▷ 書評:与那覇潤『危機のいま古典をよむ』(而立書房)
与那覇潤は、大雑把にいえば「保守」の人だと言えるだろう。とうてい、左翼ではないし、ましてや「革新」などではない。
一方、私はというと、どちらかと言えば「左翼」に分類される。
だが、私が「左翼」的なのは、政治的に左翼なのではなく、基本的には「弱者の側につく」というヒロイズムが、私の中には抜き難くあるからだ。
これはきっと、私が幼い頃に見た『仮面ライダー』などの特撮ヒーロードラマやアニメなどの影響だと思う。その意味で私は、きわめて素直な人間なのだ。
ただ、私の場合、その素直さも関係あるのだろうが、考え方がかなり原理主義的である。つまり、妥協を嫌うのだ。
ではなぜ妥協を嫌うのかと言えば、それは、ひとつには「不純」なのが嫌だという純粋主義があるのと、いったん妥協したら、どこまでも押し込まれかねない、という不安があるからであろう。ここで持ち堪えられない者が、どうして、数歩ひき退った所で持ち堪えられるというのか。
それならば、一歩も退いてはいけない。自分を甘やかすことになる妥協は禁物だと、そんな感覚があったのだと思う。
私は、人と比べれば、自分のことを「自信家」であると思っているし、そう公言もしてきた。その自信があるからである。
また、さらに自分の内面を覗いた場合、私は自分というものを、あまり信用していない。
例えば、映画の拷問シーンなどで、ペンチで生爪を剥がされるなんてシーンがあるが、あれを見れば「絶対に耐えられないだろうな」と思う。
映画の主人公のように、あんな拷問に耐えられないのは無論、例えば、現実における拷問にだって耐えられないだろう。
左翼文学者小林多喜二は、戦時中、特高警察に思想犯として捕えられて拷問死したが、私は小林と同じようなことなど出来ず、多くの左翼がそうであったように、「これは方便なんだ」と自分に言い聞かせて、きっと偽装転向して、拷問の苦痛から逃れただろう。
そんな具合で、私は自分の理想に反して、自分がそこまで「強い」人間だという自信は持っていない。
だが、だからこそ、頑張れるところまでは、徹底的に頑張らなければならないと考える。
少なくとも、人が見て「そこまで頑張ったんなら、もう十分だよ。君はよく頑張った」と、そう思ってもらえる程度には頑張らなければならないという、強迫的な意識がある。そのくらいは頑張らないと、自分が許せないし、自分がつまらない人間だと認めてしまったら、生きていてもつまらないと思うから、可能なかぎり徹底的にやらなければならないと、そんなふうに考えてしまうのである。
つまり、私が左翼的に「革新」的なのは、たぶん、「妥協」だの「馴れ合い」だのといった「中途半端」なものは、堕落への第一歩だと考えてしまうからで、それが怖いのだ。
相手がどうこうではなく、自分が信用ならないからこそ、妥協できないのである。大した実力もないくせに、無駄に自信があるやつこそ、嫌悪の対象である。
つまり私は、人間的な「理想」だの「革新」だのといったことを信じていない。
自分を信じてもいない者が、どうして他者を心底信じられよう?
だから、他人がどうこうではなく、私は「理想」であり「完璧」を目指すしかないのだ。「妥協」は、敵への妥協ではなく、弱い自分への敗北なのだ。
私が、いい加減な人間を憎むのも、彼らがいい加減だからではなく、彼らがみずからのいい加減さに気づかない点に苛立たされるからだと思う。
「どうして、そんなことにも気づけないのか?」
「どうして、そんなに自分に甘いのか?」
一一それが我慢ならない。
しかし、それが我慢ならないのは、「万が一にも、自分はそうなりたくはない」という意識があるからであろう。
周囲にくだらない人間が多くても、「こいつらアホだな」と気楽に見下していられるのなら、そこまで苛立たされることはないはずだ。
したがって、私が苛立つのは、彼らの中に「もしかすると、私もああなるかもしれない」という恐怖に由来する嫌悪があるからであろう。
「絶対に、あんなふうにはなりたくない」と。
そんなわけで、私の「潔癖症」が「徹底性」を求める。
「徹底したもの」ほど安心できるものはないからだ。「不純」における「不確定要素」を含まないからだ。
言い換えれば、曖昧なもの、中途半端なものは、その正体を見極めきれないからこそ、危険なものだと感じられるのだ。
一一そんなわけで、私の「左翼」的な「徹底性」とは、それを信じているからではなく、そうでないと安心できないからにすぎない。
明るい未来など信じてはいないが、ひとまず今ここで全力を出し切らなければ、私は今ここで、みずからに敗れてしまうだろう。だから、全力で徹底的にやるべきだと、そんなふうに感じているのである。
つまり、私は「左翼」なのではなく、「純粋思考の過激派」なのだ。
そこに、思想の左右など関係ないのだが、ひとまず「不徹底なもの」が嫌いで、理想に走るから、外見的には「左翼」ということになってしまう。
だが、私の場合は、徹頭徹尾、自分がどうなのかが問題であって、他人はどうでもいい。
自分のためにやったことが、結果として他人のためになれば、それはそれで結構なことだとは思うが、他人が目的ではないのである。
しかしながら、このように書いているのだから、私は私自身の「弱さ」に自覚的ではある。
だから、「どうしてもっと自信が持てないのか」「おおらかにならないのか」とそんなふうにも考えるし、要は、余裕のない自分に不満がある。一一これもまた、完璧主義の故なのであろう。
なぜ、くだらない奴は徹底的に叩き潰さなければ気が済まないのか?
なぜ、大目に見て、許してやることが出来ないのか?
一一私には、そんな気持ちがある。
だから、若い頃に読んで衝撃を受けたのが、笠井潔のミステリ小説『バイバイ、エンジェル』であった。

私は、この作品に描かれた犯罪者の「人間観」に、ほとんど完全に同意してしまった。その「大衆憎悪」に共感してしまったのだ。
『「……私は、あらゆる革命の敗北の、その究極の根拠を発見したのです。
なぜ、一切の革命は常に絶対に敗北するのでしょうか。歴史は、敗れた革命の残骸で埋めつくされているではありませんか。なぜ、革命はいつだってまるで悪い運命に呪われているもののように絞殺され続けてきたのでしょうか」
「なぜです」と日本人は陰気な声音で尋ねた。
「理由は、そう、わかってしまえば実に簡単なことなのです。それは、革命のなかにいつも解き難い矛盾と背理が含まれていたからです。革命は、胎内に敵対者の罠をはらんでいたのです。その罠とは、〈革命は人民による人民のための事業である〉という愚昧な命題です。この命題こそが、革命の敗北の根拠なのです。革命そのものとこの命題のあいだにあるものは、決して解くことのできない矛盾と撞着だけです。
そうです。革命と人民は本質的に無関係です。いいえ、あらゆる歴史の現実が露骨に示しているのは、革命の最悪の敵が人民そのものであったという事実なのではありませんか。革命の真の敵は、刑務所や軍隊や政治警察や武装した反革命ではなく、……人民という存在だったのです。乳臭い牝牛みたいに愚かな善意で目を曇らせた革命家たちは、いつもこの露骨な真実に無自覚でしたが、人民はその小狡い臆病な獣の本能で熟知していました。人民の熱狂的な支持と拍手のもとで、あるいは保身のための無言の加担によって、無数の革命家たちは投獄され拷問され虐殺され続けてきたのです。(以下略)」』
(笠井潔、角川文庫版『バイバイ、エンジェル』P361~362)
『 〈人民〉とは、人間が虫けらのように生物的にのみ存在することの別名です。日々、その薄汚い口いっぱいに押しこむための食物、食物を得るためのいやいやながらの労働、いやな労働を相互の監視と強制で保障するための集団、集団の自己目的であるその存続に不可欠な生殖、生殖に男たちと女たちを誘いこむ愚鈍で卑しげな薄笑いにも似た欲情……。この円環に閉じこめられ、いやむしろこの円環のぬくぬくした生温かい暗がりから一歩も出ようとしないような生存のかたちこそ、〈人民〉と呼ばれるものなのです。つまり人民とは、人間の自然状態です。だから、あるがままの現状をべったりと肯定し、飽食し、泥と糞のなかで怠惰にねそべる豚のように存在しようと、あるいは飢餓のなかで、その卑しい食欲を満たすため支配的な集団にパンを要求して暴動化し、秩序の枠をはみ出していくように存在しようと、どちらにせよただの自然状態であることに変わりはありません。
だから人民は、本質的に国家を超えることができないのです。国家とは、自然状態にある個々の人間が、絶対的に自己を意識しえない、したがって自己を統御しえないほどに無能であることの結果、蛆が腐肉に湧き出すように生み出された共同の意志だからです。制度化され、固着し、醜く肥大した観念、生物的生存と密通し堕落した観念、これが国家だからです。』
(前同 P363~364)
まったくもって同感である。
私が『バイバイ、エンジェル』を読んだのは40年も前の話だが、こうした「大衆」観が少しも古びていないというのは、当時はまだ存在していなかった、大衆的な本能を丸裸にする装置たる「インターネット」上の言説に、それはあまりにも明らかではないか。
彼らは、匿名の陰にさえ隠れられるなら、どんなに下劣な言葉もならべられ、日頃は隠しているその素顔を明らかにする。
また、身の程知らずの「承認欲求」に由来する、軽薄な知ったかぶりや人目に媚びた良い人ぶりなど、すべては卑小な自身の『あるがままの現状をべったりと肯定し、飽食し、泥と糞のなかで怠惰にねそべる豚のように存在しよう』とする、その『卑しい食欲』の発露そのものではないか。
一一と、そんなふうにしか思えない。
だから、こんな世界なら、いっそ滅んでしまった方がスッキリするし、こんな世界に生まれてくる罪なき子供たちを救うことにもなるのではないか。一一とまで、思ってしまう。
だが、こんな私の感覚に、主人公で探偵役の矢吹駆は、次のように言う。
『君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫でまわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように味わいつくすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、怖れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。』
(前同 P373〜375)
いささか、綺麗事に過ぎるきらいはある。
だが、私の「大衆憎悪」が、私の弱さに由来する潔癖症の故だというのは、間違いなく事実なのだ。
だから、私は、その弱さを超えて「豚のような大衆」を許せるようになりたいと思った。
「許す」とは、ずいぶん居丈高な物言いだと言われるかもしれないが、これは私の本音なのだから仕方ない。
「大衆」が、しばしば単なる「豚」であるという事実には、否定し難いほど大量の証拠があるからなのだが、問題は、その程度のものを許せない自分の弱さが、私には許せないのだ。
「大衆」を許せないのではなく、「大衆さえ許せない自分」が、私は許せないという話なのである。
こうした、自己に対する理想主義において、私は徹底した理想主義者でしかあり得ない。
いや、そうでしかあり得なかったからこそ、それもまた、私の乗り越えるべきものとして、長年の課題であったのだ。
矢吹駆の謎の言葉「すべてよし(トゥー・テ・ビアン)」が、私の目指すべき境地ともなったのである。
○ ○ ○
そんなわけで、私の中には、どこか「人間存在に対する絶望」がある。
だから、妥協ができない。妥協をすれば、豚にまで落ちるかもしれないという恐怖感が、どこかに抜き難くあるのだ。
まただからこそ、そんな「豚のような大衆」を体現するような「ネット右翼」に対しては、文字どおり「死ねばいい」というほどの憎悪をもって対応してきた。
私の中にある「大衆憎悪」を発散するための対象として、むしろ彼らは都合のよい存在だったということなのであろう。
だが、そうしたネット右翼たちがときに自称した「保守(思想)」というものを勉強してみると、これはネット右翼とは縁もゆかりもない、きわめて興味ぶかい思想だということが、徐々にわかってきた。
私にとって「保守思想」の謎とは、端的に言って、「現状を否定しないでいられる自信」であるように思える。
また、そこでおのずと「どうして、こんなクソみたいな現実を容認できるのか。変えなければならないとは思わないのか?」という疑問も浮かぶ。
一一だが、真っ当な「保守思想」というものは、決して「現状肯定」などではない、ということも徐々にわかってきた。
では、彼らはどう考えているのかと言えば、「現状で何も問題がないとは思えない。だが、問題の無い現実などというものは、そもそも存在し得ない」と、そういう認識なのだ。
つまり、一一そうした意味での現実を見ない、「左翼」的な「改良・改善主義」的な「理想主義」は、当然の結果としてその目論見どおりに成功するわけもなく、得てして、より悲惨な現実を生んでしまいがちだ一一と、そういうことなのだ。
柄谷行人風に言えば、統整的理念としてではなく、構築的理念としての「共産主義」が破綻したのも、不完全な人間が、その自覚もなく、完全な理想を実現できると信じ、それを力づくでも実現しようとした段階で、それはもう明らかに誤謬であり、誤謬に基づく行動がどこかで破綻するというのは、理の当然なのである。
これは、例えば、トランスジェンダリズムにおける「性別は性自認によるものと、ただちに法規定(法改正)せよ」といった、乱暴な理想主義と同じことでもある。
与那覇潤は本書の中でこう書いている。
『 季節もののように入れ替わる、それらのトピックスの「奥」で、いま、世界に通底している問題の本質とは、なんだろうか。
私たちのニヒリズムである。人や社会がもっぱら「強制力」に頼ってなにかを解決しようとするとか、そこには必ず、人間への最重度の不信がある。』(P68〜69)
だが、だからこそ私は、自身に「1人分」以上の力を与えることを禁じた。
私が権力を持てば、必ずや大粛清をやるだろうと思ったからだ。
私が行使して良いのは言葉だけだあり、自粛的にそこに限定し、それっぽっちのものを正当に行使するだけなら、ときにそれで相手を殺す結果になったとしても、それはもうやむを得ないと、そう考えたのだ。
ともあれ「保守」は、そのリアリズムにおいて、左翼的に「まだ見ぬ未来に、理想を妄想する」のではなく、比較的無難な、過去にその範例を求める。一一彼らの「伝統主義」とは、そういうものなのだ。
無論、私たちが今の視点から振り返る「伝統」だの「歴史」だのといったものも、所詮は、今の視点によって、ご都合主義的に脱色され捏造された「伝統」であり「歴史」でしかなく、基本的にはフィクションでしかないのは自明だ。
「伝統」や「歴史」を見たことのある者など、これまで一人もいないのである。それらは、頭の中のイメージの投影でしかないのだ。
だが、少なくとも、何の裏付けもなく頭の中で捏ち上げた「空中楼閣としての理想」などよりは、「伝統」や「慣習」には、幾らかなりとも「歴史的経験」の裏付けはあろう。
だから、「革新」による道なき道へと踏み出す無謀な冒険主義ではなく、ひとまず、実績のある「過去」を参照する方が「無難」だというのが、保守思想なのだ。
言い換えれば、その程度のものであり、それがその程度でしかない人間には、分相応だということなのであろう。
つまり、「保守思想」は、そうした点においては、人間を信じてはいないのである。
だが、その点において、私は「保守主義」に共感できるのだ。
○ ○ ○
さて、やっと本書『危機のいま古典をよむ』である。

基本、理想主義者であり、大雑把に言えば「左翼」たる私が、どう見ても「保守」にしか見えない与那覇潤に興味を持ったのは、武蔵大学の教授で自称フェミニストの北村紗衣を「共通の敵」としているのを知ったからである。
私が、北村紗衣から因縁をつけられた結果としての逆襲に出る以前、与那覇も同様の経験をして、見事に北村紗衣を返り討ちにしていた。
またそのおかげで、私が北村紗衣への逆襲を始めると、北村は、与那覇に返り討ちにあった屈辱をもう二度と味わいたくないというトラウマから、私の反撃に対しては、初手から無視黙殺を決め込んだのであった。
一一じつに、期待はずれこの上ないし、面白くもない。
ともあれ、そんなわけで私は、当初与那覇潤を「攻撃的な人」だと思っていた。
またその点で、与那覇から学べることは学んで、北村紗衣を徹底的に潰そうと思ったのである。
もとより私は、そうした意味において、極左的に過激な人間であったし、まして、北村紗衣がフェミニストとして「女性差別」に反対する「左翼リベラル」を名乗り、世間にもそう認知されているという現実は、同じ「人権主義」的な立場に立つ者として容認し難い。
北村紗衣のような「獅子身中の虫」の存在は「決して容認できない」と、そう考えたのである。
そんなわけで、ときどき与那覇潤の「note」を読んだりしていたのだが、その関係で、昨年、与那覇の新刊『江藤淳と加藤典洋 ―― 戦後史を歩きなおす』を読んだのだが、そこでの与那覇潤は、なぜか別人のように感じられた。
ネット上でみる与那覇とは、北村紗衣をはじめとした「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」(以下、オープンレターと略記)関係者(オープンレターズ)に対して、徹底的に攻撃的であり、嘲笑的ですらあったのだが、同書には、それとは真逆とすら思える「温和さ」があったのだ。
で、私はその点について、少々不満を覚えた。「あなたは、そんな人じゃないだろう? 活字だからって、穏健ぶるのはやめてくれよ」と、そんなふうに感じたのである。
具体的に言えば、与那覇は同書で扱った江藤淳と加藤典洋に対して、かなり同情的だったのだ。

だが、私は以前に、この二人を徹底的に批判していたので、おのずと与那覇のそれは、この二人に「甘い」と感じられた。
そして、この二人が、基本的には「保守」だからではないかと疑った。要は、党派的な身内への甘さではないかと疑ったのだ。
しかしながら与那覇は同書で、この二人を全面的に肯定しているのではなく、彼らの生き方を総合的に見て、「理解できる」としていただけだとも言えた。
問題もあっただろうが、しかし、そうなるにはそうなるなりの経緯もあるし、彼らは彼らなりに闘ったのだから、そこは認めたいと、そんな立場だったのだ。
一方、私は、江藤淳や加藤典洋の全人生になどは興味がなく、問題となった一点における主張について、「それは認められないし、こんな問題がある」と、批判しただけなのだ。
過去も未来もなく、ただ、その問題に限定しての立論だったのである。
それに、どんな人間だって、その人生の前後まで含めて総論的に見れば、良いところも悪いところもあるというような話にしかならず、論点がぼやけてしまうと、そんな思いがあった。
私としては、そうした「曖昧なもの」は、危ういのである。
だが今回、本書 『危機のいま古典をよむ』を読んで、はっきりとわかったのは、与那覇にも人並みの攻撃性があるとは言え、その基本は「許す=許容する」というところにある、ということであった。
否定し排除するのではなく、「可能なかぎりが差異を認めて包摂しよう」という構えだ。
それがあるからこそ、与那覇は「日本における、キャンセルカルチャーの代名詞」となった「オープンレター」を許すことが出来なかったのだろう。それは、「包摂」とは真逆のものだったからである。
三島由紀夫の「ひとこと〈天皇〉と言ってくれたら、全共闘の諸君とも共闘できたのに」発言ではないけれど、与那覇にすれば、オープンレターズの面々がひとこと「呉座さんに対しては、やりすぎた」と、そう反省の言葉を口にしたなら、あっさりと許せたはずなのだ。
歴史学者の呉座勇一が、自らの「鍵アカウント」内において、北村紗衣の陰口をしたことに対し、北村紗衣の主導で、千数百名もの賛同署名を添えた告発質問状たる「オープンレター」がネットに公開され、その「数の力」で呉座を追い詰めた結果、呉座が公開謝罪したものの、それだけでは信用ならないと、呉座を許そうとはしなかったのとは違い、与那覇の場合は、オープンレターズの面々が、本音は別にして、公に自らの非(やりすぎ)を認めて、謝罪したなら許したはずだし、事実、署名を撤回した人物の責任までは、追及していないのである。
そして、この点については、私も同じで、北村紗衣がひとこと「見当違いの難癖をつけた上に、言論封圧のための管理者通報をしたことについては、フェアなやり方ではなかったと反省しています」と言えば、私はそれ以上、北村紗衣を責めることもなかったのだ。
だが、北村紗衣は、謝罪しないどころか、著書もある言論人の端くれでありながら、「反論」することすらしないという、保身のための責任回避に逃げたので、私はそれをこそ、さらに批判せざるを得なくなったのである。
私から徹底的に批判される者というのは、おおむね、自身の発言に伴う説明責任を果たさない卑怯者と、そう相場が決まっているのだ。
さて、話を本書『危機のいま古典をよむ』に戻すと、本書の帯には、
『希望の読書論!』
と大書させているが、その意味するところを考えた人は、きっと多くはないはずだ。
「希望の○○」といったキャッチフレーズは、得てして無内容なものだから、どうしても読み飛ばしてしまいがちなのである。
だが、本書を読めば、その意図がまさに「希望の読書論」というところにあるというのがわかる。一一どういうことか?
それは、私たちが、この世界の現実を知れば知るほど、絶望的にならざるを得ないのに対して、本書における与那覇潤の読書論は、「絶望の中に希望を見出すための読書」という趣旨のものだからでなる。
ではなぜ、本書のタイトルは、
『危機のいま古典をよむ』
なのか。
それは、絶望に閉ざされたとしか思えない、この「危機の時代」において、人に「生きる希望」を与えてくれるのが「古典」と呼ばれるべき書物であり、それを読むことが「希望」なのだ、ということである。
つまり、ここで言う「古典」とは、単に「古くから残っている名作典籍」という意味ではなく、絶望的な現実の中にあってさえ「人間とは、捨てたものではない」と思わせてくれるような本のことである。
本書における読書論とは、そんな「古典」の読み方指南なのだ。
「この本は、一応のところ、絶望的な世界をそのまま描いていると言えるだろう。
しかし、この本が描いているのは、絶望だけではなく、その向こうにさえ存在する希望であり、そこまで描いているものこそが、古典の名にふさわしいのだ」
と、与那覇潤は、本書でそのようなことを語っている。
決して、ありきたりの「古典文学論」や「古典的名著紹介」などではないのだ。
事実、本書には、『週刊現代』誌初出の「わが人生最高の10冊」という、読書歴に関するエッセイが収められており、そこで紹介されている10冊とは、次のようなものなのだ。
【1位】加藤典弘『完本 太宰と井伏 ふたつの戦後』
【2位】夢野久作『ドグラ・マグラ』
【3位】佐藤忠男 編『ATG映画を読む 60年代に始まった名作のアーカイヴ』
【4位】柳田國男『明治大正史 世相編』
【5位】村松剛『死の日本文學史』
【6位】ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』
【7位】井上智徳『COPPELION』
【8位】高峰秀子『わたしの渡世日記』
【9位】江藤淳『成熟と喪失 〝母〟の崩壊』
【10位】連城三紀彦『戻り川心中』
【最近読んだ1冊】朝井リョウ『正欲』
与那覇は、このエッセイを次のように書き起こす。
『 最初にはまった読書のジャンルはミステリーで、中学の頃でした。名作と呼ばれる古典を当たっていったのですが、『ドグラ・マグラ』の衝撃はすごかったですね。』(P120)
このようなざっくばらんな書き方だし、何よりも「わが人生最高の10冊」として挙げている本に、一般的な「文学史」や「学術史」における「古典」は一冊もない。
もちろん、特定ジャンルにおける「古典」作品を含んではいるが、ジャンルを統一しようとか、重厚な専門書を並べて「どうだ!」などとやるつもりなど、かけらも感じさせない、しごく素直な「個人的」ラインナップなのである。
つまり、これらの本は「与那覇潤にとっての古典」であって、世間からの同意や承認を求めるための「古典」などではないのだ。
それまでの人生において、さまざまなかたちで与那覇に大きな影響を与えた本。
「世の中、捨てたものではないな」と、「生きる希望」を与えてくれた本なのである。
昨今、読書というと「承認のための読書」が流行っており、そうした読書は、おのずと「人に見せびらかして、承認を求めるための本」でしかない。
だから「承認されやすい、流行りの本(話題の本)」を、「流行りの論調で褒める」ことしか出来ないのである。
そうした読書においては、本は他者からの承認を求める道具であって、本そのものが承認を与えてくれるのではない。
「君は、そのままで良いのだ」と言ってくれる本を求める読書をしていないから、そうした本に出会うこともないのである。
一一では、「希望の読書」とは何か?
それは、あなたの絶望を、一時的に「夢」で糊塗するようなものではなく、あなたの絶望をそのまま捉え、その上で、その向こうにささやかな希望の光を差し示してくれる、そんな本との出会いであり、読書のことだ。
それだけで救われるわけではないけれども、「希望はある」と教えてくれる読書であり、あとは自分の脚で歩き出すだけなのである。
読書においては「革命」は無い。
一時の「感動」など、幻にすぎない。
「感動した」「勇気を与えられた」などと気安く言うような者は、そもそもまともに読書などしたことはなく、ただ、自分の現実からの逃避を求めているだけである。
したがって、読書においては、一歩一歩の漸進があるのみ。
そして、その一歩を踏み出す「希望」を与えてくれる本こそが、あなたの「古典」であり、そうした読書こそが「希望の読書」なのである。
(2026年8月19日)
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