▷ 映画評:スティーヴン・ソダーバーグ監督『エリン・ブロコビッチ』(2000年/アメリカ映画)
本作は、女性主人公の活躍を描く各品だが、いわゆる「フェミニズム」映画ではない。
あくまでも、個性的な「個人」の活躍を描いているのであって、そこでは性別は無関係だ。
彼女がたまたま女性だったから、弱者のため女性らしくに活躍しただけで、女性のために活躍したわけではない。
彼女は美人だったから、それを武器にもしたけれど、それは男だってしていることだし、武器となるのは、何も美貌だけではない。体力だって行動力だって気力だって、大いに個人差のある武器なのだが、本作の主人公エリン・ブロコビッチには、何よりもその行動力があった。
これだと決めたら、周囲の雑音に惑わされることなく、一心にその目標に向かって突き進む、その無私の一途さが彼女にはあった。
それがあったからこそ、教養も財産もない、三人の子持ちの彼女が、周囲を巻き込みつつ、最後には奇跡的な成果をつかみ取ることが出来たのである。
言うまでもなく、彼女の行動力に、性別は関係ない。
彼女の一途さを「女性的」だと考えることこそが偏見であり、女性差別なのだ。
彼女は女性であったから頑張れたのではない。
彼女は彼女として、彼女らしく頑張っただけなのだ。
だからこそ彼女は、ヒーローとなったのである。
本作は、実在の大企業PG&E社による環境汚染問題に立ち向かった、実在の人物エリン・ブロコビッチの姿を描いた作品だ。
ドキュメンタリー映画ではなく、エンターテイメントとして見られる劇映画として撮られているが、事実関係については、可能なかぎり忠実に再現していると言う。
私が見た感じでも、事実ベースのハリウッド流のエンタメ映画である。

本作の「概要」と「ストーリー(物語の発端)」は、次のとおり。
『『エリン・ブロコビッチ』(原題: Erin Brockovich)は、2000年製作のアメリカ映画。アメリカ西海岸を拠点とする大手企業PG&Eから、環境汚染に対する史上最高額の和解金を勝ち取ったエリン・ブロコビッチの半生を描く。』
(Wikipedia「エリン・ブロコビッチ(映画)」)
『3人の子供を抱えるシングル・マザーのエリンは子供を抱えていては職探しもままならず、信号無視の車に衝突される交通事故に遭う。こちらに過失のない事故だから絶対に勝てると弁護士のエドワードはエリンの弁護を請け負うが、陪審員の目には加害者が医師であるのに対し、(※ 無職でシングルマザーの)エリンは社会的な信用が低く、証言時の言葉遣いの悪さも災いして、金目当ての当たり屋と相手側(※ 弁護士)に匂わされた結果、敗訴してしまった。事故で負傷したにもかかわらず賠償金を得ることも出来ず、生活に窮したエリンはエドワードに、勝てる裁判で負けたのだから代わりに仕事を斡旋するように要求、半ば強引に彼の事務所で働くようになる。』(前同)
ちなみに、実在のエリン・ブロコビッチは、次のような人である。
『エリン・ブロコビッチ(Erin Brockovich, 1960年6月22日 – )は、アメリカ合衆国の環境運動家。正式な法律教育を受けていないにもかかわらず、1993年にカリフォルニア州の大手企業PG&Eを相手取って訴訟を起こし、3億3300万ドルの和解金を勝ち取った女性。』
(Wikipedia「エリン・ブロコビッチ」)
『 プロフィール
エリン・ブロコビッチは「エレン・パティー」としてカンザス州ローレンスで生まれる。父親は元アメリカンフットボール選手のフランク・パティー。カンザス州立大学卒業後に働き始めるがすぐに辞め、お金のために美人コンテストに参加するようになる。1981年にミス・パシフィック・コーストになるが、1982年にはカリフォルニアへ移った。
3度結婚・離婚しており、「ブロコビッチ」は二番目の夫の姓である。』(前同)
『 訴訟
アメリカ合衆国にて、工場の敷地内に高濃度の六価クロム溶液を10年以上の長期に渡って大量に垂れ流していた企業があり、地域の地下水を汚染し続けた。周辺住民に癌などの健康被害が多発したことから事件として発覚し、会社は多額の賠償金を支払って和解している。これは巨額の公害賠償金支払いの最初のケースになった。大きな関心を集めた同事件は、後にジュリア・ロバーツ主演の『エリン・ブロコビッチ』として映画化されている。』(前同)
つまり、エリン・ブロコビッチは、恋多き女であり、大学を卒業してからすぐに子供ができてしまい、さらに離婚と再婚をするなどしたために、正式な法律教育などをまったく受けてはいなかったが、映画でも描かれていたとおり、ベテラン弁護士のエドワード・L・マスリーが「楽勝だ」と言っていたはずの裁判に負け、賠償金を取れなかったために、彼の弁護士事務所へ押しかけ就職したのである。


エリンは、離婚した二人の夫からの養育費により、ベビーシッターを雇い、自分も働きに出ようとしていたが、条件に見合う就職口を見つけるのは困難をきわめていた。
そんなところへ交通事故に遭い、貯金の残高は16ドルと、いよいよ追い詰められていたのである。
本作のDVDに収められた「メイキング」で、実物のエリンがインタビューに答えて、「当時の生活は本当に大変で、私は必死だった。子供のための薬を万引きしたこともありました」と、そう証言していた。
そんなシーンは、映画本編には無かったので、エンタメ映画として、正義のヒロインにはそぐわないとして、このエピソードは描かなかったのかと思ったが、「メイキング」の後に収録されていた「未公開映像」に、そのシーンが収録されていた。
本作は、最初の編集では3時間を超えるものになってしまい、それを2時間強にまで切った作品で、その切られた1時間の中に、この万引きシーンも含まれていたのである。
ともあれ、彼女は、さしたる教養もなく、どこにも頼る術もなく、3人の子供を抱えて必死だった。
だから、自分の言葉の悪さが裁判での敗因のひとつであったにもかかわらず、言うなれば、弁護士のエドワードに難癖をつけるかたちで、無理やり雇わせたようなものだったのだ。
言い換えれば、彼女はそれがやれるくらいに押しも強ければ、バイタリティもあり、自身に自信のある人だったのだ。

そして、そうした自信は、彼女が美人だという自覚から来るものでもあっただろう。
彼女は、臆することなく自身を売り込むことの出来る人であった。だが、それだけで就職口が見つかるほど、世間も甘くはなかったのだ。
三人の子供を育てながら、地元で働ける働き口を探すべく、面接を受けたり、募集のある会社に電話したりしているシーンで、彼女は、しっかりと自分を(ちょっと過大なほどに)アピールしており、それは、就職活動においてはそうするものだから、ではなく、事実彼女には、そうした自信があったからそうアピールしているだけに見えた。
エリンを演じたジュリア・ロバーツが、そのように演じていたのであり、このエリン解釈は、まったく正しいものだったと私も思う。
ちなみに、ジュリア・ロバーツは、この役でアカデミー賞主演女優賞を受賞している。
そんなわけで、エリンはエドワード法律事務所で働くことになる。
だが、ここでも彼女の自信家としてのマイペースぶりは変わらず、当初は他の女性職員との衝突を引き起こす。


というのも、日本でもそうだろうが、信用が大切な法律事務所においては、職員の服装も「品の良い(お堅い)」ものであることが、常識的に求められていたからだ。
ところが、エリンはそんな業界の常識など気にすることはなく、自分に似合う服を自分の好きなように着て出勤したから、職場では浮いた存在となり、特に女性職員からの顰蹙を買ったのである。

だが、それで退き下がるようなエリンではない。
彼女に対して、そうした注文をつけようとした先輩女性に対して、遠慮なく「私は自分に似合う服を、着たいように着るわ」と突っぱねて、「こんな服装が似合わないあなたが着ないのは、あなたの勝手だけど」と、ほとんどそう言っているような調子であった。
彼女は周囲とぶつかることを、まったく恐れなかったのだ。
だが、だからといって、クビになるわけにはいかないから、必死に仕事を覚え、資料を読み漁って、実地の独学をした。
与えられた仕事に安住するのではなく、有能な職員になるための努力を怠らなかったのであり、そうした努力の中で、彼女は、彼女の運命を変える、ひとつの「立ち退き賠償訴訟の書類」をみつけるのである。

それは、プロのエドワードにとっては、ルーチンのひとつでしかない案件だったが、資料を片っ端から読み込んでいたエリンは、立ち退き訴訟の資料に、健康診断の資料が添付されていたことに、素人らしく素直な違和感を覚えた。
そして、その理由を自分の手で調べてみたいと思い、エドワードにその旨を申し出、彼女を持て余していたエドワードも、深く考えることなく勝手にやらせたのである。
当然これが、のちに史上最高の和解金350億円を勝ち取ことになる「ヒンクリー地下水汚染」訴訟として知られる、歴史的な大訴訟の発端となったのだ。
とにかく、彼女はよく動いた。
現場に赴いて、関係者と面談して、徹底的に話を聞いた。
それも、事務的形式的にではなく、何度も足を運んで、相手の言葉に真摯に耳を傾けたからこそ、相手も普通であれば話さないようなことを、彼女の飾らない人柄を信じて話してくれるようになった。


だからこそ、それまでは企業側の隠蔽工作もあって、当事者たちすら気づいてはいなかった問題が徐々に明るみに出てきた。
件の立ち退き訴訟書類に添付されていた、健康診断の書類は、企業側が近隣住民への無料サービスということで、カネで抱き込んだ医師に診断書を書かせた、健康被害隠蔽工作の一環だったのだ。
エリンは、土壌汚染に関する資料が保管されている可能性のある保健所を訪ねて、そこに保管されていた膨大な資料を、片っ端から漁った。
問題のPG&E社の資料を「出してくれ」と言うと、資料を隠される恐れがあるという助言を受けていたから、そこをぼかして、自ら資料倉庫へ入れてもらい、延々と資料を漁ったのだ。



そして、ついにそこで見つけた土壌汚染関連の資料については、その意味を理解するために、大学へと足を運び、専門家に助言を求めた。
さらには、PG&E社の垂れ流した発がん性物質である六価クロムによる汚染の疑われたヒンクリー地区の、川や井戸の水の採取まで、弁護士事務所の調査員として、自分の手で体を張ってやったのだ。

そんな彼女を突き動かしたものは、とにかく隠された真相を暴いて、その犠牲になっている人々を救わなければならないという、じつにシンプルかつ素人くさい思いであった。
映画の中でも、エリンは原告である、一人の女性に対し、その思いを率直に語る。
「最後は、裁判に勝つとか負けるとかじゃない。いくら賠償金を取れるかなんてことじゃない。こんなことが許されていいわけがないんだから、私は真相を明らかにして、世に訴えたいんです」と。
裁判の常識で言えば、とんでもない話だが、しかし、彼女のこうした人間くさい信念(美意識)こそが、原告である公害被害者たちからの信頼を集め、大企業相手の極めて困難な巨大訴訟をまとめ上げていく。
個人の損得には還元できないものを、彼女が真摯に、本気で訴えたから、当初は諦めていた人も、とにかく徹底的に裁判で闘って真相を明らかにしたいという人も、訴訟であるかぎり、勝たなければ意味がない、より多くの賠償金を取らなければ意味がないと思っていた人をも含めて、いろんな考えも持ち主のいる634人もの原告を擁する、巨大原告団をまとめることができたのだ。
それは、彼女の服装へのこだわりと、同じことだったのであろう。
彼女は、それまでの「常識」を鵜呑みにせず、自らの「美意識」を信じ、損得ぬきでそれに賭けて生き、その真剣さが周囲を変えていったのだ。
また、彼女自身、初めて人から頼られ尊敬される生き方に、生きがいを感じ始めていたのである。
「メイキング」の中で、エリンを雇っていた弁護士のエドワード(本物)が、彼女のことをこう語っていた。
「今となってはとんでもない話なのですが、私たちの業界も、昔とは違い、時代と共に少しずつ変わりました。彼女は、事務所にとんでもないミニスカートを履いて出勤してきたのですが、当時、事務所には〝膝上何センチ以上のスカートを履いてはいけない〟という決まりがあったんですよ。で、古参の女性職員が、物差しを持ってエリンのところへ行き、スカートを測って、何センチだからダメだ、なんてやったんです」
だが、エリンはこうした慣習には屈しなかった。自分に似合う服装をして何が悪い。ミニスカートやピンヒールのどこが悪い。仕事をちゃんとするのならそれで良いではないかと、そうした信念を貫いたのである。
そして、この揺るぎない姿勢こそが、人々を動かすことにもなったのだ。

原告団が巨大化していく中で、やがてエドワードの事務所だけでは、訴訟を支えきれないとなり、エドワードは別の弁護士と手を組むことにする。
裁判を勝つまでの何年間もの費用を賄うのは、エドワードの事務所だけでは無理だったからだ。
裁判で勝って、初めてその賠償金の40パーセントを受け取るという契約なのだが、言い換えれば、勝訴するまでは、基本ずっと持ち出しなのである。

この訴訟でエドワードが手を組むことにした弁護士は、かつてエドワードが裁判でぼろ負けを喫した、極めて優秀な弁護士であり、公害訴訟でも実績のある人だった。
だが、その弁護士は、その経験から次のように主張した。
「このまま巨大原告団を抱えて、最後まで闘うというのは無理がありすぎる。
今のところ、ヒンクリーのPG&E社の現場工場による土壌汚染の証拠は見つかってはいても、本社の関与が立証されていない以上、裁判に勝っても、取れる賠償金は高が知れているだろう。
つまり、裁判に勝ったところで、原告団の規模に見合う賠償金が受け取れる可能性は、極めて低い。それならば、大企業を相手の10年以上もかかるような裁判を最後まで闘うのではなく、そろそろ和解に応じて、取れるだけのもの取った方が、いま現に苦しんでいる原告を救うことにもなる」と。
しかし、被害者たちの苦しみの声を直接聞き、それに対し、一緒に最後まで闘おうと言ってきたエリンとしては、どうにも納得がいかないし、事実、和解の方向へ動き出した訴訟に対する、一部原告からの失望の声もあがりだした。
一方、エリンがエドワードの法律事務所への就職後に彼女と同棲することになり、主夫の役目を引き受けていたジョージが、エリンの働きすぎを心配して、「僕が働くから、君はもう仕事を辞めろ」とまで言いだして、二人の関係がギクシャクし始めていた矢先、エリンは病に倒れて入院してしまう。



それで、エリン自身も、このまま長い裁判を闘うことは、自分としても、事務所としても、原告たちにしても無理があると悟り、そのため、結局は訴訟は、不本意な和解の方向へと進むことになる。
じつは、このエリンが病に倒れるシーンも、その前の、エリンが原告の女性を見舞いに行き、しかしその人の命はそう長く持ちそうもないという重い現実の描かれるシーンも、共に本編からは削られてしまって、「未公開シーン」でしか見ることができない。
このあと、訴訟方針が和解へと舵を切ることについて、原告団を説得してまとめるための説明集会のシーンが描かれ、エドワードが原告団の前で演説をして理解を求め、なんとかその場を乗り切る、というシーンがある。

このシーンでは、エリンは、会場の後方で、エドワードの説得を心配そうに見守ることになるのだが、このシーンを本編で見た際、私は、エリンに不満そうな様子のないことに違和感をおぼえた。
エリンは、和解には反対だったはずなのだから、それなら原告団への説得だって不満だったはずだからである。
だが、これは前記のとおりで、エリンが和解方針を受けれるための重要なシーンが切られてしまっていたための齟齬なのである。
1時間分も切らなければならなかった無理が、本作のそこここに見受けられるのだ。
普通、DVDに収録された「未公開シーン」というのは、それを見ても「ああ、こういうシーンもあったのか」くらいの印象しか受けないことが多いのだが、本作の場合は、それを見て初めて、引っかかっていた部分が腑に落ちるというのが何箇所もあり、映画の完成度という観点からも、そうしたカットは、あまりにも惜しいと感じられた。
だがその一方、派手な戦闘シーンがあるような「娯楽大作」ならば、3時間超えもあり得ようが、実際の土壌汚染訴訟を描いた、言うなれば「社会派」の作品で、3時間超えの大作というのは考えにくい。単純に観客がついてきてくれない恐れがあるからだし、興行的にも無理があろう。
だから、2時間にまとめたというのも、無理からぬ話ではあったのだが、作品のためには、あまりにも惜しい判断だったのだ。
私は、スティーヴン・ソダーバーグ監督というと、昔『オーシャンズ11』(2001年)をテレビで見て、娯楽作品としてとても楽しめ、その名を記憶したほどだった。
この監督はじつに、スピーディーでスタイリッシュな娯楽作品を撮れる監督なのだ。
だが、スタニスワフ・レムの小説『ソラリスの陽のもとに』を原作にした『ソラリス』(2002年)には、正直なところ失望させられた。
この作品は、アンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(1972年)以来2度目の映画化作品であり、タルコフスキーのそれは、すでに「名作」として誉高い作品だったのだが、その当時は、(ソ連映画である)そちらを見る機会がなかったので、私はソダーバーグによるリメイク版を劇場公開時に見ることにしたのだ。
しかし、ソダーバーグ版『ソラリス』は、何やら小綺麗にまとまり過ぎていて、後には何も残らない、つまらない作品だった。
単なるSFメロドラマでしかなく、ハリウッド映画として手堅くはあるけれど、それだけものという印象しか残らなかったのだ。
後年、タルコフスキーの『惑星ソラリス』を見たけれど、当然、特撮技術は古くて見劣りはしても、人間存在のもっと根源的なところを描いている点で、ソダーバーグの『ソラリス』とは、比較にならない傑作だというのが確認できた。
で、私がここで言いたいのは、映画『エリン・ブロコビッチ』の長所も短所も、いずれにしろソダーバーグ監督の個性に出たものなのだ、ということことである。
つまり、本作『エリン・ブロコビッチ』は、「痛快なヒーローもの」としては、よく出来た作品なのだが、しかし、映画本編だけを見るかぎりにおいては、いささか「型どおり」であり、「出来すぎ」感も否めない。いかにもわかりやすい「勧善懲悪」物語なのだ。
また、エリンのキャラクターも、ありがちと言えばありがちだし、訴訟の展開も、うまくいきすぎの感が否めないものだったのである。
ちなみに、訴訟が和解金交渉の方へと、やむなく舵を切ったあとに、エリンの地道な地元まわりが功を奏して、PG&E社の元末端社員からの情報提供があり、本社の指示で、土壌汚染関係の資料を隠滅していたという事実が明らかになる。
「俺はあまり、いい社員ではなかったからね」と言う彼は、その資料の一部を持ち帰っていたのである。
だが、本作のこうした、いささか「エンタメらしく調子が良すぎる」という弱点については、すでに書いたとおりで、本当は、そうした点を手当てするようなシーンが撮られてはいたのだ。
例えば、エリンは遠慮のない言いたい放題で、いささか言葉が悪いというだけではなく、万引きもしたし、その一方では、子供を甘やかしすぎるのをジョージにたしなめられるも聞く耳を持たないとかいった、人間的な欠点を描いたシーンもあったのだ。
だが、それらのディティールの大半が切られてしまったために、劇中のエリンは、少々、陰影を欠く「痛快なヒーロー」になってしまったのである。


そうしたシーンは他にもある。
例えば、パートナーとなる弁護士事務所が決まり、エドワードがエリンを連れて、そちらの事務所を訪れた際のシーンでもそうだ。
そちらの事務所にエリンの調査した資料がいつの間にか運び込まれており、その事務所の有能な女性弁護士助手が、エリンの資料について、「まだ調べきれていない部分がある」と指摘する。
要は、おたくの事務所だけだは処理し切らないということを言おうとしたのだろうが、当然エリンは気に入らない。
で、「どこが不十分なんですか?」と尋ねると、その弁護士助手が「電話番号とかが抜けているものがあります」と曖昧に答える。
するとエリンは「誰の電話番号が抜けているのか言ってください。お答えしますから」と言うので、弁護士助手はあわてて書類をあさり、誰それの電話番号はと尋ねると、エリンは、その人物の健康状態の詳細から家族構成などのプロフィールを、資料も見ずに立板に水で語ったあと、最後に電話番号を語って、相手方の弁護士助手ばかりか、弁護士までも圧倒してしまう、というシーンがある。
一一このシーンだけを見ると、エリンってすごい記憶力の持ち主だということになるし、偉そうにしていた専門家をやり込めるのだから、たしかに痛快なシーンではあるのだけれど、しかし、いささか「嘘っぽい」という感じも否めない。
「これは、さすがに作り話でしょ」という印象を受けてしまう。
しかしながら、エリンには学歴がなく性格的にも多少問題はあるとは言え、しかし、もともと地頭の良い人でなければ、プロの弁護士を圧倒するような仕事など出来るはずもないのだから、やっぱり本質的には頭の良い人なのだろうし、このシーンは、そのあたりをいささか誇張して表現したのだろうと、私はそのように納得したのだった。
ところが、このシーンもまた、カットされたシーンでの伏線があってのものだったのだ。
仕事を終え、家に帰ってきたエリンが、連日遅くまで資料の読み込みをしていることに対して、ジョージが「そこまでしなくてはならないのか」と注文をつけるシーンがあるのだが、それに対してエリンは、
「私には読書障害があって、人前で資料を読み上げるということが出来ないの。だから、必要なことは、こうしてあらかじめ暗記しておかないといけないのよ」
と、そう説明するシーンがあるのだ。
つまり、彼女は、超人的な記憶力を持っていたのではなく.やむにやまれず、努力によって、必要な資料を頭の中に叩き込んでいたというのが、このシーンでわかるようになっていた。
だから、このシーンが、あるのと無いのとでは、エリンに対するイメージも大きく違ってしまうのである。

では、ソダーバーグ監督はなぜ、エリンのこうした「人間くさい」描写の部分を切ってしまったのか?
それは無論、第一にはとにかく1時間分切らなければならなかったからなのだが、しかし、それと同時に、私の見たところでは、ソダーバーグ監督は、エリンの「人間くささ」よりも、エンタメ映画としての、スピーディーさを優先したからだろうと、そのように感じられた。
つまりそれは、『オーシャンズ11』の美質であり、『ソラリス』の弱点でもあった点だったのだ。
ソダーバーグ監督は、良くも悪くも、ハリウッド的なエンタメ映画の作法に、忠実な監督だったということなのである。
そんなわけで、私が本作について、どうしても言っておきたいのは、本作は「弱者のために闘うヒーローを描いた、痛快娯楽作品」であり、それだけでも十分に面白いけれど、DVDに付録された「未公開シーン」を見れば、もっと厚みのある作品として、本作を鑑賞できるはずだ、ということである。
作品評価としては、本編に残されたものがすべてなのだが、しかし「未公開シーン」を見てしまうと、本作をそれ抜きで評価してしまうのは、やはり不当なことのように思えてしまう。
商業映画としては、あれで良かったのかもしれないが、しかし、エリン・ブロコビッチという実在の人物を描いた「人間映画」としては、やはり「未公開シーン」まで含めて、見て評価してほしいという気持ちが禁じ得ない。
ヒーローは、初めからヒーローなのではなく、その陰にはそれなりの、人間的な苦闘や努力が隠されているのだということを、本作の「非公開シーン」は、象徴的に物語っていると、私にはそう思えてならないのである。

(2000年8月29日)
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