▷ 書評:夕木春央『楽園』(講談社)
じつに蠱惑的な作品だ。その意味で、とても面白い。
今どき「蠱惑的」という言葉で評することのできる作品など、そうそうあるものではない。
なぜなら、その魅力は、シンプルにわかりやすいものではなく、わかる人にしかわからないものだからだ。
だが本作は、いわゆる「難解」な作品などではないし、ハードSFみたいに、ある程度の専門的な知識がなければ理解できないというような作品でもない。
本作の読者に求められるのは、そうした頭の良さとか特別な知識とかいったものではなく、言うなれば、「真面目さ」なのだ。
人としての真面目さ。言い換えれば、誠実さである。
それに乏しい人が読んでも、本書の魅力は、きっとピンとは来ないだろう。
なぜなら、本書で描かれるのは「悪魔の誘惑」だからである。

つまり、自己中心的で、自分の欲望に無抵抗な人、言い換えれば「自堕落な人」には、本書の魅力は理解できない。
「悪魔の誘惑」に抵抗する力が無く、元から堕落している人に、「悪魔の誘惑」など、そもそも存在しないに等しいからだ。
「悪魔の誘惑」の「甘美さ」を味わうためには、それに抵抗する力を持っていないといけない。
少しでも「悪」の「甘美さ」を感じた瞬間に、「これはまずい。これは近寄ってはならないものだ。ここから先へは踏み込んではならない。さっさとここから立ち去らなければ、とんでもないことに巻き込まれてしまう」と、そういう敏感さのない人は、深く考えることもなく、「悪魔の誘惑」にフラフラと引き込まれ、取り込まれてしまう。
目先の欲望に流され、その結果までは考えない。「なるようになるさ。こんな甘美な誘惑を無視するなんて、そんな勿体ないことなんか出来ない。結局、なるようになるしかないんだから、さっさと飛び込んじまえ」と、そう考えてしまう。
一一だが、そんな人には「悪魔の誘惑の甘美さ」を味わい尽くすことは出来ない。
なぜなら、どんなに美味しいものでも、食べてしまえは、それでお終いだからである。
例えば、初恋がそうだ。
好きになった相手が、自分のことを好きになってくれるのかくれないのか、それがよくわからない時が、いちばん甘美なのではないだろうか?
好きになってもらえないというのがハッキリしていると、たしかに辛くはあるけれど、いずれ諦めて忘れることもできる。
逆に、相手が自分に好意を持ってくれているのがハッキリし、両想いの関係に入ってしまうと、それはもちろん楽しくはあるけれども、初恋特有の「逡巡」の楽しみが無くなってしまう。
「彼女(彼)は、私のことを好きになってくれるだろうか?」と、そんな悩める状態のときこそが、最も「初恋」の「初恋」らしさか味わえるし、そんな「ピュアさ(無垢)」故の、味わい深さがある。
言い換えれば、何度も恋愛をくり返して、すっかり恋愛に馴れてしまい、いわゆる「すれっからし」になってしまうと、恋愛の魅了であるドキドキ感や「嬉し恥ずかし」的な感覚が無くなってしまい、相手を「いかに攻略するか」みたいな、単なるゲームのようなものになってはしまわないか。
それでも、相手を自分のものにすれば、それは嬉しいし楽しいけれど、すでにその恋愛感情は、じつにビジネスライクなものであり、損得打算的なものであり、恋愛の、特に初恋特有の「甘美さ」という貴重なものを、すっかり失ってしまっているのではないだろうか。
それは、例えば、コレクター(蒐集家)の心理と似ている。
ジョン・ファウルズのそれではなく、当たり前のコレクション行為である。
「あれが欲しい。盗んででも欲しい」と長年恋い焦がれていたものであっても、それが実際に手に入れてしまうと、そのコレクションは、ハッキリと「輝き(アウラ)」を失ってしまう。
なぜなら、それはもう自分のものであり、自分の手に中にあるものなのだから、それに恋い焦がれる必要など、微塵もないからだ。もう、それを求める「必要」はない。
だからそれは、「既成事実」の整理箱のなかに仕舞い込まれて、やがて「所蔵」していることさえ忘れ去られることにもなりかねない。
恋愛においても、「釣った魚に餌はやらない」という言葉があるし、「恋愛していたときには、あんなに輝いて見えた恋人が、結婚してしまうと、ずいぶん当たり前のものに見えてしまうようになった」と、そう考える人が少なくないようだし、その極端な例が、最近ではあまり聞かなくなったが、ハネムーン離婚というやつだろう。
きっと、それが流行った頃の恋愛は、過剰に輝く夢に彩られていたと、そういうことなのではないだろうか。

このように考えていくと、こうした「悪魔の誘惑」の「甘美さ」に対して敏感なのは、もしかすると、男性の方なのかも知れない。
男性の恋愛感情は、一瞬で燃え上がるのだけれども、それが成就してしまうと、急速に冷めてしまう、そんな傾向はないだろうか?
私は男なので、女性のことはよくわからないが、女性は男性よりも現実的であり、例えば、結婚前と結婚後における、伴侶への愛情のギャップが少なく、愛情を継続的に温め、育てていこうとする傾向が強くはないか。
燃え上がる恋愛感情、嬉し恥ずかし的なものではない、もっと現実的で継続的な愛情の構築を目指すという、そんなところが、男性よりも女性にはあるのではないだろうか?
言い換えれば、「悪魔の誘惑」的なものに対しても、女性の方が、果断なのではないだろうか。
ここは進むべきだ、いや引き返すべきだと、果断に決断する。それを、現実的に考えて、決断することができる。
よく言われることだが、恋愛においても、女性の方が、切り替えが早い。
いくら熱烈な恋愛関係にあっても、ある時「この男はダメだ」と思ったら、そこで気持ちがスッカリ冷めてしまって、その男性への興味が失われてしまい、引きずることなく(未練なく)、次の恋愛へと進むことができる。
その点で男性は、釣った魚にはエサをやらないくせに、いざ、その魚が自分の手の中から逃げてしまうと、惜しくて惜しくて、いつまでも未練を抱えて、切り替えることができない。
私は以前、恋愛映画『花束みたいな恋をした』のレビューを書いているけれども、この映画でも、そうした男女の機微が、よく描かれている。
もちろん、すべての男女がそうだというのではなく、そういう「傾向」が、男性女性のそれぞれにあるのではないか、という話である。
例えばこれは、男女の「性欲」というものに、典型的に表れているのかも知れない。
つまり、男性は激しい欲望に突き動かされて一気に燃え上がるけれど、射精した途端、感情は一気に冷めてしまう。
一方、女性の場合は、よく「雰囲気」を重視すると言われるが、それが意味するのは、女性の性欲というのは、一気に盛り上がるものではなく、緩やかに盛り上がり、緩やかに降下する(着地する)ものなのではないだろうか。
そうした傾向が、男女の、愛情発現や表現の全般にあるのではないだろうか。
だとすれば、本書『楽園』は、明らかに「男性作家による、男性のために書かれた、男性のエロティシズム小説」だと言えるだろう。
じじつ本作は、「初恋の逡巡とその甘美さ」に、非常に似た「構成」を採っている。
本作の男性主人公(語り手)が、非常に真面目で安定思考なのも、じつは、そうした「甘美さ」を、最後の一滴まで味わい尽くすための必要条件なのだ。
美味しそうだからといって、いきなり飲み干してしまうようなやり方は、口をつけた瞬間こそ甘美だが、次の瞬間には惰性的な処理運動になってしまう。
つまり、飲み干すために飲み干しているだけになってしまうのだ。
だから、本当にその甘美さを味わいたければ、いじましいまでにちびちびと飲むべきなのだ。
高級なワインでも飲むように、一口含んで、それを口の中で存分に味わう。
じつのところ、それに続く嚥下行為そのものは、すでに快楽ではなくなっているのだ。
だから、その後も少しずつ味わうべきであって、いくら美味しいからといって、ごくごく飲むのは、味のわからない者のする下品な飲み方なのだ。感覚の麻痺した酔っ払いの飲み方である。
できれば一口含んで味わい、そして水で口を雪いでから、また新たな一口を含んで味わう。
そんな、いかにも焦ったいやり方こそが、対象から最大の甘美さを引き出し、それを味わい尽くす方法なのではないだろうか。
決して、すぐに満足を求めてはならない。満足した豚は、愚鈍な豚として死ぬしかない。
一一だから、「死ぬほどの満足」を味わうためには、マゾヒスティックなまでの「自制心」が必要なのだ。
「悪魔の誘惑」が与えてくれる「甘美さ」を味わい尽くすには、簡単に、悪魔の誘惑に身を委ねてはならない。その腕に飛び込んではならない。
そうではなく、「悪魔の誘惑」に逡巡しながら、しかし避け得ずに一歩、また一歩と、その地獄への階段を降りて行かなければならない。
迷いなく降りるのではなく、「引き返さなければならない。今なら引き返せる」とそう逡巡しながら、しかし結局は、その階段を下ってしまっている自身の弱さに懊悩しながら、その闇の中を降りていくことこそが、「悪魔の誘惑」を最大限に味わう方法なのだ。
だから、本作の最良の読者は「真面目で自制心のある」人だ。「禁欲的」な人なのである。
そういう人ほど、「悪魔の誘惑」の魅力を最大限に感じることができるし、だから、悪魔の方からしても、そうした人こそが、最高に美味しい餌食なのだ。
悪魔にとっては、欲望に弱い凡人を堕とすのではなく、聖人君子と呼ばれる人を堕とすことこそが、最大の喜びであり快楽ともなるからである。
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そんなわけで本作は、真面目でストイックな人にこそ読んで欲しい。
そういう人こそ、本作の魅力を理解し、それを味わい尽くすことができるからだ。
無論、本作は「クローズド・サークルものの本格ミステリ」の形式で書かれてはいるけれど、そこは本作の眼目ではない。
それは、言うなれば「焦らせるための形式」にすぎない。
だから、本作に不満を覚える人は、そのあたりをして、「意外性に欠ける」と評するだろう。
だが、それは違うのだ。
本作の何たるかが、わかっていないだけなのである。
悪魔は「意外な人物」であってはならない。
その意外な人物が、最後の最後で正体をあらわす、というような形式では、「悪魔の蠱惑」性を、存分に描くことが出来ないためである。
つまり、悪魔は初めから、多少なりともその正体を窺わせる人物でなければならない。
その人物こそが悪魔なのではないかと疑いながら、しかし、その人物から目を離すことが出来ないばかりか、その蠱惑の罠に、一歩一歩ひき込まれてしまうという状況こそが、「甘美」なのであり、それが、そうした甘美さを最大に味わい尽くす形式だからである。
一一例えば、江戸川乱歩の『陰獣』を思い出せばいい。あれはそうした、悪魔的な傑作だったはずだ。

そんなわけで、悪魔の正体を知り、それが確定した瞬間こそが、「甘美さ」の頂点なのだ。その人が「堕ちた」瞬間なのである。
それは、本作も同じだ。
そのあとはもう、悪魔の手の中で、地獄へとまっしぐらに落ちていくしかないのである。
『 そして、謎を全て解き終えた時、選択を迫られるのは僕の方なのだ。
解決によって、犯人ではなく、探偵が追い詰められる。そんな訳のわからない事件の中に僕らはいた。』(P263)
本作に描かれているのは、一一「堕地獄の快楽」である。
本作を含んで「三部作」とされる、夕木春央の『方舟』『十戒』『楽園』。


その最初の作品『方舟』のレビューにおいて、私は同作を次のように評した。
『本作の最後の最後に立ち現れた魅力とは、言うなれば、夢野久作の名短編「瓶詰の地獄」のラストにも似た、「真っ暗な絶望の胸苦しさ」とでも言えようか。』
また、2作目『十戒』のレビューのタイトルを「堕地獄のサタニズム」とした。
そうした意味でこの「三部作」は、「悪魔に誘惑されて、一緒に地獄へ堕ちてしまいたい」という欲望に突き動かされて書かれた作品なのである。
だから、本書『楽園』を読もうとする者は、可能なかぎり「予備知識なし」に読む方が良い。
この、ほとんど本作の内容を教えないレビューだって、読まない方が良い。
何の知識も無く読んだ方が良いに決まっているからこそ、私は苦労して、このような「情報を与えずに、警告だけは与えるレビュー」を書いたのだ。
だから、理想を言えば、本作のカバーに刷られた情報はもとより、作者の名前すら知らない方が良い。
無論、『方舟』も『十戒』も、読んでいない方が良い。
要は、あなたは「真っ白な読者」として読んだ方が良いのだ。
そうした「無垢」なあなたであればこそ、その「穢れなき魂」に、ひとつまたひとつと、赤や黒の「悪魔の刻印」が印されるたびに、あなたは、あられもなく苦悶と喜悦の声をあげることが出来るはずだからである。
さあ、地獄に堕ちなさい。
その快楽を味わい尽くすのだ。
一一本作は、そんな作品なのである。
(2026年9月1日)
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