▷ 映画評:クリストファー・ノーラン監督『プレステージ』(2006年/アメリカ映画)
もともと『メメント』や『TENET テネット』のようなパズルトリック映画が大好きなクリストファー・ノーランが、手品師(マジシャン)をテーマにした映画を撮るのだから、どんな「騙しのテクニック」を見せてくれるのかと大いに期待したのだが、正直なところ、(私の理解に間違いが無ければ)本作は、期待したほどの作品ではなく、むしろ力点は、原作に由来する「復讐劇」にあると言って良いだろう。
そんな本作の「ストーリー」は、次のとおりである。
『19世紀末のロンドン。ボーデンはライバルであるアンジャーの瞬間移動マジックを調べるため、彼のマジックの最中に舞台下に侵入する。するとアンジャーはボーデンの目の前で、2人にとっていわくつきの水槽に落ちて溺死。そばにいたボーデンはアンジャー殺害の容疑で逮捕される。
遡ること数年前。若きアンジャーとボーデンは、ある奇術師の下で互いに修行していた。ある時、助手であったアンジャーの妻が水中脱出マジックに失敗し溺死する。その原因はボーデンが(※ アンジャーの妻の手首に)結んだロープ(※ が解けなかったせい)であった。2人は決裂し、アンジャーは復讐のためにボーデンの手品を失敗させ、ボーデンは左手の第4・第5指を失う。以後、2人は互いの邪魔をしながら激しく競い合うようになる。』
(Wikipedia「プレステージ」)
要は、アンジャー(ヒュー・ジャックマン)とボーデン(クリスチャン・ベール)の2人による、「やられたからやった」の、常軌を逸した復讐合戦の物語である。



最初は、ボーデンのせいで妻を失ったアンジャーがボーデンを恨むわけだが、事故の原因となった「ロープの結び方」について、アンジャーは「ボーデンが故意に、禁じられていた、解きにくい結び方をした。だから、ボーデンが殺したもの同然だ」と言い、ボーデンは「いつもどおりに決められたとおりの結び方をしたのか、解きにくい結び方をしたのか、記憶が定かではない」と主張し、自身の責任を曖昧にする。
しかし、アンジャーがボーデンを疑うのは、その事故以前に、ロープの結び方についてボーデンが「あんな簡単に解けるような結び方ではつまらない。観客は脱出できるか否かのドキドキを求めているのだし、マジシャンは体を張り、命を賭けてこそ一流なんだ。だから、解きにくい結び方にすべきだ」と、そう主張し、それは危険すぎると却下されて、不服そうにしていたためである。
つまり、アンジャーの妻が、ボーデンによって手首に結ばれたロープが解けなくて溺死したというのは確かな事実なのだが、事故後すぐにロープが解かれてしまったのと、ボーデンは「どう結んだのか記憶にない」と主張したため、それがどんな結び方だったのかという肝心な点は、確かなことはわからないままになってしまったのだ。
だが、そんなことがあった以上、アンジャーが「ボーデンは解けにくい結び方をしたに決まっている。それをとぼけやがって」と思うのは当然だろうし、要は「妻を殺された」と考えるのも、いたって自然な感情だろう。
そんなわけでその後、アンジャーが、ボーデンの拳銃を使ったマジックに介入して、ボーデンの左手の薬指と小指を吹き飛ばす事故を仕掛けたのも、アンジャーにしてみれば「それくらいの報いは当然だ」という程度の復讐でしかなかったわけだ。
しかし、ボーデンが、アンジャーの妻の手首をどんな結び方で結んだのかは、映画(映像上)でも明確に明かされておらず、ボーデン自身も、結び方はどうあれ、もとから「どっちにしろ、解けない結び方をしたわけではないのだから、結果として解けなかったというのは、事故に過ぎない」と、そんなふうに考えているようで、自分が悪いとは寸毫も思っていない。彼は、異常なまでの「マジック原理主義者」なのだ。
だから、自分はただ「理想の不可能マジック」を目指して努力しているだけだ、マジックの歴史に犠牲はつきものなんだと、そんな感覚なのである。
またそのため、アンジャーによる復讐は、お門違いだということにもなる。

アンジャーの妻の死は、あくまでも「不幸な事故」に過ぎないのに、アンジャーは自分(ボーデン)一人の罪だと決めつけて、故意にマジシャン生命を奪いかねない復讐をしたのだから、これはもう絶対に許せない、とそうなったわけだ。
そして更にそこへ、ボーデンの妻サラ(レベッカ・ホール)やアンジャーの助手だった女性オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)などとの「愛と裏切り」がからむ復讐劇となり、次はボーデンの方が、アンジャーのマジックに介入する復讐を決行する。
だが、その結果、アンジャーを死なせてしまうことになり、ボーデンはアンジャー殺害犯として死刑宣告を受けることになるのだ。
一一と、おおむねこうした展開だ。


しかし、無論これでおしまいではない。
当然この後にも、何度かどんでん返しがあるし、それを明かしてもネタバレには当たらないだろう。
なぜなら、最後の最後に「真のどんでん返し」が無いような、どんでん返し映画なんてものはないからである。
したがって、本作は、四転五転六転くらいする作品であり、それくらいのことは、言うなれば、予想の範囲内で、特に驚くまでもないこと。
だから問題は、そうしたどんでん返しの「質」なのである。
そこが、満足できるものであったか否かが、評価の分かれ目なのだ。
【以下、本作の本質的な部分でのネタをバラしますので、未見の方はご注意ください。なお、以下でバラすネタは、あくまでも私個人の作品解釈に基づくものであって、それがクリストファー・ノーラン監督の意図したものであったという保証までは出来ません。つまり、以下で示すことは、私の解釈にすぎないということです】
○ ○ ○

さて、本作における、終盤の二転三転を支えるのは、要は「そっくりさんトリック」である。
これは現実のマジックでも使われているものだろうから、それ自体はいっこうに構わないのだが、しかし、私が引っかかったのは、映画である本作においては、そのそっくりさんを、同じ俳優が演じているという点だ。
つまり、アンジャーとアンジャーの影武者は、どちらもヒュー・ジャックマンが演じているし、ボーデンとボーデンの影武者も、クリスチャン・ベールが演じている。
そのため、映画上では、彼らの近親者ですら、その区別がつかない、ということになっているのだ。
例えば、ボーデンの妻サラが、夫が自分に対して語る「愛」が、時に本気であり、時に嘘だと指摘するシーンが何度かある。
そしてそれは、観客にとっては、単にその時のボーデンの「気分の違い」だという感じに見えるよう、演出されている。
現実の夫婦だって、その時々、言葉の本気度(重み)が変わることはあるのだから、ボーデン夫妻の場合もそういうことだろうと、観客はそう納得させられるのだ。
ところが、本作のラストで明かされるように、ボーデンには、じつは双子(一卵性双生児)の兄弟がいて、ボーデン自身は、その事実こそが「自身最大のトリック」だと考えていたので、その「マジックのタネ」については、妻にさえ打ち明けてなかったのだ。
だから、時と場合によって、その双子の兄弟がボーデンになりすまして、サラに会っていたのだから、その時に彼の語るサラへの「愛」もまた、まさに「偽物だった」のである。

だが、いくら「一卵性双生児」だと言っても、生活を共にする妻を、長期間にわたって騙し切ることは出来ないはずだ。
たしかにボーデンとその兄弟は、ボーデンが失った指に合わせるために、わざわざ兄弟の指を切り落とすという荒技までやっていた。
またその調子で、妻にも双子の兄弟がいることは徹底して隠していたのだから、ある程度までなら、妻や娘が騙されるということもあり得ようし、ましてや映画的な「絵面」だけなら、それもあり得よう。
しかしだ、いくら双子の兄弟だといっても、30歳を過ぎた男が体の隅々まで、その表情やしぐさの端々まで、そっくり同じだということは、演技をしたとしても、現実にはありえない。
つまり、妻が、夫は明らかに「変だ」と考えるはずなのだ。
その後、ボーデンの妻サラは、アンジャーからボーデンのもとへスパイとして送り込まれた手品助手オリヴィアと、夫が深い仲になっていると知る。


だが、じつはこの際、オリヴィアと本気で出来ていたのは、ボーデンの影武者である双子の兄弟の方だったのだが、そんな隠された「四人二組」の複雑な関係になっていても、サラが「夫がおかしい」とか「別人のようだ」「狂ったのではないか」などと疑うことなく、夫はそういう二重人格的な人間なのだと信じ込んだまま自殺するというのは、無理がありすぎる。
だから私は、その点をして、「観客」に対するアンフェアなペテンなのではないかと、そう評価するのだ。
たしかにサラは、夫の様子に疑問は感じたけれど、なにしろ「外見が完璧に同じ」だったから疑わなかった一一というのでは、それは「現実にはあり得ないことを、あり得るかのように描かれたから」に過ぎないし、観客の方も、「SFでもあるまいし」まさか「完全に瓜二つの人物」が出てくるなんてと、その可能性を考慮外へと押しやってしまうからこそ、成立したものにすぎない。
しかし、本作においては、現に「完全に瓜二つの双子」がいたからこそ成り立った物語である以上、本作は、観客に対してアンフェアだとしか評価し得ないと、そう考えるのだ。
しかしながら本作が、こうした「トリック映画」としてアンフェアな作品になってしまったという最大の理由は、ほぼ間違いなく、本作がクリストファー・ノーランのオリジナル脚本ではなく、イギリスのSF作家である、クリストファー・プリーストの小説を原作としたためなのであろう。

というのも、本作で最大の問題点は、ボーデンだけではなく、アンジャーにも「完璧に瓜二つの人物」が登場してしまう点なのだ。
しかもそれは、最初の「赤の他人である、そっくりさん役者」だけではないのである。
だが、これでは「ご都合主義に過ぎる」ということにしかならなかろう。
で、そのアンジャーのそっくりさん役者がボーデンの口車に乗ったせいで、アンジャーは手品の最中に溺死することになり、ボーデンは死刑囚として刑務所に入れられるのだが、ボーデンの逮捕後に、彼の一人娘の後見人になった人物(手品マニアの篤志家貴族)が、実は死んだはずのアンジャーだったという、どんでん返しがなされる。
しかしながら、アンジャーの死は、警察も捜査して確認した事実であり、その遺体確認は、長らくアンジャーと組んで仕事をしていたハリー(マイケル・ケイン)がしたのだから、それが前述のそっくりさん役者とはまた別の、アンジャーと「完全に瓜二つの人物(死体)」だというのは、あまりにもご都合主義に過ぎて、無理があり過ぎよう。

近親者でも見分けのつかないような「完全に瓜二つの人物」が、2人も3人も出てくるようでは、「何でもあり」のまったくリアリティの無い作品、言い訳の余地なくアンフェアな作品だということに、なってしまうのである。
一一ところが、本作には、実は暗示に止めたものながら、重要ないくつかの伏線描写がある。
アンジャーは、ボーデンの「究極のトリックのタネ」を、まさか陳腐な「双子トリック」だなどとは思わず、何かすごいトリックを案出してそれを隠しているのだろうと考え、ずっとそれを探ろうとしていた反面、自分も前例のないすごいトリックを手に入れたいと思い、発明家のニコラ・テスラに接近して、科学的な手品のタネの開発を依頼していた。

ちなみに、ニコラ・テスラは、実在の人物であり、かの発明王エジソンと、電気技術の開発を競い合った有名人である。

当時、ニコラ・テスラは交流電気を、エジソンは直流電気を開発して、その後の歴史から見れば、交流電気が主流となり実用化されるのだが、その立ち回りのうまさによって、エジソンが名を残し、ニコラ・テスラはその陰に隠れて冷飯を食わされた人であった。

で、本作では、そんなニコラ・テスラが、アンジャーのために「瞬間転送機」の開発に着手することになる。
「そっくりさん」を使うことで瞬間移動に見せかけるという従来のトリックではなく、科学の力で本当に瞬間移動(テレポート)が実現できるのなら、これに勝る合理的なマジックはないからである。
ところが、当然のことながら、いくら実験を重ねてもうまくいかない。
いきなり人体実験をするわけにはいかないので、まずはアンジャーの舞台用のシルクハットを転送しようとするのだが、これが何度やってもうまくいかない。
で、今度こそと、失敗を重ねたシルクハットではなく、生きた猫を使って、アンジャーの目の前で実験をするのだが、やはり猫は瞬間移動しない。
で、アンジャーはついに業を煮やし、自分はニコラ・テスラに騙されて、金を搾り取られているだけではないかと疑って、博士の研究所から立ち去ろうと表に出たところ、先ほど実験室にいたはずの猫が表にいるのを見つけ、転送が成功していたことが判明するのだ。
だが、ここがこの映画のトリックで、実は、この猫は「瞬間移動」に成功したのではなく、実は「別の場所に複製」されていたのである。
この映画の冒頭シーンには、森の中にたくさんのシルクハットが転がっているというシーンがあるのだが、実はこれは、テスラが何度も転送実験をやったために生じたものだったことが、後になって観客にもわかる。
だが、テスラと助手は、電気光線を浴びせたシルクハットが、いっこうにその場から消えないので、てっきり転送に失敗していると思い込んでいただけで、じつはその度に研究所の外の森の中にシルクハットが複製され、出現していたのである。一一無論これは、当たり前の意味での「転送」ではないのだが。
ともあれ、こうしてアンジャーが最後に手に入れた「瞬間移動マジック」のタネとは、じつは「瞬間複製機」だったのである。

だからその後、この手品を毎夜のように繰り返していたアンジャーは、記憶をも共有する自身の複製をその度ごとに生み出しては、それを殺していたのである。

したがって、ボーデンの介入により溺死したアンジャーもまた、実はアンジャーの複製だったのだ。
だからこそ、長年一緒に仕事をしてきたハリーでさえも、死体の見分けがつかなかったのである。
そんなわけで、アンジャーがボーデンによる手品への介入によって死に、ボーデンの死刑が決まった後、ボーデンの収容されている刑務所へ、その娘を連れてやってきたアンジャーは、そのことで最終的な勝利を収めたように見えた。
だが、この段階では、アンジャーはボーデンの「最後のマジックのタネ」を解き明かしていなかったので、ボーデンに双子兄弟がいたことを知らなかった。
そのため、ラストでは、勝利を確信していたアンジャーのもとへ、ボーデンがやってきて「じつは、僕らは2人だったんだ」と、すでに説明したような「双子トリック」の種明かしをしてアンジャーを驚かせ、別人の貴族として第二の人生を歩んでいたアンジャーを射殺し、娘を取り戻して、その屋敷に火を放って去っていくというところで、この物語は終わる。
しかしながら、ボーデンが娘を連れて去った後の火の中に、その様子を見ていた別の男性の横顔が浮かび上がる。
それは、若干ピントが合っていないために、誰かなのかはハッキリしないのだが、しかし、話の流れからすれば、この人物は当然、アンジャーしかあるまい。
ボーデンは、まさかアンジャーが「複製人間」を作っていたとは知らなかったので、最後に勝ったのは自分だと思っていたのだが、じつは‥‥‥というのが、本作の、最後のどんでん返しなのだ。
つまり、本作は実のところ、その本質は「SF」なのである。
私はすでに「SFでもあるまいし、完璧なそっくりさんが登場するなんて、アンフェアだろう」という趣旨の指摘しておいたのだが、じつは本作は、その「SF」だったのだ。
だからこそ、四転五転六転なんてことも可能だったのである。
しかし問題なのは、だからと言って、つまり「じつはSFだった」からと言って、それだけでアンフェアにはならないのかというと、私にはそうは思えないのだ。
たしかに「猫の転送」シーンで、それが単なる転送ではなく、じつは「複製転送」だということが、際どいかたちで暗示されてはいる。
つまり、本作が「SF作品」であるとの「暗示的な伏線」は張られてはいるのだが、しかし、それだけで本作が「観客に対し、フェアな作品」だったとまで言えるかというと、私としては、それはちょっと苦しい(あやしい)ところだなと思うのである。
というのも、物語の「前半」は、明らかに「合理的なマジック映画」の作りとなっており、その点での騙し合い、罠の仕掛け合いになっているからであり、SF的な展開になるのは、あくまでもニコラ・テスラが登場する中盤以降なのだ。

つまり、ノーランとしては、たぶん「原作に沿って」物語を描いた結果、途中からでもSF要素を入れざるを得ず、それを入れるからには、途中からでも、本作が「じつはSF」でしたという伏線を張っておかねばならないと、いちおうの伏線は張ったのであろう。
だが、観客からすれば、当初は「現実の物理法則に沿った、合理的な手品映画」だと見せられていたのに、途中でいきなり転調(路線変更)し、「転送複製」もあり、みたいな方向に進むというのは、「ちょっとズルい」ということになるのではあるまいか?
いくら途中で伏線を張っていたって、観客は「そもそも、そういう世界ではない」のだと、言うなれば「前提としての世界観」を、あらかじめ与えられていたのだから、伏線だって、その範囲内でしか解釈しないのが当然で、そのために、いきなり「転送複製もありかも」などとは考えない。
そして、その結果として、本作が、現実的には無理筋の、わかりにくい四転五転六転を実現し得たのだとしたら、やはりそのラストは、限りなくアンフェアに近いとしか、私には思えない。
本作における「転送複製」は所詮、ご都合主義的な「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」でしかないとしか思えないのである。
だから、本作をノーランお得意の「パズルトリック映画」だと考えれば、その出来としてはイマイチだし、クリストファー・プリーストの原作を映画化した「SF映画」としても、その「SF性」をあまりうまく表現できてはいなかったように思うのである。
私は、本作の原作小説であるプリーストの『奇術師』を、かつて何度か購入してるし、そのほかの作品も何冊か買っていながら、結局は1冊も読めないまま、今回この映画を見たので、プリーストの原作小説『奇術師』を、本作がどれくらいうまく映画化できているのか、その正確なところはわからない。
だから、本作の弱点が、すべてノーランに起するものだと断ずることはできないのだが、しかしいずれにしろ、本作が「手品師映画」としては、いささか中途半端な作品であったと、そうは言えるのではないだろうか。

(2026年9月9日)
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