークも言っていたではないか。
(2026年8月28日)
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