▷ 書評:森本あんり・渡辺靖『キリスト教ナショナリズム 不穏なアメリカの変貌』(朝日新書)
キリスト教神学・宗教学(北米キリスト教史)の森本あんりと、北米政治社会学の渡辺靖の対談である。

本書で語られている「アメリカ社会における政治と宗教」の問題は、しかしアメリカ一国に止まる問題ではなく、すこし形を変えて日本の現状にも当てはまるものだと感じられ、それが私にはとても興味深かった。
結局のところ、それらの根底にあるのは、盲信的なイデオロギー対立の問題であり、是か非か、敵か味方かの二者択一を迫る、性急な「不寛容の問題」なのであろう。

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アメリカの共和党とキリスト教保守派との結びつきは、昨日今日に始まったものではない。
日本語だと、キリスト教保守派の名称として、「キリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)」「福音派(エヴァンジェリカル)」などがあって、素人目にはとてもまぎらわしい。
また、本書では、キリスト教保守派の比較的新しい動向として、「キリスト教ナショナリズム」や「新使徒運動(NAR)」なども紹介されている。
アメリカにおける政治とキリスト教保守派との結びつきは、ごく大雑把に言えば、ロナルド・レーガン第40代大統領(在任: 1981年1月20日 – 1989年1月20日)の就任時に遡る。
なぜ、この頃なのかと言えば、約20年間も続いたベトナム戦争が1975年に終結して以降、アメリカ社会は徐々に享楽的な消費社会へと流れ始め、それまでの、人種差別撤廃運動(公民権運動)、フェミニズム、ベトナム反戦運動といった「重い問題」、政治的左派による弱者のための運動が、後景化していったためであろう。
当然のことながら、左派リベラルに勢いがあった時代には、キリスト教の保守的な考え方もまた批判の対象となった。
わかりやすい例としては、女性の堕胎する権利(人工妊娠中絶の権利)に関する運動などが、キリスト教の伝統的な価値観とぶつかり、キリスト教側は社会的な譲歩を迫られる流れだったのだ。
だが、人々の欲求が消費活動に向けられ始めると、キリスト教保守派は、その道徳的失地を回復すべく、小さな政府を標榜し、連邦政府の権限を制限しようとすると共和党を支持するようになる。
要は、社会の要請に従って各種の自由化を推し進めてきた連邦政府の、「宗教への口出し」を押しとどめる政治の実現を、共和党やその大統領候補者に期待したのである。
ところが、レーガンにしろブッシュ父・子にしろ、ドナルド・トランプ大統領以前の共和党出身の大統領たちは、経済的なグローバル化を推進するなどのことはしても、「古き良きアメリカの価値観の守る」といった、キリスト教保守派の期待にはまったく応えてくれなかった。
結局のところアメリカは、どんどん作り変えられていったのである。
そのため、それまでは「政治は宗教に口を出すな」という消極的(保守的)な姿勢が基本だったキリスト教保守派とは少し筋の違った、「アメリカをキリスト教を基盤とした国家にする」という積極的なスタンスを採る者たちが出てきた。
前者の場合「信仰が先にあって、それへの政治の口出しに抵抗する」という態度だったのに対し、後者の場合は「国家設計の基礎にキリスト教を据える」といった「国家観」優先の思想だった。そのためそれは「キリスト教ナショナリズム」と呼ばれることになったのだ。言うなれば、ナショナリズムの根拠として、キリスト教を起用(活用)するというものだったのである。
そして、こうした新たな「政治運動」の動向として出てきたのが「新使徒運動(NAR)」で、これは従来のキリスト教会の組織や教義とはまったく別のところで「現代における新たな使徒」が現れ、そうした新使徒によって、キリスト教国たるアメリカは導かれる(べきだ)とする、言うなれば「キリスト教における新左翼(極左)」的な「革新」運動だったのである。
このように、大雑把には「キリスト教保守派」あるいは「右派」と呼ぶことはできても、従来のそれからは大きく踏み出す、「宗教的社会(国家)改革派」としての、新たな「キリスト教極右」的な動向で出てきており、それがトランプ政権などと結びついている事実が、本書では紹介されている。
本書は、こうしたアメリカ社会の動向を、対談というかたちで多面的に紹介したものであり、その特徴としては、そうしたアメリカ社会はもとより世界にも害をなす「キリスト教保守派」を、「批判するだけ」ではなく、なぜ彼らはそのようになったしまったのか、そこまで踏み込んで説明しようとしているところにあろう。
つまり、そうした動向にそれなりの社会的な必然性があるのであれば、それは単に批判したり否定したりするだけでは、どうにもならないものだ。
だから、彼らがどうして、そのようなものにならざるを得なかったのか、その理由を正しく理解した上で、対処を講じなければならないと、本書はそういうスタンスに貫かれている。
したがって、本書で語られていることは、「あいつらはこんなに出鱈目だ」とか「こんなに酷い」から「許してはならない」といったものではない。
そうした問題が出てくるには出てくるなりの、私たちの社会の側の問題があるのだから、そこを無視して、相手にだけ「変われ」と言っても、そうはいかない、という結論となっている。
またその意味で、「キリスト教保守派」や「右派」に否定的な立場の読者の溜飲を下げさせ、満足させるような回答は、与えられていない。
本書で語られているのは、「とにかく、こんな奴らは消えてしまえば良い」とかいった現実逃避ではなく、「まずはこの現実を理解せよ」ということなのである。
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さて、そんなわけで、本書を一読してまず印象に残ったのは、社会におけるリベラルな理想主義的要請に対する各種の「○○疲れ」が、現在の極端な動向を生んだのではないかと、そう指摘している点だ。
つまり、「もうウンザリだ」という、半ばやけっぱちな心理が、人々を「極端な行動」、あるいは「独善」へと走らせているのでないか。そのために「和解不能のどん詰まり(分断)」に陥ってしまっているのではないか、という指摘である。
以下では、そうした指摘の部分を引用紹介しながら、適宜解説を加えていこう。
(01)『近代への反発から生まれたファンダメンタリズム(※ 見出し)
渡辺 ところで、アメリカの神学校(※ 牧師養成学校)は基本的には主流派(※ キリスト教主流派=穏健派)なのですか?
森本 おそらくそうでしょうね。ただ、誰が設立したかによっても内容は変わります。たとえば、第一章で触れたジェリー・ファルウェル牧師が創設した「リバティ大学」の近くにある神学校であれば、福音派(※ 保守派)寄りの教えが中心になるでしょう。
とはいえ、その神学校も連邦政府の介入を受けることがあります。二〇世紀の論点になった女性牧師の問題がその例です。アメリカでは、女性牧師は少しずつ増えてきましたが、今でも全体の二割くらいしかいません。その背景には、「女性が教会で教えたり話したりするのはよくない」という(※ 使徒)パウロの(※ 聖書に記された)言葉があります(「コリント人への第一の手紙」 14:34-35)。ただし、パウロは「男も女も神の前では平等である」とも述べており、どちらの言葉を重視するかによって立場が分かれます。
これまで連邦政府の基本的な考え方は男女平等でしたから、神学校に対しても「教会でも男女平等を実現すべきだ」と求めてくる。(プロテスタントの)進歩派の教会では、女性牧師を最初から認めていますが、(※ 保守派プロテスタントである)「南部バプテスト連盟」(SBC)のように「女性牧師は認めない」と考える人びとにとって、連邦政府からの強制は耐えがたいものです。彼らは、連邦政府が神学校にまで手を伸ばし、信仰に口を出してきたと受け止めたのです。』(P72〜73)
ここで問題となっているのは、連邦政府の教会への要請(強制的介入)など、かつては無かった、という点である。
そうしたことは、各教派・各教会が自主的に決める領分だったのだ。だからこそ、連邦政府の口出しは、信仰への介入だと受け取られて、反発され問題視されもしたのである。
(02)『森本 (略)キリスト教ナショナリズムは、信仰のカテゴリーでは語れないのではないでしょうか。英語で言えば“Christian Nationalism”ですが、「クリスチャン」とついていても、ある人の言葉を借りれば、それは「レガシー(遺産)」であり、私の言葉で言うと「文化」です。キリスト教ナショナリズムを唱えるには、自分が必ずしもキリスト教徒である必要はありません。ユダヤ教徒でも、仏教徒でも、無神論者でも構わない。
実際の調査でも、(※ キリスト教ナショナリズムに立つ人であっても)自分は無宗教だと言う人がかなりいます。それがこの思想の大きな特徴です。
つまりここでの「キリスト教」という言葉は、信じる内容ではなく、文化的なラベルになっている。信仰としてではなく、アイデンティティとしてのキリスト教なのです。』(P81)
すでに簡単に説明しておいた部分だが、「キリスト教ナショナリズム」と言う場合、その重点は、「キリスト教」ではなく、「ナショナリズム」の方にある、ということだ。
(03)『渡辺 なるほど。それに加えて、リベラル勢力が非常に急進的かつ性急に、政府と結託して改革を推し進めようとしていることへの反発もあるのかもしれませんね。
森本 そう思います。トランプ支持者にも共通する傾向ですが、キリスト教ナショナリズムには、実は移民出身者が多く含まれています。(※ なぜなら彼らの多くも、文化としての家父長制を温存しているから、その点に口出しされたくはない)』(P89)
つまり、左派リベラルの「Woke(ウォーク・目覚めた人)」と呼ばれる人たち、日本では「意識高い系」と呼ばれるの人たちによる、急進的かつ性急な社会変革の主張と、それに呼応した社会や政府の動向が、保守的な価値観を自明のものとしている人たちの反発を招いている、という指摘である。
だから、移住外国人の味方であるはずの彼(女)らは、その外国人にさえ嫌われていることもある、という話なのだ。
(04)『キリスト教ナショナリストと対話するには(※ 見出し)
渡辺 たとえば、Z世代に科学的事実に反する天動説を信じる人はいないでしょう。しかし科学の無謬性に疑問を抱いている人はいるかもしれない。コロナ禍で専門家が示した数字や対処法に違和感を抱き、科学はそこまで万能なのか、科学者や専門家を無条件で信頼していいのかと疑問視する、アメリカに昔からある反知性主義(※ 知性が無いという意味ではなく、知性を振りかざす立場への反発)的、反権威主義的な考えを持つ人は、Z世代の中にも(※ 少なからず)いると思います。
森本 (※ そういう反知性主義的な人たちまでがいなくなることはないとしても)アメリカが全体としてそちら(※ キリスト教保守主義)の方向に向かうことはない、と(※ いうことですよね)。結局、こういう(※ キリスト教保守主義者のような)ユニークな人たちの存在もまた、(※ いずれは人数も減って)多様性の一つとして位置づけられることで落ち着くのではいかという気がします。
渡辺 (※ そうです。ですから、)キリスト教ナショナリストは確かに戦闘的な姿勢を取りますが、そうした人びとに対して、リベラル側が同じく戦闘態勢で応じてしまえば、衝突が深まるだけです。重要なのは、相手を論理的・政治的に制圧しようとするのではなく、「自分たちはその考えに納得も同意もしていないが、異なる価値観が存在すること自体は認める」という(※異なる意見も尊重するという、民主主義的な)姿勢を持てるかどうかです。つまり、寛容という意味での本来のリベラリズム(※ 自由主義)を発揮できるかどうかが、今後の社会の分断を乗り越える鍵になるのではないでしょうか。
森本 はい。地球は平らだと信じている人(フラット・アーサーズ)に、「じゃその端っこはどうなっているのか」と(※ 意地悪く)尋ねても、彼らはちゃんとそれなりの答えを用意してるんです。
(※ だから)それに対して「いや、地球は丸いんだ」と言い続けても仕方が(※ 決着のつけようが)ありませんからね。そうではなくて、「ああ、あなたの考えはそうなんですね」とやり過ごしてみる。異なる考え方の人の存在を容認することは、共存への第一歩だと思います。
渡辺 Qアノン(QAnon)が出てきた当時も、よく話題になりました。「あなたの言っていることは陰謀論だ。そんなものを信じているのか」と言われると、相手はいっそう頑なになり、対立の構図が強まるだけです。平らな地球を信じている人にも、「釣りが好き」などの(※ イデオロギーとは別の部分での、人間的な)共通点はあるはずです。(※ イデオロギーという)部分的な相違で全人格を否定するのをやめ、お互いが共通点を見て対話を重ねていけば、本当の意味でのリベラルな状況は創出できると思うのですが、現状はそうなっていませんね。
森本 ええ。釣りの話でもして、お互いに少しでも信頼関係が醸成されれば、すぐに共通理解には至らなくても、対話はできますから。
渡辺 同意です。私は森本先生の『不寛容論』(新潮選書)を読み、自分の考えを後押ししていただいたように感じました。』(P107〜109)
この点については、短気な私も、しばしば反省させられている。
だが、私は、どんな相手とでも対話や論争を避けて、力で考えを押しつけようとしたことは一度もない。
その点、日本の昨今のフェミニストは、他人を批判する時には、相手の社会的立場を奪うほど公然と袋叩きにしておきながら、自分の不都合な話になると、途端にダンマリ(ノー・ディベート)を決め込むという悪質さがある。
批判も何もなく、いきなり私の「note」記事を管理者通報して削除させた、武蔵大学の教授で自称フェミニストの北村紗衣は、私から直接反論されると、いきなりダンマリを決め込んでしまった。
しかしながら、日本における「#MeToo」運動の先駆けでもあれば「キャンセルカルチャー」の象徴ともなった「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の主導者として、自身に悪口した歴史学者・呉座勇一を、その職を奪うまで、集団リンチ的に追い込んでおきながら、それが世間から「やり過ぎだ」と批判されるようになるや否や、いきなり全てのログを削除して証拠隠滅を図りだしたという事実にも、北村紗衣の「正体」は、すでに明らかだ。
その証拠に、北村紗衣が「管理者」の一人を務める「Wikipedia日本語版」の、「女性差別的な文化を脱するために」の項目を見ると良い。
そこには、呉座の名前や呉座を批判したオープンレター(公開質問状)への賛同署名者千数百人の名前はもとより、北村紗衣を中心とした発起人十数名の名前すら、伏せられているのである。
また、与那覇潤による最近の記事では、一時期、沈黙を守っていたオープンレターズ(オープンレターに参加した人たち。特にその発起人たち)が最近になって、何食わぬ顔でリベラルづらの発言を再開している、という事実が報告されている。
自らの行いや発言についての「説明責任」は、いくら求められても無視黙殺していた輩が、ほとぼりが冷めたと見るや、何も知らない人たちに向けて、またぞろ「実のない正論」を語り始めたのである。
(05)『渡辺 (※ 極右的な)教会のあるモスコウは今でも白人が人口の八割以上を占める街ですが、非白人の信者も一定数いるようです。
森本 それが不思議ですよね。コロナ以降、若い人たちは親世代の教会には関心が持てず、ヨガや東洋思想、スピリチュアルに向かいました。しかし一通り経験してみて、やっぱりそれで自分の人生を構築することはできないと自覚して、迷った挙句、教会に戻ってくる人が結構出てきています。
コロナ禍前後、キャンパスでは#MeToo運動が盛んになり、先ほど述べたウォーク(woke) 運動も起きました。そういう運動の中では、若い男性は常に(※ 女性に対する性的な)抑圧者、悪者の側に置かれ、小さくなっていなければならなかった。そのストレスが、結局は左派への反発心を高めてしまったのだと思います。ウォーキズムへの反発から右寄りにシフトした。アメリカ社会では「右寄り」=「キリスト教徒」が基本ですから、それがキリスト教へ戻っていくことにつながるわけです。左寄りのカルチャーにうんざりした若者の一部が教会に戻ってきているというのは、そういうことではないかと思います。
先ほど先生もおっしゃったように、アメリカでは強い女性が多いですが優秀な女性も多い。教育程度も高いし、仕事もできて収入も多い。相対的に、もう男はかわいそうなくらい立場がなくて、鬱屈している。その鬱屈が、「ターニング・ポイントUSA」(※ 若者向けの右派運動)のようなところへ若い男性が流れていく原因なのでしょう。
渡辺 女性に譲らなきゃいけないという暗黙のプレッシャーに日々さらされていると、無意識のうちに不満が溜まるのかもしれません。その鬱屈が彼らを「伝統的価値」に立ち戻らせている、と。キャンパスに居場所のなくなった彼らが教会や保守系団体に居場所を見つけようとするというのは頷けます。
私の知人の日本人女性はアメリカで白人男性と結婚しています。二人とも高学歴・高収入で、ニューヨークタイムズ紙を読んでいるリベラルです。ただ、彼女曰く、息子が学校で黒人の同級生からイタズラされても教師は怒ってくれない。下手に怒ると「人種差別」だとして職を失う可能性があるからと。曰く、授業ではBLM(ブラック・ライブズ・マター)の話ばかりで、基礎学力の習得が二の次になっていると。曰く、自分たちは高収入なので大丈夫だけど、今のアメリカでもっとも疎外感を感じているのは低学歴・低所得の白人男性だろうと。女性やマイノリティが優遇される一方で、医療保険にさえ加入できないと感じる彼らの憤りは相当なものだろうと。
森本 先日、日本の三〇~四〇代エグゼクティブの異業種交流会に出る機会があったので、数人に「DEI(※ 多様性・公平性・包括性)についてどう思うか」と聞いてみたのですが、あまり肯定的には捉えていないようです。「同世代の男だけで話をするとすごくスムーズに物事が進んで、ビジネスがうまくいく」と言っていたのが印象的でした。そういう感覚がアメリカの若い男性の間にもきっとあるのでしょう。女性への配慮を常に求められ、それはもちろん必要なことなのですが、次第にそれで鬱憤が溜まっていくわけです。
渡辺 そうだと思いますね。トランプが二〇一六年の大統領選の際、ライバルだったヒラリー・クリントンのことを「Such a nasty woman(なんていやな女だ)」と表現して女性たちが激怒しましたが、あれはトランプを支持する男性たちの間では「言いたかったことを言ってくれた」という発言で、支持をいっそう固める一因になったと思います。ポリティカル・コレクトネス(※ による抑圧)を超えて、自分たちの本音を代弁してくれた、と。おまけにヒラリーはDEIに反対しているトランプ支持者を「basket of deplorables(嘆かわしい連中)」と(※ 見下した調子で)非難したわけですから。
移民問題に関しても同様です。女性であれ移民であれ、(※ それら弱者への)擁護が前提とされる(※ 自明の義務とされる)ことに疲れたというか、いわゆる「リベラル疲れ」をしていたところに、政治的には(※ なにかと)不適切でも本音を語ってくれたトランプが登場し、それまでの反動として、彼こそが自分たちの救世主だと思った。(※ 社会心理的には)実に自然な流れです。そうしたリベラルに対する反動(※ 反発)は、キリスト教ナショナリズムとも結びつきやすいのだと思います。
森本 私が話した日本のエグゼクティブたちも、日々の業務を効率的にこなすには男性だけで十分だと考えていましたが、何か日常のルーチンを超えたブレイクスルーが必要な瞬間には、女性や移民など、異なる視点が重要になるということも知っているんです。ただ、それが日常になると、少し疲れてしまうというか、くたびれる印象もありましたね。』(P121〜124)
フェミニストを含むウォークたちの「配慮のない正論」に辟易した男性が、右方向に走るという傾向は、理解はできるが支持はできない。
事実、私はそうした男性の代表的な人物をも、真正面から論難しているし、彼らのような「情けない男たち」の側につく気などは毛頭ない。
だが、だからと言って、フェミニストを含むウォークたちの、他者に「配慮のない正論=独善」を容認するつもりもないから、右も左も、両睨みで批判しているのである。
両方に向けて「どちらが正しいか、議論しようではないか」と、議論をふっかけているのである。
ただ、北村紗衣などのオープンレターズをはじめとした、自称リベラル(左派)の方が、そうした議論には乗ってこない「小狡さ」があるというのも、否定できない事実である。
(06)『渡辺 (略)そのような反政府、さらに言えば、反PC(ポリティカル・コレクトネス)、反ウォーク、反DEI、反ESG(※ 企業における、環境・社会・ガバナンスへの配慮)といった点で、(※ 本質的な方向性の違いはあっても、)キリスト教ナショナリストと(※ イーロン・マスクなどのテック・リバタリアンを含む)リバタリアン(※ 自由至上主義者)は共闘可能です。リバタリアンは中央権力(※ による政治的介入)への懐疑から(※ 公教育ではなく)ホームスクーリング(※ 在宅教育)を重視したり、地域社会の自生的秩序を支えてきたという意味で(※ 宗教としてではなく)教会の役割を重視することもあります。(※ だから、両者が結びつく蓋然性も危険性もある)』(P130)
本来、自由な経済活動を求めるリベラルであるはずのテック・リバタリアンが、どうしてドナルド・トランプと組めるのかといえば、それは、彼らも政府の干渉の少ない「小さな政府」を掲げる共和党政権の方が、商売上、都合が良いからに他ならない。
だが、その点での喫緊の課題は、「AI」の問題である。
本年(2026年)2月の、米国とイスラエルによるイラン攻撃において、イランの指導者層トップを一撃の下に殺害し得たのも、米国アンソロピック社が開発した大規模言語モデル(LLM)「Claude」などが使われたからなのだが、このことについて、アンソロピックの代表であるダリオ・アモデイCEOは、国防総省からの事後的な「AIの軍事利用に関する制限撤廃(完全に自由に使わせろ)」の要求を拒否して、同省との契約を打ち切られた。そしてその隙につけ込むようにして、オープンAIやグーグルなどが、米政府と契約を結んだというのは、まだ記憶に新しいところである。
つまり、リベラルの価値観からすれば当然であろうアンソロピックの良識的な態度は、しかしテック・リバタリアンの主流ではないということである。
したがって、そうした主流派のテック・リバタリアンが共和党政権と結びつくことは、AIが無制限に戦争に利用されること(映画『ターミネーター』的な世界の到来、人型兵器の登場など)へとつながり、それだけではなく、アンソロピックが懸念したように、自国民の監視にも、それが無制約に利用されてるということなのだ。
先般、高市政権によって成立させられた「国家情報会議設置法(国家情報会議・情報局創設法)」は、「外国人スパイ」を防止するためのものと言うよりも、広く日本国民に網をかけて、その中からスパイを炙りだそうとする、いわゆる「スパイ防止法」の前段となるものであり、こうした法律が制定されれば、たしかにスパイを見つけやすくはなる反面、国民個々の個人情報は、政府によって丸裸にされ、いざとなればそれが(合法・非合法に)活用されるおそれも十二分にあるのである。
(07)『フロンティア希求から生まれる「シン・キリスト教」(※ 見出し)
森本 (※ テック・リバタリアンの富豪であるピーター・ティールは、超富裕階層を集め、そこで自ら、キリスト教の教えを説くという、セミナーパーティーを開催している。その動機は「金銭だけでは人は幸せにはならないからだ」と、一応もっともらしいことを言うのだが、)キリスト教の本筋からすると、そのような超富裕層にばかり伝道してどうするんだ、社会的弱者や貧しい人を置き去りにしていいのかという議論が必ず出てきます。ピーター・ティールはそういう問いに答えて言っています。「社会的弱者を救うことも必要だけれど、金持ちも不安で寂しい思いをしているんだ」。
アメリカでも日本でもそうですが、すごく大きく分けると、キリスト教社会には二つの流派があります。社会的な公共善に力を注ぐべきだという(※ タイプの)人たちと、個人の魂の救いに力を注ぐべきだという(※ タイプの)人たち。どちらか(※ 一方)が強くなってくると、それに辟易した人たちがもう片方に傾くというシーソーゲームが、これまでも度々繰り返されてきました。アメリカでも産業革命が進んだ一九世紀半ばには「社会福音」(ソーシャルゴスペル)が盛んになりますが、二〇世紀に入ると再び個人の魂の救いが重視されるようになる。この繰り返しなんですよ。
今個人の魂の救いに傾いているのも、社会全体が左傾化し、弱者の救済ばかりが叫ばれるから、それにうんざりした人たちが、反対側へと振り子を戻そうとした結果だと思います。』(P156〜157)
つまり、「超富裕層」ですら、左派的な「弱者救済重視」に対して、「自分たちは実力でこの地位を築いたのに、その他大勢のために理不尽な搾取を受けている」といった、被差別意識を持っている、ということである。
(08)『市民宗教の喪失と批判精神の衰退(※ 見出し)
森本 ここでいったん、キリスト教ナショナリズムの功罪について整理しておきましょう。私の理解では、彼らの主張には少なくとも二つの点で正しいと思われることが含まれています。一つは、建国当初のアメリカでは政教分離という概念が未成熟だった(※ 今ほど厳格ではなく、おおらかだった)という指摘です。これについては、お話しした通り、事実関係としては正しいといえます。当時の人びとに政教分離の争点として意識されていたのは、世俗法(※ 国法)の宗教への干渉と先ほどの(※ 司祭と政治家の)兼職問題(※ だけ)です。その後ようやく公金の(※ 宗教関係への)支出が問題視されるようになりますが、何をどこまで分離するかについての共通理解が発達するのには長い時間がかかりました。だから、二五〇年前のアメリカには今日のような意味での(※ 厳格な)「政教分離」の概念は流通していなかったし、合衆国憲法を起草したマディソンらもそこまで厳格に両者を分離しょうとは思っていなかった、ということです。
しかし制度的な理解は未成熟であっても、教会と国家の権力をごちゃまぜにすることの危険は、(※ 当時の)政治家たちの間でしっかりと認識されていたのです。
渡辺 よく指摘されることですが、アメリカの場合は、ヨーロッパのように政治権力と宗教権力を明確に分けるというのではなく、宗教的な次元がどこかに常に入ることは構わないけれど、特定の宗教を贔屓するようなことはよくない、という意味での(※ ゆるい)政教分離なんですよね。
森本 はい、そこがキリスト教ナショナリズムの主張でもう一つ正しいと私が思っている
ところです。(※ アメリカの宗教学や)憲法論ではよく「不偏許容(※ 主義)」として論じられますが、これは「政教分離」と「信教の自由」との関係の問題です。日本で政教分離というと、それ自体が目的のように(※ とにかく政治は宗教も関わってはならないといった風に)受け取られがちですが、アメリカでは「信教の自由」(※ を守ること)が目的で、「政教分離」はそれを保障するための制度と考えられています。つまり、各人が自由に自分の信ずる宗教を実践することができるように、国家は特定の宗教に肩入れしてはいけない、という目的と手段の関係です。そこまでは彼ら(※ キリスト教保守派)の言い分にも聞くべきところはあります。
アメリカでは、大統領に就任する人が憲法の遵守を宣誓する際、聖書に手を置きますよね。(※ 日本人からすれば)政教分離の原則に反していると思われるかもしれませんが、あれはむしろ大統領の信教の自由を象徴する行為です。憲法文書などにはもちろん何の規定もありません。だから自分の信ずる宗教がキリスト教でなければ、別の経典に手を置き宣誓しますし、さらには、ここが面白いのですが、条文としては無神論や無宗教の人でも対応できるように定められています。このところアメリカ各地でムスリムの議員や首長が誕生していて、就任式ではコーランに手を載せる人もいます。そうしたことが二五〇年前にすでに明確にされていたわけです。
問題は、最近のキリスト教ナショナリストがそれを逆手に取って、自分たちの自由、つまりキリスト教(※ の権利)を正面から主張するためにこの法理を使い始めた、というところです。』(P204〜206)
ここは、アメリカにおける「信教の自由」と「政教分離」の問題を考える上で、重要なポイントだ。
つまり、政府が宗教を保護するのは当然なのだが、それは特定の宗教であってはならず、すべての宗教であるなら、まったく問題はないという、日本人にはピンと来にくい理屈への理解が必要なのだ。
この理解がないと、キリスト教保守派が連邦政府の「教義に対する介入」を許しがたいものと感じる理屈が理解できない。
彼らにすれば、政府が宗教の中身にまで干渉することは、宗教・教派弾圧だということになるから、彼らは「被害者意識」を持つのである。「なぜ、我々だけが」と。
(09)『渡辺 (略)森本先生がアメリカにいらした頃に比べ、福音派やキリスト教ナショナリズムの動きが先鋭化していますよね。その背景には、文化的な意味でのリベラルへの失望もあるでしょうけれど、中産階級が没落し、経済的苦境に立たされているという社会構造的な問題もあるとお考えですか。
森本 非常に重要なポイントですね。私の視点から申し上げると、理由の一つはやはりキリスト教の衰退そのものだと思います。ニューヨークタイムズ紙のコラムニスト、ディヴイッド・ブルックスがこんなことを書いていました。トランプが主導するMAGA(Make America Great Again)の運動が六〇年代の公民権運動と決定的に違うのは、自分たちの罪を過小評価している、(※ 被害者である)自分たちに罪はないと思っている点だというのです。かつて公民権運動を担った人びとは、自らも憎しみや独善、権力欲と無縁ではないことを自覚していました。でも、MAGAの人たちにそういう認識や自制心は皆無です。「俺たちは善だ」と言じて疑いません。神さまは自分を祝福するためだけに存在すると言わんばかりです。これはキリスト教本来の認識とは大きくかけ離れています。自分自身も罪にまみれた(※ 原罪を抱えた)危険な存在である(※ ということ)ことを知っていれば、相手の罪だけを指摘することはできないはずです。
この対談でも市民宗教の話が出ましたが、日本ではこの言葉はかなり誤解されていると思います。ベラーのいう「市民宗教」とは、国家の超越的な正統性の次元、政治の宗教的な次元のことです。
ワシントンD.C.のナショナル・モールには、黒い石でできた「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」がありますね。アメリカ人があの前に立ったときに感じるのは、「自分たちは間違いを犯した」という認識です。「アメリカは間違ったのだ」という、国家に対する(※ 神の)審きの感覚、それが市民宗教の本質なのです。
ベラー自身はリンカン大統領の第二期就任演説を引用しています。リンカンにとって、二期目の選挙戦に勝ったことなど、どうでもいいのです。彼の目の前には、南北戦争で斃れた膨大な数の死者が横たわっている。それを彼は「神の審き」と受け止めているのです。もし神がこの戦争は続くべきだ、「奴隷の二五〇年間にわたる無報酬の苦役で蓄積された富がなくなるまで、そして鞭により流された(※ 黒人奴隷の)血の一滴一滴が(※ 南北戦争での)剣による(※ 白人の)血であがなわれるまで」続くべきだと思われるなら、それはそれで、三千年前の聖書の言葉通り、神の審きは正しい、と言わねばならない。リンカンはそう言っています。アメリカの奴隷制度に対する神の審判を感じている。こうした認識に立つこと自体が、市民宗教(※ という倫理)の本当の力だと私は思います。それがトランプやMAGA、キリスト教ナショナリストにはまったくないのです。
渡辺 かつてあったそのような市民宗教の感覚、キリスト教の内省的側面が失われたのはなぜなのでしょうか。
森本 なぜでしょうね。よくわかりませんが、キリスト教が衰退すれば神学もやせ細るのは当然です。かつてのラインホルド・ニーバーのような神学的批判の声も(※ 今ではすっかり)聞かれなくなりました。それと、やはり繁栄の代償でしょうか。キリスト教はアメリカで独自の発達を遂げますが、その行き着いた先が「繁栄の福音」(プロスペリティ・ゴスペル)です。つまり神は信仰を祝福して金銭的な成功と現世的な繁栄を与えてくれる、という考えが流行し、信仰と成功とをいっしょくたにする方向に進んでしまった。だから現世批判を行う預言者(※ 神の意志を代理して伝える者)的な要素が消えてしまったのかもしれません。
渡辺 なるほど。私が参加したメガチャーチの礼拝では、牧師が株価の解説をしていましたからね(笑)。
森本 アメリカの罪などという話は、もうどこかへ行っちゃっていますね(笑)。市民宗教の感覚が残っていれば、イラクやアフガンにおける態度も違っていたはずです。アフガンから米軍が撤退する際には、「アメリカは失敗したのだ」と感じて然るべきだった。アフガニスタンの人たちに悪いことをした、自分たちは受け入れてもらえなかったのだ、という認識がどこかに飛んでなくなっている気がします。あの撤退をベトナム戦争のサイゴン
陥落と重ねて見る人もいましたが、私には違和感がありました。ベトナム撤退時のアメリカには、深い罪の意識、(※ 神の)審判を受けたという認識(※ 罪責感)がありましたから。』(P209〜213)
ここで大切なのは、
『トランプが主導するMAGA(Make America Great Again)の運動が六〇年代の公民権運動と決定的に違うのは、自分たちの罪を過小評価している、自分たちに罪はないと思っている点だというのです。かつて公民権運動を担った人びとは、自らも憎しみや独善、権力欲と無縁ではないことを自覚していました。でも、MAGAの人たちにそういう認識や自制心は皆無です。「俺たちは善だ」と言じて疑いません。』
という部分だ。
これは今の日本のフェミニストの態度、そのままなのである。
彼(女)らは自分たちの「フェミニズム」の主張は「絶対的に正しい」と信じている。
だから、自分が失言をしたり失敗をしたりしても謝罪はしないし、批判されてもそれに応答しない。
そうした謝罪や応答をしてしまうと、フェミニズムそのものの誤りを認めたことにされかねないから、黙って無視しておく方が得策なのだと、そんな自己正当化をするのである。
それでも、話が大きくなれば、火消しとして「形式的な謝罪」くらいはする。
無視し続けるのと、かたちだけでも謝罪しておくのとで、どっちが自分の得になるかと考えて「ここは、かたちだけでも頭を下げておこう」と、そんな不実な判断をする。
その典型が、次の「草津町町長セクハラ(冤罪)事件」にコミットした、フェミニストたちの態度である。
この裁判では、元町長のセクハラ疑惑が冤罪であったとの判決が出たのだが、原告女性の言い分を鵜呑みにして元町長をさんざ誹謗したフェミニストたちの多くは、当初は判決そのものを受け入れず、自分たちの「無根拠な批判」の謝罪をしなかった。
しかし、元町長が無罪になったのは、虚偽告訴および名誉毀損の容疑により警察の捜査・取調べが入った結果であって、原告の言い分をそのまま鵜呑みにしただけのフェミニストたちとは、事実認定において雲泥の差があったのである。
自分たちの「女性の味方」という「党派的主張や看板」にこだわって、「事の真相は、結局のところ当事者にしかわからない」のだと、判決を無視しようとした結果、フェミニストたちは、その独善と無反省を批判されることとなり、やむなく一部のフェミニストが、ネットなどに謝罪コメントを出したのである。
で、その中には、私が批判している北村紗衣もいたのだが、どうして北村紗衣は、話がおおごとなった「草津町町長についての誣告事件」に関しては、自らの行き過ぎを認めて謝罪したのに、北村紗衣自身の「誣告」に対する、被害者である私からの直接批判に対しては、謝罪しないどころか、反論も応答もせずに、ダンマリを決め込むのだろうか。
それは、北村紗衣が、批判に対して応答するのは、いつでも「損得打算」からでしかないためである。
その向こう意気の強さが売り物だった北村紗衣としては、本当は誰に対しても謝罪などしたくないし、自身の誤りも絶対に認めたくない。実際に、自身の言動に誤りがあったとわかっていてもだ。



しかし、ここで謝っておかないと、自分が「損をする」「立場が危うくなる」と思った時だけは、かたちばかりの謝罪をするのだ。
だからこそその態度には、言論人としての一貫性などというものは、かけらも無いのである。
で、どうして、日本のフェミニストは、こうした北村紗衣に代表されるような、損得打算ばかりするようになったのかと言えば、その解答も、上の森本あんりの次の言葉に示されている。
『やはり繁栄の代償でしょうか。キリスト教はアメリカで独自の発達を遂げますが、その行き着いた先が「繁栄の福音」(プロスペリティ・ゴスペル)です。つまり神は信仰を祝福して金銭的な成功と現世的な繁栄を与えてくれる、という考えが流行し、信仰と成功とをいっしょくたにする方向に進んでしまった。だから現世批判を行う預言者的な要素が消えてしまったのかもしれません。』
つまり、アメリカのキリスト教(の一部)が「資本主義」に毒されて「金儲け」のことしか考えなくなってしまったように、日本で言うところの「第四波フェミニズム」も、「フェミニズムは(出世に役立ち)金儲けになる」というところから堕落したのである。
フェミニズムを語っていれば、本も出せるし、マスコミからのお座敷もかかってチヤホヤされ、大学の中でも地位を得やすくなる。
実際、北村紗衣は、武蔵大学から生涯身分保証をされた「テニュア」の教授である。
少子化の進んだ今どきの大学は、否応なく「営利企業」だからこそ、「客を呼べる教授」を求めており、だから、客寄せパンダになってくれるような者を重用するのだ。
そしてその代表が、「さえ坊」のハンドルネームで、Xのフォロワーが5万人超だという、インフルエンサーの北村紗衣なのである。
北村紗衣は、自身もする「映画批評」において、映画マニアの須藤にわか氏から「インフルエンサーの人が、アメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いている」と批判された際に、須藤氏に対して、「自分はインフルエンサーではなく、シェイクスピアの研究者だ」などという間抜けな反論をしたのも、それは自分の実質が、学者などではなくインフルエンサーにすぎないと知っておればこその、過剰反応だったのである。

実際、北村紗衣は、主に映画に関するエッセイを収めた第一著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』が刊行され、若い女性のフォロワーが増え始めた頃に、次のようなことを書いているのである。
『最後に
異例ではあるが、著者がこの論考を書くにあたって感じた強烈な居心地の悪さについて記して本論考を終わりたい。著者は二〇一九年にウェブ連載をまとめた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』というフェミニスト批評エッセイ集を刊行している他、Wikipedia でジェンダーバイアスを減らす活動に取り組んでおり、さらに@Cristotorouというアカウント名でTwitterもやっている。つまり、オンラインでの活動が多いフェミニストである。
連載を始め、まとめて刊行したあたりから、イベントをするたびに女性読者から楽しかったという感想を頂いたり、またTwitter 等で女性と思われるユーザからさまざまな質問を受けたりするなど、ある種の「ファン」として記述できそうな読者が現れるようになった。著者が「日本にもセレブリティフェミニズムが求められているようだ」ということを理解したのは、この過程を通してだ。著者はあまり有名ではない研究者であり、田嶋陽子やグロリア・スタイネムのようなセレブリティではない。そんな人間でもファンになってくれる読者がいるほど、日本の女性はロールモデルにできそうなセレブリティフェミニストを必要としているようなのだ。著者は知らないうちに第四波フェミニズム的な風潮の真っ只中に投げ込まれていた。
客観的な記述を心がけないといけない研究者としては、これはあまり好ましくない事態である。本論考はできるかぎり先行研究のレビューや事実の指摘にとどめたが、著者が自分でも認識していないうちに大きな第四波のうねりの中に巻き込まれていたということは書いておきたい。波を数えているうちに、波の中に入ってしまっていたのである。この論考は、波の中から書かれている。』
( 『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』P54 「波を読む 第四波フェミニズムと大衆文化」より)
「自分もフェミニストとしてセレブリティになれれば、どんなにか嬉しいだろう」と、そんな浮かれた感情の、隠しても透けて見える書きっぷりではないか。
しかし、フェミニストというのは、社会的に虐げられた女性の権利を守るために闘う人のことなのであって、フェミニズム視点で映画を論じてインフルエンサーになったり、セレブになったりすることではない。
しかしまた北村紗衣の場合は、かなり早い段階で、フェミニズムは「(セレブリティ階層に)リーン・イン」する(社会的の成り上がる)ための道具でしかなかったのである。

つまり、近年の日本では、フェミニズムもまた資本主義の貪欲に呑み込まれ、その行き着いた果てが「繁栄のフェミニズム」(プロスペリティ・フェミニズム=リーンイン・フェミニズム)だった、ということなのである。
(10)『渡辺 (略)従来のアメリカ、少なくとも第二次世界大戦後のアメリカは、「自由で開かれた世界」を牽引してきました。自由貿易、多国間枠組み、同盟関係、人権、移民……こうしたグローバルな関与に積極的だった。ところが、その結果、中間層が瓦解し、格差が拡大し、市民的な共通感覚を維持できなくなった。加えて、人権や多様性が重視されるなか、伝統的なアメリカの共同体のあり方そのものが批判の的となってきた。
そうした動きへのバックラッシュとして共同体主義や権威主義が強まった結果、アメリカ・ファーストで、移民に否定的なトランプ大統領が出現し、「古き良きアメリカ」を奪還する上でキリスト教がこれまで以上に重視されるようになった。男女からなる核家族が基本で、しかも白人中心的、国民国家重視といったキリスト教ナショナリズムの要素はすべて、「共同体主義」や「権威主義」という横串に刺すとぴったりハマるし、グローバリスムへの反動として訴求力を持つ理由もわかります。
これまで戦後八〇年、エリートたちの唱える「自由で開かれた世界」を信じてやってきたけれど、その結果、アメリカはとんでもないことになってしまった。産業は衰退し、地域社会は壊れてしまった。もはやこれまでのやり方ではダメだ。グローバリズムからの転換、共同体への回帰を求める傾向が強まっているのだと思います。その証拠に、トランプ政権ではヘグセス国防長官やヴァンス副大統領など、往年のレーガン的な共和党エリートとは違ったタイプの、共同体主義、権威主義的な若手政治家が台頭してきています。』(P214〜215)
これも、言い換えれば、次のような感じになるだろう。
リベラルエリートたちの唱える「自由で開かれた(ダイバーシティ)社会」を信じてやってきたけれど、その結果、日本社会は、かえって息苦しい社会になってしまった。だから、もはやこれまでのやり方ではダメだと、多様性重視からの転換、同一性の高い共同体への回帰を求める傾向が強まっている。
一一それが、「外国人問題」とやらを掲げた参政党の大躍進だし、ミクロなところで見ていけば、次のような本音も漏れ聞こえてくる。
(11)『普遍主義の崩壊とリージョナリズムの台頭(※ 見出し)
森本 なるほど。白人や中産階級が、馴染みのある人たちだけで同質性の高い共同体を作ろうとする感覚と、グローバルサウスやグローバルイースト等、世界が分極化していく傾向は、実は似ているのではないでしょうか。両者に共通するのは、理念の普遍性を信じていないということです。』(P217)
つまり、「社会は多様性があってこそ、豊かなのだ(素晴らしい)」というのは、理念としては素晴らしいのだが、現実には、必ずしもそつうまくいかないことが多いのである。
それを「理想」だけで、強引に推し進めようとするから、それへの反動も必然的に出てきてしまう。
例えば、トランスジェンダーにおける「性自認」の問題を、フェミニストたちが、性急に国法にまで適用させようとした結果、「ペニスが生えていても、当人が女性だと言えば、女性だと社会的に認めなければならないのか。女性トイレや女湯へ入る権利も認めなければならないのか」といった、女性からの恐怖と反発の声が上がって、そうした「意識低い系の女性」と「意識高い系のフェミニスト」の間での罵倒合戦という泥試合まで演じられることになるのである。
(12)『渡辺 まったく同感です。キリスト教ナショナリズムを一種の右派ポピュリズムや反グローバリズムと捉えれば、同様のことはポーランドやハンガリーでも起きています。トルコやパキスタンなど一部の国々ではイスラム・ナショナリズム、ミャンマーやタイ、スリランカでは仏教ナショナリズム、インドではヒンドゥー・ナショナリズムが起きているとも聞きます。
世界のあちこちで似た動きが出てきた根底には、まさに森本先生のおっしゃる、民主主義や人権重視、法の支配による「自由で開かれた世界」という(※ リベラル流の)ナラティブ自体に対する不信感があるのだと思います。そうした高邁な理念では自分たちの国は、必ずしも救済されなかった。かつての繁栄を取り戻すには、違うナラティブを求めるしかない、ということで、宗教や民族に基づくイデオロギーが各国で台頭している。キリスト教ナショナリズムは、その一つということですよね。
森本 そうなんです。冷戦期の西側と東側の戦いは、資本主義vs共産主義という理念のぶつかり合いでした。お互いが自分たちの理念には普遍性があり、世界に広まるのだと信じていた。ポイントは、相手もそう思っていることを知っていたという点です。マッカーシズム(※ 反共主義)が煽り立てた潜在的な危険論もそうです。共産主義は、放っておくとどんどん広まってゆく。アメリカ国内でもそうだし、アジアでは共産化が国から国へと次々に伝染してしまうという「ドミノ理論」の脅威が語られた。つまり正統性のある普遍的な理念は自律的に広まる力を持っているという認識が、自由主義側にもあったのです。だからこそあれほどまでに共産主義を恐れたし、自分たちの自由主義をその代わりに広めようと努めた。あれは、普遍主義Vs普遍主義の戦いだったと思います。
ところが最近の戦いは、それとはまったく質が異なります。ヒンドゥーはヒンドゥーでまとまり、仏教は仏教でまとまるというリージョナリズム(※ 地域主義)です。身内の共同体の中で好きにやりたい(※ 異質な他者に気を遣ってまで、共存したくはない)というのですから、法の支配や国際秩序(※ などの外的な制約)は関係ないことになります。普遍性への信仰などあったものではありません。
渡辺 普遍主義やそれを掲げてきた(広義の)リベラリズムに対する徒労感は今確実に起きていますよね。そんなに強がって「痩せ我慢」をしないで、もっと目先の、身の回りの幸せを重視していこうよ、と。各国でナショナリズムが広がっている背景には、そうしたムードがあるように思います。
それは、見方によっては、従来の普遍主義が崩壊したとか、リベラリズムが失われたとかになりますが、別の見方をしている人たちにとっては、これまでの普遍主義自体がまったく普遍的ではなかった(※ 場所を選ばずに適用できるようなものではなかった)ということなんですよね。むしろ自分たちは従来の歪んだ(※ 過大に評価されていた)「普遍主義」への異議申し立てをしているのだと。そのようなロジックは昨今の国際関係の至るところで散見されます。中国は、いわゆる「リベラル国際秩序」などというのは欧米が勝手に作り上げたもの(※ の押しつけ)にすぎない、中国はその歪みを矯正し、真の意味でよりリベラルで民主的な国際秩序を作ろうとしているのだと主張しています。MAGA派も、これまでのアメリカの民主主義において自分たちは「忘れられた人びと」であり、(※ アメリカ政府は)まったく民主的でなかったと言っている。つまり、現在のアメリカは権威主義化しているのではなく、むしろ本当の意味で民主化しているのだ、と(※ そう主張している)。もはやアメリカ国内、さらには世界全体においても、これまで「普遍的」とされてきた価値をめぐる基本的な共通理解すら存在しないということになります。』(P218〜220)
誰もが「普遍的な価値」の存在を信じ、「普遍的な正義」が信じられていた時代には、おのおのが自らの信じる「普遍的な正義」を他者にも与えようと考えた。
「仮に、たとえ相手がその親切を拒んだとしても、それは相手が愚かで間違っているためにこの善意の贈り物を拒むのだから、真に相手の幸せを思うのなら、殴り倒してでも、それをプレゼントするべきである」といった理屈にもなった。
前述の「トランスジェンダーの性自認」の問題を国法にまで即時適応して、トランスジェンダーの人たちの権利を守ろうという「正義」も、たとえ少なくはない「頭の古い人たち」の抵抗があったとしてと、即時、社会全体に適用すべきである。なぜならそれが、結局は「みんなのためになった」ということになるからだ一一と、そんな発想なのだ。
だが、「普遍的な価値」の存在への信頼が失われて、「普遍的な正義など存在しない」と感じられるようになれば、当然「フェミニズムは、普遍的な正義ではなく、女性のための党派的な正義にすぎない」と考える人も出てくるし、フェミニスト自身も「何が正しいかではなく、ヘゲモニーを握った方が勝ち(正義)である」という発想になる。つまり、平たく言えば「勝てば官軍」だという発想だ。
だからこそ、自分たちの正義を語るときは、他者の事情になど配慮せず「これが正しいんだから、これに従いなさい」という居丈高な態度になり、その一方で、自分たちが不利になると、話し合い議論することすら避けて、無視黙殺を決め込むことも恥じないと、そんなアンフェアな態度にもなってしまうのである。
(13)『森本 先ほど渡辺先生は「痩せ我慢」とおっしゃいましたが、丸山眞男が「近代精神とは作為(フィクション)の価値を言じ、その価値を不断に再生していくことだ」と書いています。つまり近代精神って、結局は痩せ我慢で、無理があるんですよ。リベラリズムにおいても「フィクションの価値を信じる」ことが中核になっていて、それにくたびれてしまっているというか。
渡辺 そうですね。これは歴史の審判を仰ぐほかないのですが、普遍主義やリベラリズムに疲れているという現在の状況は、その価値自体の抜本的否定なのか、それとも普遍主義
をより普遍的なものにしていくために不可欠な抵抗、異議申し立てのプロセスなのか。そこが今後の世界を決めていく分岐点になるのではないでしょうか。』(P224〜225)
何が「真理」なのか。それは状況の渦中にある私たち自身には、わからない。
つまり、痩せ我慢するに値する、普遍的な価値としての「普遍主義」や「リベラリズムの理想」が実在するのか、所詮は「これまでは、またまたうまく機能した、もう賞味期限切れの夢」でしかなかったのか、それは誰にもわからない。
一一けれども、問題は、そうした「理想としての痩せ我慢」無くして、この先の世界は立ちゆくのか、という問題がある。
それぞれが、得て勝手な「正義」を担いでまわるのでは、最後は「力の正義」が勝利する、というようなことにはならないのか? そうなっても、それが真理なら仕方がないということ済ませられるのか、ということだ。
(14)『森本 そうですね。(※ そもそも)それ(※ 様々な価値観の存在)を可能にするお皿がリベラリズムなのだ、ということです。リベラリズム(※ なんでもあり)自体にはまったくおもしろみ(※ 中身)はない。それは土俵を設定するだけです。(※ どの考え方に、より高い価値があるのかという)力相撲が行われるのはその(※ リベラリズム=自由主義)土俵の上なのです。そこでさまざまな闘いがあり、血湧き肉躍る目的がある。人間は意義や価値や目的を求めて生きる存在ですから。でもリベラリズム自体にそんなものを求めてもありません。ないのが当たり前なのです。その土俵の上で、たとえば「私は仏教共同体を目指します」などと自分の目的を自由に求めてゆく。そういう容れ物としては、やはりこのお皿しかないんじゃないかと思います。
渡辺 その大きなお皿の上で、ある人は特定のコミュニティを目指して、ある人はまた別のものを目指す。お互いを敵とみなすのではなく、それぞれが目的に応じたコミュニティを作っているのだと考え、自分たちのコミュニティを侵害しない限りにおいては、相手の自由を尊重する。自分の正しさを絶対視せず、相手に強制したりしない。自分が嫌がることは相手にもしないというのが、共生の作法ということですよね。
とはいえ、自分の自由を侵害しない限りは、相手の自由も認めるような世界に現在なっているかというと、どうにも心許ないですね。世界を敵と味方に明確に分けて、自分たちこそが犠牲者であるとして、(※ 被害者の権利を言い立てて)相手を罵倒するようなナラティブが蔓延しています。新しい情報環境におけるフィルターバブルやエコーチェンバーの影響もあって、本来あるべき姿とは違った方向に向かっているように感じます。』(P227〜228)
『ある人は特定のコミュニティを目指して、ある人はまた別のものを目指す。お互いを敵とみなすのではなく、それぞれが目的に応じたコミュニティを作っているのだと考え、自分たちのコミュニティを侵害しない限りにおいては、相手の自由を尊重する。自分の正しさを絶対視せず、相手に強制したりしない。自分が嫌がることは相手にもしないというのが、共生の作法』であり、それこそがリベラリズムであったはずなのに、いつからリベラリズムは「独善」に変わってしまったのであろうか?
人々が「それ、ちょっと極端なんじゃないですか?」と疑義を呈した途端に、「フェミニストの私に対してそんなことを言うあなたは、差別主義者です!」などと、問答無用で決めつけてしまうようなフェミニストは、決して「リベラリスト(自由主義者)」ではなく「権威主義による強制(全体)主義者」であろう。
自身を批判した須藤にわか氏に対して、北村紗衣は言ったものだ。
『北村紗衣
2024年8月27日 09:36
須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。
それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

(15)『渡辺 森本先生が『不寛容論』でお書きになっていた、「相手と同意はできなくても理解はできる」という考え方にもつながりますね。同時に、先ほどもおっしゃった「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」という感覚ですよね。自分の思う正しさを絶対視しない態度が、より一層求められる時期にきているのかもしれません。そうした自己への懐疑と他者への理解=寛容こそが、リベラリズムというお皿の上で共存するための作法なのではないでしょうか。
森本 その通りです。その感覚こそが、民主主義の生命線だと思います。民主主義は正しさを固定する仕組みではなく、間違いを修正する仕組みです。自分が誤っているかもしれないという前提に立つことで、対話が生まれ、制度が改善される。権威主義が一度決めたことを絶対視するのに対し、民主主義は自己修正を続けることで生き延びる。建国二五〇年を迎えたアメリカが、そして日本が、この原点に立ち返れるかどうか。それが今、問われているように思います。』(P230〜231)
『「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」という感覚』や『自分の思う正しさを絶対視しない態度』。それ『こそが、民主主義の生命線』なのだと、私も思う。
『民主主義は正しさを固定する仕組みではなく、間違いを修正する仕組み』であり、『自分が誤っているかもしれないという前提に立つことで、対話が生まれ、制度が改善される』のだから、対話・議論・論争は「民主主義の生命線」であろう。
ところが、それを拒絶して、自らの価値観を押しつけようとする、アメリカの「キリスト教保守派」もいれば、日本の「(似非)フェミニスト」もいる。
北村紗衣の、批判者に対する女性差別者認定と『それが(※ そうではないと、自己)弁護できる(※ 釈明可能な)ことだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。』という一方的な「決めつけ」こそが、『一度決めたことを絶対視する』、この場合、フェミニズム『権威主義』であり、それは『民主主義』が『自己修正を続けることで生き延びる』ことを妨げる、「独善主義」以外のなにものでもなかろう。
一一このようなわけで、アメリカにおける「政治と宗教」の問題を知ることは、日本における「理想主義と独善」の関係を知ることにもなるのである。
決して、よその国の話ではなく、これは「今ここ」の「私たちの問題」なのだ。
(2026年6月29日)
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