▷ 書評:朱喜哲『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』(太郎次郎社エディタス)
本書のタイトルは、見てのとおり、
『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』
であり、普通に考えれば、このタイトルは、
「正義の反対は別の正義ではない。すなわち、正義を、いくつも存在するような相対的なものだと考えるのは、間違いである。だから、そうした相対主義的な、さまざまに誤った正義を自己満足的に唱えるのではなく、そうした相対主義的な正義のメタレベルに立つ、〈公正(フェアネス)〉の立場を目指し、それを乗りこなすべなのだ」
ということになるだろう。
私は、朱喜哲と同じく、大阪生まれの大阪育ちなので、大阪人的に言わせてもらえば、私は哲学の専門家ではないから、正確なところは「知らんけど」。

また、本書の帯には、
『正義は暴走しないし、人それぞれでもない。』
と、ずいぶん勇ましい言葉が刷られている。
だが、普通は「いや、しばしば正義は暴走したし、それは歴史的な事実なんだから、正義が人それぞれだというのも現実でしょう」ということになるから、この惹句は「無謀なまでに、自信満々な断言」に見える。
そもそもタイトルの『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』自体、「(皆さんにそれを語りうる)私(自身)は〈公正(フェアネス)〉であること(=乗りこなすこと)が出来る」と、そう言っているも同然なのだから、「ずいぶん自信満々ですね」と、皮肉のひとつも言いたくなるような、そんな上調子なものなのだ。
つまり、本書のタイトルや帯の惹句は、いかにも「眉唾もの」なものなのだ。ハッタリがましい。
「正義」とか「公正」とかは、そんな簡単・容易なもの(問題)じゃないでしょ? そんなに簡単なものなら、誰も苦労はしないよ。
一一と、そんな印象を与えるものなのである。
したがって、こんなタイトルや惹句に対して、なんの疑問も抱くことなく、それを鵜呑みにし、本書を読めば『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』ことが出来るようになるなどと期待する人は、基本的に、哲学とは縁のなかった、「コスパ、タイパ重視の今どきの若者」以外にはあり得ない。
本を1冊読んだだけで、何か本質的なことが理解でき、それが身につくなどと考えるのは、人生経験不足の無知に由来するものでしかないからだ。
だが、本書の表紙に書かれたタイトルや惹句は、そうした若者たちの無知につけこもうとするかのように、不自然なまでに自信満々であり、「大きく出た」ものなのである。
だから、こちらとしても、その「読者を舐めた態度」がカチンと来るから、「そうですか。では、お手並みを拝見させていただこうじゃないですか」と、そんな、噛みつく気満々にもなってしまうのだ。
本書の著者・朱喜哲の本を読むのは、これが初めてである。
なぜ、朱喜哲の本を読もうと思ったのかと言えば、それは朱喜哲が、かの「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の賛同署名者の一人であることを、文芸評論家・与那覇潤のnote記事で、最近になって知ったからだ。
「リンチではしゃぎ、煽るのは「後ろ暗い人」である: 河野真太郎氏の場合」というタイトルのとおり、この記事では、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」(以下、オープンレターと略記する場合もある)の発起人でもあれば、同発起人たちが中心となって昨年発足した「現代フェミニズム研究会」の発起人でもある河野真太郎が、オープンレターの過去には蓋をしたまま、オープンレターの賛同署名者の一人で、最近では「令和人文主義」の主たるプレイヤーの一人と目されてもいる朱喜哲と対談し、リベラルづらで、またぞろその存在をアピールし始めたようだ、という趣旨の報告がなされている。
与那覇の当該記事には、
『2021年4月に鳴り物入りで登場し、1年後に(※ その結果についての説明責任から)逃亡したオープンレターの呼びかけ人である河野真太郎氏と、署名者の朱喜哲氏とが、ヘッダーのイベントをするのだそうだ。まず事実関係は、上下のリンクで確認されたい。
https://ningensei848.github.io/againstc/topic/open-letters/search
これに対して「さすがにひどいんじゃないの?」と、朱氏と共著のある荒木優太氏が呼びかけている。ちなみにぼくは、荒木さんとは去年対談したし、朱さんとは一度だけ共演したことがある。』
とあって、SNS「X」への、荒木優太の次のようなポストが紹介されている。
『朱喜哲さんはそろそろご自身も関わったオープンレター騒動についてちゃんと総括するべきだと思う。呉座勇一はフェミニストの悪口を言って「キャンセル」された。でも、それは鍵アカで発言されたもの。私的領域なら特定人種へのヘイトも看過すべきではなかった
か。 gaccoh.com/event/260718
勿論、朱理論的には鍵アカとはいえインターネットは公の場なのだから「キャンセル」も当然という理屈なのかもしれない。それはいい。でも、そこから透かしてみえるのは、「私的」か否かなんて観測者の胸先三寸で決まるものでしかないという結論ではないか。』

「鍵アカ」云々というのは、「オープンレター」の中心者である、武蔵大学の教授でフェミニストの北村紗衣が、歴史学者の呉座勇一とTwitter(現「X」)上で批判合戦になった結果、呉座が自身の「鍵付きアカウント」の内部で北村紗衣の「陰口」をし、その情報が北村紗衣にリークされた結果、「鍵アカにおいてであろうと、呉座の発言は女性蔑視発言であり、こんな人間が研究機関にいること自体、女性研究者にとっては耐え難いことだ」としたのが、他でもない「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の趣旨だった、という話である。
つまり、「身内しかいない場であっても、人前で言えないようなことを話す(書く)ことは許されない。なぜならば、その言葉とは、その人物の悪しき本性が表れたものだからであり、悪しき人物は社会からキャンセルされなければ、まともな人間は安心して生活できないからだ」と、そういう理路なのである。
だが、例えば、私的な場で「北村紗衣って、ブスのくせに、偉そうぶってるよな」とか「朱喜哲は、在日という立場によって、実力以上に過大評価されて、得してるよな」などといった「差別的な言辞」を弄することは、果たして「許されないこと」なのだろうか?
(ちなみに私個人は、北村紗衣が比較的「美人」の部類だと、これまでに何度か書いている。その人柄への好悪や評価は別にして、批評家として、その外見については、そのように客観的に評価している、ということだ)
つまり、例えば、友達どうしの間で(私的な場で)「ネトウヨなんか(フェミニストなんか)、全員死ねばいい」とか「安倍晋三が殺されたのは、本当に良かった」などという話をするのは、社会的に許されないことなのか?
そうしたことは、「内心の自由」あるいは「思想信条の自由」として、個人の心の中だけで思うのは勝手だけれど、「私的な場」においてさえも、それを明らかにしてはならない、とでも言うのだろうか?
無論、そんなことはない。
「思想信条の自由」とは、「個人で勝手に思ってるだけなら、なんでもOK」というようなことではない、からだ。
なぜなら「思想信条」は、その実現を目指すものでなければ、そもそも存在価値がないからである。
しかしながら、だからといって「公の場で何を言っても良い」とはならないところが、現実社会の難しさだ。
なぜなら、「言葉」というのは、時に「実力行使(暴力・腕力の行使)」以上に、他者を傷つけることがあるからである。
だからこそ、公の場所における言葉(発言)の妥当性が問われ、内容によっては、それが「名誉毀損」などの罪に問われることもあるのだ。
したがって、一般には「私的な場には、公的なものからの干渉や介入を免れて、個人の思想信条を自由に語り得る権利が認められている。だが、逆に公の場所では、思想信条を語ることにも、一定の制限が課される」ということになっているのだ。
そんなわけで、SNSの「鍵アカウント」というのは、参加(閲覧・発言)メンバーを恣意的に限定した非公開の場なのだからと、呉座はそこを、明らかに「私的な場」であると考えて、遠慮なく北村紗衣の悪口を言った(書いた)のだった。
ところが、その陰口情報が北村紗衣にリークされた結果、「鍵アカウント内であっても、差別発言は許されてはならない。なぜなら、現に私(北村紗衣)はその言葉に深く傷つけられたのだから、その発言者(加害者)は、相応の社会的な制裁を受けるべきだ」と、そう主張する「オープンレター(公開状)」が、千数百人の賛同署名を集めた上でネットに公開され、その結果、呉座勇一は、二度の公的な謝罪を強いられたに止まらず、その職まで追われることになった。
つまり、社会的に「キャンセル」されたのである。
したがって、まず問題となるのは、「鍵アカ」は、「私的な場」なのか「公的な場」なのか、という点である。
北村紗衣や河野真太郎や朱喜哲などのオープンレターのメンバー(オープンレターズ)は、「鍵アカウント」をも「公的な場」だと認定したから、呉座勇一を公的に告発し、社会的な処罰を求め得たのだが、そうしたオープンレターズの考え方について、荒木優太が、
『朱理論的には鍵アカとはいえインターネットは公の場なのだから「キャンセル」も当然という理屈なのかもしれない。』
と書いているのは、常識的な理解では、「鍵アカウント」は「公の場」だとは考えられていないからに他ならない。
インターネットが「一般的には公の場」だとしても、そこからわざわざ切り離された空間として設定された「鍵アカウント」は、普通は「私的な場」だと考えられている。
なのにどうして、オープンレターズは、それを「公の場」認定できたのかと言えば、それは、どんなに鍵(錠=ブロック)が掛けられていようと、ネット上には、完全にブロックされた場所など存在しないため、「鍵アカウント」であっても、開錠される可能性は否定できないためであろう。
つまり、その意味では、鍵は掛けられていても、潜在的かつ実質的には、鍵アカウントもまた「半公開の空間」と考えるべきだと、そういう理屈なのだ。
だが、それを言えば、例えば「家庭」という空間だって「私的空間」ではあり得ない。
例えば、父親が子供に、軽口の冗談として「おまえ、本当に馬鹿だな」と言ったのを、子の方が真に受けて、それをネット上に書き込み、それを読んだ者から「それは名誉毀損だよ。親だからって許されるべきことじゃない。それは言葉によるDVだから、警察に被害届を出すべきだ」と、そんな話になる可能性だって、決してゼロではない。
事実、周知ととおりで、これにそっくりな事件も現に起こっているのだ。
つまり、「家庭」であっても、そのメンバーが、そこでの内々の情報を外部へとリークする可能性はゼロではないないのだから、「家庭も私的な場とは言えない。じつは、半公開の空間である」という理屈も成り立たないわけではない。
それにそもそも、内輪のメンバーによる、メンバー間の「信頼」を裏切るリーク行為などが無くても、例えば、悪意ある第三者が家庭をハッキングする「盗聴器の設置」などということも考えられる。
その意味では、所詮は「家庭も、半公開の空間」でしかない、とも言えるのだ。
そして、この「強弁」的な理屈を極限にまで推し進めれば、「私とあなた」の二者関係ですら、「半公開の空間」であり、最終的には「公の場」でしかない、ということになろう。
なにしろ、相手がその会話を外部にリークしないという保証など、どこにもないからである。
だが、このように考えていくと、そもそも「この世の中には、私的な場など(自分の頭の中にしか)存在しない」ということになってしまう(将来的には、それさえあやしいが)。
しかし、それではいかにも、社会的に不都合だというのは、常識があればわかることだ。
家族も含めた「他者」が誰一人、「信頼」をおくことのできない存在であるという前提に立たなければならないのなら、人間社会は生きるに値しない「地獄」になってしまうためである。
だが、オープンレターズの問題は、こうした「常識的な前提(お約束)」を、自分たちの都合によって、捻じ曲げてしまっている点にある。
だからこそ、荒木優太は、前述のとおり、『朱理論的には』という、皮肉な書き方をしたのであろう。
「普通は誰もそんなふうには考えないけれど、オープンレターズである朱さんは、そんなふうに特殊な考え方をするんですよね?」という、批判である。
つまり、荒木優太がここで批判的な皮肉として匂わせているのは、私がしばしば引用する、笠井潔の言葉『理屈なら、なんとでもつけられる』という、そんな傲慢な思想の問題なのだ。
荒木がそういう思想を持っているということではなく、朱喜哲に対して「あなたは、そういう思想を持っているんでしょ?」という、痛烈な皮肉なのである。
○ ○ ○
そして、荒木優太からそんなふうに皮肉られた朱喜哲による本書の中身は、一一さて、どうであったか。
結論としては、まさに「理屈なら、なんとでもつけられる」といった、その思想を体現したような内容の本であった。
つまり、いちおうはもっともらしい「理屈」を語っているのだが、それは、いかにも空理空論的なものでしかなく、実際には、なんの役にも立たない「知的な戯言」でしかないのである。
その証拠に、朱喜哲は本書の「はじめに」の結語として、こう明言している。
『 本書は、かならずしも正しいことばを「乗りこなす」ためのマニュアルではありません。ではなにかというと、正しいことばを運用するプロフェッショナルたちの巧みな乗りこなしやさりげない安全運転、そして、それとは逆に「事故」に直結してしまう危険運転、その両者についての解説付ケースブックのようなものになっています。多くの事例とその検討におつきあいいただくことを通じて、「正しいことば」につきまとう息苦しさ、苦手意識から解き放たれ、ちょっとくらいは気軽に乗ってみようと思われたならば、それ以上の喜びはありません。』
(P6・原文では「マニュアル」に傍点)
この言葉に「違和感」を覚えないのは、哲学などとはとうてい無縁な、「読めない人」である。
なるほど、この文章自体は、謙遜なものであり、好印象を与えるものになってはいる。
だが、この文章の問題点は、そのノリが、本書のタイトルや帯の惹句とは、ぜんぜん違っている、という点にある。
なにしろ本書のタイトルは『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』だったのだ。
当然、読者は本書に〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす方法が語られており、具体的に言えば、「正しいことば」を使いこなす方法が書かれていると、そう期待したはずなのだが、序文の最後でいきなり「いや、そんなことは出来ません」と言われてしまうのである。
その上でさらに、まるで言い訳するように、『「正しいことば」につきまとう息苦しさ、苦手意識から解き放たれ、ちょっとくらいは気軽に乗ってみようと思われたならば』『それ以上の喜びはありません。』と、朱喜哲はそう書いている。
つまり、「読者に気休めを提供できれば良いし、最初からそれ以上のことを、著者である私は望んでいない(し、約束もしない)」と、朱喜哲は、そう言っているのである。
しかし、これでは「タイトルに偽りあり」の「過大広告」、あるいは、一種の「ペテン」であろう。
童謡の歌詞ではないが「さっきの(タイトルでの)自慢はどうしたの?」ということにしかならないのである。
実際、朱喜哲自身、本書の中で、自分自身も「正しいことば」を使いこなせてるわけではないが、と謙虚ぶった予防線を張った上で、読者に対しては「役に立ちそうな、先哲のことばの使い方を学ぼう」と、そう言っているだけなのだ。
自分には、あまり役に立っていない(実用に供し得ていない)にもかかわらず、である。
だからこれも、半ばペテンでしかなく、本書で、ジョン・ロールズやリチャード・ローティなどの「ことばの使い方」を学んでも、それでも「ことばの使い方」が身にはつかず、「気休め」にしかならないというのであれば、やはり本書のタイトルは、ほとんど過大広告のペテンでしかないと、そう言えるのだ。
「〈公正(フェアネス)〉を乗りこなせるようになるとは、一言も書いてません。あくまでも、〈公正(フェアネス)〉を乗りこなすための、参考情報を提供しているだけです。だから、その参考情報を活かせるか否かは、個々の読者である皆さん次第であって、著者の私は保証できることではないのです」
一一なんて言われたら、読者は「はい、そうですか?」と言って、素直に退き下がるのだろうか?
だが、「そんなことまで保証した覚えはない。それはあなたの思い込みにすぎない」というような言い訳は、ペテン師の常だということを、若いひとは是非とも知っておくべきだろう。
最初に調子の良いことを吹き散らしておいて、それで相手の心を掴み、徐々にトーンダウンさせていくことで、決定的な言質は取らせないというのが、ペテン師の手口。
「絶対とは言っていないでしょ」と、常に逃げ道を作っており、さらに「説明書の隅から隅まで読んでいなかった、あなたの方が悪いんです」と、そういう小狡いやり方なのである。
○ ○ ○
そんなわけで、本書の内容の検討に入る前に、すでにずいぶん長くなってしまったので、あとはなるべく簡潔に書きたい。
すでに結論しているとおりで、所詮、本書は「子供騙しの哲学書」にすぎないのだから、長々と論じる価値もないからである。
一一だが、著者である朱喜哲が「論証のない否定的な結論だけでは、承服しかねる」とおっしゃるのであれば、その時はもっと丁寧に説明してさし上げるので、是非とも、私にメールを送っていただきたい。
そうすれば、その事実を「公」にした上で、本稿の読者への、さらなる説明にもなるかたちで、本書がいかに「子供騙しの哲学書」でしかないのか、その根拠を縷々説明してさし上げよう。
さて、その上で、本書がなぜ「子供騙しの哲学書」なのか、ひととおりの説明だけはしておこう。
すでに説明したとおり、本書は、そのタイトルや惹句において、明確かつ具体的に、「正義」や「公正」といった言葉を使いこなす方法を「教える」かのように謳っておきながら、実際の内容は「このような方向で考えた先人がいました。参考になりますね」といった程度の内容でしかない。
だが、いろいろな先人が語った「考え方」とは、所詮は「そうやれば、上手くいんじゃないか」という「過渡的な方法論=試行錯誤」の紹介でしかなく、当然のことながら「決定的な解決策としての正解」の提示などではない。
つまり、ここでは「正義論」が議論の中心になっているのだが、「言葉の問題」は、当然のことながら、まだ哲学的な「決着」などついてはいないのだ。
だからこそ、今も哲学者たちが、言語について研究し、思考し続けているのである。
したがって本書は、提供しようのない「結論(正解)」を提供するかのようなタイトルで、読者を惹きつけておいて、実際には「いろんな(不完全な)アプローチを紹介」しているにすぎないのである。
だが、こうしたものに接したことのない多くの読者は、それだけでもう「賢くなった」ような気分になり、本書を読んでいない人たちとは違って、なんとなく自分なら「言葉の問題にうまく対処できそうだ」という「気分」にさせられ、それで納得させられてしまいがちなのだ。
言うなればこれは、例えば「創価学会員が、創価学会の会合に参加して、他の人の信仰体験を聞いているうちに、やる気が出てくる」みたいなことと同じである。
つまり、気分的な「エンパワメント」であり、それにすぎない、ということだ。
人の体験を聞いたところで、それが自分にも出来るという保証など、どこにもないのである。
したがって、たかだかこんな本を1冊読んだくらいで、「正義」だの「公正」だのの問題に、うまく対処できるようになるなどと考えること自体が、そもそも「軽信の愚」なのである。
著者の朱喜哲は、リチャード・ローティの言語学に学んだ人である。
そしてローティのそれとは、大雑把な言えば「先に事物があって、それを言葉が言表する」というのではなく、「言語が、事物を存在たらしめるのだ」というような意味での「言語論(的世界観)」であり、したがって、存在しもしない「(観念を含む)事物の本質」をいくらああだこうだと追求しても無駄なのだから、言葉から世界を捉えるほうが実際的である、というプラグマティズム(実用主義)の発想に支えられた言語学なのである。
したがって、「正義」という難問についても、「正義」という観念そのものを考えるではなく、「多様な正義としての善」を成立させるための基盤となるものとしての「公正」なシステムの実現であり、その意味での「公正としての正義」というものを目指すべきだとする、ジョン・ロールズの『正義論』における「言語論的な操作」を、本書では主として紹介している。
それでなくても掴みどころのない「正義」というようなものを、いくら甲論乙駁しても、「真の正義=唯一の正義」なんてものが確定できるわけなどないのだから、それを言語論的にズラして、操作可能な「公正」な社会システムの問題として考えようとしたロールズの考え方を、本書では紹介しているのだ。
もっとも、著者の朱喜哲が何度もくり返しているとおり、本書はロールズの思想そのものを丸ごと紹介しようとするものではなく、あくまでもロールズによる言語論的な操作の部分に着目して、そこを紹介している、というのは、著者の朱喜哲が、ローティ言語学の徒であったからに他ならない。
だが、ローティがプラグマティズムの人であることを知っていれば、本書のあやしさも、容易に理解できる。
すなわち、「正義」を「正義」そのものとして考えるようなプラトニズム的な考え方では、現実にはこの問題をうまく乗りこなすことはできない。
だから、大雑把に言えば「先に真理があるのではなく、言葉がこそが、真理とされるもの(認識)を作るのだ」とするローティのプラグマティズムに基礎を置く言語論によって、「正義」の難問と「実践的に対決しよう」とするのが、本来のプラグマティストの態度なのである。
ところが、本書の場合、ローティ的なプラグマティックな言語論を援用しながらも、結局のところ、最後は「気休め」の問題に着地してしまう。
つまり、プラグマチィストからすれば、「役に立たない観念論(気持ちの持ち方論)」に着地して、少しも「実用的」ではないのだ。
だからこそ本書は「実践に役立つ(実用的だ)と謳っていながら、実際には、実践(実戦)には役にたたない、気休めの書」になってしまっているのである。
ではなぜ、本書がそのような、ローティの徒の著書とは思えない、役に立たない「誤魔化しの書」になってしまったのかといえば、それは朱喜哲が「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の賛同署名者でありながら、それを総括もせずに、隠して続けているからである。
要は、物事を現実的にハッキリさせようという気が無いから、意図的に「こんにゃく問答」へと逃げているためなのだ。
○ ○ ○
本書で主に語られているのは、すでに書いたとおり、ロールズの「公正としての正義」の実現としての「他者の言葉を遮らない」こと(会話を止めるな)の徹底、ということである。
「個々の正義」のぶつかり合いの場では、当然のことながら「他者の正義=偽の正義」ということになるから、他者に対しては、どうしても「黙っていろ」ということになってしまう。必要なのは「(我々の奉じる)真の正義」だけだ、となるためである。
だからロールズは、各人が「正義」だと思い込んでいるものは、実は、それぞれにとっての「善」でしかなく、「正義」そのものではない、のだとする。
そうではなく、「正義」とはむしろ、そうしたすべての「善」の成立基盤となる「公正さ」であり、そう考えるべきだ、と主張するのだ。
そうした「公正さ」があってこそ、「正義」と呼ぶに値する状況、「公平」で「公正」な状況も実現できる。
一一だから、人の発言を妨げるようなものに対抗する態度こそが「公正としての正義」であり、私たちはおたがいに、そうした正義の実現に向けて邁進しなければならない、と。
つまり、私たちは「他者に意見に耳を傾ける」ことを拒否してはならないのだ。
なぜなら、そうした「会話の拒否」とは、「独善」であり、「公正としての正義」に反するものだからである。
一一さて、ここまでの議論はまったく正しいし、私も同感なのだが、しかし、こうした正論を、今や「ネットリンチ」の代名詞で、日本における「キャンセルカルチャー」を象徴するものともなった「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の賛同署名者である、朱喜哲が語ったとなると、当然「やってることと言ってることが、バラバラじゃないか」ということにもなる。そして当然のこととして、
「じゃあ、公正としての正義を語るあなたは、オープンレターをどう評価してるのか、それを説明してよ」
という話にもなるのだが、事実として朱喜哲は、他のオープンレターズ、つまり、北村紗衣や河野真太郎などと同様に、「オープンレター」については、これまでずっと、ダンマリを貫いてきた。
だから、そうした自身の「矛盾」を正当化するために、「会話を止めてはならない」とする本書の中心命題に反するような、「現実的な対処法」をも、「予防線」として、あらかじめ本書に書き込んでおくことも、忘れてはいない。
(1)『ローティのいう「会話」とはなにか(※ 見出し)
まずもって「会話が止まる」ことはなぜ避けるべき事故なのか、というところからいきましょう。「ひとを黙らせる」ような(※ 例えば、相対主義的な)言動をとることや、「それを言われたらもうなにも言えなくなる」ような話法をもちいることがなにかしらわるいという直観は、おそらく広く共有されうると思います。
ただ当然のことですが、個別具体の「会話」はいつでも切り上げることができます。また途中で話題を変えたり、時をおいて再開したりすることもできます。そして、ある会話につきあい続けることが不快だったり、ある特定のひとだけが会話を続けるためのコストを払わねばならないといった場面においては、だれでもその会話を制止したり、話題を変えたり、そこから離脱することができるべきです。
もっともこうした場合には、そうさせたほかの会話の参加者に上記の「会話を止める」タイプの言動や話法がもちいられていることも少なくないはずで、その場合には「事故」を起こした責任はそちらにあるということになります。しかし、そうでないとしても個別具体の会話が主観的に好ましくないときに異議を申し立てたり、退出する権利はだれもにあってしかるべきです。以上をふまえたとき、ローティの掲げる「会話のルール」は、こうした権利を抑圧するようなものなのでしょうか。
そんなことはない、というのがわたしの考えですが、それを説明するにはローティが「会話」ということばをどう使っているのかをていねいにみる必要があります。結論からいうと、ここ(※ 本書)での「会話」とは、あるときある場所における個別具体的な会話のことも念頭に置かれてはいますが、より抽象的に「会話」全般について考えるためにもちいられて(※ も)います。つまり、なんらかのコミュニケーション的な実践というものが(※ 太古に)はじまって以来、文字どおり時空を超えて連綿と続いてきた、そして今後も続くであろう営みの総体(※ が、「会話」でもあるの)です。』(P106〜107)
普通に読める人なら「おやおや、お出でなすったな」とでも言いたくなるところであろう。
「会話を止めてはならない」けれども、相手が「悪い」のなら、会話を止めてもかまわないのだと、朱喜哲は、そう言っているのだ。
しかし、ならば誰だって(オープンレターズだって)「本当は私は会話したいのだが、あいつらの方に、人の話を聞く気がないから、話せないだけなのだ」と、他責化することで、自身の頑なな会話拒否の姿勢を「自己正当化」するに決まっている。
つまり、朱喜哲が本書で語る中心命題としての「会話を止めてはならない」とは、この程度の、非ローティ的な「非実用的空論(絵空事)」にすぎないのである。
だから、上の「逃げ道」に続けて、朱喜哲は、「ローティの言う会話とは、実際の会話のことだけではなく、人々がそれぞれに考え続けていくということまで含めたもののことなのだ」という小理屈を、マイケル・オークショットを引き合いに出して権威づけしながら展開して、非実践的な自己正当化を空論を、エセ哲学的に語っていくのである。
一一つまりこれが、朱喜哲という人の「腰抜け(底抜け)哲学」なのだ。
ご立派なことを口にはしても、自分ではそれを実践する気など、初手から無いのである。
本書を読むと、朱喜哲は本書において、暗に「オープンレターでの誤りを反省している」かのようにも読める部分が多々ある。
例えば、
(2)『 重要なのは、公正な社会を構想するということは、「気のあう仲間」をつくってその輪を広げることとは根本的に異なる、ということです。公正な社会を構想することは、むしろ「仲間でも敵でもないひと」たちどうしが、どうやってともに生きていけるかを考えることでしょう。だからこそ、わたしたちがどうしてもいだいてしまう「関心」のネガティブな面をも理解し、それを乗りこなしていくことが求められるのです。』(P140)
つまり、オープンレターズとか、「この設立趣意書に同意できない学者は、当研究会には入れてやらない」なんて宣言をする「現代フェミニズム研究会」などは、朱喜哲自身がここで言うところの、「ダメな徒党」の典型なのである。
ちなみに『「関心」のネガティブな面』とはどういうことかと言うと、例えば「女性の権利が侵害されている」ということに「けしからん」と関心を持つのは良いことだが、だからといって「女性差別者など、社会から抹殺しても良い」とまで考えるようになる場合で、それは『「関心」のネガティブな面』(イコール関心の行き過ぎ)だということなるのだ。
(3)『わたしたちが「正しいことば」を遠ざけるべきではないのは、それをたくみにあつかえるといいことがあるからではありません。そうではなく、逆にまったくあつかえないままだと自身やともに生きるひとたちを無防備に脅威にさらしてしまい、破滅的にひどいことが起こりうるからなのです。さらにもうひと声足せば、さまざまな集団において、ときに強者となっている自分が一一そのことをじゅうぶんに自覚しないまま一一周囲にふるってしまっている力の危うさに気づくためでもあるでしょう。』(P165)
言うまでもなく、ここで肝心なのは、後半の『さらにもうひと声』足した、次の部分である。
『さまざまな集団において、ときに強者となっている自分が一一そのことをじゅうぶんに自覚しないまま一一周囲にふるってしまっている力の危うさ』
それに気づく必要がある、とする部分だ。
オープンレターズは、自分たちを「女性差別を受けた被害者」や「弱者」の側に置いて、それを自明視し、千数百人の賛同署名の力によって、呉座勇一個人をネット上でぶっ叩く(バッシングする)ことにより、いったんは呉座を社会的に葬った。一一「キャンセルした」のである。
つまり、オープンレターズは、自分たちがもはや「強者」であることの自覚を持つこともなく、あくまでも「弱者」であるから、その「力の行使は(当然)許される」と考えて、その「巨大な力」を無批判に行使したのであり、実のところ彼(女)らは、たまさか与えられた「巨大な力」に、酔っていただけなのである。



そしてそうした事実を、この文章(2)を書いた際の朱喜哲は、ハッキリと自覚していたのだ。
だが、それを「自分のこと」としては語らずに、他者に対する「教訓」として、他人事のように語ってしまっているのである。
ちなみに、本書の元のなった記事の連載期間は、2020年12月から2022年5月までであり、オープンレターが公開されたのは、2021年4月4日にから2022年4月4日までである。
つまり、本書の元となった記事の連載中に、朱喜哲は「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に参加しているのだ。
だから、上に引用した(2)(3)などの箇所は、ほぼ間違いなく、連載記事を単行本化する際、あとから大幅に加筆修正した部分なのであろう。
本書の初版刊行は、オープンレターの公開が終了してから1年数ヶ月後の、2023年8月5日なのである。
つまり、元記事の段階からここまで書いていた人なのであれば、オープンレターに参加し、呉座勇一の職を奪うという結果に加担しておきながら、それに疑問を感じないわけがないのだ。「私たちはやり過ぎた」と、そう言わないわけがない。
言い換えれば、朱喜哲は、オープンレターの「残酷」きわまりない結果を見て、このような「反省」をするようになったのであろう。
もっとも、オープンレターの仲間たちから「口止め」されたからなのかどうかは知らないが、結局のところ朱喜哲は、自身も(共犯として)加わったオープンレターの「やりすぎ」を、公に(自己)批判的に「総括」したり、反省したりすることは、これまでに一度も無かったのである。
(4)『 残酷さは、とり去ることができない「われわれの生命の根本的性質」にかかわるものだとモンテーニュは続けます。しかし、だからこそわたしたちはみずからのうちにある残酷さを自覚し、それとうまくつきあい、その悪影響を最小限にするよう努めなければなりません。わたしたち個々人が残酷さへの傾向をもってしまっていることと、じっさいに残酷さが公然と発露されることをなによりおぞましいと忌避することとはなんら矛盾なく両立します。いや、(※ それらは、両面共に否定できない事実だからこそ、それらは)むしろ両立させ(※ ることくらいは、せ)ねばならないのだとモンテーニュとシュクラーは言うでしょう。』(P172〜173)
「わたしたち」というところに、朱喜哲の欺瞞がある。
ここで語られているのは、本来ならば、朱喜哲自身の『わたし』事なのだが、それを素知らぬ顔で、一般化し、しかも著名哲学者の権威において、権威づけの飾りつけ(めくらまし)さえしているのだ。
(5)『わたしたちはたんに「弱者」としての立場から公権力のもたらしうる恐怖と対峙するばかりでなく、さまざまな規模の集団やその時々におけるさまざまな「力」の勾配における「強者」として増幅されてしまいうるみずからの残酷さをも直視しなければなりません。
それは、わたしたちそれぞれに悪徳を備えた人間たちが否応なく寄り集まって、命がけの(※ 公正な社会システム実現のための)挑戦としての社会を営もうとするさいに、なによりもまず(※ われわれ自身の残酷さの直視こそ)優先すべき政治的課題なのです。』(P174)
たしかにそれは「わたしたち」の政治課題ではあろうが、しかし、同時にそれは「朱喜哲個人にとっての倫理的課題」でもあるのではないのか?
すべてを「わたしたち」の問題に還元してしまっても、そこに倫理的な問題は生じないと、朱喜哲は、そのような臆面もないことを考えているのだろうか?
(6)『 インターネット上の会話、そこでのことばづかいは、当然ながらインターネットという空間の構造上の特性からの影響を強く受けます。たとえば、よく「アテンション・エコノミー」として論点化される問題があります。インターネット上ではあらゆる「行動」が計測され、それを高めることにさまざまなインセンティブが働きます。クリック数・ページビュー数・再生回数・滞在時間・購入率・フォロワー数など、具体的にデジタル広告のビジネスにおいて広告費の算出ロジックなどにもちいられている指標もあれば、そうでないものもありますが、測られて可視化されると、それをつい意識し、追求してしまうものです。
こうした環境を背景として、インターネット上では、どうしても扇情的で行動を喚起しやすいような言説が目立つようになります。先ほど紹介した用語で言うならば「アテンション(注目)」を惹きつけるような言動をすることに経済的・心理的なインセンティブがはたらく構造があるわけです。いわゆる「釣り見出し」や扇情的なバナー広告をついタップしてしまったが、遷移した先のページは期待はずれだったという体験は、あらゆるインターネット利用者にとって身に覚えがあるのではないでしょうか。』(P176〜177)
朱喜哲がここでいう『いわゆる「釣り見出し」や扇情的なバナー広告』の弊とは、まさに私が本稿において最初に指摘した、本書のタイトルであり帯の惹句のこと(過大広告のこと)であろう。
それにしても、ここ語られている問題行動などは、「セレブリティ・フェミニスト」を目指した結果、5万人ものフォロワーを勝ち得た北村紗衣に、まさにピッタリなのではないだろうか。
すでに私が「北村紗衣批判」として指摘したように、今や「社会的勝者」としての、テニュアの大学教授である北村紗衣による「昔、学校の先生からイジメを受けました」とか、ごく最近の「私が発達障害だったことが判明しました」とかいった、殊更な「被害者・弱者」アピールは、まさに(同情的に)人目を惹くためのものであり、またそれにまんまと乗せられたり、進んで乗ったりするのが、馬鹿な一般大衆であったり、大衆ウケ狙いしか考えていない、マスコミや出版社なのではないのか。
このように見ていけば、朱喜哲が内心では「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」への加担について、反省していたというのは(演技ではないのなら)、ほぼ間違いないところではあろう。
まただからこそ、内心では反省していたはずの朱喜哲が、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の発起人の一人である河野真太郎と、今頃になって、またぞろ対談なんかするというのを知らされて、先に紹介した荒木優太も、
『朱喜哲さんはそろそろご自身も関わったオープンレター騒動についてちゃんと総括するべきだと思う。』
と書く気になったのであろう。
これまでは、朱喜哲が「内心では反省しているのであろう」ということで、その「公に向けた自己総括」からの逃走について、大目に見て黙っていた(見逃して来た)けれど、またぞろ河野真太郎なんかと、さも「オープンレターなどなかったかのように」して対談などするというのは、倫理的に許せない。
それでは、本気で反省していたとは言えないと、そう感じたからこそ、
『朱喜哲さんはそろそろご自身も関わったオープンレター騒動についてちゃんと総括するべきだと思う。』
だと、今頃になってでも、言わなければならなかったのではないだろうか。
だが、私に言わせれば、一人の人間に対する「残酷な暴力」としてのキャンセルに加担しておきながら、それについてずーっと沈黙を保ち、自己保身を図ってきた朱喜哲の「反省しぐさ」など、所詮は、「自己正当化の言い訳ポーズ」であり「アリバイ作り」でしかない。
また、これまで荒木優太が、朱喜哲を批判しなかったのも、所詮は「同業者のよしみ」による「庇い合い」でしかなかったのだ。
また、朱喜哲は、そうした「甘やかし」の上にあぐらをかいてきたからこそ、そろそろほとぼりが冷めたと安心した途端、昔の「オープンレターの仲間」との旧交をあたためるがごとき「対談ショー」を、しらっと開催することもできたのである。
ちなみに、本書の著者紹介文は、次のとおり。
『朱 喜哲(ちゅひちょる)
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。
博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。前者ではヘイトスピーチやデータを用いた推論を研究対象としてあつかっている。
著書に『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、「10分de名著ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」」(NHK出版)、共著に『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、「世界最先端の研究が教えるすごい哲学』(総合法令出版)、『在野研究ビギナーズ』(明石書店)、『言頼を考える』(勁草書房)など。共訳に『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(ブランダム著、勁草書房)などがある。』
言うまでもなく、朱喜哲はこの後にも著作を刊行しているが、これを見ても分かるとおり、朱喜哲はローティの言語哲学の解説者として著作の執筆活動を始めたようなのだが、自身の哲学を語る主著としては、この段階では、上の紹介文の「著書」のトップに来ている、『人類の会話のための哲学』が、それであっただろうことは、まず間違いない。
そして、ここで注目すべきは、この本の出版社が、「よはく舎」であるという事実である。
「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の問題に興味のある人なら知ってのとおり、個人出版社である「よはく舎」の経営者であり編集者の小林えみは、オープンレターの発起人の一人であり、他にもフェミニズム関係の、同様の「社会運動」に深くコミットしている人物だ。
また、このたび朱喜哲と対談することになった河野真太郎の初期著作の刊行にも、小林えみは関わっている。
これが何を意味するのかと言えば、関西在住の朱喜哲が「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」に参加したのは、ほぼ間違いなく、小林えみからの誘いがあったからだろう、ということである。
まだ無名に等しく、自著の刊行など考えにくかった段階で、小林えみから「美味しい話」を持ちかけられ、その結果めでたく「自分自身の本」が刊行できたわけなのだが、しかし、そんな「恩義のある小林えみ」から誘われて、深く考えることもなく参加したオープンレターが、一人の人間を深く傷つけるという「後悔反省しなければならない、残酷な結果」となってしまった。
しかし、哲学者としての筋を通して「オープンレターは間違っていた。私も間違っていました」とは言えなかったのも、小林えみに対する恩義や、オープンレターズへの義理があったから、なのではないだろうか?
だとすれば、「朱喜哲の哲学」など、所詮は、その程度のものでしかない、ということになるのである。
ローティも、きっと草葉の陰で泣いていることであろう。
「こいつもまた、私に名を出汁にして世に出た、ノミのような輩にすぎない」と。
ちなみに、朱喜哲は現在、大学に席を置くだけではなく、株式会社「電通」において「第6マーケティング局」に所属し、「チーフ・リサーチ・ディレクター」を務めているそうだ。
これには、じつに「うまくやったな」という印象しかないのだが、さて、朱喜哲の哲学は、「営利企業」である天下の電通に、本当に企業倫理をもたらす(高める)ようなものなのであろうか? 一一良い給料をくれる、雇い主に対して。
「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」においてさえ、ぜんぜん出来なかったことだというのに。
(2026年7月6日)
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