法月綸太郎 『法月綸太郎の不覚』: 法月綸太郎しぐさ

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▷ 書評:法月綸太郎『法月綸太郎の不覚』(講談社)


先日、新刊書店に立ち寄った際に、ひさしぶりに法月綸太郎の「小説の新刊」を見かけたので、読んでみることにした。
さすがに最近は寡作になったようだが、しかしそれだけ一作一作に手間をかけているのではないかと、そんなふうに期待したからだ。

実際、最近も別のところで書いたことだが、私は法月綸太郎という実在人物の人柄は嫌いだが、ミステリ作家としての力量は、高く評価していた。だから、今になってもまだ期待できたのである。


ところが、本短編集『法月綸太郎の不覚』については、完全に期待はずれだった。

実際、法月綸太郎自身、「あとがき」で次のようにこぼしている。

『(※ 書き下ろし中編「平行線は交わらない」は)執筆に着手してから完成まで一年近くかかってしまった。筆力というか、構成力の衰えをひしひしと感じる。
 四編の収録作中、三編が交換殺人とそれもどきの事件を扱っているのは、狙ってそうしたわけではなくて、年々「思考のトラック」が狭くなっているせいだろう。ただ、今回の三編について言えば、どれもネタの方向性がちがうので、かろうじてマンネリの弊は免れていると思う。』(P246〜247)


この「あとがき」の別のところでご当人が書いているとおり、法月綸太郎が「愚痴」をこぼすのは毎度のことなのだが、上に引用した愚痴は、最後のところで自己フォローしているものの、実際にはフォローになっていない。

四編中、三編が「交換殺人」であり、方向性は違っても、似たような作品であることに違いはなく、「このネタを、あっちにもこっちにも捻れるのか」と感心できるほどの、キレはない。だから、どれも似たような印象しかなく、かなり退屈なのだ。
そして、残りの一編についても、似たり寄ったりなのである。

「法月綸太郎(親子)もの」のフォーマット上で書かれた短編だから、その点で形式的に似てしまうのは仕方ないだろう。
だがだからこそ、中身には変化をつけて欲しかったのだが、それがぜんぜん出来ていない。

「方向性」が違うと自己弁護されても、「そりゃ方向性くらい違わないと、ほぼ同じになるじゃないか」としか思えない。

やはり、ご自分でも認めているとおりで、さすがの法月綸太郎も老いた、ということなのかも知れない。
私よりニつ下なのではあるが…。


先に紹介した西式豊の新刊『処刑館殺人事件』に、法月綸太郎は、次のような推薦文を寄せていた。

『クローズドサークル✕館ブームにとどめを刺す/「鬼」の本格、驚嘆必至。』


私はこの言葉を信頼して、同作を読むことにしたのだが、結果としては、著者の西式にと言うよりは、推薦者である法月綸太郎に、裏切られた。こんなに言うほどの作品ではなかったのだ。

私の『処刑館殺人事件』のレビューのコメント欄にコメントを寄せてくれた「もりもり食べるぞ」氏は、この推薦文について、

『帯の文は宣伝なので、そこはまぁ…』


と書いておられた。

推薦文なんて、その程度のもので、それを信用する方がナイーブにすぎるのだ、ということであろう。
実際、私は昔、法月綸太郎からも『あまりにもナイーブ』だと言われたことがある。

『田中幸一「地獄は地獄で洗え…… 一一笠井潔批判」。これを読んだ笠井委員は怒り心頭に発して、破門を言い渡したそうである。むべなるかな。例によって、私も刺身のツマのごとく、批判の俎上に載せられているので、公の選評というには微妙なところだが、作家論としてみれば、あまりにもナイーブで、楽天的にすぎる。太刀筋は決して悪くないのだから、肉を切らせて骨を断つような筆法を身に付けてはどうか。』

(『創元推理 1996秋号』P19)


これは私が昔、笠井潔巽昌章、法月綸太郎の三氏が選考委員を務める「創元評論賞」の第3回に、「地獄は地獄で洗え 一一笠井潔批判」を投じた際の、法月綸太郎選考委員の講評である。

法月綸太郎委員は、私が委員ご当人よりも古い笠井潔ファンであり、笠井潔と面識もあるということを知っていたから、このような皮肉なからかいをしたのだ。


だが私は、笠井潔に面識があるからといって、それをコネとして利用するようなことを(文字どおり)潔しとしない人間なのだ。

つまり、ファンであったらばこそ、批判すべきことは批判するという人間なのだが、一一このあたりが、法月綸太郎からすれば「あまりにもナイーブ」だということなのであろう。
「コネくらい利用すれば良いじゃないか」ということである。

だが、私はそういう意味ではナイーブな人間だったからこそ、法月綸太郎のように書けるミステリ作家ならば、『処刑館殺人事件』程度の凡作を「本気で褒めた」とは考えなかった。

つまり、上に紹介した『処刑館殺人事件』への法月綸太郎の推薦文は、読者に向けた「叙述トリック」の推薦文、つまり「褒めてはいないけど、褒めていると誤解させるように書かれた、偽の推薦文」だったのだはないかと、そう考えたのだ。
『処刑館殺人事件』のレビューの趣旨もそこにあって、「努力賞の凡作」を「努力賞の凡作」だと評価するためだけに、わざわざ一文を草したわけではなかったのである。

ちなみに、法月綸太郎の「愚痴」癖というのは、自分自身に関するものだけではない。

それだけならば、まあ「自省」の一種と考えられないこともないのだが、他人のことにだって愚痴を垂れ流すのが、法月綸太郎の法月綸太郎たるところで、むしろそっちの方が、法月の「本性」に近いと言っても、決して誤りではないだろう。
だからこそそれは、長らく「単行本未収録」なのである。一一要は、人にはあまり知られたくない部分なのだ。

『(※ **さんがわたし法月に)「エチケット云々とおっしゃるのなら、こっちも言い分はありますよ。そもそも、さいしょにお話があった時、ぼくはスランプで、雑誌の締め切りが守れる自信がない、迷惑をかけることになるだけだから、できればお断りしたいと申し上げたはずです。それで一応、お互いに納得したはずだと思いますが。(中略)そうでしたね。**さんが、おたくの雑誌でミステリー特集を企画すると言い出してから、どんどん調子がおかしくなったのです。(中略)ぼくは**さんにはいろいろお世話になっていますからね。**さんから、こうしろと命令された場合、なかなか首を横に振るわけにはいかないのです」
「しがらみというやつですね」
「(中略)そんなわけで、ぼくはここ一年間ずっと、**さんの命令に従って、一所懸命ご奉公してきた次第です。自分の仕事を犠牲にしてね。**さんは、こっちの都合とか考えないで、勝手に頭越しに話を決めちゃう人ですから――法月君、今度『G思想』で〔メタ・ミステリー〕特集というのをやることになったから、きみは、百枚の評論を書きたまえ。もう編集長に話は通してある。ぼくは対談をやるから。法月君、今度『Y時代』で〔本格ミステリーの現在〕という連載評論の企画をやることに決めたから、第一回はきみが書きたまえ。ぼくは他誌の要約を載せるから。法月君、今度はA新聞が出す『T』という雑誌で〔新本格〕特集をやることになったから、きみは短篇を書きたまえ。いや、もうそういうことに決まったんだ。ぼくはS田荘司と対談をするから――いつもこんな調子でね。もちろん目をかけてもらって、引き立ててくれるのはありがたいと思ってますし、**さんの推理文壇に対する提言のひとつひとつに賛同している人間ですから、ぼくも日本のミステリー文化向上のために、できる限りの努力はしようと思っていますよ。現にそうしてきたつもりです。/だけど、いくら何でもあんまりなんじゃありませんか。だってぼくはここんところ、**さんに命じられた仕事をこなすのが精一杯で、予定の原稿なんか全然書けずにいるんです。そこのところを、もうちょっと考えてほしいなってオモいますよ。ぼくは**さんとちがって、注文に応じていくらでも原稿が書けるような、そんな達者な作家じゃありません。自分ができるからって、ほかの人間もできるとは限らない。**さんは、強制はしていないって言いますけどね、むげにいやだと言ったらカドが立つでしょう? ぼくはもともと、争うごとを好まない、穏やかな人間なんです。(中略)同業者はもっと仕事を選べって言いますけど、そんなに偉くなったとは自分では思っていない。来るものは拒まず、とそういうつもりでやってますよ。だけど、物理的にこなせない仕事はしようがない。前から何度も言ってますが、ぼくは仕事が遅いんです。才能も技術もないから(中略)うんうん言いながら(中略)書いているんです。下手だから。まじめだけが取り柄です。頭に馬鹿がつくって、言う人もいるけど。(中略)一所懸命がんばって少しでもいい仕事をしようって。骨身を削って努力してるんです。それを忘れてもらっちゃ困る」
「なるほど(中略)お話はよくわかりました(中略)――しかし、それとこれとは話がちがいますからね。**さんも関係ありません。当面の問題はこの原稿の続きをどうするのかということに尽きるわけです」』

(『小説トリッパー』(一九九五 冬季号)所掲「禁じられた遊び」より)



これは、法月綸太郎が笠井潔のコネで、評論家としての活躍の場を次々と与えられた際の「愚痴」を、少しあとで小説として書いたものである。

無論「小説(フィクション)なんだから、そのまま現実だとは受け取らないでくださいね」というエクスキューズ付き、というわけだ。

しかし、小説だから、何も後ろめたいところはないというのであれば、

笠井潔を『**さん』、『現代思想』誌を『G思想』、『野生時代』誌を『Y時代』、「朝日新聞が出す『小説トリッパー』」を『A新聞が出す『T』という雑誌』、島田荘司を『S田荘司』、などと書く必要はない。

これは明らかに、「事実に基づいて書かれてもの」だというのを、暗に読者に匂わせるための工夫なのだ。

つまり、法月綸太郎という人は、昔から「こういう人」なのだ。

だから私は、彼の「人柄」が嫌いなのだし、彼の「愚痴」もまた、作中人物「法月綸太郎」初期の「悩める名探偵ぷり」と同様に、読者に向けた「意図的な演出(同情乞い)」にすぎないと見るのである。

だが、それでも法月綸太郎は、本格ミステリについては「書ける作家」だと評価したればこそ、『処刑館殺人事件』程度の作品を、本気で褒めるとは思わなかったのだ。

一一しかし、本書『法月綸太郎の不覚』を読んでしまうと、「この程度の作品しか書けなくなったからこそ、おのずと他の作家への評価も甘くなったのかもしれないな」と、そう思いなおすようにもなったのである。

つまり、私の上のような法月綸太郎についての評価も、法月綸太郎の他の作家の作品への評価自体については正直であるという前提に立っての人物評価なのだから、やはり私は、法月綸太郎の言うとおり、人を信じすぎるという意味において「あまりにもナイーブ」なのかも知れない。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本書『法月綸太郎の不覚』自体は、『処刑館殺人事件』と同様、「努力賞の凡作」である。

いろいろ工夫しているし、大味な『処刑館殺人事件』とは違って、緻密に作り込んでいる点は評価できる。だが、ミステリとしての「華」が無い。
一一平たく言えば、面倒くさくて退屈なだけなのだ。

『処刑館殺人事件』についても、

『一一「地味な努力賞」といったところである。
別に読む必要はなかった。

なにが物足りないのかと言えば、とにかく本格ミステリとしての「華がない」のだ。』


と評したのだが、本書『法月綸太郎と不覚』についても、同じことが言えるのだ。

そして、『処刑館殺人事件』ほどの大味なケレン味がなく緻密なぶん地味であり、『処刑館殺人事件』にも増して「華が無い」のである。

「緻密でありながら、華が無い」というのがどういうことなのか、譬え話で説明しよう。

ドミノ倒しを思い出して欲しい。
「面白い」と言うのか、「よく出来ていてすごい」と言うべきなのか、そういう「ドミノ倒し」とは、どういうものか?

それは、たくさんのドミノが整然と並べられた上で、その最後のドミノを倒すと、並べられた一連のドミノが、順次パタパタと最後のドミノまで、きれいに倒れてしまう、そのようなもののことであろう。

さらに並べて方に工夫があれば尚良いが、たくさんを並べるだけでも良い。
とにかく最後まで、きれいに倒れることが重要なのだ。

で、『法月綸太郎の不覚』に収められた諸作はどうなのかというと、たしかにたくさんのドミノを並べており「よくもこんなに並べたな」と、その点では感心させられるのだが、さてドミノを倒してみると、途中で止まってしまうのだ。
その度に作者がその先を倒して、ようよう最後のドミノまで倒せると、そういった感じの作品なのである。
一一つまり、ドミノ倒し特有のカタルシスが無い。知れ味がないのだ。

本格ミステリの魅力である「着地の鮮やかさ」が無く、なんともモタモタした印象で、なるほど論理の筋は通っているものの、到底「鮮やか」とは言いがたい。
その意味での「努力賞」作品なのである。

『処刑館殺人事件』のレビューにコメントを下さった「もりもり食べるぞ」氏は、

『「地味な努力賞」「華がない」「本格ミステリとしての切れ味がない」 日本の現代ミステリの殆どがそんな作品です。』


と、諦めたようなことを書いておられたのだが、もしかするとこの評言には、法月綸太郎も新作も含まれていたのかも知れない。

実際、本格ミステリのオールドファンというのは、もはや「切れ味の鋭い、華のある本格ミステリ」など期待せずに、それでも本格ミステリの新作を読み続けているのかも知れない。

というのも、本書『法月綸太郎の不覚』について寄せられた「Amazonカスタマーレビュー」の5編(現時点)を読むと、そんなノリが濃厚なのだ。

「今更、そこまで期待しちゃあダメだ(読めない)」と言わんばかりの、諦念にとらわれたレビューが多いのである。


まず、高評価と理解してよいレビューの3本。

(1)btOn
名探偵しぐさだっていいじゃない
(星5つ中5つ)
2026年5月27日

『作者にとって作中の法月親子の存在は確かにプロットを制限する要素にはなると思うけど、読者としては単に良質な本格ミステリが読めるというだけじゃなく、綸太郎氏の名探偵しぐさや親父どのとの会話に変わらぬ味を見いだすのも、また他に代え難い読書体験であり続ける。いつになっても次の作品を楽しみにしているし、悩みや愚痴を吐露しながらもシリーズを続けてくれることが本当にうれしい』


(2)パブロフのイッヌ
時流など気にせず本格推理を書き続けてほしい(星5つ中5つ)
2026年5月13日

『著者にとっては七年ぶりの小説単著だという。交換殺人ものが多いのでそれがテーマの短編集なのかと思いきや、偶然というか、発想が偏っただけだとあとがきで述べられている(もともとのりりんは交換殺人が大好きだからね!)。
クォリティは毎度のように申し分ないが、ちょくちょく気になったのは無理して2020年代っぽいワードをねじ込もうとしている箇所が散見されたこと(しかもセリフならともかく地の文で、である)。
あとがきで現代において名探偵の出てくるオールドファッションな本格推理を書き続けることへの不安をまたも吐露しているので、おそらくこれは本当に「文章で若作り」しているのだと思う。

そんな不安も、若作りも、きっぱり不要だ。
あなたは自分をだれだと思っているのだ。法月綸太郎だぞ!!!!!

変なことは考えず、これからも本格推理を書き続けてください。我々はそれが読みたいんだから。』


(3)HAL
法月倫太郎の最新作(星5つ中4つ)
2026年6月3日

『確かに4作とも指向がよく似ている。ただそれぞれの謎解きは相応にこった物なので特にマンネリ感はないと思います。

4編を通じて思ったのは時代の流れを持ち込むことの難しさです。コンプライアンスも科学捜査も犯罪傾向も作品の発表時とは大きく異なります。本人も苦労した旨を後書きでいっています。何とか書き込めていますがやはり少しぎこちないかもしれません。

それと最後の作では人物関係図をP212に書いてくれていますができれば他の3作でもそうしてほしかったと感じました。年をとったせいか名前を頭にいれるのが億劫になってきました。中短編だと名前がしっくりくる前に話が終わってしまう。

しかし新本格の時代から数十年、書き続ける人も書かれる量も減ってきました。少し寂しい。』


続いて、低評価の2本。

(4)Kindleのお客さま
法月親子と令和の相性の悪さよ
(星5つ中3つ)

『長年愛読してますが、、令和との時代の齟齬に喘いでいる法月センセイを見るのは辛いなあ。
突然コンプラだのバズだの老父が陰謀論にハマってだの当世ワードが頻出して『ガラスの仮面』に携帯電話が登場したときみたいにビックリ。”名探偵しぐさ”の自己言及も痛々しいし、読んでいてしばしば目を覚まされて没入しにくい感じ。
こちらは浮世から逃避するためにミステリを読んでる所もあるので、無理して現代にアップデートして下さらなくてもいいのですよ、むしろ相変わらず時代錯誤だなあ笑と揶揄させてくれるぐらいが頂戴いいのです。
ハウダニットがほぼ全話同じで、魅力的な謎でもなくて、特に書き下ろしの『平行線は交わらない』がひたすら人間関係をあーでもないこーでもないとひっくり返しながら論議するのが平坦で読み進まなかった、、。
流行りの事故物件や怪談をからませた所は良かったのですが、、。
本格ミステリといえども物語なのだしもう少し起承転結あるストーリーが欲しい!

次作も拝読しますので、アナクロでもいいので稚気のある法月作品に再会したいな。』


(5)kstar
もう限界では?(星5つ中3つ)
2026年5月23日

『毎度おなじみの法月綸太郎もの。法月綸太郎のコアファンなら喜ぶのでしょうが、作品のレベルはかなり低下してますよね。四作品中三作品が交換殺人という 小説の中では存在しても現実にはありえない設定に頼っているあたり、作者のアイディアも枯渇しているようで、かなり残念なしあがり。一部のファンは喜ぶかもしれませんが、多くのファンは 法月綸太郎シリーズの格がさがってしまうとがっかりするのでは?異論はあるでしょうが、一定レベル以上の作品を書けないなら、このシリーズはもうやめにしたほうがいいと思います。』


まず最初に押さえるべきは、低評価の2人にしても「星5つ中3つ」をつけており、決して「ためにする低評価ではない」という点である。

いわゆる悪意票なのであれば、いちいち低評価の理由など説明などせずとも、「星一つ」をつけて「読む価値なし」とでも切り捨てれば済むことだからだ。つまり、(4)の「Kindleのお客さま」氏にしろ、(5)の「kstar」氏にしろ、低く評価したいのではなく、法月綸太郎に期待があったればこそ、この作品集は、そうした期待に応えてくれなかったと、その「残念」を語っているのである。

だから、高評価の、(1)の「btOn」氏、(2)の「パブロフのイッヌ」氏、(3)の「HAL」氏のお三方にしたところで、本作品集を褒めているのではなく、老いたる法月綸太郎を「応援」しているだけだとも言えよう。
「期待したほどではなかったけど、でも、よく頑張って書いてくれているではないか」と、そんなファン心理で「応援」しているだけなのである。

だから、(4)の「Kindleのお客さま」氏や(5)の「kstar」氏の場合は、同じ法月綸太郎読者だとしても、「作者への個人的な愛着と、作品評価は区別すべきだ」という立場から、本書『法月綸太郎の不覚』を、やむなく低評価せざるを得なかっただけ、というのは明らかなのだ。

そもそも、昔から法月綸太郎をと言うか、新本格ミステリ第1期の作家を読んでいるような古い本格ミステリファンでなければ、今ごろ法月綸太郎の新作短編集を読んだりはしないのだ。この私を含めて。

つまり、Amazonカスタマーレビューでの評価が割れたのは、じつのところ作品の評価が割れたのではなく、法月綸太郎の老いに対して、どう「助言」するのかの、そのスタンスの違い(優しい声をかけるのか、叱咤するのかの違い)だと言ってよいだろう。

高評価の(1)の「btOn」氏、(2)の「パブロフのイッヌ」氏、(3)の「HAL」氏のお三方は、要は「昔どおりとはいかないものの、法月綸太郎は頑張ってるじゃないか。そこを評価したい」ということであり、低評価の(4)の「Kindleのお客さま」氏、(5)の「kstar」氏のお二方の場合は、「まだやれるだろう、頑張れよ!」と言っているだけなのだ。

総じて言えば、本書『法月綸太郎の不覚』が「期待はずれ」だったという作品評価については、このように完全に一致しているのだが、その上で、著者の法月綸太郎に、どのようにアドバイスするのか、そのスタンスが違っただけなのである。

さて、以上を踏まえたで、上のカスタマーレビューについて、いくつか気になる点を指摘しておこう。

(1)の「btOn」氏の、

『読者としては単に良質な本格ミステリが読めるというだけじゃなく』


という言葉は、本書『法月綸太郎の不覚』が『良質な本格ミステリ』ではあるが、という意味だが、この評価は不適切である。
なぜなら、同氏は「面白い本格ミステリ」から「良質な本格ミステリ」を切り離しているからだ。
つまり「面白くもない本格ミステリでも、作り込まれてさえいれば、本格ミステリとしては良質だと評価し得る」というのが、同氏の「本格ミステリ」観なのである。

だが、これは「擁護のためにする恣意的な本格ミステリ定義」でしかなく、これを本書『法月綸太郎の不覚』に適用することは、実質的には「贔屓の引き倒し」にしかならない。
「もう、法月綸太郎に傑作は期待しません。古いファンとしては、書いてくれているだけでありがたい」と、そう言っているに等しい「本格ミステリマニアしぐさ」にすぎないのだ。

ドミノ倒しは、最後まで綺麗に倒れてこそ意味があるのであって、そこを無視して「たくさん並べましたね、すごいすごい」と言うのは、本格ミステリへの評価としては、「違う」ということだ。

これと同様、(2)の「パブロフのイッヌ」氏の、

『クォリティは毎度のように申し分ない』


という評価も、「btOn」氏の『良質な本格ミステリ』という言葉と同じで、所詮は「ためにする褒め言葉」でしかない。言うまでもなく、昔の法月綸太郎は、もっともっと「クオリティが高かった」のである。

もしも、昔からこの程度の作家だったのなら、私は今更、法月綸太郎の新作を読もうとは思わなかったはずだ。

あと、「btOn」氏は、

『いつになっても次の作品を楽しみにしているし、悩みや愚痴を吐露しながらもシリーズを続けてくれることが本当にうれしい』


と語り、(2)のHAL氏は、

『しかし新本格の時代から数十年、書き続ける人も書かれる量も減ってきました。少し寂しい。』


と書いていて、法月綸太郎一流の「愚痴」レトリックにまんまと乗せられているようだが、あれは昔からの「読者コントロール」のテクニックであり、今回の場合は、同情を引くための「老作家しぐさ」だと考えるべきだろう。

今回の『法月綸太郎の不覚』では、『所轄しぐさ』(P16)、『名探偵しぐさ』(P66、111、116、189、194、234、242)と、うるさいくらいの自意識アピールなのだが、しかし、法月綸太郎という人は、もともとそういう人であり、それは歳をとったからではない。
歳をとったのを逆手にとり、それを利用しようとしているだけなのだ。

そもそも、法月綸太郎というのも、本名Y氏の「ミステリ作家しぐさ」としての「法月綸太郎しぐさ」であり「エラリイ・クイーンしぐさ」なのだから。


………………………………………………………………………………
【補記】 ミステリ評論家・若林踏の『法月綸太郎の不覚』評価について

若林踏は、ネット記事「今月のベスト・ブック」の国内ミステリー編に、『法月綸太郎の不覚』と米澤穂信の『倫敦スコーンの謎』の2冊を取り上げて、両作を誉めている。


長くなるので、こちらの全文引用はやめておくが、評価のポイントは、次の言葉に集約されるだろう。

『『法月綸太郎の不覚』(講談社)は法月の批評家としての資質が遺憾なく発揮された中短編集である。』


つまり、法月の批評家的な「問題意識」のよく表れた作品集だという評価であり、言い換えれば「本格ミステリとしてよく出来ている」という意味ではない、ということなのだ。
「そっち(ミステリとしての出来)が誉められないから、こっち(批評性)を褒める」というものなのである。

そして若林は、同じ趣旨の評価を短くまとめたものを、こちらもネット記事「道玄坂上ミステリ監視塔 書評家たちが選ぶ、2026年4月のベスト国内ミステリ小説」にも寄稿しているので、こちらを全文引用しておこう。

若林踏の一冊:法月綸太郎『法月綸太郎の不覚』(講談社)

 事故物件、インフルエンサー、コンプライアンス規定と、30年以上続く<探偵・法月綸太郎>シリーズにも令和の世相を反映したような単語が続々と出てくることにまず驚く。もちろん表層的な部分だけではなく、推理の面においてもレギュラー探偵を配した謎解きミステリを現代的に刷新する試みは忘れない。書下ろしの「平行線は交わらない」は、まさに2020年代以降における名探偵の存在を考えさせるものだ。「令和の時代に古風な名探偵しぐさを続けていく」のは困難な道のりだと思うけれど、しっかりと最前線に立っていますよ、法月さん。』


『考えさせるものだ』というのは、もちろん「謎解き」のことではなく、「世相」や「名探偵とは何か」といった「批評的な問題」のことである。

もちろん、私は「テーマ」や「問題意識」の面白いミステリも大好きなのだが、しかし、本書『法月綸太郎の不覚』で扱われる「世相の問題」や、「名探偵とは何か」といった問題の扱いは、さほど深くもない、個人的な感慨の域を出ないものとしか思えない。

だから、若林踏のこうした点(批評的な側面)での評価も、所詮は、本格ミステリとしての出来についての評価を「避けた」が故の、本筋ではないところでの過大評価だとしか評し得ない。

プロのレビュアーというのは、駄作凡作であっても、とにかく良いところを見つけて、それを針小棒大に評価しては、読者に誤った印象を植え付けようとするものなのである。
彼らの第一の目的は、本が売れるようにすることだからである。

それに、大御所作家にゴマを擦っておいても、決して損はない。
なにしろ、ミステリ評論家というのは、たいがいの場合、コネでなるものなのだ。だから、大学ミス研の出身者が多いのである。



(2026年7月4日)

 ○ ○ ○






“法月綸太郎 『法月綸太郎の不覚』: 法月綸太郎しぐさ” への2件のフィードバック

  1. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    法月綸太郎でまともに読んだのは「怪盗グリフィン、絶体絶命」だけです。次に手に取った「雪密室」だったか「密閉教室」だったか(どっちか覚えてません)あまりの文章の酷さに2〜3ページで投げ捨て、それ以来、読んでません。
    この、文章が酷いと言うのはエンタメに限らず芥川賞の候補作もそうで(ときには受賞作も!)こんな程度の小説が歴史のある文芸誌に堂々と載っています。「群像」「新潮」「文學界」を定期購読してましたが、それもやめました。
    話をミステリに戻します。「処刑館殺人事件」を「地味な努力賞」とは、評価が高いです。「努力賞」にも達していないものが殆どですから。
    それでも現代の日本ミステリを読むのは、純文学作品が(文芸誌の新人賞に顕著なのですが)読んでもらって当たり前という妙に偉そうなものが多いのに反し、エンタメの作家が「どうやったら読んでもらえるか」「読者を楽しませよう」と頑張っている感じがあるからです。日常生活の憂さを一時でも晴らしてくれたらOK。
    まぁ、駄目なものは駄目なんですがね。

  2. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    コメント、ありがとうございます。

    > 法月綸太郎でまともに読んだのは「怪盗グリフィン、絶体絶命」だけです。次に手に取った「雪密室」だったか「密閉教室」だったか(どっちか覚えてません)あまりの文章の酷さに2〜3ページで投げ捨て、それ以来、読んでません。

    まあ『密閉教室』はデビュー作、『雪密室』は第二作で、どちらも大学生時代の作品ですから、文章なんてほとんど気にしていなかったでしょう。
    もっとも、現行の版には手が入れられているはずなんですが。

    > この、文章が酷いと言うのはエンタメに限らず芥川賞の候補作もそうで(ときには受賞作も!)こんな程度の小説が歴史のある文芸誌に堂々と載っています。「群像」「新潮」「文學界」を定期購読してましたが、それもやめました。

    昔の文学者は、文章がうまくて当たり前であり、その上で中身がなければなりませんでしたが、今どきは「純文学なら、中身さえあれば、文章は下手でもかまわない」と、そんなふうに考えられている節がありますね。

    文章の下手さを補って余りあるようなものを書ければ良い(そんな唯一無二の存在であれば良い)んですが、もとよりそんな人は何十年に一人でしょうから。

    > 話をミステリに戻します。「処刑館殺人事件」を「地味な努力賞」とは、評価が高いです。「努力賞」にも達していないものが殆どですから。

    私は意外に甘いんですよ。なにしろプロを評価するのにも、その「努力」まで評価してあげるんだから(笑)。

    > それでも現代の日本ミステリを読むのは、純文学作品が(文芸誌の新人賞に顕著なのですが)読んでもらって当たり前という妙に偉そうなものが多いのに反し、エンタメの作家が「どうやったら読んでもらえるか」「読者を楽しませよう」と頑張っている感じがあるからです。

    それはまあ、エンタメというのは、娯楽作品であり、そのために存在するものですからね。

    > 日常生活の憂さを一時でも晴らしてくれたらOK。

    まあ、それはそれで難しいでしょうね。
    読んでスッキリなんて作品も、意外と無いですから。

    > まぁ、駄目なものは駄目なんですがね。

    おっしゃるとおり。

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