▷ 映画評:グレッグ・モットーラ監督『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(2007年/アメリカ映画)
タイトルだけを見ると、日本でもかつてはよく作られた、ちょっとエッチな青春ドタバタコメディという印象を受けるだろう。
事実、大雑把にいえば、そういう作品だということにもなるのだが、じつのところ、その手のものとは、作品の出来が違う。
たしかにおバカな青春物語なのだが、それをリアルな人間物語として真剣に描いているところが、素晴らしいのだ。
下ネタ系放送禁止ワード連発の作品でありながら、しかしそれでも思春期の男の子の、身も蓋もない姿を誠実に描いて、ある意味では感動的でさえある作品なのである。

だから、タイトルやあらすじだけを見て、くれぐれも本作を、軽く見ないでいただきたい。
ほとんどあり得ないような、美化に美化を重ねた人間像を美男美女を使って描く作品も、それは多くの場合、映画が現実逃避のためのエンターティンメントであるから仕方がないのだけれど、人間の「しょーもない現実の姿」を描きながら、その中にかけがえのないものを見せてくれる、本作のような作品は、そうそうあるものではないのだ。

ちなみに、日本では劇場公開すらされなかった本作だが、全米では大ヒットしている。
日本においては、明らかにタイトルや「あらすじ」で損をした作品なのだ。
「これは、日本では売れなさそうだと」。
『全米で初登場1位となり、公開4週目で興行収入1億ドルを超えるヒットとなった。また、作品の評価も高く放送映画批評家協会賞にノミネートされるなどした。』
(Wikipedia「スーパーバッド 童貞ウォーズ」)
しかしまあ、本作をタイトルやあらすじだけで「軽く見るな」と言いはしたが、私自身、本来なら、本作のタイトルを見た段階で「これは見なくていい」と、そう判断していたはずだ。
なぜならば、かつて日本でも作られたこの種の作品は、若手のタレントを使った、いかにも「安づくり」な作品が多かったからだ。
二本立ての、添え物の方という感じのものが多く、ほぼ必ず「見る価値なし」という作品が多かったためである。
だが、本作は、その手の作品ではなかった。作り手の本気度が伝わってくる、最初から最後まで、決してダレることなく、しっかり楽しませてくれる作品だったのである。
では、どうして、本来なら絶対に見ないはずの私が本作を見たのかというと、じつは、この作品を撮ったのが、今年レビューを書いた、快作SFコメディ『宇宙人ポール』(2011年)の監督だったからだ。
もともと私は、コメディにはあまり興味がないのだが、『宇宙人ポール』が「知られざる傑作」だとの紹介記事を読み、SFネタの追跡劇だと知って、ちょっと「面白そうだな」と思い、軽い気持ちで見たのである。
で、この『宇宙人ポール』が、期待をはるかに上回る出来の作品だったので、このスタッフの作った作品を見たいとそう考えた。
だが、そこで最初に注目したのは、グレッグ・モットーラ監督もさることながら、主演の二人である、サイモン・ペッグとニック・フロストであった。
この二人の演じた、大人のSFオタクとその友情描写が、じつに素晴らしかったのである。
で、私の映画ファンの友人が、かねてからサイモン・ペッグのファンで、そのためペッグの名前を何度も聞かされていたのだ。
ペッグが、いい役者であるばかりではなく、脚本も書く才人であり、当人もオタク傾向のある人だと。
事実ペッグは、クリス・パイン主演の映画『スタートレック』三部作に、エンタープライズ号の乗組員スコットとしてレギュラー出演しており、3作目では脚本にも加わっているのだが、間違いなく彼はトレッキー(トレッカー)だったのであろう。

ともあれ、『宇宙人ポール』の脚本も、主演のこの二人が書いているので、サイモン・ペッグが脚本と主演を兼ねている作品が他にもないか。その中でも、ペッグの映画オタクぶりのよく出ている作品ないかと探してみたところ、ゾンビもののコメディ映画『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)と、刑事バディもののコメディ映画『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』(2007年)を見つけて、この2本を入手した(ちなみにこの2本では、ニック・フロストは出演だけ)。
そして、サイモン・ペッグらとは関係ないが、グレッグ・モットーラ監督による本作『スーパーパッド 童貞ウォーズ』も併せて入手したのである。


で、この三本の中で、私が最も期待したのが『ショーン・オブ・ザ・デッド』で、その次が『ホットファズ』。そして最後が、本作『スーパーパッド 童貞ウォーズ』だったため、その順に見ていくことにしたのである。
一一つまり、本作『スーパーパッド 童貞ウォーズ』を見る前に、『ショーン・オブ・ザ・デッド』と『ホット・ファズ』を見ていたのだが、これが何を意味するのか、それを推理していただければ幸いだ。正解は、少し後に明かそう。
さて、『ショーン・オブ・ザ・デッド』は、前記のとおりゾンビもののコメディ作品なのだが、私はこれまでゾンビものにはまったく興味がなかったので、有名なジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』さえ見てはいなかった。
だが、Wikipediaによると『ショーン・オブ・ザ・デッド』は、『ゾンビ』(1978年)の「パロディ作品」だと紹介されていたので、元作品を見ないでパロディ作品を見るわけにはいかないと、ロメロ監督のWikipediaを確認してみると、ロメロ監督のゾンビ映画は、『ゾンビ』が最初ではなく『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)が最初だというのを知った。それで、どうせ勉強するならと、この2作を見たのだが、一一ハッキリ言って、どちらも私には合わなかった。
そもそも、どちらも怖くはない。私は、怖さを期待していたのだが、それがない。
まあ、私はホラー映画には、よくも悪くと耐性があって、たいがいのものは怖くないのだ。
そしてさらに言えば、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、自主制作のごくごく安づくりの作品で、いわゆる「通の喜ぶカルト作品」でしかなく、ゾンビというアイデアがウケただけの作品にしか、私には見えなかったのだ。
また、一方の『ゾンビ』は、商業作品らしく、それなりに見られるものにはなっていたのだが、たぶんロメロ監督の独特のセンスなのだろう、妙にホラーらしくない、ズレたと言うよりも、当たり前のホラー作品からは、かなり「ズラした」感覚が、私には合わなかった。
つまり、純粋に怖いという作品ではないし、切ないラストというほどでもない。
なんとも言えず、どこからも微妙にズレたところが、たしかに奇妙な味わいではあれ、私の趣味ではなかったのだ。
で、このように「元祖」についての勉強した後、『宇宙人ポール』のサイモン・ペッグとニック・フロスト主演の『ショーン・オブ・ザ・デッド』(エドガー・ライト監督)を見たのだが、ロメロ作品とは違い、コメディの部分ではまずまず楽しめはしたものの、やはり期待したほどの作品ではなく、わざわざロメロにまで遡って勉強したほどの甲斐はなかった。
そこで、ゾンビ映画を勉強したついでに、べつのゾンビ映画もいくつか見ることにした。
かねてより、少しだけ気になっていた2作。劇場公開時に「走るゾンビ」が話題になった、ザック・スナイダー監督の監督デビュー作品『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)と、ブラッド・ピット主演の『ワールド・ウォーZ』(2013年/マーク・フォースター監督)だが、やはりどちらも、イマイチだった。
ゾンビものは、私の性にに合わないのかもしれない。
そんなわけで、もうひとつの、サイモン・ペッグ、ニック・フロストの主演作で、『ショーン・オブ・ザ・デッド』のエドガー・ライト監督の作品『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』を見てみた。
こちらは、刑事バディもののパロディ作品で、『ショーン・オブ・ザ・デッド』よりは楽しめたものの、しかし『宇宙人ポール』と比べると、明らかに見劣りするB級作品であった。
で、そんなふうに感じる理由をよくよく考えてみると、『宇宙人ポール』、『ショーン・オブ・ザ・デッド』、『ホット・ファズ』は、いずれも、サイモン・ペッグとニック・フロストの主演で、二人の友情を描いた作品という点では共通するのだが、モットーラ監督の『宇宙人ポール』と、あとのエドガー・ライト監督による2作とでは、友情の描き方の深さに違いがあった。
つまり、グレッグ・モットーラ監督は、コメディ作品であっても、いや、そうだからこそ、人間ドラマ的なところをきっちり描いて、ドラマを引き締めるのだが、エドガー・ライト監督の場合は、最初から最後までコメディであり、人間描写がいささか型どおりで、薄いのだ。
で、今回、当初はさほど期待はしていなかった本作『スーパーバッド 童貞ウォーズ』を見たのだが、これがまた期待以上の作品であり、『宇宙人ポール』以上に気に入ることになった。
一一つまり、私は『宇宙人ポール』がきっかけとなって、
・『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』
・『ゾンビ』
・『ショーン・オブ・ザ・デッド』
・『ドーン・オブ・ザ・デッド』
・『ワールド・ウォーZ』
・『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』
という6作品を見たけれど、これらについてはレビューを書いていない、ということだ。
これらについても、書こうと思えば書けたのだが、積極的に書きたいという気が起こらないものについて書くのは、時間の無駄だから、辞めにしたのである。
そして、言い換えれば、本作『スーパーバッド 童貞ウォーズ』は、上記の6作品とは違い、私に書く気を起こさせる、それほどの、中身のある傑作だったのだ。
だからこそ、くれぐれもタイトルや「青春コメディ」という分類だけで、本作を軽く見ないでほしいと思い、それを説明するために、本作を見るに至るまでの道筋を、ここまで説明させてもらったのである。
○ ○ ○
本作『スーパーバッド 童貞ウォーズ』の「あらすじ」は次のとおり。
『高校生のセス、エヴァン、フォーゲルは、高校卒業を控えてるにも関わらず、セックスができずに、童貞を迎えてしまった。だがそんな時に、同級生のジュールズから卒業パーティーの誘いを受ける。これにセス一行は了承し、パーティーに参加することに。彼女いわく、パーティーには酒が必要らしく、酒のIDが必要なのだった。そんなときに、たまたまフォーゲルが酒店のIDを作成、入手し、マクラビンという名前で酒をゲットできるかもしれないという話になった。果たして無事パーティーの酒は手に入るのか?童貞は卒業できるのか? 男たちの青春童貞ストーリーが今始まる、、、』
(Wikipedia「スーパーバッド 童貞ウォーズ」)

ハッキリ言って、これだけでは、おバカなB級青春ものという印象しか受けないであろう。
私も、これを読んだからこそ、面白かった『宇宙人ポール』の監督の作品だとは言え、ほとんど期待してはいなかったのである。
だが、すでに書いたとおり、本作は抜群に面白い。最初から最後まで、ずーっと面白いと言ってもいい、そんな傑作だった。
とにかく冒頭から、下ネタワードの連発なのだが、それが下品な笑いを取るためのものではなく、「おバカな男子高校生って、こうだよな」という、愛情ある共感に由来する「苦笑」を込めた作品なのだ。
「あらすじ」にあるとおり、本作の主人公は、セス、エヴァン、フォーゲルの男子高校生の3人組である。
セスは、もう「やりたくて仕方ない」デブの非モテ男子であり、エヴァンは、見かけも良いし、女性を尊重する真面目男子なのだが、幼い頃からセスの親友なので、そこで割を食っているところがある。

フォーゲルは、見るからに三枚目の、しかしそんな自分がわかっていない男子なのだが、その真面目なズレっぷりが笑えるし、「こんなやつ、いたよな」とか「自分もこんな感じだったかもしれない」と、そんなことを感じさせる、妙にリアリティのあるキャラクターとなっている。

つまり本作は、基本的には、セスとエヴァンの友情物語であり、フォーゲルは3番目の男として、そのマイペースで、もっぱら笑わせてくれる存在なのだ。
そして、さらに本作には、この男子高校生三人組のほかに、準主役級の活躍をする、パトカー勤務の警察官スレイターとマイケルズのコンビが登場するのだが、この二人がまたじつにおバカで、しかしまた、じつに良い味を出しており、この二人がフォーゲルと絡むことで、もっぱらお笑いパートを受け持つのである。

つまり、セスとエヴァンの主役コンビは、「青春コメディ」としての中核部分を受け持ち、時にグッとくるような場面もあって、本作の人間ドラマとしての厚みを支えているのだが、しかし、そっちに流れきってはしまわずに、フォーゲルと警官コンビの3人が、おバカで無茶苦茶な活躍により終始笑わせてくれるという、二重構成がうまく機能した作品なのだ。
で、本作で特に強調しておかなくてはならないのは、本作の主人公たち、警官コンビまで含めた5人は、決して「清廉潔白」な人間ではない、という点だ。
『スーパーバッド』というのは、「最悪」というほどの意味だろうが、この「最悪」というのは、「極悪人」という意味ではなく、真面目な女性から見れば「最悪…」と、そう言いたくなるような、男のおバカさを表現したものなのだ。
つまり、主役の男たちはいずれも、決してヒーローなどではなく、一般的な評価で言えば「イケてない」奴らなのである。
そしてそれは、下ネタワード連発のセスが、わかりやすくそうであり、その象徴的な人物なのだが、しかし、彼が人間的には決して悪い奴ではないというのは、親友のエヴァンの真面目さに明らかだ。

彼らは、同じように、女子に性的な興味を持っているとは言え、好対照と言ってもいい、タイプの違う高校生男子なのだが、その二人が幼い頃からずっと一緒につるんでいるというのは、それはそれなりの理由があり、表面的な違いだけでは説明できない、人間としての本質の部分での、深い共感と信頼があるからなのだ。
つまり、主人公の5人は、その行為だけを見れば、犯罪すら行っており、とても褒められた人間ではない。
セス、エヴァン、フォーゲルの三人は、珍しく女子からパーティに誘われたというので、その依頼により、なんとか酒類を手に入れようとはりきり、年齢詐称をしたり、万引きなどの窃盗をしたりするのだが、そのことにほとんど罪の意識というものがない。
とにかく「女の子にモテるため」と、ただそれだけしか頭にないのだ。


また、パトカー警官のコンビは、決して真面目な警察官などではなく、適当に仕事をサボり、時には失敗を誤魔化して、嘘の報告を上司に上げたりもすれば、賄賂に誘惑されたりもする、言うなれば不良警官だ。
しかし、そんな彼らは、とても「人間的」なのだ。
フォーゲルが偽の身分証明書で、コンビニで酒を買おうとしていたところに、たまたま強盗が押し入り、レジの前にいたフォーゲルを殴り倒し、レジから金を奪って逃走した後、通報を受けてこの二人が現場臨場をし、レジにいたコンビニの黒人の女性店員とフォーゲルに事情聴取をする。


で、フォーゲルは酒を買おうとしていたものだから、さすがに警官の彼らには年齢詐称がバレるのではないかとドキドキしていたのだが、この二人は偽の身分証明書を見せられても、それに気づかぬ様子で、そればかりか、その偽造身分証に記されていた偽名、フォーゲルがカッコいいつもりでつけて、セスから「嘘丸出しだろ!」と非難された、ファーストネーム無しの「マクラビン」という名前を、なんと「カッコいいな」と褒めてくれるのである。


で、物語の後半では、じつはこの時、二人はその身分証明書が偽物で、フォーゲルが未成年であることを見抜いていたことが明かされる。
「君を見てると、俺たちも若い頃は、似たようなことをやってたなとそう思って、黙認することにしたんだよ。と言うか、警官だって人間だってとこ、ちょっと示したかったというか、そういうことだったんだ」と打ち明けるシーンがある。
この告白は、完全に真に受けるわけにはいかない部分があるとは言え、しかし決して嘘ではないはずだ。
と言うのも、強盗に遭ったコンビニから、家まで送ってやるとフォーゲルをパトカーに乗せた二人は、そのあと、特に必要もないのに、信号無視をするためにサイレンを鳴らして緊急執行をしたりといったことを、フォーゲルの目の前でやって驚かせたり、またその途中に「酒場でのトラブル現場へ向かえ」との司令が入ったので、フォーゲルを連れて現場臨場し、たまたまフォーゲルがその酔っぱらいの迷惑犯の爺さんをうまく捕まえたということで、すっかりフォーゲルが気に入ったのか、あとは完全に友達扱いになったのだが、前記の「告白」は、そうなった後でのものだったのだ。


つまり彼らは、自分たちのめちゃくちゃな行いについて口を噤ませるために、フォーゲルにあんなことを言ったのではなく、友達として腹をわって話した、という感じだったのである。
そもそも、しゃべられて困ると思うのなら、フォーゲルがいるところで、無茶をするはずもなかったのだから。

あと、この警官コンビで興味深かったのは、強盗に遭ったコンビニの黒人の女性店員から、覆面をしていた強盗犯の特徴を聴取する際、最初に性別や身長などを聴いた後、人種を聴こうとして、「黒人」という言葉を避けて、「あのう、いわゆるあなたと同じアフリカ系の方とか、プエルトリコ系だとか、それはどうでした?」などという、慎重な言い回しを、言いにくそうに使っていた点である。
これは明らかに、アメリカ社会における「人種問題」を強く意識したもので、たぶんこの二人なら、黒人のいない場所では、平気で「黒人」と言っているのだろうが、職務の際には「政治的に正しい」言葉遣いに配慮していたということなのだろうと、それを窺わせる描写になっていたのだ。
普通、シリアスな刑事ものでも、こんなにリアルな描写はせず、今どきは人種など存在しないかのように描くのが「政治的に正しい」描写だということになっているようなのだが、本作ではそのあたりを、避けることなく非常にリアルに描いているのだから、これは明らかに意図的なものだ。
つまり、「差別」に賛成するつもりはないけれども、そうした問題意識の浸透によって、コミュニケーションが不自然なものとなっており、悪く言えば「偽善的」なものになっているという現実を、ひそかに告発的に描いているのだ。
表面さえ綺麗につくろっておけば、「本音」など問題とされない「形式主義」化したコミュニケーションに、「本当にこれで良いのか?」と、そんな疑義を呈しているである。

そしてこれは無論、本作のメインテーマである「男女関係」問題を敷衍した、その問題意識の提示だと見て間違いない。
つまり、被害者としての女性の権利を強調するフェミニズムは、しばしば男性に対して「女性を性欲の対象としてではなく、対等な人間として見よ」と、そういう「正論」ばかりを突きつけるのだけれど、しかし「人間って、そんな建前だけで済む存在じゃないだろ?」と、そんな疑義を呈しているのである。
無論、「実際の態度」が問題の焦点となるのは当然のことだ。
犯罪行為が社会的に許されないのと同様、女性に対する男性の態度は、もはや昔のように、一方的に差別的なものであることは決して許されない。
しかしながら、許されないことだから強制され、不本意ながら従わざるを得ないだけ、みたいな状況は、決して健全なものではない。
表面さえつくろわれていれば、本音の部分は問題にされず、本来求められていたはずの、男女間の「人間的な理解と共感」というものが、もはやすっかり忘れ去られているのだとしたら、むしろそっちこそが、問題なのではないだろうか。
実際、共感を醸成するという地道な努力を一切せず、「とにかく女性を尊重せよ。さもなくば、あなたはこの社会では生きられなくなる」などという「キャンセル・カルチャー」といったものが跋扈したからこそ、当たり前の「女性の権利」を、「意地でも認めたくない」というような、旧習に固執する頑なな男性も出てきたのではないだろうか。
たしかに、男女平等の理想は目指されるべきではある。
けれども、もともと人間とは、全員平等に「理想的な人間」などではなく、いろんな個性を持ち、それに伴って様々な思想を持ち、欠点を持っている存在なのだから、それを完全に均し、「理想状態」において一致させるなどということは、そもそも原理的に不可能なのだ。
もしもそれを強制的に実現しようなどとすれば、そこはきっと「理想社会」などではなく、必ずや「新たな全体主義(ファシズム)社会」のディストピアになってしまうだろう。
だから、本作のメッセージとは、次のようなものなのだ。
「人間は愚かであってはならない。おバカであってはならない。けれども、現実においては、人間はしばしば愚かであり、おバカなのだ。
それに居直ることは許されないけれども、そんな事実に目をつむり、それを無視して理想だけを目指すというのは、やはり危険なのではないだろうか。
人間は、あやまちを犯すし、いくら教育しても成長しない人間もいるだろう。だが、彼らだって、私たちと同じ人間なんだ。私たちだって実は、自分勝手な欲望を隠し持っていたり、時にはズルをしたりする人間ではないのか? それとも、自分だけはそんな後ろめたいところはいっさい無い、神のごとく清廉潔白な聖人君子だと、そう言うのだろうか?
しかし私は、かえってそんな人を信用しないし、そういう人こそ、非人間的であり、冷たく怖しい偽善者だとそう思うのだが、これは間違った考え方なのだろうか?
私たちに必要なのは、理想を目指しつつ、しかし、理想どおりではあり得ない愚かな人間も、同じ人間として包摂することなのではないか。
セスや警官の二人組などは、いろいろと問題も多いのだけれど、果たして彼らは、憎むべき存在なのだろうか? それとも、誇張された、私たちの似姿(自画像)だと考えるべきなのだろうか?
無論、私は聖人君子などではないし、むしろ彼らに近い人間だというのは間違いないところなのだが、そんな私のことを、あなたは穢らわしい存在だとでも非難するのであろうか?」
本作への、米国本土における批評家筋の評価は、次のようなものだ。
『 映画批評家によるレビュー
Rotten Tomatoesによれば、207件の評論のうち高評価は87%にあたる181件で、平均点は10点満点中7.4点、批評家の一致した見解は「下品さと誠実さを巧みにバランスさせながら主人公たちを極端な状況に追い込んでいる『スーパーバッド 童貞ウォーズ』は、友情と高校生活全体にわたる気まずさを忠実に撮った作品である。」となっている。 Metacriticによれば、36件の評論のうち、高評価は32件、賛否混在は4件、低評価はなく、平均点は100点満点中76点となっている。』
(Wikipedia 「スーパーバッド 童貞ウォーズ」)
「下品さと誠実さを巧みにバランス」「友情と高校生活全体にわたる気まずさを忠実に」一一こうした評価は、本作を正しく、バランスよく評価したものであり、私もこうした評価を支持追認する。
人間にとって大切なもの。一一それは、「理想」であると同時に、それを「独善」へと転化させない「バランス感覚」なのではないだろうか。
その意味での、「大人の知恵」なのではないだろうか。
「理想」が「建前の暴力」に転化しがちな、幼稚な世の中だからこそ、人間の現実である、「人間的な清濁」を合わせ呑んだ上で、一歩一歩、理想を目指すというそんな知恵が、今こそ求められているのではないか。
そうでなければ、「裏表を使い分けるような人間」が、ますます臆面もなく「薄っぺらい、独善的な正義」を振り翳して「他者」を排除する、住みにくい世の中になってしまうのではないだろうか?
今の時代ほど、人間に対する人間的な「寛容」というものが求められるべき時代もないのではないか?
独善的なキリスト教倫理が世の中を覆い、「異端審問」が「神の正義」の名の下に行われた「中世の闇」の暗黒時代を、いまさら繰り返すというのは、あまりにも愚かであろう。
異端審問官の前に立たされれば、セスも、警官の二人組も、間違いなく「悪魔憑き」とされ、火刑に処されることだろう。
だが、そんな異端審問官もまた、実際には清廉潔白などではなかったというのが、歴史の語るところであり、むしろ彼らこそが、当たり前の人間に対する欲望を抱えた、哀れな、歪められた人間であったことを、私たちは思い出すべきなのだ。
キリストが説いたのは、他者排除ではなく、「寛容」だったということを、忘れるべきではないのである。
「罪なき者は、この罪(※ 姦通)の女に、石を投げ打ちなさい」
(「ヨハネによる福音書」第8章の7節)
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれであれ、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
(「マタイによる福音書」第5章28節)
言うまでもなく、男女平等の世の中においては、情欲をもって男性(タレント芸能人を含む)を見た女性もまた、「姦淫の罪」を犯したことになる。
つまりイエスは、男女を問わず「罪なき者などいない」と、そう言っているのだ。
だから、「下ネタ」くらいで目くじらを立て、それを「政治的に正しくない」などという異様な物言いで責め立てる、「罪なき者であるつもりの罪人」をこそ、自身までもがそうなってしまうことをこそ、私たちは警戒すべきなのだ。
そうではなく、「おまえ、アホだな」と、そう呆れながらも、親しみを込めて注意のできる、おのれを知った「大人」であるべきなのであろう。
本作が描くように、愚かさと愛とは、「寛容」ということを介して、じつは不即不離なものなのではないだろうか。
わかりやすく「強い女」の描かれたフェミニズム映画が、男性から敬遠されるようになったせいか、昨今では、若くて可愛い女性主人公たちによる、「シスターフッド」映画やエンタメ小説などが、内外で好評を博しているようである。
そして、そんな「シスターフッド」映画が描くのは、たいがいの場合、被害者としての女性たちによる、逆襲劇である。
当然、そうした作品は、女性には痛快であろうし、男性にもカッコいい美少女の活躍は「目の保養」にもなるから、わかりやすいフェミニズム映画などより、数等売りやすい「商品」であろうことは疑えない。
それに比べれば、男性の「情けなさ」を描いた本作『スーパーバッド 童貞ウォーズ』は、その真逆をいく、「自己批評」的な作品なのだが、しかし、どちらが「知的」な作品であるかは、もはや明白なのではないだろうか。
エンタメに「知性」などいらないという向きもあろう。
だが、「知性」だって、無いよりはあったほうが良いのではないだろうか?

(2026年8月25日)
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