朱喜哲 『100分de名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』: ローティを悪用する〈電通〉哲学

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▷ 書評:朱喜哲『100分de名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』(NHK出版)


私の読む朱喜哲の著書の2冊目となる本テキストは、NHKのテレビ番組『100分de名著』のテキストとして書かれたもので、100ページそこそこの小著である。


本書で扱われているのは、アメリカの哲学者リチャード・ローティの主著『偶然性・アイロニー・連帯』で、ひとまずこの本の解説書であると考えてよい。

ただし、ある哲学者の主著を、たかだか100ページほどの解説書で解説しきれるものではない、というのは自明な話であろう。

だから、そんなものを読んで、『偶然性・アイロニー・連帯』が理解できたとか、「ローティの思想がわかった」とか眠たいことを考えるのは、言うも愚かな勘違いである。

したがって、本書に何が書かれているのかと言えば、それは本書を書いた朱喜哲の思想、ではなくて、「アピールしたいこと(宣伝)」であると、そう考えるべきであろう。

つまり、『偶然性・アイロニー・連帯』をはじめとしたローティの言説の中から、自分に都合のいい部分を切り出してきて、そこに集中してローティを語ることで、さも、ローティがそう語っているのだというかたちで、自分の、つまり朱喜哲の、語りたいことを、ローティの権威を借りて語っている、ということである。


(『終わりなき議論こそ哲学が向かうべき「希望」である』一一という議論だけを永遠にやっていることが、朱喜哲の「希望」するところなのかもしれない)

しかしながら、これはなにも、朱喜哲だけがやっていることではない。
入門書とか解説書とかいったものは、すべて、そうした性格を持っており、それは避け得ないことでもあるのだ。

所詮、解説とは、文字どおり「解きほぐした説」であり、その解きほぐし方というのは、解説者の「好み」だの「都合」だのが、反映されざるを得ない。

つまり「解釈」に開かれているのは、なにも「文学テキスト」には限らず、あらゆるテキストが、宿命的にそうであらざるを得ないのだから、「哲学」的テキストだって、それはまったく同断なのだ。

したがって、「朱喜哲のPR」ではなく、「ローティの思想」を知りたいのであれば、最終的にはローティのテキストを読んで、自分で解釈するしかない。
無論、それも「私の解釈」であって「ローティの考え(思い)」そのものではないのだが、「他者を理解する」というのは、それ以外ではあり得ないのだ。

つまり、「他者を理解する」とは、「私が他者を理解する」ということであって、「他人が他者を理解したのを、私が理解する」ということではない。
それでは「私は、他者を理解しようとした人を理解しようとした」だけだということにしかならない。
すなわち「ローティを理解しようとして、朱喜哲の主張を理解しようとした」だけなのである。

そんなわけで、本テキスト『100分de名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』を読むとは、「ローティを読む」ことではない。

そうではなくて「ローティを読んだと言っている、朱喜哲の主張を読む」ことなのである。
そのあたりを混同すると、それは「ローティの本なんか読む必要がない」という、ローティを蔑ろにした、誤った読みにしかならないのだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、朱喜哲は、本テキストにおいて、ローティを解説しながら、可能なかぎり、自身を正当化するための議論を展開している。

「可能なかぎり」という限定をつけたのは、ローティの解説である以上、ローティの主張を無視したり、言っていないことを言ってることにしたり、露骨にローティの主張を捻じ曲げたりは、したくても出来ないところがある、というところである。

本書で、朱喜哲がローティの中心的な主張として強調しているのは、タイトルにもあるとおりで、「会話を途切れさせない(終わらせることを許さない)」ということだ。

これはどういうことかというと、朱喜哲の説明するところでは、ローティは、それまでの哲学というのは、「究極の真理」に到達することを目指したものだったのだが、しかし、そうした考え方は、容易に「最終的な真理」という観念を呼び寄せてしまい、その権威において、議論(哲学的な会話)を止めてしまうというのである。
「もう、答は出てしまっている。だから、もう議論は必要ないから、この正解に従え」と、そうなってしまいがちなのだ。

だが、ローティにすれば、それは「嘘」だということになる。しかも「暴力的な嘘」である。

ローティにすれば、「唯一の真理」などというものは存在せず、「真理」とされるものは、いつでも必ず、状況依存的なものであり、その意味で「歴史的」に作られたものでしかない。

ある偶然的な状況に置かれた哲学者が、その状況における本質を剔抉しようとした結果として、それは「そこ」に見出された「その場・その時」の、つまり「いまここ」の「真理」でしかなく、「いつでもどこでも」通用するような「普遍的な真理としての真理」などではないと、ローティは、それまでの「真理探究主義」的な哲学の、ドグマを批判したのである。

それらの、つまり、所詮はそうした哲学者たちの語るところのものでしかない「真理」とは、無限に存在するものとしての「真理」の影でしかなく、実在するものではない。

事実、「哲学的な探究」というものは、哲学者から哲学者へという一本道で、真理に向かって深化させられてきたもの、などではない。
それぞれの哲学者が、その置かれた場所における最も切実な問題を、「真理に至る重要問題」と信じて考えた(哲学した)ものに過ぎないのだと、ローティはそう喝破した。

したがって我々は、「再定義(修正)」に開かれた態度で、物事を考えなければならない。
最終的な真理など存在しないという前提に立って、「その時その場」において、最良の理解を求めるべきであり、その結論もまた、状況に応じて変化して(再定義に付されて)しかるべきものなのである、というプラグマティック(実用主義的)な思想を、ローティは主張する。

で、こうした考え方は、決して間違いではない。

間違いではないのだが、こうした考え方は、容易に「相対主義」に転化させられ、悪用される(されがちだ)ということにくらいは気づかないと、それは哲学したことにはならないだろう。

すでに私は、朱喜哲という人の「現実的な問題点」を、別著についてのレビューで指摘している。

「哲学」的な話ではなく、「今ここ」における朱喜哲の問題であり、しかしそれは、いわゆる「哲学」的な話ではなくても、それを考えることが、ローティのいう「哲学」であり、「哲学において会話を続ける」ということなのだ。


朱喜哲の問題点とは、端的に言えば、公的な言論を為しているにもかかわらず、公的な「発言責任」を取らない、ということだ。
平たく言えば、言いっぱなしであり、だからこそ、矛盾したことを平気で言う。

例えば、「性差別は許されない」「許されないものは存在しない」といった調子だ。
普通これは「矛盾した言説」であると批判される。

ちなみに、ここで言う「批判」とは、「貶す」という意味ではなく、その言葉が「検討に付される」というほどの意味だ。
つまり「それって、矛盾してませんか?」という問いは、「批判」なのだ。

したがって、こうした「批判」に対しては、「それは、これこれこういう理由で、矛盾ではないんですよ」と説明すればよいだけの話なのだ。

例えば、「性差別は許されない。けれども、許されないものは存在しない。なぜなら、差別意識は変更(再定義・反省的改訂)可能なものだからである」と、こう言われれば、説明された方も「なるほど、そういうことなら、おっしゃるとおり」と納得もするだろう。

ところが、朱喜哲の場合は、そうした「批判」に対して、無視を決め込む。説明をしない。
説明をしないまま、「会話を続けることが大切だ」と、また矛盾したことを言う。


(共著のある荒木優太から言われてもガン無視)

一一これこそが、朱喜哲の思想であり、世渡り哲学なのだ。
また、だからこそ私は、そうした「独善」を、批判するのである。

例えば、朱喜哲は本テキストにおいて、ローティにおけるリベラリズムの根底にあるのは、「残酷さを低減すること」だと言う。

もちろん「残酷さ」に晒されて喜ぶ人はいないから、これは当然の話なのだが、問題は、多くの場合「残酷さ」とは、わかりやすい「他人の残酷さ」ではなく、「私(自身)の残酷さ」なのだ。

つまり、すでに書いたように「最終的な真理」というものを奉じるそれまでの哲学というのは、その「真理」の名において、しばしば「他者」に対しては「残酷」であった。

だから、ローティは、哲学における「真理主義」を批判する「反哲学」者になったのだ。


当然、多くの場合、哲学者だって、良かれと思って、自分なりの「真理」を語るのだが、それはしばしば「真理」を同じくしない人たちに対して「残酷」なものになる。

だからこそローティは、「他者の残酷」ではなく、自分の中にも確実に存在する「残酷さ」を理解しなければならない。そうでなければ、「真理」の名において、いくら「他者の残酷」を論い、批判したったところで、それ自体が「残酷」に転化しまうのだと、そう指摘するのだ。

でこれも、まったくもっともな話で、要は「言うは易く、為すは難し」という「真理」であろう。

この程度のことを語るだけなら、ちょっと頭の良い大学生にも容易なことなのだが、肝心なのは、そして困難なのは、この思想を自身が生きる、ということなのだ。

一一だが、それがまったく出来ていないからこそ、私は朱喜哲の「言行不一致」を批判する。せざるを得ない。
「ローティ爺っちゃんの名に賭けて!」(古)

すると、朱喜哲は、ローティの「公と私は、一致していなくても良い」という議論を持ち出して、自身の露骨な矛盾を、自己正当化する。

「公と私は、一致していなくても良い」とは、どういうことかと言うと、普通に哲学的な考えからすれば、「公の理想」と「私(個人)の理想」が一致するところにこそ、哲学が追い求める「真理」があると、そう考えるのだが、ローティは、それは「真理の名による暴力(的な思考)」だと批判するのだ

そもそも、どうして、「公の理想」と「私(個人)の理想」が、完全一致し得るところのものだなどと、想定し得るのか?

無論、それがあるのなら、それに越したことはないのだが、それが無かったとしたら、無い物を「あるんだから、それを求めよ」と(「真理」の名において)要求するのは、「残酷な暴力」ではないのか、ということになるのである。

だから、そもそも現実的には、それらは完全に一致したりなどしないということを、私たちは経験的に知っているのだから、それを無理に一致させようとする「暴力」を振るうのではなく、両者のバランスを取りながら、その時々、適切なかたちで重心を移しながら、両者を両立させていけば良いのだ。一一というのが、ローティのプラグマティックな思想だというのである。

で、これに対しても、私は大いに賛成である。

事実、私は「ガザの子供たちの現状」に心を痛めながら、その一方で「アニメを論じる」という、一見「矛盾した生」を、現に生きている。

それを隠したことはないし、そんな自分のことを、時に「理想主義者」と呼び、時に「ディレッタント(趣味人)」だと呼んで、その二重性を恥じてもいない。
つまり、この態度こそまさに、ローティが上で主張した、「公私を無理に一致させない」という「人間主義リアリズム」に発する態度なのである。

では、朱喜哲はどうかというと、自分の「私的な欲望」については、一切語らない。

「私はローティの思想を支持しますよ」アピールはするものの、実際に示されるのは「公の部分」だけ。つまり「建前・綺麗事」の部分だけなのである。

ローティの、「公私を無理に一致させる必要はないし、一致させてはならない」という主張は、「公」に比して軽んじられやすい「私」の部分を擁護するためのものなのだが、そんなローティの思想に従っているはずの朱喜哲が、現にやっていることは「建前(公)一本槍」なのだ。一一だから、うさん臭い。

そして、「それは矛盾じゃないのか」と批判されれば、「矛盾は解消されてはならない」などと、ローティの議論を悪用するのである。

同様のことで、ローティは「残酷さ」を減らすためには、「他人の残酷さ」ではなく「私の残酷さとしての、真理や正義」の欺瞞に、自ら気づかなければならない、と指摘しており、朱喜哲は、それも支持しているかのような顔をして、解説しているのだが、しかし、自身の「残酷さ」については、例によって、一言半句触れようとはしない。

その典型な例が、先の『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』のレビューで詳しく触れた、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」への、朱喜哲の加担責任問題なのだ。

この「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」(以下「オープンレター」と略記)は、武蔵大学の教授で、自称フェミニストの北村紗衣について、歴史学者の呉座勇一が、自身の「鍵アカウント」で悪口を書いた結果、それが北村紗衣にリークされて、「こんな女性差別者が研究者の世界にいては、女性研究者は安心して研究など出来ない」と批判して、呉座をアカデミズムの世界からパージしキャンセルすることを暗に求めた「賛同署名付き公開告発状」であった。

一一これに朱喜哲は、賛同署名したのである。


言うまでもなく、「女性差別」は許されない。だから、それは批判されねばならないというのは、ローティも反対しない「今ここ」の判断なのだが、しかし問題は、「オープンレター」が、実質的には、呉座を「女性差別者」だから、アカデミズムの世界から排除せよと、そう訴えており、事実そうなってしまったという点なのだ。

本テキストの第3回(全4回)の「言語は虐殺さえ引き起こす」で語られているように、敵を抹殺しようとする場合、排除対象に対して、ある「名付け」が施され、その名という抽象名詞を悪魔化することで、その名付けられた対象(敵)は、人間ではなく、殺してもかまわない「非人間」にされてしまう。

この場合、「悪魔とは悪」である(非人間は人間ではない)という同語反復的「絶対真理」において、そう名づけられた対象は、様々であり変わりうる人間ではなく、「悪魔(非人間)という絶対悪」へと転化されてしまうのだ。


で、当然のことながら、ローティはこうしたやり方を批判する。
なぜならこれは、一種の「真理主義」に他ならないからである。

「あいつは悪魔だ」とは「あいつの本質は、永遠不変の悪魔である」ということであり、改心する余地などないのだから、抹殺するしかないし、だからこそ、抹殺することが正義なのだ、という理屈だ。

つまり、「オープンレター」においては、呉座勇一は「女性差別者」であり、「女性差別者」とは「永遠の女性差別者」であって、改心することはないのだから、抹殺するしかない、ということなのだ。
つまり、「問答無用」に、否定すべき絶対存在だというわけである。

「呉座勇一は、女性差別者だから、アカデミズムから排除せよ」と「数の力(千数百人の賛同署名)」によって排除を要求をする前に、一一どうして個々に、特に当事者である北村紗衣が、公然と(論理的に)呉座勇一を「批判」しなかったのか?
それによって、呉座の考え方を改めさせようとしなかったのか?

「オープンレター」が批判されるようになったのは、まさにこの点で、「議論」をしようとはせず、最初から「抹殺」を意図していた点にある。

「女性差別者など、アカデミズムの世界に存在してはならない(から排除すべき)」だと、そういう「フェミニズム的な真理」を掲げた、絶対的な「存在否定」である。

(「いや、現に暴走したでしょ」と言われている)

だが、この「虐殺の論理」は、ローティが批判し、朱喜哲も本テキストで、そのローティを支持していたはずなのだが、だとすると、朱喜哲は、自分のしたことを批判しながら、それをまるで他人事のように語り、相変わらず「私は正しい」と、そんな「PR・宣伝」ばかりしている、ということになる。

ローティの指摘に反して、誰にでもある「残酷さ」を、朱喜哲は自身、徹底的な「黙秘」によって隠蔽し、事情を知らない人たちに向けて「どこから見ても非の打ちどころのない人(残酷ではない人)」を演じるのだ。

その点、私は真逆である。
私はこれまでにしばしば「批判する際は、相手を殺すつもりで批判している」と、そう公言しており、それは自身の言葉の「残酷さ」を承知した上で、それでも必要な批判をしているのだということだし、その「結果責任」は引き受けるという意思表示でもある。

そしてそんな私に批判されているのが、みんなで寄ってたかって呉座勇一を袋叩きにした結果、今度は自分たちが批判され始めると、途端に黙秘に転じ、「私は何も、残酷なことなんてしてませんし、したこともありません」などという顔をしている、北村紗衣をはじめとしたオープンレターズであり、朱喜哲ような「説明責任を果たしていない賛同署名者」たちなのだ。

本テキスト『100分de名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』は、そんな人が書いた、「ローティ利用の、自己正当化テキスト」なのだとは、そういう意味なのである。

平たく言えば、「虐殺は許されないと語る虐殺者」によるテキストであり、「語るだけならオウムでも語る」というのが、本テキストなのだ。

その証拠に、本書の最終回では、朱喜哲はローティに教えに反して、臆面もなく露骨な自己正当化を行なっている。

ローティは、いかにも「反哲学」者らしく、人が「他者への想像力」を獲得するのに役立つのは、哲学ではなく、文学やノンフィクションなのだと、そんな大胆かつ挑発的な主張をしている。

その部分を、朱喜哲の前説から、そこに引用されたローティ原文までを、下に引用する。
(引用されたローティ文は、ここでは〈 〉で括っておく。ゴシック強調と(※)補足は年間読書人)

『 では、本質(※ 普遍的な真理)という話を抜きにして、どうやって(※ 異なった者どおしの)連帯の可能性を探っていく(※ と、ローティは言う)のか。最後に残る課題はそれです。言い換えれば、どうすれば私たちは(※ 他者への)「残酷さ」に対する(※  批判的な)感性を磨くことができるのか。(※ そのことによって)共感を育むことができるのか。前回の最後に見たように、ローティはその手がかりを(※ 文学などの)フィクションやエスノグラフィ、ジャーナリズムに求めます。とりわけフィクションには、「正しくなさ」を内側から描きうるという意味で、そこに可能性を見出しているのです。
 フィクションの可能性の詳細に入る前に、残酷さと共感の関わりについて述べたローティのことばを確認しておきましょう。前回から引用している『偶然性・アイロニー・連帯』第I部第四章で、ローティはこう述べています。

〈苦痛は非言語的である。〔‥‥‥〕残酷な行為の犠牲者、苦しみを受けている人びとには、言語によって語りうるものはほとんどない。だから、「被抑圧者の声」なるものや「犠牲者の言語」なるものは存在しない(※ それはいつでも、その状況にはない者の、代弁でしかあり得ない)。犠牲者がかつて使用した言語はもはや(※ 過去を語るのものとして、今は)はたらいていない(※ 機能していない)し、新たに言葉で語るには、(※ 今ここの)犠牲者はあまりにも大きな苦しみをこうむっている(※ から語らない)。そうであれば、彼らの状況を言語に表現する作業が誰か他の者によって彼らのためになしとげられなくてはならないだろう。リベラルな小説家、詩人、ジャーナリストはそのような作業に長けている。(※ しかし、哲学者に代表される)リベラルな理論家は通例、そうではない(※ それを、よくなし得ない)。〉 』(P83〜84)


別に難しい話ではなかろう。
文学(小説や詩)やノンフィクションなどは、他者の「内面の痛み」を直接的に描写することで、それを私たちが直感的に理解できるように伝えてくれるメディアなのだ。

ではなぜ「哲学」はダメなのかと言えば、それは、その「真理主義」に基づく「普遍化・抽象化」を事とするものだからである。

言い換えれば、「個々の痛み」ではなく「痛みの本質」を取り出そうとし「それを理解してこそ、人々の痛みを理解したと言えるのだ」と、そんなふうにやってしまうから、結局は、「多様な他者」というものを排除してしまうことにもなるためである。

まあ、この程度のことは、哲学の専門家でなくてもわかる話なのだが、しかし、朱喜哲は、最後の最後で、なぜかローティのこうしたラディカルな「哲学批判」に対して、「反論」とは見せないように、「注釈」めかした、次のような蛇足を、あえて試みている。

『 ローティにとって、社会という単位で目指すべき希望も、そしてそのためにむしろ直視しなければならない暗黒面も、どちらも避けては通れないものでした。それは決して「わかりやすい」哲学ではありません。というのも、ひとつの正しい立場、正しい主張へと読者を説得するものではなく、むしろそうした「正しさ」を解体し、自身にとって重要な「終極の語彙」を改訂へと開くことに促す点にこそ、ローティ哲学の最重要ポイントがあるからです。
 最後に「希望」の所在を、フィクションやジャーナリズム、エスノグラフィに託すローティの字義通りの主張に反して、このように(※ 本書でそうしたように)特定の哲学者の思想について学ぶこともまた、ローティ流の「希望」たりうるという、私自身の考えを述べて本書を閉じたいと思います。
 たしかにローティが述べるように、哲学理論は私たちの共感を刺激し、「われわれ」を拡張して連帯のよすがとするために、それほど役に立ちません。それどころか、往々にして本質主義的な立場から、むしろ分断に根拠を与える道具になりえてしまうことは、彼が批判し続けた通りです。
 しかし、一人の哲学者の思想の変遷を追うことは、どうでしょうか。
 言うまでもなく個々の哲学者の生き様、葛藤に満ちた思想的遍歴の結果として、その理論があり、言説があります。今回、ローティについて追うことで見えてきたように、哲学を学ぶとは、たんに静的な理論を学び、理解することではない側面があるのです。
 私たちはここまで、「トロツキー(※ 真理探究)」と「野生の蘭(※ 趣味的指向)」に引き裂かれた少年(※ ローティのこと)が、哲学を志し、時代の偶然性に晒されながらが研鑽を積み、思いがけず成功したり、失敗したりしながら、のちの「リベラル・アイロニスト」という一見すると両立しがたい、ときに不真面目にさえ映る「大人」の思想家になっていったという、その足跡を確認してきました。そしてこの旅路は、彼が至った暫定的な最終地点だけが重要なのではなく、むしろ一人の少年が、このような思想変遷を遂げ、自己理解を更新し続けたという、その変遷過程こそもまた重要だったのです。
 このように旅路をふりかえったとき、ローティ哲学とは「文化政治」(※ 文化に働きかけ、それを作る仕事)として、人類の会話を絶やさぬよう(※ 硬直させないよう)守るための道具立てを提供するものでもありますが、その真価はそこだけにあるわけではありません。それは同時に、私たち(※ 個々の依り頼む)の「終極の語彙」を改訂に開くことの醍闘味と魅力を伝え、絶えぬ再記述によって自己(※  の再)創造をし続けることのモチベーションもまた教えてくれる、そのような人生をかけた物語でもあるのです。』(P105〜107)


一一さて、どうだろか?

朱喜哲のこの「ローティ哲学についての補足説明」は、果たして「補足」になっているだろうか?
それとも「ローティ哲学への無理解の露呈」にしかなっていないだろうか?

私が「文学読み」として思うのは、

「朱喜哲って、ほとんど文学書を読んでないんだろうな。本書では、知ったかぶりで、伊藤計劃『虐殺器官』を紹介していて、あれはたしかにいい作品だけど、まあ、ベストセラーにもなってみんなが読んでる日本SFの古典だしな。だから、こんな朱喜哲が、夏目漱石とか志賀直哉とか大西巨人とか野間宏とかを論じたら、ひっくり返っちゃうだろうな。いやいや、今からでも読んで欲しいものだ」

一一ということであった。

「そんなもん読んでなくても、哲学研究しているだけでも、一人の哲学者の人生の中だけで、多様な人生に接することができるんだ」と、そう言いたい気持ちはわかるけれど、そもそも哲学者って、昔からそのようにして哲学研究をしてきて、それでもローティに言わせれば「人間がわかってない」ということになるんだから、いまさら「哲学者の思想の変遷」を追っていれば、文学なんて読む必要はないっていう主張は、あまりにも露骨に非論理的な「自己正当化」にすぎるんじゃないの?一一と、「文学読み」の私はそう思う。

ともあれ、最後は「言ったもん勝ち」だということで、最後の最後にこんなことを書いて、読者に対する「印象操作」をしてみせるところは、さすがは宣伝屋である天下の「電通」に長らくお勤めになっているだけのことはあろう。

そちらでの「第6マーケティング局のチーフ・リサーチ・ディレクター」という肩書きは、伊達ではないなあと、深く感心。


そこで、データビジネスにおける倫理的課題(ELSI)やデータ活用に関する研究・社会実装、というようなことをやっておられるそうだが、たしかにご当人も、そうしたデータや知見を「実装」しておられるようなのだが、しかし肝心なのは、そうしたデータを「善用するか、悪用するか」なのだし、データを持っている人間というのは、しばしばそれを、私利私欲のために悪用するものなので、朱喜哲にあっては、そのあたりをくれぐれも自戒して欲しいと思う。

最後の「蛇足」部分などを見ると、どうにもご自分には甘そうなので、そのあたりが心配でならないのだ。

ひとまず、「〈電通〉哲学者」として、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に関しての、倫理的な「データ開示」から始めてみてはいかがだろうか?



(2026年8月14日)

 ○ ○ ○








“朱喜哲 『100分de名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』: ローティを悪用する〈電通〉哲学” への2件のフィードバック

  1. モハのアバター

    100分de名著の「偶然性・アイロニー・連帯」の回は、当時視聴した覚えがあります。しかし内容はおろか、指南役の先生が朱喜哲さんであった事も完全に忘れておりました。

    番組の初回放送日時が2024年2月5日ですので、既にオープンレター事件が起きた後の収録である事を考えると、あの公開非難状に賛同した事に反省も総括もしない人物が「言語は虐殺さえ引き起こす」などと解説する有様は、当然ながらどの口が言うのかと思えてなりません。NHKもよくこういう人物をキャスティングしたものです。

    先日対談したらしい河野真太郎さんも同番組で指南役をされておりましたし、これも「学者カルテル」の賜物なのでしょうね。

    それにしても、最後にご紹介されている「注釈」文はどうでしょう。ローティの歩んだ道程を称揚し、追従し、哲学を持ち上げて暗に自画自賛する有様は、ローティが読んだらきっと頭を抱えるんじゃないでしょうか。これだから哲学者は駄目なんだと。

  2. 年間読書人のアバター

    > モハさん

    コメント、ありがとうございます。

    > 番組の初回放送日時が2024年2月5日ですので、既にオープンレター事件が起きた後の収録である事を考えると、あの公開非難状に賛同した事に反省も総括もしない人物が「言語は虐殺さえ引き起こす」などと解説する有様は、当然ながらどの口が言うのかと思えてなりません。NHKもよくこういう人物をキャスティングしたものです。

    まったくですね。
    もう、ほとんど人間的な良心というものが失われているんじゃないかと、本気で疑われます。

    もしかすると朱喜哲は、「電通」に勤めるようになったからこそ、哲学では食っていけないが、「電通」的な「本音と建前の使い分け」は、世渡り的にはあまりにも強力だということを学んで、それに魂を売ったのかもしれません。
    哲学者である彼の知見が、営利企業を善導したのではなく、営利企業の資本主義的な貪欲が、ひ弱な駆け出し哲学者の頭を狂わせて、彼を日本の哲学界の若きメンゲレにしたのかもしれません。
    魔物に憑かれたということです。

    > 先日対談したらしい河野真太郎さんも同番組で指南役をされておりましたし、これも「学者カルテル」の賜物なのでしょうね。

    そうでしょう。
    もしかすると、「学者カルテル」の背後には、案外、電通の存在もあるのかも知れません。二流三流の商品でも、宣伝の力によって、ヒット商品にしてしまうのが、電通的な宣伝力(プロパガンダ・パワー)ですからね。

    > 最後にご紹介されている「注釈」文はどうでしょう。ローティの歩んだ道程を称揚し、追従し、哲学を持ち上げて暗に自画自賛する有様は、ローティが読んだらきっと頭を抱えるんじゃないでしょうか。これだから哲学者は駄目なんだと。

    たしかにそうですが、他の哲学者からしたら「あんな権力に迎合して、世間に売り込んでもらっただけの若造と一緒にするな」と言うでしょうね。
    そして「おまえ(ローティ)の、実用的な哲学の限界がわかっただろう」と付け加えたかも知れません。
    「本質や真理を軽んじて、実用を重視する思想は、ああいう開き直った実益至上主義の人間を生み出しもするんだよ」と。

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