『堤未果の『すばらしい新世界』 スマホで赤ちゃんを注文する日』: 私の倫理、私の正義

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▷ 書評:堤未果『堤未果の『すばらしい新世界』 スマホで赤ちゃんを注文する日』(集英社新書)


本書のタイトル『すばらしい新世界』は、オルダス・ハクスリーが1932年に発表した、ディストピア未来SFのタイトルを拝借したものだ。
本書は、文字どおり『堤未果の『すばらしい新世界』』なのである。

ハクスリーの『すばらしい新世界』、すでに100年近くも前の作品なのだが、しかし古い作品だと侮ることなかれ。同作ほど「恐るべき未来」を予告した作品もまたとはない。


ディストピア小説として、『すばらしい新世界』と並び称せられることの多いの『1984年』は、ソ連共産主義の管理(監視・洗脳・密告)社会を未来に投影したディストピアSFとして、ソ連が倒れたあとも、監視社会の危うさや政治的宣伝(プロパガンダ)による社会的な洗脳の危険性を訴え続ける、未だ古びない傑作である。

とは言え、『1984年』で描かれているのは、主として「政治イデオロギー」的な問題であって、内容的には、自由主義民主国家の側から全体主義統制国家を批判する体のものであり、どこか「自由主義社会バンザイ」的なところもないではなく、かすかなイデオロギー臭の否定できない作品でもあろう。

それ対し、ハクスリーの『すばらしい新世界』は、政治イデオロギーや政治体制の如何を問わない、それを超越した、普遍的な「技術的ディストピア」を描いた作品だと、そう言えるのだ。
人間が(進歩する)人間であるかぎり、その罠を越えることは出来ないのではないか。

一一そんな暗い予感を漂わせているのである。

『すばらしい新世界』の描くディストピア性とは、経済的に十分に発展した豊かな国であるならば、その政治体制イデオロギーの如何に関わりなく、すべてがそうなっていくだろうという、そんな恐ろしさなのだ。

当然、先進国ならば、アメリカであろうと、ロシアや中国であろうと、ドイツやイギリスやフランスであろうと、どの国でも無縁な話ではあり得ず、着実に「すばらしい新世界」へと、今この瞬間も漸進中である。
むろん日本も、そのあとを少し遅れて追っている。

本書のサブタイトル「スマホで赤ちゃんを注文する日」は、本書の第1章の章題を少し言い換えたものだ。


本書は全4章で、その章題は次のとおりである。

第1章 「生」 スマホで赤ちゃんを買う日

第2章 「老」 寿命を買う者、老いを抱きしめる者

第3章 「病」 マイナス感情は消去せよ

第4章 「死」 国家が、死を売る


第1章の章題がサブタイトルに使われているのは、たぶん最もインパクトがあるからだろう。
また、章題では「赤ちゃんを買う」なのが、サブタイトルでは「赤ちゃんを注文する」に変わっているのは、「買う」だと、単純な「人身売買」の問題だと誤解されかねないと考えたからかもしれない。

だが、この第1章で扱われているのは、人身売買ではなく、大雑把に言えば、バイオテクノロジーによる「デザイナーベイビー」の問題だ。

要は、「カネ」さえ払えば、髪や目や肌の色、身長といった外見的要素だけではなく、将来的な健康や知能までのすべてにおいて、「注文」どおりの赤ちゃんを「買う」ことができる世の中になりつつある、という話なのだ。
代理母や人口母胎(子宮)によって、母親は自身の卵子さえ提供すれば、自分で出産する必要すらなくなる、注文どおりの、自身の赤ちゃんを手に入れられるのである。

第2章 は、『「老」 寿命を買う者、老いを抱きしめる者』とあるとおりで、これも第1章と同じく、バイオテクノロジーによって、カネさえ払えば、「若さ」を買える時代になりつつあるという事実を、報告するものである。
アメリカのテック大企業の創業者である富豪たちは、そうした技術の開発に莫大な資本を投入し、その中には、技術の完成までは待てないとばかりに、自らの体をその実験台にしている者さえいるのだ。

第3章の『「病」 マイナス感情は消去せよ』では、薬などによる感情のコントロールが、ますます可能になっているという、その最前線の現実を紹介している。

この第3章が、前の二章と少し違うのは、この章で扱われるのは、富裕層ばかりの問題ではない、という点だ。
つまり、薬や技術的介入によって「マイナス感情」から解放されるのは、金持ちではなく、むしろ私たち一般人(庶民)なのだ。

しかし、こう書くと、何やらとても好ましいことのように思えるかも知れないが、むろん、そうではない。
良いことなら、富裕層が優先されるはずなのに、どうして、庶民にもそうした恩恵が施されるのかと言えば、もちろんそれには、裏があるからである。

端的に言えば、人が「マイナス感情」というものを失えば、主観的には幸福なのかも知れないが、客観的には、どんな劣悪な環境に捨て置かれても、それを不満に思うことはない、ということになるのだ。
比喩的に言うなれば、「豚小屋の幸福」が手に入るというわけである。

どんなに長時間労働をさせられようと、賃金が安かろうと、労働者たちは疲れを感じず、労働が楽しくて仕方がないということになる。いわば、働けることそれ自体が報酬なのだ。

当然のことながら、そう感じてくれるなら、経営者側としてこんなにありがたいことはない。
「そんなに働かなくてもいいよ。体の大切にして下さいよ」と猫なで声で言っても、本人が勝手に、進んで働いてくれるのだから、少なくとも形式的には、会社側がそれを強いたことにはならない。

無論、労働法的には、会社側には労働者に対する具体的な健康管理が求められるから、そんな「言うだけは言いました」的な言い訳だけでは通らないが、理論的には、そうした「強制しない強制労働」的なことも可能になるのである。

つまり、働いてもらわなければならない人たち、要は、労働者階級の人間を、感情(気分)の問題としてハッピーにしておくのも、そして肉体的に健康にしておくのも、それは当人の幸せのためではなく、安価に労働力を確保するためだということになるのだ。

人々を幸せにするためではなく、労働力としての効率性を高め、それを維持するために、その心と体の健康の維持が目指される。
文句を言わずによく働く、従順な生体ロボットに「作り替える」ようなものなのだ。

だから、例えばその人が、好きで怠惰な生活を送るとか、酒タバコをやるとかいったことは、「不健康」の名において、反社会的な行為(社会悪)とされ、許されないことになってしまうだろう。
一一だが、これでは、本末転倒なのではないだろうか?

健康とは、元来自分の幸せのためにものであったはずなのに、それが搾取のための対価として強制されているも同然であり、だからこそそこには「選択の余地」が与えられなくなる。

せっかく「与えられる健康」を拒むことは、非合理的で自分勝手な「悪」だとされ、「そんなことを選ぶというのなら、あなたは勝手に、自分一人で生きれば良い。そのかわり、あなたがどんなに困ったことになったとしても、もう社会や国家は、あなたに救いの手は差し伸べることはしないだろう」と、そんな脅迫めいたことを言われ、それでも、好まざる介入を拒絶すれば、本当に社会から切り捨てられてしまいかねない。
日本国憲法が定めた「生存権」が無効化されかねないのである。

しかし、これはまさに、ソフトかつリアルな、ディストピアなのではないだろうか?

憲法第25条の条文

第1項:すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

第2項国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない


一一しかし、このようなことが、先進国では、現に進行しつつあるのだ。

つまり、第1章から第3章までは、技術的な進歩が、ますます人々の生命や身体を自由にコントロールできるようになり始めており、それが人間社会の不平等をさらに推し進めるように働いているという現実が、紹介されている。

「もう障害のある子供は生まれてこない」とか「いつまでも若々しくいられるようになる」とか「いつも前向きな気分でいられるようになって、悩みから解放される」などと言うと、そんな「すばらしい」ことはないと、そう思ってしまいがちなのだが、現実はそんなに甘いものではないのだ。
そうした技術によって形成されつつある社会とは、ハクスリーが逆説的な名づけた「すばらしい新世界」そのものなのである。

そんなわけで、本書の場合、第3章までは、そうした「生命生体技術」の最先端が紹介されており、「私たちの社会は、もうそんなところまで来ていたのか」を愕然とさせる。

しかしながら、「読み物」としては、本書はその衝撃性において、「面白い」とも言えるだろう。
最先端技術の危うさに愕然としつつも、しかし私たちはそれを「面白く」読んでしまうことになる。そうした意味での「娯楽性」が、本書には確かにあるのだ。

だが、本書の本領は、そこにはない。楽しく読ませて終わりではない。読者も、そこに止まってはならない。
本書の眼目は、最終の第4章にある。

そこで扱われるのは、「個人の死」の問題。
「私の死」とは、いったい誰のものなのかという、難問なのだ。

「私の死は、当然、私のものだろう」と、そう思う人も少なくないだろう。
だが、そんなに簡単な話ではない。

なぜなら、当人は自分の「死」を体験できないから、所有もできない。「死」は、いつでも他者にとっての「他人の死」でしかない。

だとすれば、人の「死」をどのようなものにするのかを決めるのは、死にゆく人当人ではなく、死を看取る側、生き残る側だということにもなって、その「都合」が、死にゆく人にフィードバックされ押しつけられることも、決して珍しくはないのだ。

ここでよく考えて欲しいのは、「死にたい人が、勝手に死ぬことを許されない」とか「生きていたいが、生きるに値する条件が整っていないから、死んだ方がマシだと、死を選ばざるを得ない」といった状況は、「すべて本人の意思による生死選択だ」とは言い難い、という事実である。

では、真に「個人の意志による死(生)」とは、どのようなものなのだろうか?

自殺する人の多くは、実のところ、死にたくて死ぬわけではない。

死ぬしかないような事情があるから、死ぬしかないと考えて、やむなく死ぬのであって、それはじつのところ「望んだ死」でも「選んだ死」でもない。

それは、「望まざるを得なかった死」であり、「選ばざるを得なかった死」なのだ。そこに「選択肢」は無かったのだ。
「〜せざるを得なかった」というのは、要は、そこには「自由が無い」ということであり、ならばそれは「自由意志」によるものではない。

そのように考えていけば、大半の「自殺」は「当人の意思で死んだ」とは言い難いものなのである。

では、真に「尊厳ある死」あるいは「不本意ではない死」とは、どのようなものなのであろうか?

「他者に強いられることなく、自ら好んで選んだ死」とは、どんなものなのか?

それはたぶん「まだ普通に生きられるのに、それでもその生が、死よりも好ましいものではないと判断された時に、あえて選ぶ死」といったものなのではないだろうか?
死ぬしかないのではなく、意志的に選んだ、より良き生き方としての、死である。

例えば、憎んでもいない相手を殺さなければ、自分が生き残れないという状況下で、他人を殺すくらいなら自分が死のうと、そう考えて選んだ死は、「尊厳ある死」なのではないだろうか?
殺せないのではなく、殺せるけれども殺さない、という主体性の存在である。

だとすれば、逆に、他者に犠牲を強いながら得られる「幸福」や「若さ」や「健康」といったものは、そうした「尊厳ある死」とは真逆にある、「人としての尊厳なき幸福」「人としての尊厳なき若さ(美しさ)」「人としての尊厳なき健康」ということにはならないだろうか。

そして、このように考えたとき、私たちは単純に、「幸福」や「若さ」や「健康」を求め、得られるものだから得る、というわけにはいかなくなるだろう。

例えば、私は今年2月に、前立腺がんの全摘手術を受けたが、それは無論、死にたくはないからだし、健康でいたいからだ。
当然、私には、手術を受けることも受けないこともできた。選択肢はあって、私は自身の自由意志において、主体的に手術を受けたのだ。

それだけではない。私は64歳の現在、それなりに毎日、数種類の薬を服用しているが、これも、健康でいたいからであり、ひとまず当面は死にたくないからである。

で、こうしたことを私たちは、当たり前なことだとしか思っていないが、しかし、その先にある「当たり前の欲望」の発露の結果が、本書で堤未果が紹介したような異様な世界であり、その先に、ハクスリーの描いた「すばらしい新世界」が存在しているのだとしたら、私たちの今現在の「当たり前」だって、完全に「罪なきもの」とは言えないものなのではないだろうか。

例えば、経済先進国で生きる私たちの恵まれた生活・環境は、経済後進国の貧しい人たちからの搾取から成り立っている部分が、確かにある。
いま、私がこの文章を書いているスマホ(iPhone)も、きっとどこかで誰かを搾取した結果として、私の手の中で、私に安価な便利を提供しているものであるはずだ。

なのに、そんな私が、こんなことを書いているのは、絵に描いたような偽善ではないのか。

そうだ「偽善」なのだ。
だがまた、私たちが「偽善」無くして、つまり「偽善」を完全に排して生きていくことは、たぶん不可能だろう。

そもそも私たちは他の生命を奪い食い、その犠牲の上に生きているのだから、それと同様、じつはどこかで必ず、同じ人間の生命を食いものにして生きているはずなのだ。

では、どうすれば良いのか?
死ねば良いのか?
私を含む人類など、いや生命など、すべて完全に滅びてしまえば、そこには善も悪も無くなってしまうというのは事実なのだから、そうなるのが「ベスト」なのだろうか?

だが、現に生命がある以上、それを否定することで得られるものが「正義」だというのも、矛盾であろう。
「善悪」観念のある人間が存在しなければ、そもそもこの世界には「善悪」は存在せず、当然「正義」というものも存在しない。

つまり、「正義」をなすためには、同時に、同一人かも知れない「悪を生む人間」が存在しないことには、それはそもそも不可能なことだということになるのであろう。

したがって、たぶん「完全な善(正義)」も、「完全な悪」も、そうした完全状態が生じた際には、すでにそこには、人間は存在していないはずなのである。
つまり、人間が存在するかぎり、常に「善悪」は、両方存在して、その葛藤状態にあるしかないという、当たり前の結論に落ち着かざるを得ないのであろう。

無論、私はここで「だから、悪があるのも仕方がない」一一そう開き直るしかないと、言いたいのではない。

私が言いたいのは、人間には、最後の最後に「尊厳ある死」という切り札があり、それを抱いて、悪への抵抗戦を戦うしかないのだろうとそう言いたいのであり、それが「尊厳ある生」なのではないか、ということなのだ。

だが、そう考えた瞬間に、それは体の良い自己欺瞞なのではないのかと、たちまちそんな疑問が湧いてくるのを、私自身、否定することができない。

結局のところ私は、生きているかぎり、自身が度し難い自己欺瞞者なのではないかという疑惑を抱えながら、他者を犠牲にしつつ、よりマシな生き方を選ぶしかないのか?
一一そうなのかも知れない。

だが、その事実から、目を背けることだけは、したくないと思う。
それが、最低限の「倫理」であり、「私の正義」だと思うからだ。

本書の第4章は、「尊厳ある生と死」をめぐっての誠実な思考が展開されて、圧巻である。


帯に推薦文を寄せている、養老孟司の言葉は、決して過分なものではない。

「現代や近未来の日本社会をどう生きるか。
それを真剣に考えるなら、この本をぜひ
読んでほしいと思う」


そのままと言えばそのままの言葉だが、たぶんここで重要なのは「真剣に考える」という誠実さだろう。
それが人間にとっての正義であり、その最後の砦なのだ。考えることをやめた時に、私たちの敗北は確定するのである。

著者で堤未果は「あとがき」で、次のように書いている。

『 叔母の死から始まったこの旅は、気づけば何年もかかる長い問いの旅になっていた。
シリコンバレーの富裕層が億を投じて老いと死に抗う一方で、貧しさゆえに安楽死を申請する男性がいる。遺伝子で選別される命がある一方で、どんな状態でも「生きているだけでいい」と愛され続ける人がいる。
 その落差の大きさに、何度も言葉を失った。
 だがその度に、母と叔母の姿が私を前に進ませてくれた。
 正解のない問いを抱えたまま、それでも自分の足で立ち、自分の意志で生き、自分の決めた形で逝ったあの二人が、この本と私を、ずっと導いてくれていたように思う。』(P218〜219)


そうなのだ。「正しく生きるにはどうすれば良いのか?」という問いに、たぶん正解はない。
生きているかぎり、常に罪はつきまとうからだ。

だが、たとえ、他人を犠牲にするしかない生だとしても、少なくとも最低限、自分が誠実に生きるためには、自分のことは自分で考え続けるという義務くらいは、引き受けなければならないのだと思う。

なんだ、それが結論なのかと、そう言う人もいるだろう。

だが、これは「結論」などではない。
「考え続ける」ことを自身に強いるというのは、たぶん、安易な「結論」に安住することの拒否だからである。

生きているかぎり、他者の苦しみを忘れず、それに心を痛めることから逃げないこと。
人を責めることで、自分の罪を忘れようとしたりはしないこと。

それが、私の最低限の倫理であり正義なのではないかと、本書を読みおえて、そう考えている今の私である。



(2026年9月7日)

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