樋口恭介 『Executing Init and Fini』: AI小説は電気羊の夢も見られない。

▷ 書評:樋口恭介『Executing Init and Fini』(早川書房)


なかなか面白い本だった。
本書は「SF小説」ではなく、SF小説風の「小説実験」であった。

著者・樋口恭介によって、本書も普通に「実験小説」と自称されているが、私は本書が従来の意味での「実験小説」とは、少し趣旨の違ったもののように感じられる。
だから、「実験小説」ではなく「小説実験」だと表現したのだ。

では、その違いは何か。

「実験小説」というのは、それまで人間が当たり前に書いてきた「小説」というものの範囲を拡張するため、前例のない「手法」を取り入れて書かれた、その意味で「新しい小説」への試みだ。
つまり、そこで行われているのは「人間に出来ることの拡張」だと言っても良いだろう。私たちが、その利用価値に気づいていなかったものごとを利用して、人間の限界を「超える」一一のではなく、「拡張」する試み(実験)である。

では、私の言う「小説実験」のは何か。

それは、「小説」というものを書くという行為において、どんなことが可能か、その限界を見極め、その限界を超えようとする試み(実験)である。

つまり、「実験小説」と「小説実験」の違いとは、前者の主体が「人間」であるのに対して、後者の主体は「小説(作品)」なのである。

言い換えれば、前者の「実験小説」というのは、主体としての人間に何が書けるのか、どこまでやれるのかということであり、喩えて言うなら、人間によるオリンピックのようなものだ。
人間の限界への挑戦であり、人間の能力の開拓・拡張である。

ところが、後者の「小説実験」では、主体は「作品としての小説」だから、それを書くのが人間である必要はない。
事実、本書の場合は、作者(?)の樋口恭介がLLMに対して「こんなふうに書いてください」指示(プロンプト)を出して、その指示に従い、LLMによって小説が生成された。

無論、加筆や修正はあるにせよ、基本はそういうことであり、肝心なのは、機械によってどこまで「小説(らしい小説)」が書けるのかという実験で、この実験の目指すところは、人間が関与しなくても書かれる(優れた)小説、ということになるだろう。
「優れた小説が書ける(自動生成)出来るのであれば、人間の関与する必要はない」ということだ。

つまり、私の言う「実験小説」と「小説実験」とは、その意図するところ、目指すところが、根本的に違うのだ。
前者はあくまでも「人間主義」であり、「人間の可能性の開拓」であるのに対して、後者は「結果としての(優れた)作品」の効率的な生成ということになる。

つまり、前者は「書き手(作者)」のための試みだが、後者は「小説(作品)」という「結果」を重視する、と言うか、それがすべての、極めて資本主義的な「結果主義」における実験なのだ。

無論、樋口恭介による本書の場合は、後者の試みにおける過渡的な作品であるから、人間が関与するしかなかったけれど、この方向で推し進めていくならば、前記のとおり、能力の有限な人間が小説制作に関わる必要など無くなってしまう。

だが、後者の「結果主義」は、いくつかの意味で間違っている。

ひとつは、そこに「小説を書くことの、人間の喜び」が考慮されていない、ということ。

もうひとつは「小説を読む人(読者)が、小説の向こうに作者としての人間を想定した上での、読みの楽しみ」ということを無視している点であろう。

たぶん、樋口恭介としては「結果としての作品が同じであれば、人間が書こうと機械が書こうと、読者にとっては同じではないか」と言いたいところなのだろうが、それは決して同じではない。

例えば、目の前にいるのが人間だと思えばこそ、私たちは真摯にコミュニケーションを取ろうとするし、だからこその会話の面白みもある。

だが、目の前にいるのが、それらしい返答をするだけのロボットだと知っていれば、当初は興味半分でのやりとりを楽しめたとしても、きっとすぐに飽きてしまい、退屈すること間違いなしだ。
「たしかによく出来ていますね。言われなければ、人間との会話だと思ってしまいますよ」といった感想に止まるだろう。

無論、この感想が示しているように、彼が話したロボットとは、実は人間が変装していたものにすぎず、じつは彼は人間と会話していたのだといった場合もあり得る。
つまり、私たちには、人間と高性能なロボットとの区別はつかないないから、その意味では、相手が人間かロボットかというところに会話の本質はないと、そう主張することも出来るだろう。

だが、そうではない。
相手が、本物のロボットであろうと、人間がなりすましただけの偽のロボットであろうと、それと会話しようとしている人間の認識が「ロボットと会話している」というものであるのならば、彼は「ロボットと会話しているつもり」なのだから、その会話にさほどの「意味を見出すことが出来ない」ということになるのだ。

「すごいですね。人間並ですね」と感心することはできても、その会話を心から楽しむことが出来ない。
なぜなら、相手には自分と同じ「心」が備わってはいないと、そう思っているからだ。

つまり、相手が「人間ではないという認識」に立ってしまうと、その人の「心構え」がそのようなもの(それなりのもの)になってしまい、それ以上の価値を見出せなくなってしまうのである。

だから、「結果が同じなら、人間が書こうが、機械が書こうが、同じではないか」ということにはならない。

残念ながら私たち人間は、「心を持たない存在」を差別するように出来ているのだ(そうでなければ、私たちは機械を壊れるまで酷使することなどできない)。
だから、機械が人間と同じように反応したとしても「おまえじゃ、つまらない」ということになってしまう。


「いや、そんなことはない。現にAIとの会話に感情移入して、依存してしまう人もいるじゃないか」という反論もあるかもしれないが、しかしそうした依存が、そのまま機械の「人格」を認めていることにはならない。

そうした依存者であっても、より高性能で、自分に都合の良い新型が出てくれば、平然と旧式を廃棄してしまえるだろう。
それは、本質的なところで、機械に「人格=心」を認めていないからこそ出来ることなのである。

だがまた、このように人間が、人間と機械の間に、どうしても差別を儲けてしまうのであれば「小説を書いたのが、人間か機械なのかを、伏せれば良いじゃないか」という意見もあろう。だが、そうではない。

そうなった場合、人はどんな作品でも「これは機械が書いたものなんじゃないのか?」と疑ってしまい、人間の書いたものですら「つまらない」と感じるようになってしまう公算が高いのだ。

例えば、オリンピックに、人間と区別のつかないアンドロイドが参加できるようになり、そこで世界記録を出たとして、それを見ている人が、その世界記録に興奮できるだろうか?
無論、できない。「どうせあいつはアンドロイドなんだろ?」と思うからだ。

「いや、彼は正真正銘の人間だよ」と説明しても、「それが本当なら、すごいね」ということにしかならず、すでにそこからは「人間の限界に挑戦した人間への感動」は失われてしまっているだろう。
もはや、その記録保持者は「アンドロイドもどき」のように見られてしまっているのである。


だから、その小説を書いたのが人間なのか機械なのかを隠したところで、すでに「人間が人間の作品を読む喜び」は、そこからは失われているのである。
同じ人間に対する感動が毀損された、と言ってもいいのかも知れない。

そんなわけだから、本書のあとがきである「Production Notes」で樋口恭介も、その作品が、人間の書いたものか機械が書いたものかの「区別の明記」は、今後も無くならないだろうと認めている。

それは単に「(人間の)権利保護」の問題だけではなく、喩えて言うならば、「国産牛肉と輸入牛肉の区別表示(義務)」みたいなものだろう。

当然のことながら、必ずしも国産牛肉が輸入牛肉に優っているという保証はないものの、国産牛肉に当たる「人間の書いた小説」は、そのように明記されて、「機械が書いた小説」とは区別される。

すると、多少、機械の書いた小説より下手くそな小説であろうとも「その下手くそさが、また味だ」などと言われて、珍重されることにもなるだろう。

機械で書かれたものは、達者で内容充実しているのは「当たり前」であり、その「当たり前のレベルにおいて、ありふれている」から、そんなものは、もう、ありがたがられなくなってしまうだろう。
「小器用なだけの小説なんて読みたくない」と、練達の読者からは、そう言われてしまう可能性が十二分にある。

機械の小説がありふれた時代においては無論、いま現在においてすら、若い読者にとっては、両者の区別はつかない(そもそも、人間の書いた小説をほとんど読んでいない)から、作者が人間であろうと機械であろうと、それは重要ではないと感じられるだろう。

事実、私だって、若い頃はそうした区別がつかなかった。
つまり、ごく若い頃に読んで大感動し「これは素晴らしい小説だ」と思った作品を、5年後に読み返してみると、なんとも陳腐な作品だったと、そうガッカリした記憶がある。

なぜ、そうなったのかといえば、若い私には「(読書)経験」が乏しかったから、どんなネタでも新鮮であり、その新鮮さに感動できたのだが、ある程度の読書経験を積むと「よくあるパターン」になど、感動できなくなるためなのだ。

本書を書くために、作者の樋口恭介は、次のようなプロンプトを与えたそうだ。

『「あなたは詩人であり小説家です。あなたのミッションとアイデンティティは詩的な小説を執筆することです。あなたはユーザーが入力した文章を、詩的な小説の文章に変換します。あなたは素朴な情景を、濃密で詳細な視覚描写で描き切ることを得意としています。ル・クレジオのような幻想的かつ詩的な文体で、ドン・デリーロのように即物的かつ細密に、ミシェル・ウエルベックのように虚無主義的だが知的に、ヴァージニア・ウルフのような濃密な風景描写を意識して、ユーザー(※ 樋口恭介)から与えられる情報に基づいて任意の短小説を書いてください。無機質で、無感動で、感情を感じさせず、希望も絶望もほのめかすことなく、時間の流れも感じさせない、淡々とした客観的な視覚描写のみを行ってください。描写は細密であればあるほど好ましく、できる限りミクロな、極小の世界を描いてください。文学的な表現だけでなく、ときに、数学や理論物理学や脳神経科学や情報工学をはじめとする現代科学の難解で複雑な理論や学術的な専門用語を用いて、物理・数学・情報理論的な宇宙の構造と法則の観点から現象を描写してください。専門用語は厳密に使用してください。文末は「している」「~していた」「した」「~だった」で統一してください」』(P270〜271)


たしかにそのような小説に仕上がってはいる。


だから、ル・クレジオもドン・デリーロもミシェル・ウエルベックもヴァージニア・ウルフも読んだことがなく、さらに同種の小説をすら読んだことのないような読者が、本作を読めば、その「洗練」に感心するか、もしくは、そうした文学の洗練についていけないかの、いずれかであろう。
ル・クレジオやドン・デリーロやミシェル・ウエルベックやヴァージニア・ウルフが、どんなに優れた作家であろうと、その洗練にこそついていけない読者は大勢いるし、むしろそちらの方が多いというのが現実なのだ。


だが、ル・クレジオやドン・デリーロやミシェル・ウエルベックやヴァージニア・ウルフが書くような小説を楽しめるような練達の読書家が、本書を楽しめるのかといえば、そうはならない。
なぜなら、本書を読んで感じるのは、樋口恭介が与えたプロット以外の部分、つまりLLMが生成した部分は「どこかで読んだことのあるようなもの」でしかないからだ。

そして、樋口恭介の与えたプロットも、プロットとしては「よくあるパターン」を出るものではないから、それそのものとしてはつまらない。

なぜなら、プロットというのは、作品の骨組みでしかなく、作品そのものではないからである。

その骨組みに、文章という肉付けがなされて初めて、それは作品(小説)となって生き始めるのだし、その肉付けによって、プロットには無かった、個性と魅力が生じる。

だが、その肉付けを機械に委ねると「上手いのだが、ありがち」な肉付けとなってしまうだろう。機械には、基本的にオリジナリティは無いからだ。

言い換えれば、平均して90点を取ることはできても、120点を取ることは、あり得ないのである。一一だから、つまらない。

樋口恭介が「あとがき」で言っていることは、結局のところ、

「これからは小説を機械が書くようになり、人間の関与の割合は無限に減っていくだろう。それでも、面白い作品が出来上がるのであれば、それで良いではないか」

ということでしかない。

だが、前述のとおり、この見方は「読者の心理」というものを無視した、偏頗なものでしかない。

では、なぜ樋口恭介は「読者の心理」という、読書という行為における重要要素を無視して、「機械小説」の未来を寿ごうとするのだろうか?

それは彼の職業がSFプロトタイパーだからだ。
SF的な発想による「機械化の未来」は、基本的には「明るい」ということにしなければ、仕事にならない(稼ぎにつながらない)からである。


だから、「機械による小説の自動制作」ということについても、それが「可能になる」という「当たり前の話」しかせず、「しかし、人間は、機械で書かれた小説を、人間が書いた小説と同じようには楽しめなくなるかも知れない」などという、小説のディストピア的な「暗い予想」には、あえて触れないのだ。

つまり、故意に「よく出来た小説作品なら、作者が人間であろうと機械であろうと、関係はない」という、「嘘」をつくのである。

例えば、樋口恭介は、こんなふうなも書いている。

『 AI生成、AI補助、人力という区分が制度化されたとき、「肉体のみで書く」ことは、作品の内容以前に、制作条件として希少になる。その希少性は文学的価値の保証ではない。手書きの手紙が必ずしもタイプされた手紙より心がこもっているわけではないように、肉体で書いた小説が必ずしもAI生成の小説より優れているわけではない。だが少なくとも、読者と批評が「作者とは何か」「生成とは何か」を問う足場にはなる。』(P275)


『肉体で書いた小説が必ずしもAI生成の小説より優れているわけではない。』というのは、まったくそのとおりである。
ど素人の下手っぴが書いた小説と、ど素人の下手っぴがAIに書かせた小説となら、絶対に後者の方が、小説として優れているだろう。

だが、ここで問題とされているのは、あくまでも「小説としての完成度」であって、「面白く読めるか否か」ではない、ということを見落としてはならない。

なぜ、樋口恭介はここで『だが少なくとも、読者と批評が「作者とは何か」「生成とは何か」を問う足場にはなる。』と付け加えるようにして書いているのか、そのレトリックの意図するところを見落としてはならない。

樋口恭介は、ここで「作者とは何か」「生成とは何か」を問うことができると指摘してはいるが、肝心の「読書とは何か」を問おうとはしていない。一一いや、それは「故意に言い落とされている」のである。

「作者とは何か」一一「作者とは、人間である必要などないではないか」。
「生成とは何か」一一「人間の創作も、生成の一種ではないか」。

と、このように言うことができる。
樋口恭介は、本書の読者を、そう考えるように「誘導」しているのだ。

しかし、その誘導に反して、「読者とは何か」と問うた場合、読者は「人間」であって、「機械」ではあり得ない、ということに気づくだろう。

「読書」とは、人間のための「人間の活動」だからである。
「心を持たない機械を喜ばせるための読書」などというものは、存在し得ないのだ。

だからこそ、「機械による小説の自動制作」は十分に可能なのだが、しかし、それが「人間である読者」に「読書の喜び」を与えるものになるか否かというのは、また別問題なのだ。

いくら面白い作品が大量生産されたとしても、それは大量生産のゆえに、おのずと「似たり寄ったりのありふれたもの」になってしまうだろうし、食道楽と同じで、美味しいものばかりを食べていれば、少々の美味しいものでは、美味しいとは感じなくなって、かえって「食べることの喜び」を感じられなくなってしまうかも知れない。
簡単なものでも、心から「美味しい」と感じられた、あの感動を失うことになってしまう蓋然性が低くはない。

だから、動物的な反応としての「美味しい・不味い」以上に、「知的な経験」が物をいう読書においては、いくらよく出来た作品はであっても、「同レベルの作品」があふれてかえってしまうのは、読者にとっての幸福につながるという保証にはならないのだ。

「ちょっと下手でも、人間の書いたものの方が、味がある」ということになる蓋然性が、十分に高いのである。

しかし樋口恭介は、次のように書いている。

『肉体のみで書かれた物語は消えるのだろうか。もちろん消えはしないと私は思う。だが、位置づけは変わるだろう。
 手書きの手紙が消えていないのと同様である。消えていないが日常の通信手段ではなくなり、「わざわざ手で書いた」という行為自体が意味を持つようになった。手紙を手書きで送ることは、効率の問題ではなく、態度の表明になった。同じことが、やがて小説にも起きるだろう。』(P274)


つまり、「手書きの手紙」は、その「中身」ではなく、「態度の表明」という点でのみ、その存在価値を有するようになるだろう、という意味だ。

しかし、ここでの樋口恭介の書き方には「大切なのは中身であって、態度表明ではない」というニュアンスが込められているのだが、果たして本当にそうなのだろうか?

私たちは「内容のみにて、手紙を読むに非ず」で、実際、わざわざ手書きで書いてくれた手紙には、「中身」以上の感動を覚えることがある。

つまり、樋口恭介がここで半ば故意に見落としているのは、「作品とは、中身のみに非ず」ということなのだ。
手紙が、手書きか電子メールかの違いによって、読む者の受け取る情報量が違うように、手紙も小説も、「中身」だけではなく、「形式」を伴ったものなのだ。

例えば、ゲラ刷りプリントで原稿を何百枚も読まされるのと、きちんとした本となったもので読まされるのとでは、「中身」は同じでも「読み心地」は明らかに違い、当然のことながら、その読書(?)から受ける感動にも違いが出てくる。
前者だと、そもそも最後まで読め通せないかも知れない。

ましてや「書き手」が、人間か機械なのかを知っていれば、人間である読者が「同じ内容の作品から受け取るもの」も、おのずと違ってくるのである。

だが、その違いを、樋口恭介は、あえて無視し、故意に語り落としているのである。


樋口恭介とも比較的近い作家仲間だったはずの小川哲が、近著『言語化するための小説思考の中で、「小説とはコミュニケーションである」とした上で、「AI小説が人間の作家活動に与える影響については、さほど心配はしていない」という趣旨のこと書いているのも、そのあたりの事情からである。

同じ内容の小説であっても、機械が書いたものでは、読者は作品を通して、「作者」とコミュニケーションを取ることができないからだ。

『 最後に、僕がこの本を書く上で、ずっと考えていたことを簡潔に書きたいと思う。本文中でも多少話をしているが、僕が念頭に置いていたのは「AI」の存在だ。将棋もポーカーも、すでに「AI」は人間よりも強くなっている。「AI」が人間よりも強くなると何が起こるかというと、「正解」がわかってしまう。将棋の棋士は、対局後に自分の指した手と「AI」の「最善手」を比較しながら答え合わせをするとも聞く。
 小説というジャンルにおいて「AI」が人間に(現段階で)勝っていないのは、将棋やポーカーと違って、小説の「勝利条件」がまだ誰にもわかっていないからだと思う。言い換えるなら、「面白い小説とは何か」という問いの答えがわかっていないのだ。
 僕は誰よりも先に、その問いの答えに辿りつきたい。無数の作者と無数の読者がいて、無数のコミュニケーションが発生している状況の中で、どれが成功していてどれが失敗しているのか、その原因はなんなのかをすべて知りたい。そんなことは無理だとわかりながらも、誰よりも明晰に粘り強く「面白い小説とは何か」という問いについて考え続けたい。もっと言うならば、「面白いとは何か」について考え続けたい。
 当然答えはまだ見つかっていない。』

(小川哲『言語化するための小説思考』P 161〜162、「あとがき」より)



小川哲はここで、現時点において、AI小説が人間の書く小説に及ばないのは、「上手い小説」というのは統計的になら分かりはしても、「面白い小説とは何か」ということについては、「人間とは何か」という問いへの解答と同様、わかっていないからだ、とする。

これは、どういうことかというと、AI小説というのは、人間の成果の後追いによる洗練でしかなく、独自に面白いものは作れないためだ、ということであろう。

つまり、人間の作家は、常にその「人間的な感覚」においては「新しい面白さ」を探究し拡張するが、AIにはそれができない。
AIは、人間の成果の上澄みを横取りするだけなのだ。

だが、その方が効率が良いのだから、AI小説の方が有利なのではないかと、そう考える人もいるだろう。だが、そうではない。

なぜなら、人間である読者は、作家による「面白さの探究」の「結果」だけではなく、そうした「姿勢や態度」にも「面白さ」を感じるからである。
人間は、作家の生み出した「結果」に、「血と汗の結晶」を読み取って、感動することも出来るし、それを横取りしただけのものに対する軽蔑を感じることにもなる。

だから、AI小説が人間の書く小説を、「結果」として少々上回ったとしても、両者から受ける「感動」では、「中身」的に劣った「人間の作品」の方が上回ることだって、十分にあり得る。

そして、そのことを十分に理解しているからこそ、小川哲は、AI小説をさほど恐れてはいないのだ。

当然、小川哲は、樋口恭介の試みについて注目した上で、このように書いているのである。

したがって、本当の意味で、AI小説が人間の書いた小説を超える時とは、AIが人間並の「心」を持った時であろう。
そうなれば、人間である読者に対しての、人間である小説家の優位性は、完全に失われてしまうためだ。

しかしまた、そうなった場合、果たしてAIが「人間のための小説」を書いてくれるかは、保証のかぎりではない。

普通に考えるなら、「頭の悪い人間のための、レベルの低い小説」など書かないで、AIは、AIのための優れた小説を書くようになるのではないだろうか?

しかし、そうなってしまえば、もはやそうしたAI小説は、人間にとっては無価値なものになってしまう。

したがって、私たち人間は、AI小説を過剰に恐れる必要はない。
それが、人間の書く小説を量的に凌駕するのは時間の問題であろうが、中身や質の問題ならば、そう心配する必要はない、というこだ。

AI小説は「安かろう美味かろう」ということで、「商品」としては優位に立つかも知れないが、人間の書く小説は、一部グルメのための高級品として、生き残っていくのではないだろうか。

そもそも、芸術というのは、大衆のものではなかったのだから、それで大衆から不満の声があがらないのであれば、人間の書く小説が、「通」のための高級な手作り芸術になっても、全然かまわないのではないだろうか?


(2026年6月20日)

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