▷ 書評:小田雅久仁『増大派に告ぐ』(新潮社・2009年刊)
小田雅久仁を初めて読んだのは、2023年刊行の短編集『禍』であった。
大森望が「新刊めったくたガイド」2023年9月号(「WEB本の雑誌」所掲)で、同書に「星5つ」の万点をつけて絶賛していたからである。
私は、この作品集で、すっかり小田雅久仁にいかれてしまい、その2年前の2021年に刊行されて吉川英治文学新人賞を受賞し、本屋大賞第7位にランクインもした、中・短編集『残月記』を遡って読んだ。
好みとしては『禍』ほどではなかったものの、その筆力を堪能した。
ちなみに、『残月記』を刊行時に読まなかったのは、私は吉川英治文学賞(新人賞を含む)をあまり評価してはいなかったからで、ましてや本屋大賞の第7位程度ではね、という感じだったからである。
ともあれ、2冊読んで2冊とも当たりとなれば、もうすっかり小田雅久仁のファンなのだから、他の本も読みたいと思ったのだが、この時点で刊行されている著作は4冊だけ。
しかも、3年後の現在もそのままで、要は『禍』以降の3年間、小田雅久仁は新刊を刊行していないのだ。
そんなわけで、『残月記』のあと、まずは比較的入手しやすい長編『本にだって雄と雌があります』(2012年)を、おなじ年(2023年)に入手して読んだ。
同書がどうして入手しやすいのかということ、刊行の翌年に第3回Twitter文学賞国内部門第1位を取ってかなり話題になり、文庫にもなっていたからだ。
ただ、この本についても「Twitter文学賞って、若い子向けの賞でしょう?」と思っていたので、当時は興味がなかった。
また、『本にだって雄と雌があります』を読むにあたっても、とにかく暗い『禍』や、かなり暗い『残月記』とは違って、同作はどうやら明るい作品のようなので「大丈夫かな?」と、そういう危惧はあったのだが、他に読める小田の本はなかったから読んでみたところと、前述の2冊とはガラリと違った飄々とした作品ながら、やはりその筆力は確かであり、しかもしっかり感動させられてしまった、文句なしの傑作だったのである。
で、残るは、小田雅久仁のデビュー作にして「第21回 日本ファンタジーノベル大賞」の大賞受賞作である、『増大派に告ぐ』(2009年)のみであった。
ところが、これがなかなか手に入らないまま、3年が過ぎて、今回やっと読むことができた。
無論、古書を通販で買えば、簡単に入手はできたのだろうが、小田雅久仁の既刊本の残り1冊ともなれば、そうあわてて読む必要もあるまいと、ブックオフオンラインに登録しておいたら、今になったのである。

で、なんで登録から3年もかかったのか、同書を読んでから小田雅久仁のWikipediaを読んだところ、次のような記載があった。
『2009年に『増大派に告ぐ』が第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、作家デビューした。
(※ 小田雅久仁は)デビューさえできればどうにかなると思っていたが、『増大派に告ぐ』が全然売れず、読売新聞からインタビューが一回あっただけで反響がなかったため、違うスタイルを試す実験として『本にだって雄と雌があります』を書き上げた。』
(Wikipedia「小田雅久仁」)
そう、本書『増大派に告ぐ』は、全然売れなかったのだ。それで、文庫にさえならなかったのである。
だから、いまだに入手難なのであろう。
それにしても、どうして売れなかったのだろうか?
ひとつには、第21回ともなると、さすがの「日本ファンタジーノベル大賞」も、その威力を失っていたということもあるだろう。
大賞受賞作品だからと言って、どんな作品でも売れるような時代ではなくなっていたのだ。
だが、それにしても、「日本ファンタジーノベル大賞」は、しばしば「大賞受賞作」を出さない(選出を見送ることをする)、その意味で「見識のある数少ない公募新人賞」だったのだし、なにしろあの小田雅久仁のデビュー作なんだから、それなりに面白い作品であったはず。
なのになぜ、全然売れなかったのであろうか?
その理由は、まさに「読めばわかる」。
要は、その圧倒的な筆力を持って、読者を楽しませないのだ。
くり返すが、わざと「楽しませない」ように書いているのである。
それはまるで、かつての戦後左翼文学(純文学)のように、暗い暗い作品である。
私の知っている範囲で言えば、井上光晴や野間宏の作品にも似た、湿度の高い重い暗さに満ち満ちた作品なのだ。一一あるいは、それ以上かも知れない。
とは言え、いちおう「日本ファンタジーノベル大賞」への応募作なので、エンタメ的な要素(と言うよりは、SF的な設定)もあるにはあるのだが、それも所詮は登場人物の妄想でしかなくて、超常的な現象が描かれるわけではない。
本書で描かれるのは、半分は狂気に満たされた「妄念」であり、残りの半分は、救いのない世界への絶望だと、そう言っても過言ではないのだ。
実際、本書の帯に刷られている、選評からの抜粋されたのであろう選考委員たちの言葉が、とにかくすごい。
「出色の悪態小説!」(井上ひさし)
「目を覆うような展開」(小谷真理)
「選考委員を挑発するような書きっぷり」(荒俣宏)
「危険な作品」(鈴木光司)
「力のある曲者」(椎名誠)
一一まんま、このとおりの作品なのだ。
私は本作を読み終えて、小田雅久仁の捻くれ者とも反骨者とも言えるような書きっぷりに感心し、それ以上に、本作に大賞を与えた選考委員たちの見識と英断に拍手を送りたいと思った。

本作は、普通に読むなら決して楽しめる作品ではないし、売れなくて当然のきわめて挑発的な作品なのだ。
荒俣宏が書いているとおり、本作は、まず選考委員たちへ向けられた「あなたたちにこの作品が、真っ当に評価できますか?」という挑戦状であり、そしてそれは、刊行されるならば、すべての読者への挑戦状だったのである。
そして、選考委員たちは、この挑戦に見事に受けて立ち、一方、世間は選考委員たちの英断に応えることなど出来ず、あっさりと逃亡したのだ。
本作は268ページの作品だが、その半分までは、本当に読むのがつらい作品だ。
たいがい読みづらい作品でも読み通すことのできる私でも「これはしんどいな」と思いながら、匍匐前進のように読み進めるしかなかった。
だが、文章そのものが読みづらいとか晦渋だとか、そういうことでは全くない。
小田雅久仁は、このデビュー作にして、すでに圧倒的な筆力を示しており、だからこそ選考委員の椎名誠は、本作を読んで『力ある曲者』と、その作者を評したのだろう。
今の私には、この時の選考会の様子が目に浮かぶようである。
「受賞させるなら、この人でしょ」
「でも、この作品はなあ」
「相当なへそ曲がりですよね。わざわざ嫌われに来てるような作品」
「われわれに『こんな作品、刊行する度胸はないだろう?』とそう言ってるような作品だよね」
「これを選んだら、新潮社さんに悪いよなあ」
「でも、これは次点にするような作品じゃない。大賞か、さもなくば受賞作なしか」
「なら、大賞しかないでしょう。この挑戦から逃げるわけにはいかない。この作品を通すためなら、私は次回から選考委員を下りてもかまわない」
「そうですね。ある意味でこの作品は、日本ファンタジーノベル大賞の歴史に、特殊なかたちで名を残す作品になるでしょう」
「この人なら、将来とんでもない作品を書いてくれるかもしれない」
「それなら、その芽をここで摘むようなことは許されない」
「ということで、これが大賞受賞作決定ですね」
「異議なし」
「新潮社さん、ごめんなさい。これも日本の小説文化のための投資なのです」
一一とまあ、こんな感じだったのではないだろうか。
実際、小田雅久仁は『増大派に告ぐ』のような、どうしようもなく暗い作品しか書けないような作家ではないことを、3年後の書き下ろし長編『本にだって雄と雌があります』で、存分に実証して見せたのだから、当時の選考委員たちは、それを読んで自分たちの判断の正しかったことが証明されたと、満足の笑みを浮かべたこと間違いなしだ。
だが、『本にだって雄と雌があります』が評判を取ったあとも、小田雅久仁は専業作家になることはせず、年に短編一本というようなペースで作品を発表し続けた。
そして、そうして作品が書き溜まった結果が、2021年の『残月記』であり、2023年の『禍』だったということなのである。
しかし、こうした刊行ペースというのは、たぶん小田雅久仁自身、自分が徹底的に「凝る」タイプの作家であり、書き飛ばせはおしまいだという意識を持った人だからではないかと、私は見ている。
つまり、『残月記』や『禍』などの作品集も、初出にかなり手を入れた上でのものなのではないか。
したがって、作品が溜まったから即刊行したというような刊行ペースにはならなかったのではないか。
実際、Wikipediaを見れは、小田雅久仁には単行本で3冊分くらいにはなる未収録短編が『禍』を刊行した2023年の段階ですぐにあったのだ。
だから、2022年、2023年と話題の新刊が続いて、小田が最も注目されたタイミングで、他にも短編集を出そうという話は、きっとあったはずなのだ。
だが、たぶん小田は、それに首を縦には振らなかったのであろう。
一冊の本にするほどの気に入った作品は、まだ書き溜まっていないと判断したのであろうと、私はそう見た。
とは言え、小田雅久仁は、2025年だけでも5本の短編を書いているのだから、そろそろ新刊が出てもおかしくはない頃合いではあろう。
今年が無理でも、来年にはと私は期待しているのだ。
○ ○ ○
ちなみにここまでは、本作『増大派に告ぐ』の内容を、特にストーリーをほとんど紹介しなかったが、それは本作の場合、そんなものを紹介しても、ほとんど意味が無いし、どんな作品かもわからないからである。
本書の帯には、そんな内容を伝える文言が若干記されている。
『世界は二つの勢力に分かれている。減少派と増大派一一お前は、どっちだ?』
『誇大妄想にとりつかれたホームレス、
どうしようもなく狂気に惹かれる14歳
さびれた巨大団地の隙間で、
二つの孤独な魂が暗い光を放つ』
まったく、そのとおりの内容である。
説明しだすと切りがないので、ここでは、タイトルに関わる「減少派と増大派」なるものについて言及された部分を、一箇所だけ引用しておこう。
『恐ろしいことだ。(※ キュリー)夫婦揃ってそうと知らずに毒(※ 放射線物質)を研究し続けて死んだのだ。そこには何か重大な教訓が含まれているようにも思えたが、その当時(※ キュリー夫人の伝記を読んだ子供の頃)はいくら考えても(※ その伝記的事実から)何をどう学ぶべきかわからなかった。もちろん今ならわかる。危険を顧みない開拓者である減少派は先頭を歩き、凡庸な非開拓者である増大派はその後ろを群れとなってぞろぞろとついていくだけだということだ。そして、罠にはまった開拓者の死を見届け、小躍りし、名誉を与え、その口で英雄の死体を貪り食い、少しでも力を得ようとするのだ。』(P120)
これは、狂気に囚われたホームレスの男の身内語なのだが、ここなどは、私が絶大な影響を受けた、笠井潔のミステリ小説『バイバイ、エンジェル』に登場する「狂気の革命家」のセリフと酷似しているとも言えるだろう。
『「……私は、あらゆる革命の敗北の、その究極の根拠を発見したのです。
なぜ、一切の革命は常に絶対に敗北するのでしょうか。歴史は、敗れた革命の残骸で埋めつくされているではありませんか。なぜ、革命はいつだってまるで悪い運命に呪われているもののように絞殺され続けてきたのでしょうか」
「なぜです」と日本人は陰気な声音で尋ねた。
「理由は、そう、わかってしまえば実に簡単なことなのです。それは、革命のなかにいつも解き難い矛盾と背理が含まれていたからです。革命は、胎内に敵対者の罠をはらんでいたのです。その罠とは、〈革命は人民による人民のための事業である〉という愚昧な命題です。この命題こそが、革命の敗北の根拠なのです。革命そのものとこの命題のあいだにあるものは、決して解くことのできない矛盾と撞着だけです。
そうです。革命と人民は本質的に無関係です。いいえ、あらゆる歴史の現実が露骨に示しているのは、革命の最悪の敵が人民そのものであったという事実なのではありませんか。革命の真の敵は、刑務所や軍隊や政治警察や武装した反革命ではなく、……人民という存在だったのです。乳臭い牝牛みたいに愚かな善意で目を曇らせた革命家たちは、いつもこの露骨な真実に無自覚でしたが、人民はその小狡い臆病な獣の本能で熟知していました。人民の熱狂的な支持と拍手のもとで、あるいは保身のための無言の加担によって、無数の革命家たちは投獄され拷問され虐殺され続けてきたのです。(以下略)」』
(笠井潔、角川文庫版『バイバイ、エンジェル』P361~362)
見てのとおりである。
ここには、人類という種に対する、抜きがたい嫌悪と怨念が刻印されている。
無論、小田雅久仁にしろ笠井潔にしろ、それだけの人間ではないのだけれども、こうした嫌悪や怨念が本物だというのは間違いなく、そうした人類への「本物の感情」の込められた作品が、本作『増大派に告ぐ』なのだ。
だから本作が、当たり前のエンタメでなどあろうはずがない。
あえて言うが、本作は「文学作品」なのである。
読者を楽しませるために書かれた作品ではなく、読者に問い、読者を問い、「おまえも増大派なんだろう?」と、そう詰めよる作品なのだ。
だからこそ、読んで楽しい作品ではない。
本書はまさに、「自立できる読者」だけを選ぶ、稀に見る超辛口の傑作なのだ。
一一「お子様に用はない」と。
(2026年9月10日)
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