三宅香帆 『推したちとどう生きるか』: なぜ、増補改訂したのか?

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▷ 書評:三宅香帆推したちとどう生きるか』(新潮新書)


本書のポイントは2点である。
そこを押さえれば、だらだらした内容の本書の本質が見えてくると、ここで保証しよう。

そのポイントとは、次のとおり。

(A)「推し」文化には、歴史がある。
(B)「推し」が、幸福な文化であるためには、自分の言葉で語るということを学ばなければならない。


まずは(A)についてだが、本書が「だらだらした内容」だと言うのは、本書が『推したちとどう生きるか』というタイトルの本であるにもかかわらず、その主題に達するまでの、水増し的な「前説」が、やたら長いためなのだ。
しかも、それ(水増し分)は「どこかで聞いたような話」ばかり。

これは、三宅香帆の出世作である『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024年)もまたそうだったように、タイトルの問題を論じるための前説として「日本社会は、こういうものでして〜」という「現代日本社会史」的な説明が長々と続いたあと、そのわりには「働いていると、そのぶん読書の時間が無くなるから、読みにくくなるだけで、働いている人も、読んでいる人は読んでいる」といった程度の「当たり前の結論」に着地してしまい、その長い前説が、ほとんど無意味なものなのだ。
もちろんそれが、「雑学」的には役立つものだとしてもだ。

したがって、三宅香帆は「文芸評論家」を名乗っているのだが、やっていることは、文化社会史的なものであり、しかもそれは、その種の本をたくさん読んで、自分の語りたいテーマに関連するところを寄せ集め、それを、テーマの「細い糸」でつなぎ合わせただけ、といった体のものでしかないのだ。

だから、一応のところ、三宅の提示する「ご都合主義的に編集された物語」については、ひとつの考え方としてなら、「それもありだな」程度には読めるものの、そこには何の鋭さもない。
目から鱗が落ちるのではなく、新たな鱗を目に重ね貼りされる程度のものなのだ。

本を読む習慣のあまりない人や、若い読者の場合は、三宅香帆があちこちからひっぱってくる社会学的な知見ばかりか、日本の現代史すら知らないため、その目新しさに圧倒されはするだろう。

だが、ある程度は本を読んできた、年寄りの私などからすると「若いのによく読んでいるね」とは感心するが、「言ってることは凡庸だな」ということにしかならない。
しかも「他人の褌で相撲をとっている」ような内容だから、あまり感心することも出来ないのだ。

で、こうしたことを、Amazonカスタマーレビュアー「otama」氏は、「納得はする。だが、腑には落ちない」と題するレビューで、次のように書いている。

『本書を通して感じたのは、権威ある著作や現代のカルチャー、あるいは社会現象を表層的な燃料として消費し、プレゼンテーションさながらに論を展開していく手つきだ。おそらく1スライド、1メッセージの要領で文章を構築しているのだろう。』


もったいぶった書き方だが、要は、あちこちから引っぱってきて、そのそれぞれに自分のひと言コメントを付け加えることで、全体をつなぎ合わせたものにすぎない、ということである。

三宅香帆が勿体ぶって言う、「「推し」文化には、歴史がある。」というのは、言うも愚かな、当たり前の話にすぎない。

「推し」文化というものも、何の前史もなく、突然降って湧いたような怪奇現象などではない。
それは、「ファン」文化というものに「新自由主義経済」が結びついた結果、それまでの「ファン」という形態とはすこし違った、独特の「経済効果」を生むものとして、注目されることになったものなのだ。
いわゆる「投げ銭」に代表される、いかにも今風に「投資」的な性格である。

それまでの「ファン」も、「憧れの対象」の関連グッズに、馬鹿みたいにカネを遣いはしたのだが、「推し活をする人」の場合は、関連商品を「消費」するだけではなく、「推し」が大物になる(成長する)ようにと「投資」し、その「夢の実現に貢献すること」の方が、メインになっている。

だから、自己満足的に「グッズ」を買うだけではなく、自分のためなら1つ買えば済むものを、100も200も買ったりするのだ。
その「数字(売り上げ金額など)」が、推しの人気の表れと理解され、それによって推しの社会的地位も上がるからである。

したがって、「ファン」とは、基本的には「消費者」にすぎないのだが、「推し」は「消費者兼投資家」的なものなのだ。

一一話を戻そう。
何はともあれ、「推し」文化にも「歴史」がある、というのは、当たり前の話にすぎない。

なのに、話を戦前の「童謡少女歌手」にまで遡らせ、そこへ先行研究のある「日本のカワイイ文化」を結びつけて、そこからさらに、その発展形としての「宝塚歌劇」へつなぎ、さらには同じ「阪急電鉄小林一三」文化つながりの「高校野球」へとつなげていく手際は、「お話」としては、なかなかお見事ではあるものの、「文化理解」としては、いかにも浅薄だ。
年表の表面を滑らせる指のように、その物語は浅いのである。

私はよく、笠井潔の「理屈なら何とでもつけられる」という言葉を引用するのだけれど、それにしても「三宅香帆の理屈」は、そんな「理屈(理論)」の名にも値せず、「お話」の域を出ないものなのだ。

要は、「推し」文化を語るのに、江戸時代以来の「日本のアイドル史」を辿るというのは、冗長にも程があるのである。

そんなわけで、(A)の「「推し」文化には、歴史がある」というのは、当たり前の話でしかなく、その当たり前の話を、物量作戦的な饒舌によって押し切ろうとするのが、三宅香帆のいつもの手なのだ。

要は、批評家としての「鋭さ」の無い人だから、一点を深く掘り下げるということができないので、話を横へ横へと広げてゆき、関係ありそうなものを片っ端から拾い集めてきて、それで「どうだ!」とやっているだけなのである。

だから、批評的にはいかにも薄っぺらい。
だが、その「努力賞」的な部分にだけは、感心させられはするのだ。

「鋭さが無いのなら、体力で勝負するしかないよね」と一一。

で、先のAmazonカスタマーレビュアーの「otama」氏は、レビューのタイトルを「納得はする。だが、腑には落ちない」としていたが、これは気を利かせたタイトルのつもりで、完全に的を外している。

なぜなら「腑に落ちたから納得するのであって、納得できないのに腑に落ちることはない」からだ。
つまり「otama」氏は、じつのところ、三宅香帆の説明に「納得」などしていないのだ。「腑に落ちない」ということの方が、氏の実感なのである。

ではなぜ「otama」氏は、こんな矛盾をはらんだ奇妙なタイトルを付けたのかというと、それは「矛盾をはらんでいる方が、何か深いことを言っているような、謎めいた雰囲気を演出できるから」である。

このことは、氏の「持って回ったレトリック」に明らかであろう。
氏は、決して馬鹿ではないのだが、賢く見せようという意識が強すぎて、わざわざわかりにくい文章を書いてしまい、その結果「納得はする。だが、腑には落ちない」などという、変な見栄の切り方をして、その必要もないのに、こんな非論理的なタイトルを、自身のレビューにつけてしまったのである。

したがって、氏自身もじつは了解していることなのだが、本書『推したちとどう生きるか』における「推しの現代文化史」は、単に「説得力がないだけ」なのだ。

「そういう考え方もできるけど、それって推しという現象の説明としては、あまりにも凡庸だよね」と、「otama」氏も思っているから、「話としてはわからないでもないが、あまり説得力があるとは思えない」という評価を、もったいぶって「納得はする。だが、腑には落ちない」と書いて見せただけなのだ。
つまり、「納得してなどいない」のである。

さて、次は(B)の「「推し」が、幸福な文化であるためには、自分の言葉で語るということを学ばなければならない。」という、本書における三宅香帆の「主張」である。
具体的に言えば、次のような主張だ。

(1)

『 ファンダムの功罪

 共同性は、第三章でも見たように、ファンコミュニティのなかで(※ 皆が)同じ(※ ような)主張を重ね、さらにその主張を(※ エコーチェンバー的に)過数化してしまう場でも現れる。ひとりではなく、他人と一緒に「記者が誤報を出した」「誰かが嘘をついている」と述べることによって、その(※ 根拠の薄い)主張は(※ 主観的な)確からしさを増す。とくにXのような拡散性のあるSNSでは、拡散したり「いいね」と評価されたりする数が多ければ多いほど、確からしさを担保しているかのような感覚になってしまうからだ。アルゴリズムは、同じ主張をしている人に、同じ趣旨の投稿を見せる(※ フィルターバブル)。
 では、虹が蜃気楼だった場合(※  推しが自分が信じていたような美しい存在ではなかったと知らされ、裏切られたと感じた場合)、いかにその痛みを癒すことができるのだろう?
(中略)
 (※ その場合、その感情を自分の言葉で語ることが大切だ。とは言え)たしかに、ひとりで自分の感情や他人の感情を語ることは、とても怖いし、疲れるし、時には痛い。他人に見せなくても、自分の日記で言葉にして向き合うだけでも、痛い。
 だがそれでも、それでしか、暴走する(※ 推し活していた人たちの)共同性一一集団化した(※ 危険な)母性、と言ってもいいかもしれない一一と距離を置くことはできないのではないだろうか?
 ひとりで自分の痛みについて語ること。
 そしてその語り口こそが、重要なのではないだろうか。』(P201〜203)


そして、三宅香帆は、加藤典洋の、次のような言葉を引用して、「自分の言葉で語ることの重要性」という当たり前な話を、権威づけてみせる。

(2)

『 語り口の問題

(※ 推しに裏切られて暴走したオタクの姿を描いた、ドキュメンタリー映画)『成功したオタク』を観ていて、思い出した書籍がある。批評家の加藤典洋の『敗戦後論』(講談社、1997年)である。

共同的ではない tone(語り口・語調・文体)だけが、共同性を殺す。
(加藤典洋「語り口の問題」『敗戦後論』) 』

(P203)


こうした、三宅香帆の主張を、先のAmazonカスタマーレビュアーの「otama」氏は、次のように書いている。

『著者が本当に伝えたいことは、実のところ「徹底的に個で考えろ」という一言に尽きる。それを説くために、個と対比させる形で推しなどの現象を引き合いに出し、読者を飽きさせない工夫を凝らしたプレゼンが全体の99%を占めているのだ。ただ惜しまれるのは、その99%が表層的なパフォーマンスの域を出ていない点である。というより、これまでの著書にも密かに抱いてきた違和感なのだが、それは芯を食った考察というよりも、巧みなこじつけに過ぎないのではないだろうか。』


『99%が表層的なパフォーマンスの域を出ていない』とか『こじつけに過ぎない』とかいうのは、すでに説明したとおり、まったくそのとおりだ。

三宅香帆のそれは、いつだって『芯を食った考察』などではなく、他人の知見の、ごく浅い寄せ集めのすぎないのである。

だが、「otama」氏のレビューの物足りなさは、「じつは三宅香帆の考察って、飾りだらけで中身は無いに等しかったんだ!」と「衝撃的な真相」を暴いたつもりで満足して、肝心の、

『著者が本当に伝えたいことは、実のところ「徹底的に個で考えろ」という一言に尽きる。』


という部分については、完全にスルーしてしまっている点である。

三宅香帆の著作として、初めて『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで以来、三宅香帆が「無駄な寄り道」で読者をケムに巻く書き手だというのは、私には明白なことだった。
つまり、三宅香帆の「考察」が極めて浅いというのは、いまさら言うほどのことでもないので、「otama」氏の大仰な物言いには、かなり鼻白んでしまう。


だが、それはいいとしても、『著者が本当に伝えたいことは、実のところ「徹底的に個で考えろ」という一言に尽きる。』で済ませてしまっているのは、本書のレビューとしては致命的だろう。一一なぜなのか?

それは「三宅香帆はなぜ、いまさら〝自分の言葉で語ろう〟なんてことを言い出したのか?」という問題を、完全に見過ごしているからである。

三宅香帆がこんなことを言い出したのは、引用文のとおりで、「推し活する人たち」が「推しに裏切られた。騙されていた」と感じた時に、一転して攻撃的になり、ネットリンチ的なことまでしてしまうという事実があるためだ。

三宅香帆は、そうなるのではなく、「完全には分かり合えない人間同士、夢を共有したという、美しい思い出を胸に生きていこうではないか」と、そんなふうに主張し、そうするためには「共同性」に身を委ねるのではなく、「自分の言葉」で語る(考える)ということが出来るようにならなければならないと、そう主張しているのである。

(3)

『 推しにも、ファンにも、知らないことや隠していることがあることは当然のことなのである。』(P166)

(4)

『 推しは常にファンの理想にはなれない。ファンの理想を裏切るものである。だがファンもまた、推しにとっての理想にはなりきれない。推しから離れることもあるだろう。
 常に秘密を持ち、裏切りあいながら、それでもいられるだけ一緒にいたいと願うことが、推しとファンの関係なのではないだろうか。
 もちろん、母と子が永遠に一緒にはいないように、推しとファンも永遠に一緒にいると思っている人は少ないだろう。だがそれでも、一緒にいられるときは、目いっぱいそのときを楽しめたらいいはずだ。
 生きることは、苦しい。それでも、夢を叶えてほしいと願える他者に出会えたことがあるのならそれは、幸福な出来事であるはずだ。
 裏切りながら、秘密を抱えながら、そういう前提で、関係が続くことを願って。ハッピーエンドを目指して、私たちは推しと駆けていく。』(P167〜168)

(5)

『 SMAPだってだって、永遠に続くのかと思っていた。けれど、やっぱりいつか大人になって、アイドルを卒業する。さまざまな葛藤と悲鳴を浴びながら、それでも。
 だとすれば、最後に考えるべきはこの命題である。
 一一私たちは、どうすれば、推しも、ファンも、大人になっても一緒にいられるのだろう?』(P198)

(6)

『 SNSは「拡散」という機能を生み出した。動画のコメント欄も、他者のコメントに乗っかって返すことが容易だ。他人の言葉を自分の言葉として使うことが増えたのだ。
 それは良い使い方もできれば、悪い使い方もできる。現実の世界では、いかに拡散されるか、いかにシェアされるか、ということに特化して過激な語り方をすることがもはや政治を動かしていたりする。
 しかし他人の言葉ではなく、自分の言葉で語り方を選ぶこと。(※ 集団リンチ的なバッシング現象を惹起する)カーニヴァル化した共同性から離れて、(※ 個々に)自分自身の痛みを語ること。それこそが大人になるということではないか。』(P211)

(7)

『 他人と違う言葉を使うのは、怖い。勇気が必要だ。批判されるかもしれない。共同性のなかで同じ言葉を使っていたほうが、怖くない。だが一度共同性(ファンダム)のなかで傷ついてしまったとき、あなたはきっと、自分だけの語り口を探す瞬間に出会っている(※ はずだ)。
 欧米に憧れた日本の推し文化は、傷つき、間違う身体をもって生まれてきた(※ 大塚英志が語ったように、傷つかない主体としてのミッキーマウスを、手塚治虫は傷つく主体としてのアトムへと変換して輸入した)。(※ そんなわけで、日本の推し文化においては)推しと出会って、傷つくこともあるだろう。だがそのことを私たち自身の言葉で語ることが、共同性の語り口に「飲み込まれない」言葉を選ぶことが、その傷を癒し、そして、ファンの共同性を暴走させないことに繋がるはずなのだ。
 それこそが、大人ができること、ではないか。
 虹を夢見られた体験をひとりで噛み締められることが、私たち大人の語り口なのではないだろうか。私はそう信じている。』(P 212〜213)


若い人は、こういう「感傷的な文章(レトリック)」に弱いんだろうなと理解しつつも、こんなものに乗せられてしまう幼さには、いささかうんざりせざるを得ない。

三宅香帆はいつだって、こういう調子なのだ。

「私は一人で、孤独に戦っている。だから、あなたも勇気を出して、共に戦ってね」一一と、そんなアニメのヒロイン気取りなのである。

『裏切りながら、秘密を抱えながら、そういう前提で、関係が続くことを願って。ハッピーエンドを目指して、私たちは推しと駆けていく。』


一一ああ、恥ずかしい…。

だが、当然のことながら、実際の三宅香帆は、そんな柔なものではない。

自分の味方になりそうもない意見(異論)に対しては、悪意あるレトリックによって、しらっと「印象操作」をしてみせる。
一一こんな調子だ。

(8)

『(※ 映画)『成功したオタク』において、推しが加罪者であることを知った(※ ファンの)ひとりは、そのように(※ 痛切に)語る。(※ しかしながら)この映画の観客のなかには、そんな赤の他人(※ 推し)の人生を自分にとっての虹(※ 唯一の希望)だと思い込むなんてバカだ、自分の人生を全うせず誰かのことを必死に信じ込むから痛い目に遭うのだ、と笑う人もいるかもしれない。
 だが、私には笑えない。
 自分を高揚させてくれたアイデンティティの仮託者が、実は、加害者でもあった。そのような状況は、誰にでも起こり得るからだ。』(P200)

(9)

『推し活とは他者のことをまるで自分のとても大切なアイデンティティの一部のように感じてしまうところから始まる。だからこそ、推しが世間から「よごれ」のように扱われてしまったとき一一推しが自分を慰めてくれたのも本当だが、誰かを傷つけたことも本当であるという「ねじれ」に耐えられない。そう感じてしまう人もいる。
 推し活を批判する人々は、こんなふうに推し活は自他の境界をあやうくさせるものだ! 陰謀論の源泉になる! 良くない! と言って終わってしまうのかもしれない。』(P204)


三宅香帆自身は、「私自身は(推しもいるし)推し活する人の味方ですよ」と、そうアピールしながら、その一方で「推し活の現実に疑義を呈する人」については、

『と笑う人もいるかもしれない。』


とか、

『推し活を批判する人々は、(中略)と言って終わってしまうのかもしれない。』


などと言って、「かもしれない」というだけの恣意的な印象論(印象操作)によって、その批判を矮小化し、批判者に「悪役」を振ってみせるのだ。

一一「でも、私だけは違うよ。みんなの味方だよ!」と。

しかし、「推し活」の問題は、現に存在するし、だからこそ真っ当な批判をする人もいる。

一一だが、三宅香帆は、自身の読者に対して、そのように考えては欲しくない様子なのだ。

事実、「まえがき」からして、次のような調子だったのだ。

『 だが一一 一方で、現代の推し活を観察する言葉は、いまだに新鮮な熱狂を描くもののままである。
 推し活といえば、「盲目的」だとか「課金競争」とかそういった側面が今も強調されやすい。熱狂的で持続可能性がなくて競争や論争に身を投じていることだけが、推し活かのように言われることが多い。
 そしてたしかにSNSやショート動画を見ると、熱狂的に推しを語っていたり、ものすごい金額を使っている人が目立つ。過激な物言いをしたり多額の資金を注ぎ込むことこそが推し活であるように、世間には思われているのかもしれない。
 しかしそれは一部のファンに過ぎない。
 全員がそんな推し活をしている訳がないのだ。
 みんな、推しと一緒に、年齢を重ねているのである。』

(「まえがき」P6〜7)



『世間には思われているのかもしれない。』といったところが、三宅香帆お得意のレトリックである。
「そうかもしれない(し、そうではないかもしれない。私は決めつけているわけではない)」という「逃げ道」を確保した上での、「印象操作」である。

だいたい、

『 それは一部のファンに過ぎない。
 全員がそんな推し活をしている訳がないのだ。』


一一そんなことは、「当たり前」なのだ。

「問題行動を起こす人」というのは、たいがいの場合は、「一部の人」であり「全員」ではない。

だが、だからと言って、その「一部の人」の問題行動を、放置しておいて良いのか?
一一と、そういう問題なのだ。

無論、「推し」文化のように、社会現象だと注目されるほどのことなら、放置しておくわけにはいかない。

それに「推し」文化は、何よりも、「推しビジネス」を支える、「経済的な搾取システム」にもなっているのだから、それへの対処は、当然必要なのだ。

そしてその対処こそが、「批評・批判」なのである。

だが、こうした「批評・批判」に対して三宅香帆は、「わかってない人々」「悪意ある人々」という、子供騙しの薄っぺらいレッテルを貼り、その一方で「でも、私だけは、みんなの味方です」と、臆面もなく自分を売り込むのである。

しかし、自分で「私は、推し活する人の味方です」と売り込む割には、上で見たように「推し活する人は、共同性に生きるのではなく、自分の言葉で生きなければならない」とも訴えている。

つまり、実質的には「あなたがたは、変わらなければならない」と、美辞麗句を連ねて訴えているのは、いったいどうしたことなのだろうか?

どうして「みんなは、そのままで良いんだよ。推しに裏切られたら、腹を立てるのは当然じゃない。私たちは、あれだけ尽くしてきたというのに、それを陰で笑ってたんだから、許せるわけないのは当然だよね」とは、言わないのであろうか?

それは単に、そうした「共同性の暴力」を否定したいという、「世間並みの考え」からなのか?

しかし、それならば、自分だけは「みんなの味方だよ」などとは言わず、「是々非々で、肯定も否定もします」という、世間並みの「批評家」であるという事実を、正直に認めるべきだろう。

三宅香帆は、本書で「推し活する人の、推しへの愛は、母性的な愛」であるとしている。

つまり、「ファン」は単なる消費者にすぎないが、「推し活する人」は「推しを育てよう」とし、そのことで「代理的な自己実現をしようとしている」というのである。
まるで、母親が子供にするようにだ。

だが、その「母性的な愛」も、過ぎると子供をその「愛という名目」によってコントロールしようとする「毒親」にもなってしまうし、推しに裏切られて、許せないとなった「推し活する人」の共同的な攻撃性とは、まさに毒親的なものだと、三宅香帆は説明する。

「こんなにあなただけを愛したのに、あなたはそんな私を裏切るのね」という、プレッシャーの掛け方をするのが、毒親化した「推し活する人」だというわけだ。

だが所詮、親子は「他人」なんだから、その事実を認めて、子供の自立を認めてあげるべきではないのか、というのが、本書での三宅香帆の主張なのだ。
たしかに、一見もっともらしい意見ではある。

一一だが、この主張には「裏」がある。

どういうことかと言うと、「推し活」を「母性的な愛」だと形容しても、比喩としては大きな間違いではないけれど、しかし、より正確には、私が書いたとおり、それは「投資」なのだ。「投資」でしかない。

「これだけあなたの投資したんだから、当然それ相応のリターンがあるよね」と考える「推し活をする人」が少なくないから、リターンがあるどころか「これまでの物語は、ぜんぶフィクションでした」と、恩を仇で返されたら、「騙したな、許せない!」ということにもなるのだ。

たしかに、育てられた子供が、親の期待に沿わない場合も多々あるけれど、それは、推しに裏切られたという場合とは、その中身がぜんぜん違うのである。

子に対する親の献身は(産んだ以上)半ば義務的なものだが、「推し」に対する「推し活する人」の献身とは、義務でも何でもなく、「好きでやっていること(趣味的な投資)」にすぎないからである。

ではなぜ、三宅香帆は「推し活を、母性的な愛の行為」だと、「綺麗事」の形容をするのかというと、それは無論、自分が「推し活する人の味方(理解者)」だとアピールしたいからだ。

味方であるはずの自分が、「推し活って、結局は投資でしょ」などと言うわけにはいかないから、「母性的な愛の発露」だなどと、聞こえのいいように美化するのである。

では、なぜ「母性的な愛は、しばしば毒親的なものに転化しかねない」という「批判的な観点」を有し、だからこそ「推し活する人は、推しが自分の思うとおりのものでなかったと知っても、それを裏切られたと責めるのではなく、お互い、完全には知り得ないところの他人として、同じ夢を見られたということだけを、大切に胸に抱いていきませんか」などという、聞こえの良い「軌道修正案」を提案するのだろうか?

「私は、推し活する人の味方です」と言うのなら、どうして「裏切り者の推しを、責めてはいけない」などと言うのだろうか?

簡単なことだ。
それは、三宅香帆自身が「推される側の人間になったから」に他ならない。

つまり、「推し活」的なものが無くなってしまっては、「推される」ことで稼いでいる側としては、いかにも不都合なのだ。
だから、「推し」という行為がどんなに問題含みであっても、ひとまず「推し」文化は続いてもらわねばならず、要は、どんどん私に「投げ銭(投資)してね」と、そういうことなのである。


しかしながら、そんな自分が、いつまでも安心して、推されていられるという保証はない。

なぜなら、私みたいに「三宅香帆なんかに夢を見られるような人は、詐欺被害者の予備軍まちがいなしだから、くれぐれも気をつけるように」などと、身も蓋もない「現実」を突きつける「批判者」もいるからである。

つまり、いずれ「宗教のマインドコントロールから目覚めた人」のように「三宅香帆って、やっぱりぜんぜん大したことなかったじゃない」と、そう気づく人が大量に出てきて、(旧統一教会の元信者みたいに)「これまでのお布施を返せ」と言わんばかりに、三宅香帆批判の側に転じてしまったりすると、なにしろ「元信者」軍団だけに、手に負えないことにもなりかねず、それが怖い。
だから、

(4)『 推しは常にファンの理想にはなれない。ファンの理想を裏切るものである。だがファンもまた、推しにとっての理想にはなりきれない。推しから離れることもあるだろう。
 常に秘密を持ち、裏切りあいながら、それでもいられるだけ一緒にいたいと願うことが、推しとファンの関係なのではないだろうか。
 もちろん、母と子が永遠に一緒にはいないように、推しとファンも永遠に一緒にいると思っている人は少ないだろう。だがそれでも、一緒にいられるときは、目いっぱいそのときを楽しめたらいいはずだ。
 生きることは、苦しい。それでも、夢を叶えてほしいと願える他者に出会えたことがあるのならそれは、幸福な出来事であるはずだ。
 裏切りながら、秘密を抱えながら、そういう前提で、関係が続くことを願って。ハッピーエンドを目指して、私たちは推しと駆けていく。』(P167〜168)


なーんてことを書くのだ。要は、

「私が、あなたが思っているような人間じゃなかったとしても、隠し事をしてたとしても、騙してただなんて責めないでね。お互いに、嘘も裏切りもある他人として、それでも一緒に夢を見られたという美しい思い出を、いつまでも大切にしましょうよ」

と、そんな「虫の良い話」なのである。

つまり、本書を読む上で、当然の前提としなければならないのは、三宅香帆は、すでに「推される側の人間」であり、「投資を待っている側の人間」なのだから、「推し活」については「客観的中立的な判定者などではない」ということなのだ。
このくらいのことは、とうぜん踏まえていなければならない。

それもできずに、本書を読むような読者は、端的に言って、馬鹿なのである。

ではなぜ、三宅香帆は「裏切った推しを恨んではならない」と言うだけではなく、「個人としての言葉を持たなければならない」などという、当たり前の話でもあれば、かなりピントのズレた提案をしたのであろうか?

それはたぶん、三宅香帆が「ファンダムにおける共同性の暴力」ということにこだわっている事実からして、要は、共同性言論の暴力は手に負えないから、それをあらかじめ「個人に解体しておけば安全だ」と、そういうことなのであろう。
個人がどんな意見や感想を持とうと、個人なら無視黙殺することも容易に可能だからだ。

怖いのは、ただ「集団化したバッシングの嵐」だからである。

じつのところ、「自分の言葉(個人の言葉)」を持つというのは、そんなに簡単なことではない。
しかし、そのくらいのことは、さすがの三宅香帆にでもわかっているはずだ。

そもそも、三宅香帆の「語り口」自体が、およそ「借り物による作り事」でしかなく、「自分の声」などではないのだ。
(加藤典洋の『敗戦後論』を引用した後に、「ねじれ」なんていう、むかし流行った言葉を使われると、今更またそれを読まされるこちらの方が恥ずかしくなる)


だから、「自分の言葉で語るのは怖い」などと、わざとらしく言うまでもなく、それ(自分の言葉で語ること)は、他でもなく、三宅香帆自身にも出来てはいない、困難事なの、である。

ましてや、「怖い怖い」と言ってる奴が、そもそも「自分の言葉」など、語れるわけもない。
なぜなら、覚悟を持って語る者は、いまさらのように「怖い」などとは言わないものだからである。

つまり私が、Amazonカスタマーレビュアーである「otama」氏の、

『著者が本当に伝えたいことは、実のところ「徹底的に個で考えろ」という一言に尽きる。』


という評価を、まったく不十分だと評したのは、なぜ、その「一語」を三宅香帆が発したのか、それに対する考察が、まったく為せれないまま、「それ自体は良いことだ」式に、安易に容認されてしまっているからなのである。

「自分の言葉で語る」というのは、言うまでもなく大切なことだ。
だがまたそれは、容易に出来ることではない、というのも事実なのだ。

にもかかわらず、三宅香帆は、どうしてそんなことを、ただでさえ「共同性に埋没しがちな人たち」に対して、あえて提案したのか?
一一そこを考えなければ、本書を読んだことにはならず、ただ、三宅香帆のお話(凡庸な「推し起源仮説」)を拝聴するだけになってしまうからである。

ちなみに、三宅香帆が推される側の人間だというのは、次のAmazonカスタマーレビューにも、明らかだ。

『 Amazonカスタマー
 「私たちはどう生きるか、その根源的な問いに迫る」    (星5つ中5つ)
 2026年8月10日

先に進むほど面白くて、一気に読み進めてしまいました。

「推したちとどう生きるか」というテーマを通して「私たちはどう生きるか」という根源的なテーマに迫り、それを時代的な考察を経て丁寧に明らかにしています。『なぜ働』の読者には、そこから一歩踏み込んだ内容と感じられるのではないでしょうか。

中でも「自分らしい生き方」を暗に強制される現代日本社会において、その実現を「推し」の成長に託しているのではないか、という提起は、私の心に深く響くものでした。

サイン会では、等身大の著者ともお会いでき光栄でした。私自身、三宅香帆さんに、自分のできなかったことを「投影」して応援している節がありますが、そこに留めず、一緒に成長していきたいと思います。』


最後の部分である。
この「Amazonカスタマー」氏にとっては、三宅香帆は、教え導いてくれるような、並み優れた「文芸評論家」などではなく、『一緒に成長していきたい』、未熟な人間であり、書き手にすぎない。
要は、成長を見守っていきたい「推し」だと、そういうことなのである。

で.私はどうかという、三宅香帆が「現代日本において恐れるべきは、抑圧的な父性ではなく、庇護的な母性の暴走だ」と、そう語った際の、影の薄い「父性」の方なのではないかと思う。
したがって、私もせいぜい頑張らなくてはならない。

フロイト言うところの「超自我」的な父性であり、規範を強いてくる父性である。
「そんな、つまらん嘘などつくな」といった具合に。

ちなみに本書は、三宅香帆が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』でブレイクする前年(2023年)に刊行した、『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術』の、増補改訂版だそうだ。


この元版では十分説明しきれなかった部分を、本書では補強したというような説明がなされているが、私の見たところでは、それは「建前」でしかなく、本当の理由は、やはり、三宅香帆自身が「推す側」から「推される側」に変わったためであろうと思う。

「推しは、本質的に裏切るものなんだよ。だって、他人の期待どおりに生きたい人間なんて、まともじゃない。
だから、私があなたを裏切っても、憎まないでね。夢を見せてあげたんだから、あなたの投資は、決して無駄ではなかったんだから」

一一と、そうした「釘を刺しておきたかった」ということだったのではないだろうか。


(2026年8月26日)

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“三宅香帆 『推したちとどう生きるか』: なぜ、増補改訂したのか?” への2件のフィードバック

  1. モハのアバター

    >『裏切りながら、秘密を抱えながら、そういう前提で、関係が続くことを願って。ハッピーエンドを目指して、私たちは推しと駆けていく。』

    この文章には面食らいました。自分に都合の良い内容を綺麗に粉飾している様が、大変恥ずかしくも気色の悪い言葉ですね。
    似たような味わいの言葉として、以下のものが思い浮かびました。

    「ウラジミール、君と僕は同じ未来を見ている。ゴールまでウラジミール!2人の力で駆けて、駆けて、駆け抜けようではありませんか!」

    それにつけても、推しとファンの関係を母と子のように語る箇所には完全に呆れました。
    今まさに推し活中の読み手にとっては言われて嬉しい言葉であり、そのように綺麗に見られたいのでしょうが、こういう甘い言葉を平然と吐く輩が考える事などロクなものではありませんから、改めて三宅香帆さんの信用のならなさを噛み締めた次第です。

  2. 年間読書人のアバター

    > モハさん

    コメント、ありがとうございます。

    > 「ウラジミール、君と僕は同じ未来を見ている。ゴールまでウラジミール!2人の力で駆けて、駆けて、駆け抜けようではありませんか!」

    懐かしい言葉ですね。
    故安倍晋三首相が、日露交渉において、ウラジミール・プーチン大統領に向けて放った、臆面もない赤面もののセリフ。

    しかし、意外にこれは、そのものなのかも知れませんよ。
    つまり、三宅香帆の例のセリフは、無意識に安倍晋三のそれをなぞってしまったものなのかも知れません。
    それくらい、安倍のあのセリフは印象的だし、三宅香帆は人の言い回しに影響を受けやすいタイプですからね。

    レビューの中でも指摘しておきましたが、そうした影響が「ものまねオウム」的に、露骨に出てしまうところも、読んでいて恥ずかしいところでした。

    いずれにしろ私自身は、彼女とどこかへ駆け抜けていくことなんか、恥ずかしくて到底できません。
    「どうぞ、大勢の推しの皆さんと、断崖絶壁へでもどこへでも駆け抜けていってください」一一と、そう言いたいところです(笑)。

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