▷ 書評:ホルヘ・ルイス・ボルヘス『続審問』(岩波文庫)
読書家ならば、ボルヘスは「読んでいなければならない作家」だった。
「だった」というのは、現在の日本では、善かれ悪しかれ、そうした教養主義は廃れている。
コスパ&タイパを考えて、何でも手近なところでお手軽に済ませてしまおうと、そういう薄っぺらい態度(ファスト読書)が当たり前になっているためだ。
無論「読んでいなければならない」作家だとか本だとかいうものは存在しない。
なぜなら、読んでいなくても、賢い人は賢いし、馬鹿は馬鹿なのだ。
ただし、同じ馬鹿なら、読んでいないよりは読んでいた方が多少はマシだし、知識も無いよりはあった方が良い。
それに、そもそも読書は、楽しみとしてするものなんだから、楽しめないのなら、見栄で「読んだらフリ」などする必要はない。
なのにまた、なまじ読書家なんかを自称すると、ボルヘスくらいは読んでいないと、「看板に偽りあり」ということで恥ずかしいということにもなるから、じつは読んでいないという事実を隠さなければならない、そんな「余計に恥ずかしいこと」をしてしまいがちなのである。
私が見たところ、自分が読んでいない本を読んでいないと素直に打ち明けられる人は、そう多くない。
著名な作家だって、たいがいはさほど読んでいない。読んでいなくても書けるからなのだが、それならそれで、読んでいないと正直に言えば良いようなものだが、そこは彼らも所詮「俗物」にすぎないから、つい見栄をはって、「読んでますよ当然」みたいな顔をしてしまいがちなのである。
その点ボルヘスは、とにかく無茶苦茶よく本を読んでいる人だ。
なにしろ「読書に人生を捧げてきた」と言うくらいだから、「何でこんなに読んでいるんだよ。物理的時間において、そんなことが可能なのか?」と、そう言いたくなるくらいに読んでいる。
また、だからこそ、読んでいない本は読んでいないと、正直に書いてもいる。
たぶん、彼ほどの本好きだと、読みたい本をすべてを読めるほどには人生は長くはないというのは、自明な話だからなのであろう。
ただ、彼の場合、読んでいない本についての説明も、まあ普通ではない。
誰それのこの本については、アルゼンチンの国立図書館にも所蔵されていないので、私はこの作家について書かれたこの本とあの本を読んで、これを書いている一一といった調子なのだ。
きっと、手に取れる本なら、是が非でも読もうとした人なのだろう。
だが残念ながら、ボルヘスの時代には、インターネットは無かったから、そう簡単に欲しい本を手には入れられなかったのだろう。
だが、それでもそれほど読んでいるということでもあるわけだ。
まあ、そんな作家だから、今どきの日本では読まれなくて当然。
いや、読んでいないのに読んでいるふりをされるのが当然の作家だと言えよう。
例えば、私は先日、SF作家・樋口恭介の、AIとの合作小説『Executing Init and Fini』のレビューを書いた。
樋口恭介はこの作品の「あとがき」で、AI(LLM)に対し、どのような小説を書くよう指示したのか、そのプロンプト(指示書)の一部を紹介していたのだが、そのひとつは次のようなものであった。
『 もうひとつは、作品全体の骨格を形成するためのより複雑な指示である。
「下記を踏まえ、ドナルド・バーセルミのようなユーモアのあるポストモダン風の探偵小説=アンチミステリ小説を執筆してください。『宇宙の崩壊と全時空の分岐と恣意的な混交』というテーマで、英語圏の理系知的エッセイを翻訳したような抑制的な文体で、人間があまり出てこない、架空の事象や架空の理論や架空の生物に纏わる架空のエピソードについて記述した、ストーリー性のあるエッセイ風のポストモダン小説を執筆してください。理知的なエッセイ風とは言え小説に近い形式にしてほしいので、見出しや脚注等の論文的な装飾は不要です。登場人物は出てこないが、複数の登場人物のようなものは出してください。ホルへ・ルイス・ボルヘスやW・G・ゼーバルトやガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を思わせる複雑な構造と詩情を伴った物語になっていると好ましいです。ミステリアスだがロジカルで、伏線とオチがある構成になっていると好ましいです。一万字程度でお願いします。必要に応じて会話文も挿入してください」
このプロンプトでは、複数の作家名が参照先として列挙されている。バーセルミは断片的なコラージュ手法で知られるアメリカのポストモダン作家であり、ボルヘスは迷宮的な構造と哲学的主題を扱うアルゼンチンの作家、ゼーバルトは写真を挿入した独特の散文形式で知られるドイツの作家、ガルシア=マルケスはマジックリアリズムの代表的作家である。これらの作家名を列挙することで、LLMはそれぞれの文体的特徴を抽出し、融合させた出力を生成する。』(P264〜265)
私は、前述のレビューで、
『本書を読んで感じるのは、樋口恭介が与えたプロット以外の部分、つまりLLMが(※ プロンプトに従って)生成した部分は「どこかで読んだことのあるようなもの」でしかない』
と書いているとおりで、樋口恭介のこの作品にはボルヘスその人まで登場するとは言え、その内容が「いかにもボルヘス的」だったので、かえって「曲が無いな」と感じてしまったのだ。
LLMは素直だから、プロンプトに書かれたこと以上の工夫は、しなくても当然だっただけなのだが一一。
ともあれ、私がここで言う「いかにもボルヘス的」というのは、次のような特徴である。
『その極端なまでに「肉質」を欠いた抽象性は、ふわふわとした「世俗的な夢」や「物語性」といった「生活世界の肉」を削ぎ落として、ストイックに錬成された重金属製のオブジェのごときものである。 「書物」「迷宮」「図書館」「螺旋」「宇宙」「幾何」「象徴」「薔薇」「神学」「異端」「探偵小説」あるいは「無法者」。それらは、私たちの有する雑味の多い「日常生活」とはまったく異質であり、縁遠いものと感じられるからこそ、私たちはそこに魅せられる。』
これは、ボルヘスの代表作(短編集)である『伝奇集』を読んだ際のレビューの言葉で、ボルヘスの小説の特徴を、ごく常識的に紹介したものにすぎない。

で、樋口恭介の前記のAI小説は、ボルヘスのこうしたイメージそのままであり、さらに言うなら、他の作家の文体と合わさって中和されたという部分もあろうけれど、いかにも機械らしく、ボルヘスの人間的なノイズを排除して整理したような、わかりやすさと共に、悪い意味での軽さが、そこに感じられもしたのである。
一一さて、そんなわけで今回は、初めてボルヘスの評論文を読んだ。
もともとボルヘスについては、小説にしか興味がなかったのだが、先日読んだ、松山俊太郎の本に、澁澤龍彦がボルヘスの評論集を楽しげに読んでいた、みたいなことが書かれていたので、それなら私も読んでみようという気になったのである。
で、本書『続審問』を読んでみてどうだったのかというと、意外にもこれが面白かった。
どうして「意外」なのかと言えば、私はボルヘスの代表作集である『伝奇集』を、意外に楽しめなかったからだ。

上に引用した部分にも書いたとおり、『伝奇集』を読むことでボルヘスの小説がどういうものなのかは、おおよそのところ理解できた。
理解はできたのだが、さて、楽しめたのかと言えば、そうでもなかったのである。
前記のとおり私は、ボルヘスの小説を、
『その極端なまでに「肉質」を欠いた抽象性は、ふわふわとした「世俗的な夢」や「物語性」といった「生活世界の肉」を削ぎ落として、ストイックに錬成された重金属製のオブジェのごときものである。』
と評したのだが、この抽象に徹した、肉質を欠いた部分に、私はついていけないものを感じたのだ。
端的に言って、私はもう少し「人間的な」小説の方が好みなのである。言うなれば「数学よりは理科」みたいな感じなのだ。
まあ、上のレビューでの評言は、あくまでも短編集である『伝奇集』についてのものであり、長編小説については、きっと当てはまらない部分もあるだろう。
だが、本質的な部分はさほど外してはいないはずだとも思っていたのである。
だが今回、評論集である本書『続審問』を読んで、ボルヘスのイメージがだいぶ変わった。
『伝奇集』だけを読んだ段階では、抽象的かつかなり高踏的な人で、私のような庶民はついていけないタイプなんじゃないかとも感じていたのだ。
これは、澁澤龍彦にも「硬質なオブジェ」趣味みたいなものがあって、その点では、澁澤ファンの私だとは言え、ついていけない部分もないではなかったから、そのあたりで澁澤がボルヘスを評価しているのだとしたら、ボルヘスは私には「合わないかも知れない」という気持ちもあったのである。
だが、そうした『伝奇集』から受けた「硬い」印象が、本書『続審問』を読むことで、かなり修正された。
本書を読むと、ボルヘスは意外に普通に真っ当な人であり、普通の読書家だというのがわかって、かなり親近感を覚えることになった。
そして、ボルヘスの『伝奇集』的なイメージを、自作にもっぱら援用した樋口恭介も、いろいろ海外文学を読んでますみたいな雰囲気を出していたけれど、少なくともボルヘスの評論は読んでいないんじゃないかと、そんなふうにも感じられた。
もちろん、あえてボルヘスの小説家としての側面だけを自作に援用したのかもしれないが、それではボルヘスファンとは言えないなという印象があったのだ。
評論まで読んでいるのなら、ボルヘスの評論に表れた人間的な部分も、無視し得ないと、そう感じたからである。
まあ、いずれにしろ、若い樋口恭介が何でもかんでも読んでいるわけではないというのは当然のことで、べつに責められるようなことではない。
ただ、樋口は明らかに「衒学趣味」の人だし、それを売りにした「SFプロトタイパー」というコンサルタントさんなので、あまりその見せかけを真に受けない方がいいよと、そういう話なのである。
実際、樋口恭介が、森鷗外だの志賀直哉だの谷崎潤一郎だのを読んでいないというのは、ほぼ間違いない。さすがに、夏目漱石の1、2冊は読んでいるかも知れないが、海外文学を言うほど読んでいるのであれば、国文学までは、なかなか手が回らないはずだからである。
話を戻そう。
本稿で私が書きたいのは、ボルヘスは意外にも、普通の人であり、あれだけ本を読んでいながら、決してそれをひけらかして高踏派ぶるような人ではない、という事実だ。
つまり、私が『伝奇集』のレビューで書いたことを、一部修正したい。
たしかに、小説からは、そんな雰囲気が濃厚に漂っているのだが、それはボルヘスという人の一側面でしかなかったことを、ここでは強調しておきたいのである。
本書の訳者である中村健二は「解説」で、次のように書いている。
『 本書のエッセイが書かれた十五年間は、ボルヘスの作家人生でいちばん稔り多く、また充実した時期であったと言えよう。ただし、敬愛する父の死、九死に一生を得た大怪我、ペロン独裁政権による嫌がらせ、母と妹の投獄や軟禁、短い結婚生活の破綻など、私生活ではたぶん最も恵まれない時期であった。本書のような評論集、それも多くは形而上学的傾向の文学論集のなかに、国家の(とくに全体主義体制の)個人への干渉を慨嘆し、ときに激しく糾弾するエッセイが含まれているのは異様といえば異様だが、それらが書かれた第二次大戦前後の世界情勢を考えればとくに不思議なことではないし、右のような作者個人の事情や権威主義に対する嫌悪(「アメリコ・カストロ博士の警告」参照)を知ればさらに納得がいくだろう。』(P396)
つまり、本書の『形而上学的傾向の文学論』ではない部分に、文学や哲学に対する時の「抽象趣味」とは違ったボルヘスを見ることができて、ぐっと親近感が湧いたのである。
例えば、次のような部分だ。
『 人々でわきかえったあの日、わたしは三つの異質な驚きを経験した。パリが解放されたと聞いたときの肉体的な喜び、集団的感動が高貴でありうるという発見、多くのヒトラー支持者たちが示した、謎めいた明らさまな熱狂ぶり。いまわたしがこの熱狂の意味を問うとすれば、わずか一箇のルビーが何故に川の流れをせき止めうるかを問うた、あの往時の愚かな水路学者たちの二の舞いを自ら演じかねないことをわたしは弁えている。多くの人は、わたしが架空のキマイラ的現象を説明しようとしていると言って、その愚を非難するだろう。しかし、それは現実に起こったことなのだ。ブエノスアイレスの市民でその証人になってくれる人は、何干といるだろう。
ご当人たちに熱狂の訳を問い質しても無駄なことは、わたしには初めからわかっていた。彼らは移り気なのだ。言動の矛盾をくりかえしているうちに、彼らは矛盾は正当化されねばならぬという考えを一切失くしてしまった。彼らはドイツ民族を崇拝するくせに、「サクソン族の」アメリカは嫌悪する。ヴェルサイユ条約は非難するが、ドイツ軍の奇襲戦法には喝采を惜しまない。反ユダヤ主義者であるのに、口ではヘブライ起源の宗教(※ キリスト教)を唱える。潜水艦攻撃は絶護するくせに、英国の海賊行為は口をきわめて罵る。帝国主義は否定するが、「生活圏」なる理論の方は擁護宣伝にこれ努める。サン・マルテインは偶像視するのに、アメリカの独立は誤りだと考える。英国の行動にはイエスの教えを適用するのに、ドイツの行動にはツァラトゥストラのそれをもってする。
わたしはこうも思った一一彼らは興味深い公式「私はアルゼンチン人だ」を無限回くりかえすことで、廉恥心や忠誠心を免除された「混沌」の申し子たちだ、だから彼らとの対話ほどあてにならないものはない、と。しかも、人間は己の行動の真の動機についてはほとんど何も知らないと、フロイトが推論し、ホイットマンが予見しているではないか。たぶん、とわたしはひとりごちた、「パリ」、「解放」二つの記号の魔力があまりに強力なので、わがヒトラーのパルチザンたちも、この記号の意味するところが彼の軍隊の敗北であることを忘れてしまったのだ。考えることに疲れて、結局わたしは次のように想像することにした。すなわち、新し物好き、恐怖、単純な現実信仰一一この三つが一応妥当な問題の説明になるだろう、と。』(P234〜235)
「一九四四年八月二十三日に対する註解」と題するエッセイの冒頭部分である。
『パリが解放されたと聞いたときの肉体的な喜び』という部分の「肉体的」の3文字に傍点が振られているのだが、全文読めばわかるとおり、これは皮肉だ。
こないだまでは絶賛してしていたのに、今は真逆のことで「肉体的な喜び」に浸って熱狂し、それを矛盾だとも気づかなければ、当然、恥ずかしいとも思わない。
それがアルゼンチン人の現実だと、ボルヘスはそう批判しているのだが、しかしそれは、日本人だってまったく同じなのである。
戦時における集団的な熱狂(「ハイル、ヒトラー!」「天皇陛下、万歳!」)が恐ろしいということくらいは言えても、そんな自分が、オリンピックやサッカーワールドカップや大リーグベースボールに熱狂していても、それを恥ずかしいとも危険だとも思わなけば、そのことを気にもしないほどの馬鹿揃い。
サッカーワールドカップの解説者だったか、何かのコンサートについてのテレビコメンテーターのコメントだったから忘れたが、「このように、多くの人がひとつになれるというのは、じつに素晴らしいことですね」みたいなことを言っていたが、それを聞いて私は「だから、おまえらはヤバいんだよ」とそう思ったのだし、上のエッセイでボルヘスが書いているのも、まったく同様のことなのである。
「パンとサーカス」で簡単に釣られてしまう大衆。
それでいて「これだけは、話は別だ」と思える、わかりやすくご都合主義的に愚かで、自分に甘い。一一まったく、ウンザリである。
そんなわけでボルヘスは、虫を観察するようにして高みから大衆を見下ろしている、そんな冷たい「抽象性」の人なのではなく、本気で怒り、ウンザリさせられている、ごく当たり前の人なのだ。だから、ぐっと親近感が湧いたのである。
では、どうして、小説を書く場合には、あのように「抽象性に徹した」ものになるのかと言えば、それはたぶん、元からそういうのが好みであったというのは当然だとしても、それだけではなく、こんな無原則でふにゃふにゃした現実世界には、心底ウンザリさせられていたからではないだろうか。
だからこそ、抽象的で硬質で研ぎ澄ませれた世界、ある意味ではボルヘスにとっての理想世界を描いたということなのではなかったか。
ボルヘスは「文学と哲学と詩」の人であり、私とは最後の「詩」の部分で大きく違っているのだが、ともあれ「詩」とは、言葉を研ぎ澄ます抽象性の産物であり、一方の私は、過剰なまでに言葉を費やして、くどくど説明をする散文タイプなのである。皆まで言うタイプなのだ。
そんなわけで、ボルヘスが小説において、理想世界を描こうとすれば、当然「詩」的な描き方になる。一一そしてそこが、私のついていけないところだったのではないかと、そう気づいたのだ。
中村健二は「解説」で、こう書いている。
『 観念論の本質は物質に対する観念の優位であり(わたしは野暮を承知で最低限のおさらいをしている)、観念論者に特徴的な認識方法は、経験を排除した純粋で純理的な思考、いわゆる思弁である。一方、われわれの棲むこの世界は基本的には、物質と経験を一義的な原理として成り立っている。ボルヘスもときどき言及するように、われわれは誰も唯名論者であり唯物論者なのだ。その根底には、物質(空間)の実在性、時間の連続性・均質性に対する信頼がある。しかし(と、ボルヘスは言うだろう)、われわれが見る夢、われわれが時として陥る幻想はこの信頼を根底から揺るがせる。退屈な絶対均質の時間が流れる唯名論者の日常世界で、その罅とも綻びとも言うべき夢や幻想(「不合理の罅」二〇三頁)が、一瞬とはいえ目くるめくような強烈さでわれわれを襲う。チェスタトンは、ポウやカフカのように悪夢の作家呼ばわりをされたとしたら、おそらく黙ってはいなかっただろう。「にもかかわらず、凄絶怪奇なものをつい見てしまういつもの癖は直らない」(一五二頁)。ボルヘス自身も「超自然を頭ごなしに撥ねつける人々‥‥‥に、つねに与しょうと努めている」(三〇頁)。にもかかわらず、われわれの棲む世界、この堅固な時空連続体の罅につい目がいってしまうのだ。』(P401〜402)
つまり、ボルヘスという人は、人としての実人生における生き方は、意識的に「唯名論=唯物論」的だったのだが、その一方で、個人的な「趣味」では「観念論=抽象論」に惹かれるという、矛盾を抱えた人だったのだ。
だからボルヘスは、謎解き本格ミステリである「ブラウン神父」シリーズで知られる、理知の人チェスタトンが、そのじつカトリック保守派であったという矛盾に対して、それが「矛盾」であり、チェスタトンの弱点であると一応の批判はするけれども、それは私がチェスタトンに向けたような批判ではなく、同情を込めたものでしかない。

私の場合はチェスタトンに対して「不徹底であり、自己欺瞞である」と厳しく批判するのだが、ボルヘスの場合は、批判しながらも、「自分だって似たようなものだ」と思っているから、同情的な批判に止まるのだ。
多くのミステリファンは、「ブラウン神父」シリーズなどをして、チェスタトンを「理知の人」と単純に思い込んでいる。
だから、私としては「いや、そうじゃない。現にチェスタトンは、ゴリゴリのカトリック保守派だ」という事実を突きつけるのだが、ボルヘスは、チェスタトンが「ブラウン神父」などの作品を書いたのは、言うなれば「アリバイ作り」のためだったと説明するのである。
『チェスタトンはエドガー・アラン・ポウやカフカたらんとすることは自制していたが、彼の個性のなかには、夢魔的なもの、何か隠徴で盲目で中心的なものを志向する要素があった。彼の初期の仕事が二人の偉大なゴシック的職人、ブラウニングとディケンズの弁明に充てられたのは徒らではない(※ いたずらな無駄事ではない)。ドイツの生んだ最上の書物が『グリム童話集』である、とくりかえし彼が述べているのは決して徒らではない。彼はイプセンを罵倒し、ロスタンを弁護した(弁護になっていないかもしれないが)。けれども、北欧の妖糖トロールと『ペール・ギュント』の生みの親(※ イプセン)は、彼の「夢が作り出される材料」だったのだ。この矛盾、悪魔的意志のこの不安定な抑圧がチェスタトンの本性を規定している。わたしにとっては、ブラウン神父の一連の冒険こそこの(※ チェスタトンの)内的苦闘を象徴するものであるが、(※ ブラウン神父の)冒険はどの場合にも、説明不可能な事柄をもっぱら理性によって説明しようとする。このエッセイの冒頭の一節で、これら一連のブラウン神父ものがチェスタトンを解く鍵であり、チェスタトンの象徴であり、鏡像であるとわたしが述べた理由はここにある。チェスタトンが幻想よりも優先させた「理性」は、厳密に言えば理性ではなく、カトリック信仰である、より正確には、プラトンやアリストテレス(※ ギリシャ的思想)に征服されたへブライ(※ イスラエル民族=ユダヤ人)的幻想の集成であるという一点を除けば、チェスタトンについて言うべきことは、これに尽きる。』(P153〜154)
チェスタトンは、自身が『ポウやカフカのように悪夢の作家呼ばわり』され、「だから、カトリックの非科学的で非論理的な信条なんてものを盲信できるのだ」と、そう言われたくなかったのだ。
「こんなに理知的な私が、カトリックの信仰を持つのは、カトリックの信仰こそが、真に論理的なものだからだ」と、そう言いたかったのである。
ちなみに、私の言う「カトリックの非科学的で非論理的な信条」とは、例えば、次のようなものである。
(1)イエス・キリストは、完全なる神にして、完全なる人間である(神人)。
(2)イエス・キリストは磔刑による死後3日目にして、肉体を持ったまま復活し、その肉体のまま天に登った。
(3)聖母マリアは、処女のままイエスを孕った。
(4)聖母マリアは、単なる人間の女ではなく、その無原罪の故に、肉体を持ったまま、天に昇った(天に召された)。
チェスタトンは、こうしたことを「そのまま丸ごと信じた」と神の前で証言した人である。
しかし、にもかかわらず「理知の足りない盲信家」だとは、決して言われたくはなかった人だったのだ。
私に言わせれば、チェスタトンの理知とは、妖精の存在を信じたコナン・ドイルと、五十歩百歩なのである。
で、ボルヘス自身は、自らを当たり前に「唯名論者=唯物論者」だと理解し、またそれが正しいと信じていた。
この世に天国も地獄もあるものか。それは空想の中のお話だと、そう思ってはいたのだが、しかし、この世に存在しないものに、どうしようもなく惹かれてしまうという(チェスタトン的な)感情は、決して他人事ではなかった。
だからこそ、チェスタトンの信仰そのものは否定しても、チェスタトンの文学は否定しなかったのである。
たとえそれが「アリバイ作り」のための産物であったとしても、作品は作者のイデオロギーを超えていくものとして、またイデオロギーを超えたものをして、肯定したのである。
そして、この考え方には、同じ読書家として、私もまったく同感だ。
作者がクズでも、作品が素晴らしいなんてことは普通にあるし、「むしろ小説家なんて、ちょっと頭がおかしいんじゃないかというくらいのやつの方が面白いものを書く」などと私が言うのも、そういうことなのである。
だから、私とボルヘスの違いは、程度の問題として、私の方が「唯名論=唯物論」寄りだということなのだ。
私だって「幻想文学」好きなのだから『この堅固な時空連続体の罅につい目がいってしまう』という点ではボルヘスと同じなのだが、ただ私の場合は、現実に対するこだわりなり愛着なりが、ボルヘスよりは強いので、幻想を描くにしても「この現実から、徐々に異界へ入っていく」ようなものが好きであり、一方ボルヘスの場合は、そうした「現実世界との臍の緒」が完全に切れた「あちら側の世界」を描こうとするから、私にしたら「とっつきにくく抽象的にすぎる」ということになったのであろう。
このようわけで、ボルヘスという人を、人間的に理解することができたので、私はボルヘスに親近感を覚えられるようになった。
だから今後は、彼の「抽象的な小説」を読んでも、そこにある程度の「理解」を持って、楽しめるのではないかと、そう考えているのである。
(2026年6月28日)
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