▷ 映画評:相米慎二監督『魚影の群れ』(1983年)
本作の存在を知ったのは、「映画ジャーナリストが「10回は観直した」、究極の名作6選。」というタイトルのネット記事によってであった。
映画ジャーナリストの二人が各3本ずつ選出した名作中で、金原由佳の方がその一本として、本作を選んでいたのである。
ちなみに、金原の選んだ他の2本は、次のとおりだ。
・ジュスティーヌ・トリエ監督『落下の解剖学』
・タル・ベーラ、アニエス・フラニツキ共同監督『ニーチェの馬』
私は、金原由佳が選んだ3本を、いずれも知らなかった。
だから、ひとまず、日本映画であり取っつきやすそうな、本作『魚影の群れ』を見てみることにしたのである。

○ ○ ○
さて、さっそく結論から言うならば、本作は私の「好み」とは言いがたい作品であった。
だがまた、容易には理解しがたいという意味において、とても興味ぶかい作品ではあったから、本稿ではそのあたりを論じようと思う。
本作は、そうした「秘められた価値」を有する作品だったのである。
まず、何が「私の好みではない」のかといえば、登場人物たちの動機が、きわめて「情念的」なものであり、私好みの「論理的」なものではなかった点だ。
私の素直な感じとしては「どうして、そんなことをするの?」という感じなのだ。
だから、登場人物たちに感情移入することができず、「こうした不合理な行動の根拠が、後で示されるのだろうか?」と、そんなことを漠然と考えながらしばらくは見ていたのだが、どうやらそういう作品ではなかったことが、徐々にわかってくる。
そして、最後まで見てみると、本作はそんな「情念的な人間」とその生き方を描いた作品なのだと、そう了解できたのだ。
本作がどのような内容の作品なのか、それをWikipediaから「概要」と「あらすじ」を引用して紹介しよう。
なお本作は、吉村昭の同題短編小説を原作にしており、Wikipediaは原作小説のもので、その「映画」の項目において本作は紹介されている。
『本州最北端、下北半島の漁港・大間の頑固なマグロ漁師・小浜房次郎、房次郎が男手一つで育て上げた娘・トキ子、トキ子の恋人で一人前の漁師になろうと志す青年・依田俊一、この3者の愛憎を軸に描いた人間ドラマである。』
『あらすじ
多くの漁師が(※ その激務において)40代で辞めてしまう中で、小浜房次郎は初老を感じながらもマグロ漁を続けている。(※ 房次郎は)娘トキ子が結婚したいという、喫茶店をやっている依田俊一に会う。(※ 俊一は、房次郎の家の)養子(※ 入り婿)になって漁師になってもいいという。漁に命を賭けてきた房次郎は簡単に漁師になると言われ、無性に腹立たしくなる。店を畳んで大間に引越してきた俊一は房次郎の持ち船・第三登喜丸の前で待ち、漁を教えて欲しいと懇願する。10日以上も俊一を無視し続けたが、一緒に乗り込むのを許す。(※ 漁で片脚を失った、元漁師仲間の)エイスケの忠告で、(※ 房次郎は)トキ子が家出した妻アヤのように自分を捨てるのではと怯えたのだ。不漁の日が続き、連日船酔いと闘ってきた俊一がようやく(※ それに)打ち勝った日、(※ 二人の船は)マグロの群れに遭遇する。餌が放り込まれた瞬間、マグロが引張る釣糸が俊一の頭に巻きつき、血だらけになる。だが、房次郎はマグロとの死闘を続け、マグロを仕留めた時、俊一の眼には憎悪が浮かんでいた。数ヵ月後に退院した俊一はトキ子と町を去る。
1年後、北海道の伊布港に上陸した房次郎は(※ 逃げた妻)アヤに再会する。懐かしさと20年の歳月がわだかまりを溶かすが、(※ アヤの)ヒモの新一に絡まれ、房次郎は(※ 逆に新一を)半殺しにし、止めに入ったアヤまで殴(※ り、再びアヤに見放され)る。翌日、伊布沖で房次郎は生まれて初めて(※ マグロに)釣糸を切られ、ショックを受ける。
たくましくなって俊一が大間に戻って来た。(※ しかし)ある日、(※ 漁師として独り立ちした)俊一の第一登喜丸の無線が途絶える。一晩経っても消息はつかめず、トキ子は房次郎に頭を下げて捜索を依頼する。(※ 房次郎は)長年の勘を頼りに(※ 俊一の)第一登喜丸を発見。300キロものマグロと格闘中であった。(※ 俊一が)重傷を負っているのを見て房次郎が釣糸を切ろうとすると「切らねでけろ。俺も大間の漁師だから」という俊一に(※ 房次郎も、掛かっていた)マグロとの闘いに加わる。2日間の死闘の末、大物は仕留められる。帰港の途中、来年の春に生まれる子が男だったら漁師にしたいと(※ 房次郎に)告げ、俊一は息を引き取る。』


本作で描かれるマグロ漁とは、一人の漁師が、釣り針と釣り糸(頑丈なテグス)だけで、独力でマグロを釣り上げる漁法である。
つまり、釣り竿さえ用いないのだから、通常言われるところの「一本釣り」ではない。
漁師は、一人で自分の船に乗り込み、漁場ではマグロの姿を見つけると、餌をつけた釣り針付きのテグスを海に投じ、マグロが引っかかれば、それからは何時間あるいは何日も、マグロとの一対一の綱引き合戦を演じるのだ。
したがって、この漁法は、小物を大量に取ることよりも、大物狙いの一攫千金をねらう、その意味で博打的な醍醐味のある漁法だ。
だからとれない時はまったくとれないが、とれた時は大金が転がり込んでくるという、そんな古風な漁法なのである。

本作の主人公・小浜房次郎(緒形拳)は、上で『多くの漁師が40代で辞めてしまう中で、小浜房次郎は初老を感じながらもマグロ漁を続けている。』と紹介されているとおり、職人気質の腕のいい漁師なのだが、しかし、職人気質の古い人間であるために、漁以外のことは顧みない頑固な男でもある。
家族との生活など顧みず、「漁師は漁のことだけ考えておればええ」といった考えの持ち主であり、さらには実力だけで生きてきた男らしく、人と話し合うということができない。
だから、妻に対しても暴力的であり、そのせいで、娘のトキ子(夏目雅子)が5歳の時に、妻のアヤ(十朱幸代)に逃げられ、それ以降は、男手ひとつでトキ子を育ててきた。

だからトキ子の方も、そんな父を誇りとする陽気な娘に育ち、自分の結婚相手にも、父のような漁師になることを期待している。
そして、そんなトキ子の恋人となった依田俊一(佐藤浩一)は、喫茶店を経営する心優しい青年ではあったが、心底トキ子を愛し、本気でトキ子の父親のような漁師になりたいと考える青年であった。

当初、そんな俊一が房次郎にトキ子と結婚したいと言っても、房次郎は俊一に「トキ子を抱いたのか?」と訊き、俊一がそれを認めると、俊一を殴りつけて「結婚など許さん」と拒否する。
俊一が「貴方のような漁師になりたいんだ。漁師のイロハを一から教えて欲しい」と懇願しても、まったく聞く耳を持たなかった。
しかし、やがては、トキ子の俊一への想いと俊一の熱心さに押されて、房次郎はやむなく俊一を船に乗せてやることにする。
ところが、そんな矢先に、俊一はマグロに引っ張られた強靭なテグスに絡まれて、頭に大怪我をする。

しかし、房次郎は俊一からテグスを外すと、俊一を病院へ運ぶために港へ戻るのではなく、かかったマグロを釣り上げることを優先し、マグロを釣りあげてから漁港へと戻った。
そのため、俊一は生命の危険にも晒され、結果としては回復したものの、トキ子と共に大間の町を出て行ってしまうのである。
一一以上が、物語の前半だが、これだけでも、本作の登場人物たちの特性が十分に表れていると思う。
要は、妙にこだわりが強くて、あまり損得を考えないのだ。まったく合理的ではないのである。
房次郎については言うまでもないが、娘のトキ子だって、父の性格のせいで早くに母を捨てられているにもかかわらず、またそれゆえか、過剰に漁師としての父に愛着を持っているし、そのせいで、恋人の俊一にも、本来不向きかもしれない漁師へのこだわりを植えつけてしまう。
また、俊一にしても、普通ならばトキ子の望むとおりに漁師になろうとなどとは考えず、「俺が好きなら、俺の生き方も認めろ」と言っても良さそうなところなのだが、どうにも本気でトキ子の父に憧れているようなのが、むしろ解せないのだ。

で、私を含め、現代の日本人の多くにとっては、房次郎の「独善的」な生き方は、とうてい支持できるものではない。
また、それを無条件に肯定しているようなトキ子の気持ちについては、必ずしも理解できないものではないとは言え、とうてい合理的なものだとは思えない。
それは、俊一についても同じである。
だから私は、本作の登場人物たちに感情移入することが出来なかったのだ。
「こういう人たちも現にいるだろうし、特に、昔はこういう人たちが多かったんだろうな」とは思うのだが、私個人としては、こんな「蒙昧な生き方」は、とうてい出来ないし、する気もないと、そう感じられたのである。
さて、私は先に『私を含め、現代の日本人の多くにとって』と書いたが、これは若い読者には、たやすく理解してもらえよう。
房次郎のような「暴力的で独善的」な男を「男らしい」とは、今の男性には、とうてい考えられないはずだからだ。
そしてそれは、反時代的に「男らしさ」の価値を称揚する私だって同じで、房次郎のそれは「真の男らしさではない」と否定する。
「真の男らしさとは、女性などの弱者に対する優しさや思いやりがあってこそ」だと考えるからだ。
昔の特撮ヒーロードラマ『宇宙刑事シャリバン』のエンディングテーマ「強さは愛だ」の歌詞(山川啓介)に、
強い奴ほど 笑顔は優しい
だって 強さは 愛だもの
おまえと同じさ 握った拳は
誰かの幸せ 守るため
とあったとおりであり、私の言う「男らしさ」とは、こうしたシャリバン的、仮面ライダー的、スーパーマン的、キャプテン・アメリカ的なものだったのである。
だから、房次郎的な「男らしさ」とは、今風に言えば「有害な男らしさ」ということになり、当然それは、批判されてしかるべき間違ったものだし、それを崇拝するトキ子や俊一の価値観も、「家父長制」的な価値観に歪められたものであり、正されるべきものだと、そう感じられたのだ。
だが、そう言って済ませることは、しごく簡単であり、今どきの頭の悪いフェミニストにだって、容易に出来ることなのだが、一一しかし、果たしてそれだけでいいのだろうか?
私の、房次郎たちへの批判は、ひと昔まえの多くの人たち、日本人に限定されない多くの人たちの「生活感覚」や価値観を、丸ごと否定するものに、なってはいないだろうか?
しかし、そうだとすればそれは、何よりも「暴力的」な態度であり、ある意味では、房次郎的な「価値観の押しつけ」になっているのではないかと、私にはそのようにも感じられたのだ。
房次郎が、巨大なマグロと一対一で対決するシーンは、容易にアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』における、老漁師と巨大カジキとの対決を連想させるし、そうした連想を拡大させれば、そこにハーマン・メルヴィルの『白鯨』における、クジラ漁で片脚を失ったエイハブ船長と宿敵たる白鯨との死命をかけた闘いにも通ずるところがあろう。

だから、こうしたことをひとまとめに「不合理」だと否定するのは、乱暴な独断論であり、やはり間違いであるように思える。
たしかに、合理的に考えれば、たかがマグロ漁やカジキ漁、クジラ漁に命を賭けるなどというのは、馬鹿げており、不合理きわまりない。
ましてや、自分の命をだけではなく、家族までそれに巻き込むというのは、不合理に止まらず、身勝手な「独善」でしかない、とも言えるだろう。
だが、彼らが、マグロやカジキやクジラとの闘いに賭けたものを、そうした「損得打算」のみによって、計っても良いものなのだろうか?
そこには、損得を超えた、もっと人間の実存論的な「尊厳」とでもいったものがあったればこそ、『老人と海』や『白鯨』は、不朽の名作となり得たのではないのか?


であるならば、そうした男たちの末裔たる房次郎の生き方が、「今どきの価値観」や「政治的に正しい生き方」や「反家父長制としてのフェミニズム」に、明らかに反するものだからといって、それだけで「全否定」しても良いものなのであろうか?
一一そうした物の見方は、あまりにも「近視眼」的であり、その意味で「独善的」ですらあるのではないだろうか?

無論、本作『魚影の群れ』に描かれた人たちの生き方を、無条件に肯定することなど出来はしない。
正されるべきところは正されなければならないのだけれども、しかし、近視眼的な「後知恵」だけで、彼らの持っていた「文化」を全否定するというのも、それはそれで愚かではあろう。
私たちは、昔の人たちの価値観や幸福感を「全否定」できるほど利口ではないと、私はそんなふうに考えるのだが、これは謙遜にすぎる考え方なのだろうか?
一一彼らは、いったい何にこだわり、何を求めたのか?
現代においては「見失われてしまった」そうした価値観と、私たちは、真摯に向き合うべきなのではないだろうか。
そうでないと、私たちは「たらいの湯(水)と一緒に赤子を流す」(英語: Don’t throw the baby out with the bathwater)の愚を犯すことになるのではないだろうか。
最近はあまり耳にすることのない諺だから、少し解説しておくと、この諺が教えているのは、「悪いもの(汚れたお湯)を捨てようと焦るあまり、かけがえのない大切なもの(赤ちゃん)まで一緒に捨ててしまう」という意味であり、不要なものを排除するつもりで、重要な要素まで失ってしまったり、行き過ぎた手段で本末転倒な結果を招いたりすることを戒める言葉である。
だから、本作『魚影の群れ』に描かれた人々には、今となっては、たしかに「不適切」な部分があり、それは正されなければならないだろうが、しかし、物事の表面だけを見ていては、物事の本質を見失ってしまうし、その大切なものを取り逃がしてしまう。
私たちもまた、波だつ海面の下に揺曳する魚影を、見逃すことなくとらえる目を持たなければならないのだ。
そして、そうした目を持てば、私たちは資本主義経済によってすっかり毒された、表面的な「損得打算」を超えて、もっと深いところにある大切なものを、ふたたび見ることが叶うようにも、なるのではないだろうか。

(2026年7月3日)
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