つくみず 『少女終末旅行』: 終わった世界に、ふたりぼっち

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▷ 書評:つくみず少女終末旅行』(全6巻・新潮社 BUNCH COMICS)


つくみずについては、すでに『シメジ シュミレーション』(全5巻)を各巻刊行時に読んでおり、レビューも書いている。


その『シメジ シュミレーション』の前に書かれ、アニメ化もされて、つくみずの代表作ともなっているのが、本作『少女終末旅行』だ。



しかし、『少女終末旅行』が一種のブームになっていた頃、私もその存在だけは知っていたのだが、読むにまでは至らなかった。

同作が私の目に留まった理由は、主人公の二人の少女、チトユーリの使用する車両が、第二次世界大戦時、旧ドイツ軍が使っていた、きわめて特徴的な半装軌車、ケッテンクラートだったからだ。
私は中学生の頃、AFV(Armoured Fighting Vehicle)専門のモデラーだったので、タミヤ模型のケッテンクラートのキットも作ったこともあり、そこに一種の懐かしさを覚えたためである。



それでおそらく、『少女終末旅行』とはどんな作品なのかとあらすじを確認したところ、二人の少女が、すっかり人影の消えた終末世界を、ケッテンクラートに乗って彷徨う物語だと知り、どうにも単調そうな印象だったので、読むにまでは至らなかったのである。

そんな『少女終末旅行』を、今回読むことになったのは、その前段として、ALT236の著書『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』を読んだことに始まる。


私は同書で、本年(2026年)9月に日本でも公開されることが決まった、現在話題沸騰中の映画、『バッグルームズ』(ケイン・パーソンズ監督)に多大な影響を与えたという日本の漫画『BLAME!』弐瓶勉)の存在を知り、さらに、『少女終末旅行』もまた、この『BLAME!』から大きな影響を受けていたという事実を知って、それではこの機会に読んでみようということになったのである。


ちなみに、私が『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』を読んだ際には、映画『バッグルームズ』はまだ公開前だったのだが、その後、北米で公開されるや、同作はたちまち大ヒットして、世界での公開が決まった。
そんな映画の原型となったのが、アマチュア時代のケイン・パーソンズ監督(当時16歳)による、同タイトルの次のオリジナルYouTube動画だ。



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さて、本作『少女終末旅行』だが、どうだったかというと、私としては『シメジ シュミレーション』の方が物語に曲があって、ずいぶん面白かった。
『少女終末旅行』の方は、文字どおり物語の9割までが、チトとユーリの二人か、無人の廃世界をケッテンクラートで延々と行くだけの物語だったのである。


無論、最終巻では、この未来の地球と思しき星から、なぜ人類がいなくなったのか、チトとユーリ、そして物語の途中に登場する2人の人物の合わせて4人以外は、どうなったのかの種明かしがなされるのだが、その説明内容は、さほど意外なものではない。

また、チトとユーリの二人が、どうしてこの階層世界の最上層を目指していたのか、終盤で明かされるその理由の方が、むしろ物語的には重要であろう。
だがそれとて、ミステリー小説のような「あっと驚くべき真相」などではなく、「なるほど、そういう事情だったのか」という程度のもので、それが本作ラストの「寂しいラスト」を演出するひとつの要素になっている、という程度のものなのだ。

【※ これ以降、終盤の展開を逐次明かしていきますので、今後読むつもりのある方はご注意ください】

すでに物語の序盤から、廃棄された大量の兵器が登場することからも、この星から人がいなくなったのは「最終戦争」の結果だというのは、早い段階でほぼ明らかになる。

そしてそれは、チトとユーリの使っている車両が、旧ドイツ軍の使用したケッテンクラートであることにも明らかだ。

ただし、かなり先の未来世界である本作の地球において、どうして、そんな古い車両や兵器が使われていたのか、その一応の理由づけはなされているようなのだが、しかしそれは本質的なものではなく、むしろ作者つくみずの趣味の反映だと見て良いだろう。

そのことは、チトとユーリの被っているヘルメットが、それぞれ旧イギリス軍、旧ドイツ軍のそれにそっくりであるばかりではなく、作中において「廃棄された兵器」として描かれる戦車が、旧日本軍の「九七式中戦車チハ」、旧ソ連軍の戦車「T-34/85戦車」、旧ドイツ軍の「38cm突撃臼砲 シュトルムティーガー自走砲」といった、いささかマニアックなものであることに明らかなのだ。

(九七式中戦車チハ)


(シュトルムティーガー自走砲)

マニアックな戦車を採り上げた作品としては、TVアニメ『ガールズ&パンツァー』の方が、本作『少女終末旅行』より2年ほど先のようだから、その影響も多少はあったのかも知れないが、それにしても旧ソ連軍の戦車を中心に登場させるというのは、戦車好きでなければやらないというのは明らかなことだろう。

それにまた、『少女終末旅行』と『シメジ シュミレーション』に共通する「孤独と人恋しさ」という特徴からすれば、「男のロマン」を描いた漫画家・松本零士がドイツ軍の洗練された戦車や戦闘機を好んだ「男の子的な趣味」とは違い、つくみずが、ドイツ軍を苦しめた「冬将軍と雪解けの泥濘」の「東部戦線(独ソ戦)」を連想させる地味めの戦闘車両を好んだのも理解できるところだし、実際本作には降雪シーンが多いのだ。
そもそも、小型半装軌車のケッテンクラートは、普通の四輪車両(キューベルワーゲンシュービムワーゲンなど)とは違って、東部戦線の悪路でこそ活躍した車両だったはずなのである。

(東部戦線のドイツ軍)


そんなわけで、本作『少女終末旅行』の基調を成すのは、「孤独と人恋しさ」である。

私は、劇場用アニメ版『BLAME!』のレビューを、次のように締めくくっていた。

『『BLAME!』がそのビジュアルイメージのスケールにおいて、「リミナルスペース」「バックルーム」といった概念を生むにいたった重要作品であったというのは間違いないが、しかし、それらの概念の「人間のいない空間」という意味合いにおいては、むしろ『少女終末旅行』のほうが、ドラマティックな要素が排除されているだけに、かえって強く迫って来るものがあるように思う。

「出口の見えない、人のいない世界」というのは、たぶん、男性には「不気味」の印象が強い。
なぜなら、そこには「悪意ある人間以外の存在」が潜んでおり、「それと戦わなければならないのではないか」という、そんな恐れと不安を抱くからであろう。
男性には、「生きるために戦う」という、本能的な傾向があるのかもしれない。

一方、女性が「出口の見えない、人のいない世界」に対してまず感じるのは、「不気味」さなどよりも、むしろ「孤独」なのではないだろうか。
「敵」の存在を想定しての戦いを考える以前に、一緒にいる「仲間」を求める本能が、女性にはあるのではないか。

だから、『少女終末旅行』は「女の子二人づれ」の旅であり、 『BLAME!』 の場合は男性であるキリイの独り旅なのではないだろうか。

そう考えれば、「不気味」を強調する「リミナルスペース」や「バックルーム」、あるいは本作 『BLAME!』 などは、いずれも「男性的な夢想」なのかもしれない。

また、だからこそそれらは、不気味であり危険そうでありながらも、どこかドラマチックであり、魅力的でもあるのだろう。
その意味では、まだまだ切実な閉塞感ではないのだ。

現に閉塞した、人のいない終末世界に放り出された時、人は「不気味さ」や「危険」以上に、「孤独」をこそ、痛切に感じるのではないか。

またその点では、やはり女性の方がリアリストであり、男性的な概念であろう「リミナルスペース」や「バックルーム」には、どこかに男の子っぽい「異世界冒険譚」的な甘さの残滓が、感じられないでもないのである。』


つまり、『少女終末旅行』は、「冒険譚」などではなく、「孤独な最期の旅の記録」なのだ。

(チトは本好きであり貴重な本数冊を旅にも携帯し、日記もつけていたのだが、下の物語終盤では、暖を取るために本や日記が焼かれることになる)


本作における危険とは、「敵対的な存在からの攻撃」などではなく、建物やその通路などの老朽化による、通行時の事故やその危険性といったことでしかない。
チトとユーリの「敵」とは、そんな「ふたりぼっちの孤立」状況なのである。

だから、物語終盤の回想シーンで明かされる、この二人への、チトの亡き祖父からの「最上層を目指して行け」という指示とは、二人はその意味を知らなかったのだが、どうやらそこには地球脱出用のロケット宇宙船基地がある、ということだったようだ。
そこは行けば、この破滅的に荒廃した地球から脱出できるかも知れないと考えて、チトの祖父は二人にそう命じたようなのである。

(幼いチトとユーリは、祖父から旅立ちを命じられる)

だから、チトとユーリの二人が、その最上階を目指す旅の途中で、たった2人の人間に、しかも別々にしか出会わず、人間の死体すら見かけなかったのは、たぶん、戦争による大量の死者は、すでに環境管理ロボットなどによってすべて葬られており、その上で生き残った人類の多くは、地球を捨てて宇宙へと旅立っていた、ということのようなのである。
事実、二人は旅の途中で、広大な墓地を通過してもいるのだ。

しかし、チトとユーリが最上階に到着した時には、すでに基地はその機能を停止しており、使える宇宙船も残されてはいなかった。つまり、二人は間に合わなかったのである。

本作には、すでにうち捨てられて荒廃した、果てしもない巨大都市が描かれてはいるものの、地球環境が決定的に破壊されているといった状況は、直接的には描かれていない。
しかし、食料となる魚や植物が工場で生産されていたというのは描写はあるし、その工場がすでに活動を停止して、食糧が枯渇しつつあるという描写もなされている。

だから、チトとユーリの最上階を目指す旅も、残された食糧を探しながらの旅だったのだが、どうやら人類は最終戦争の結果、食糧の生産システムまで決定的に損壊してしまい、それで宇宙を目指さなければならなかったようなのだ。
もはや地上は都市に覆われて、食糧となる生物を育む自然は、完全に失われていたようなのである。


したがって、本作『少女終末旅行』は、ある意味では、戦争も含めて、地球の環境を決定的なまでに損ねつづける現代文明を批判した作品だ一一と、そう言うことは出来よう。

だが、それだけのことなら、それはあまりにも当たり前すぎて、面白くもおかしくもない、ということにもなる。

では、本作の真価とは、あるいは、その魅力とは何なんだろうか?

それはたぶん、すでに書いた「孤独と人恋しさ」なのだと私は考える。

そしてそれは、単に「終末世界における」ものではなく、いま現在の社会において、作者自身の感じている「孤独と人恋しさ」なのではないだろうか。

(痩せて冷え性なチトの冷え切った体を温めてやるルーリ)

私は本作『少女終末旅行』に感じられる「孤独と」をどう表現すればよいだろうかと考えていて、ふと「広場の孤独」という言葉を思い出した。

チトとユーリは、荒廃した巨大都市の中を、まるで蟻が這い進むように旅するのだが、その様子が「広場の孤独」という言葉を想起させたのであろう。

「広場」と言えば、普通は人がたくさんいるはずなのに、そこに人影がなければ、そこにいる者は、おのずと孤独を感じるだろう。
だから、完全にひとりぼっちではないとしても、チトとユーリの二人が、孤独を感じるのは当然のことなのだ。

しかしながら、「広場の孤独」という言葉は、本来はそういう状況を指すものではなく、「おおぜい人のいる場所における孤独」という意味であろうことは、想像に難くない。

「人気のない淋しい場所での孤独」というのは、言うなれば「当たり前の話」でしかないのだから、「広場の孤独」という言葉は「おおぜい人のいる中での孤独」という反語的な表現であったはずなのだ。

そこでこの「広場の孤独」という言葉をネット検索してみると、それは私が生まれる以前の1951年に発表され、第26回芥川賞を受賞した、堀田善衛の短編小説のタイトルであることがわかった。
私は、堀田善衛という小説家には興味を持ったことがなく読んだこともないのだが、たぶん芥川賞受賞作のタイトルとして、どこかで記憶に残っていたのであろう。

そこでさらに、この小説のタイトルの意味するところを調べてみたところ、どうやらそれは「朝鮮戦争を背景とした、混沌とした時代のうねりが渦巻く現実の場所。つまり群集の中に身を置きながらも、何にも依り頼れず、主体的な判断を下せずにいる知識人の、内面的な迷いや疎外感」といったものを象徴するものとして、タイトルに採用されたのが、この「広場の孤独」らしいということが判明した。


したがって、この堀田善衛の「広場の孤独」と、チトとユーリの「荒廃した巨大都市における孤独」とは、まったく異質であるとも言えるのだが、しかし実際のところ、そんな「孤独と人恋しさ」を感じているのは、チトとユーリであると言うよりは、作者つくみずその人なのである。
作者のそうした感情が、こうした「終末世界の風景」を生み、そしてその中に置かれた作者自身の投影であるチトと、その「救い」となっている楽天的な親友ユーリという「(心理的に)頼もしい存在」を描かせているのだ。

だから、本作には、チトとユーリのペア以外に登場する2人の人物、第1巻の後半に登場する男性カナザワと、第2巻の後半に登場する女性イシイは、それぞれひとりぼっちであり、その孤独に慰めるかのように、それぞれ「地図作り」と「飛行機作り」に没頭している。そうしないではいられなかった人として、描かれているのだ。


そして、作者のつくみず自身、第2巻の「あとがき」を、こんなふうな書いている。

『改めて読み返すと、イシイも(カナザワも)、
一人でたいそう寂しかっただろうなぁ…と
そんな事を思いました。
寂しいと人間は飛行機とか作り始めるんですかね…
一方で二人で気楽に生きるチトとユーリのことをうらやましく思ったかもしれません。
私もよく描いている二人のことがうらやましくなって
嗚呼…ただ生きるために生きられたら…と思いながら
庭の犬をなでます。』



つまり、作者のつくみず自身は、チトとユーリの方ではなく、ひとりぼっちのイシイやカナザワの方なのである。
そしてたぶん、ユーリには、作者の飼い犬の温かさが、多少なりとも投影されているだろう。

だからこそつくみずは、チトとユーリの関係に憧れてしまうし、家族や友人に囲まれた生活の中にあっても「広場の孤独」を感じ、それをまぎらわせるために「漫画を描く」のではないだろうか。

つくみずは、『少女終末旅行』という作品では、チトとしてユーリという存在を求め、『シメジ シュミレーション』では、頭にシメジの生えた少女しじまとして、ぜんぜん真面目ではない、おしかけ友達のまじめちゃんという存在を求めたのではないだろうか。

私は『シメジ シュミレーション』第1巻のレビューのタイトルを「理想の友達・理想の世界」としたけれど、それは間違ってはいなかったのだと思う。

『少女終末旅行』でも『シメジ シュミレーション』でも「理想の友達=かけがえのない親友」が描かれたのだけれど、ただ両作の違いは、『少女終末旅行』では「絶望的な現実世界」が描かれ、『シメジ シュミレーション』では「夢想された理想世界」が描かれた、ということだったのではないだろうか。




(2026年7月2日)

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