劇場版『BLAME!(ブラム)』: リミナルスペース、バックルーム、そして終末世界の孤独

▷ 映画評:劇場版『BLAME!(ブラム)』(原作・総監修:弐瓶勉/監督:瀬下寛之/2017年)


なぜ、本作を見ようと思ったのか。
それは本作が、現在北米で話題沸騰中の映画『Backrooms』の作者である

監督が、「バックルーム」という世界観を生むのに、絶大な影響を与えた作品だからである。


私がここで、ケイン・パーソンズ監督を映画『Backrooms』の「作者」と呼んだのは、この長編映画の原型となる短編作品は、ケイン・パーソンズがアマチュア時代に自主制作してYouTubeで公開し、それが世界的な注目をあびた作品だったからだ。

そしてこの短編に目をつけたのか、マニアックな映画で知られる、映画製作会社「A24」
A24がこの短編作品と監督に目をつけ、低予算とはいえ商業映画としての資本を投入して長編へとリメイクさせたのだが、これが「A24作品の史上最年少監督」記録だけではなく、「世界興行ランキング1位を獲得した史上最年少監督」 といった栄誉をもたらす大ヒット作となった。
それが、現在北米で公開中の劇場版『Backrooms』なのである。


なお、すでにこの作品は、日本での公開も決まっており、続編の話まで出ているというから、その桁違いのヒットぶりも理解できよう。

また、この劇場版『Backrooms』を紹介する際には、「20歳の若き天才作家」などと呼ばれるが、同監督が、オリジナル版の『Backrooms』を作ったのは、若干16歳の時であった。


で、このケイン・パーソンズが、「この世界の裏側に存在する、不気味な迷宮世界」とでも呼ぶべき「バックルーム」の世界観を構築するのに、多大な影響を与えたのが、今回とりあげた、劇場版『BLAME!(ブラム)』 の原作である、弐瓶勉の同名漫画なのだ。

そのことを私は、先日レビューを書いた、ALT236の著書 『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』によって知ったのである。


ALT236の同著は、そのタイトルからも分かるとおり、「リミナルスペース」という概念を中心に、そのジャンル越境的な世界観を紹介しており、その中で弐瓶勉の『BLAME!(ブラム)』 が、世界の若いクリエイターたちに大きな影響を与え、その影響を受けた若者の一人がケイン・パーソンズであったと、そう紹介さらていたのである。


したがって、概念的に言えば

リミナルスペース > バックルーム


ということになる。

決まった定義があるわけではないが、「リミナルスペース」の方が広い概念であり、「バックルーム」のは、それに含まれる下位概念(イメージ)だと考えれば良い。

先ほど、私は「バックルーム」のことを「この世界の裏側に存在する、不気味な迷宮世界」的なものだと説明したが、「リミナルスペース」の方は「人が通過するためだけの、本質的には人間不在の不気味な中間的空間」とでも呼ぶべきものだ。

つまり、両者は「人間が使用するために作られた人造空間」でありながら、しかし「人間が不在の不気味な空間」という点で共通するのである。

ただ「リミナルスペース」の場合は、例えば地下街の連絡通路のような、現実に存在する空間も広く含むけれど、「バックルーム」の場合は、「この世(現実空間)」ではなく、普通は人間が認知することのできない「裏空間」的なものなのである。


また、「リミナルスペース」とは、「現実の中に見出された、不気味な空間」であり、「バックルーム」とは、そのイメージを「フィクション化した空間」だとも言えるだろう。

したがって、「バックルーム」の世界とは、単に「不気味な空間」ではなく、「この世から外れて落ち込んでしまった、正体不明の異空間」ということになるのである。

 ○ ○ ○

基本的な概念の説明を終えたので、話を『BLAME!(ブラム)』 に移そう。

当然のことながら、『BLAME!』 の世界観は、「リミナルスペース」や「バックルーム」を意識して構築されたのではない。
そちらの概念構築に寄与した、原型的な作品なのだ。

ただ、この作品には、と言うか、原作者である弐瓶勉には、「リミナルスペース」や「バックルーム」的なセンスと言おうか、むしろ「嗜好」があったからこそ、『BLAME!』 は、若者たちの「リミナルスペース」や「バックルーム」的なセンスを呼び覚ます力を持っていたのである。

さて、では、まだ「リミナルスペース」や「バックルーム」といった言葉がなかった時代に、弐瓶勉はそうした自らの「嗜好」を、どのように具体化し可視化したかというと、それは「SF作品の舞台」として構築したのだ。
SF作品であれば、現実にはあり得ない空間が巨大な規模において、自由に創造できるからである。

(劇場版アニメ用の背景美術画)

しかし、言い換えれば、弐瓶勉が『BLAME!』 で描きたかったのは、その「空間(世界)」であって、そこに生きる人々でもなければ、その営みでもなかった。
極端な言い方をすれば、『BLAME!』 という作品においては、人間という存在、人間の物語とは、その特異で魅力的な世界を描くための「添え物」でしかない。
言うなれば、カレーライスの福神漬けにすぎないのである。

私は、「リミナルスペース」を「人が通過するためだけの、本質は人間不在の不気味な中間的空間」と表現したけれど、この空間は、「かつては、人がいた」というのが大前提になっていることを忘れてはならない。

例えば「かつて一度も生物の存在したことのない、荒涼とした惑星の自然風景(空間)」は、「リミナルスペース」にはなり得ない。
そうではなく、かつては何らかの生物の文明が栄え、その上でその生物だけが絶滅した後に残された「遺跡」としての人造空間だからこそ、そこは「リミナルスペース」になる。

したがって、弐瓶勉の嗜好を忠実に描こうとすれば、そこに人間が存在する必要はない。かつて人間が存在したであろう人造空間だけがあれば良いのである。

しかしながら、それでは商業的な漫画にも映画にもならないというのは自明だ。
だから、人物が登場し、物語もあるのだが、しかしそれが中心イメージでもなけれは、本来の姿でもないのだ。

本当ならば、人っ子一人いない空間の「風景画」だとか、そんな空間をぐるぐると写し続ける動画であってもかまわない。むしろその方が、本来の姿なのだ。

例えば、映画であれば、アラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』(1961年)の、「人間が登場しないバージョン」を想像してみたら良いだろう。それでも、いちおう映画は成立する。
一一だがそれでは、その作品は「芸術映画」だとか「実験映画」「前衛映画」などと呼ばれることになって、商業作品にはなりにくい。


だから、その点での妥協として、最低限の人物が登場し、最低限の物語が描かれる。
この「人間不在の世界の魅力」を描くための方便として、「最低限の人間」を描く。
世界の「茫漠たる白さ」を描くために、あえて「紅一点」を打つようなものだとでも考えれば良いだろう。

だからこそ、弐瓶勉は原作漫画『BLAME!』 について、その狙いを、次のように証言しているのである。

『一番こだわったものは建物であり、全体像がわからないほどの巨大建築物を中心に据え、誰が見ても初めての作品を作ろうとしたという。スケール感を出すために人物を小さく描き、ある意味、『BLAME!』の主人公は建物かもしれないと述べている。また、情報は最小限にとどめ、後は読者に想像してもらう方がリアルだとしている。当作品の話は、大きな世界の片隅で起こった小さなエピソードであり、あの世界では日常的に起こっている事件の一つだという。』

(Wikipedia『BLAME!』


(弐瓶勉による『BLAME!』のイラスト画)

二瓶はここで『主人公は建物かもしれない』と証言して、「建物」それも「巨大建築物」が中心の作品であると言っている。

ここで私たちが、注目しなければならないのは、「建物」とは「人造物」であり、しかもそれは「巨大」でなければならない、という点である。

では、後者の「なぜ巨大でなければならないのか」という点について言えば、それは、その「巨大」さが、人間を置き去りにした、人間不在の構造物であり、それによって構成された、人間不在の空間だということなのだ。それは最早、人間スケールの世界ではない、ということ。

そこは、人間の存在が、その過去においては要請されながら、いま現在は、巨大空間の「隙間」しか与えられていないのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本稿で論じる劇場版の『BLAME!』も、そんな謎の巨大迷宮世界の片隅における「いちエピソード」にすぎないし、したがって、このエピソード自体が重要なのでもない。
喩えて言えば、「ある大邸宅の壁の裏の片隅における、家ネズミ一家のある日のエピソード」程度のものでしかないのだ。

同様に、『BLAME!』の描いた世界が、どのようにして生まれたのかという「SF設定」自体も、さして重要ではない。
一一と言うか、本当なら、それすら「不明(解けない謎)」の方が良かったのだが、それでは「SFアクション漫画」にはなりにくいから、やむを得ず設定されたにすぎないと、そう言っても過言ではないはずだ。


したがって、そうした(対外的な)設定については、Wikipediaからの引用で紹介するに止める。

『遥か超未来、都市は複雑高度に階層化され、都市環境は堅牢な『超構造体』に内蔵された『システム』により支えられていた。コンピュータ・ネットワークは極限まで発達し、『統治局』により管理された一大ネットワーク社会『ネットスフィア』は、実社会と同じか、それ以上へと拡大し、ネットワークへの正規アクセスを可能にする『ネット端末遺伝子』の保有そのものが市民権と同義となる。人類の生存圏はネットワーク・スペースへと置き換わり、仮想空間の事象を現実世界へ反映させるなど、理想の世界を構築した。

しかし、『災厄』によりネットスフィアは機能不全に陥り、『珪素生物』による感染症の蔓延により人々からネット端末遺伝子が失われたことで、ネットワーク社会は崩壊する。制御が失われた『建設者』により際限なく拡張され続ける都市構造物は、やがてその惑星系すら内部に取り込み、不安定な連結がネットのカオスを加速させる。ネットスフィアの防御機構である『セーフガード』は、管理規定にのっとりアクセス権のない人類を不法居住者として排斥し続け、珪素生物はネットの機能回復を阻止すべく人類を襲撃する。人々は繁栄の記憶を忘れ、全てが壊れた世界の片隅で短い生を生きる。人類の黄昏の世界が舞台である。

主人公の『霧亥(キリイ)』は、正常な『ネット端末遺伝子』を持つ人類を探すべく、ネットスフィアの機能不全を維持しようとする珪素生物の襲撃を退けながら巨大な階層都市を探索し続ける。』

(Wikipedia『BLAME!』


本作のストーリーは、キリイが旅の途中で立ち寄ることになった、人口150名ほどの村に関わるエピソードだ。
彼らが住むのは、なぜか「建設者」システムの干渉を受けない、ある階層の一角であり、そこには食糧の備蓄をもあり、かつては数千人が住んでいた。また彼らは、食糧を備蓄の消費のみに頼らず、その安全区画から出る危険を冒して、食糧の調達を行なってもいたのだが、そうした努力もいよいよ限界に達しつつあった。
人口も減り、食糧の備蓄も底をつきかけてきたため、まもなくこの安全地帯を捨てて、新たな安住の地を求める危険な旅に出るか、ここに残って餓死するのを待つかという、二者択一の状況にまで追い詰められていたのだ。

(狩り用の装甲戦闘服にヘルメット部)

そこで、村の少年少女たち6人ほどが、大人たちに黙って、狩り用の装甲戦闘服を拝借して食糧探索に出るのだが、結局は、この機械世界の保守系であるセーフガードの餌食となり、半数が殺されたところで、キリイに助けられて、村に戻ることができた。
そして、子どもたちの命の恩人である謎の旅人キリイが「ネット端末接続遺伝子を持つ人間」を探す旅の途中であり、それが見つかれば、人間が機械から主導権を奪い返せると知り、村長は最後の望みを賭けて、キリイへの協力を申し出る。

一一これが、物語の発端であり、あとは対保守系との活劇が続くと考えれば良い。

前述のとおり、このエピソードの内容自体は、まったく重要なものではない.
あくまでも娯楽作品として成立させるための、いちエピソードにすぎないからだ。

したがってこのエピソードでは、村人たちは最終的には新しい安全圏と食糧を手にすることが出来るのだけれども、世界そのものを機械から取り戻すことには失敗し、キリイは再び、ネット端末接続遺伝子を持つ人間を探す旅に出て、村を去るのである。

このエピソードの中で、世界観の描写として重要な点は、村人がキリイに「どこから来たのか?」と尋ねると、キリイは「6000階層下から来た」と答えた点である。

村人たちが住んでいる階層でさえ、人間が米粒のような存在でしかあり得ない広さを持っているのだから、6000階層と言えば、とてつもない深さである。

この機械が支配し、自己増殖した機械の世界は、地球と思しき惑星上を覆う広さだけではなく、主に地下に向かって6000階層以上の広がりを持つというのだから、作品に現に描かれている世界を見ても、そこは、横の広がりよりも縦の広がりの方が深い、無明の奈落へとつづく、分断世界といった印象が強い。
そんな果ての知れない広大な世界の中で、人々はある階層の片隅に、孤立して細々と生きているだけなのである。

だからこそ本作の世界観としては、問題は、その片隅のちいさなエピソードではなく、何百年と続いているのであろう、キリイの果てしない旅路の方にある。
キリイの、「解決」の見えない旅こそが、この世界の巨大さを感じさせるものとなっているのだ。

すでにいないはずの「ネット端末接続遺伝子を待つ人間」を探す旅とは、ほぼ永遠に生きるのであろうキリイの旅が、永遠に近いものであることを暗示しているのである。

では、この「はるかな希望しか見えない=ほとんど希望の見えない」物語は、いったい何を描こうとしているのであろうか?

私はそれを、若い世代の、ある種の「閉塞感」の表出だと考える。

私にとって「リミナルスペース」や「バックルーム」といった概念(イメージ)は、つい最近知ったものでしかない。
しかし 『BLAME!』 の原作漫画が連載されたのは、1997年から2003年までなのだと知って、そう言えば、そこまで前の作品ではないが、似たような世界観を描いた漫画があったなと思い出したのが、つくみずによる『少女終末旅行』(2014年〜2018年)である。

文明の崩壊した広大な終末世界を舞台に、チトとユーリという二人の少女が愛車のケッテンクラート(半装軌車)に乗って、あてもなく旅をする物語だ。

Wikipediaを確認したところ、つくみずは『BLAME!』の影響を受けた作品であることを公言していたと判明)

私はこの漫画を部分的にしか読んでいないので、正確なところは知らないが、おおよそのところで言えば、同作には、危険な敵も存在しないかわりに、他の生き残りの人間も存在しない、そんな世界のようだ。
つまり、ドラマチックな展開はなく、なぜか二人だけ生き残ってしまった少女たちが、他にすることもないので、その終わった世界を見て回るという、淡々とした「日常」を描いており、かえってその「出口も希望もない世界」の絶望的な深さを、リアルに描き出していた。

ちなみに私は、つくみずの次の作品である『シメジ シュミレーション』 (全6巻)は読んで、各巻ごとに随時レビューを書いているから、つくみずの作風については、おおよそのところは承知しているつもりだ。
その作風とは、ひと言で言えば「孤独と人恋しさ」である。


そんなわけで、『BLAME!』がそのビジュアルイメージのスケールにおいて、「リミナルスペース」や「バックルーム」といった概念を生むにいたった重要作品であったというのは間違いないが、しかし、それらの概念が、「人間のいない空間」という意味合いにおいては、むしろ『少女終末旅行』のほうが、ドラマティックな要素が排除されているだけに、かえって強く迫って来るものがあるように思う。

「出口の見えない、人にいない世界」というのは、たぶん、男性には「不気味」の印象が強い。
なぜなら、そこには「悪意ある人間以外の存在」が潜んでおり、「それと戦わなければならないのではないか」という、そんな恐れと不安を抱くからであろう。
男性には、「生きるために戦う」という、本能的な傾向があるのかもしれない。

一方、女性が「出口の見えない、人にいない世界」に対してまず感じるのは、「不気味」さなどよりも、むしろ「孤独」なのではないだろうか。
「敵」の存在を想定しての戦いを考える以前に、一緒にいる「仲間」を求める本能が、女性にはあるのではないか。

だから、『少女終末旅行』は「女の子二人づれ」の旅であり、 『BLAME!』 の場合は男性であるキリイの独り旅なのではないだろうか。

(寡黙なキリイ)

そう考えれば、「不気味」を強調する「リミナルスペース」や「バックルーム」、あるいは本作 『BLAME!』 などは、いずれも「男性的な夢想」なのかもしれない。

また、だからこそそれらは、不気味であり危険そうでありながらも、どこかドラマチックであり、魅力的でもあるのだろう。
その意味では、まだまだ切実な閉塞感ではないのだ。

現に閉塞した、人のいない終末世界に放り出された時、人は「不気味さ」や「危険」以上に、「孤独」をこそ、痛切に感じるのではないか。

またその点では、やはり女性の方がリアリストであり、男性的な概念であろう「リミナルスペース」や「バックルーム」には、どこかに男の子っぽい「異世界冒険譚」的な甘さの残滓が、感じられないでもないのである。


(2026年6月15日)

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