フェデリコ・フェリーニ監督 『8 1/2』: 輪舞は途切れない。

▷ 映画評:フェデリコ・フェリーニ監督『8 1/2』(1963年/イタリア映画)


フェリーニを見るのはこれが3作目となるのだが、いささか見る順番を間違えたかも知れない。


私がこれまでに見たフェリーニ作品は、出世作の『道』と、同作と同じくフェリーニの妻であるジュリエッタ・マシーナの主演した『カビリアの夜』の2本だ。

この2本は、ごく大雑把に言えば「弱者に対する温かい目線に立ったヒューマニズム作品」だと言えるだろう。
だから、そのつもりで本作を見ると、いささか面食らわされてしまい、当惑を禁じ得ない。


しかしながら、こうした変貌を示した作品が、本作以前にすでにあったのだ。

それは、こちらも有名な傑作『甘い生活』だったのだが、私はそれを見る前に、本作『8 1/2』を見てしまった。
だから余計に、唐突感があったのであろう。

だが、見ていない作品を喋々しても仕方ないので、話を本作に戻すとしよう。

さて、フェリーニにさほど詳しくない私であっても、本作が、フェリーニ自身を投影した映画監督の男性を主人公とした作品であることくらいは知っていた。
だから、『道』や『カリビアの夜』とは、多少なりとも趣きが違っているだろうというくらいの予想はあったのだ。

(主人公の人気映画監督グイドマルチェロ・マストロヤンニ

しかし、本作は冒頭からして、前記の2作とはあきらかに趣きを異にした、極めてスタイリッシュかつ幻想的なシーンから始まるから、かなり驚かされる。
ストーリー云々ではなく、いきなりその見た目に魅了されてしまう作品なのだ。


そして、そんな調子で本作を見ていくと、ストーリーらしいストーリーと言うか、物語らしい物語と言うか、筋らしい物語的にドラマチックな筋というものが無いということに気づかされることになる。

『一流映画監督のグイドは、新作の構想に行き詰まってしまいクランクインを2週間も先延ばしにしていた。療養のため温泉地を訪れるグイドだったが、女性たちとの関係や仕事上の知人たちとの現実に悩まされ続けるうちに、様々な夢や幻が彼の前に現われるようになり……。』

「映画.com」『8 1/2』あらすじより)


冒頭でのこの温泉地の描写からしてすでに、かなり幻想的なものであり、決してリアルなものではない。

私としても、二言目には「幻想的」だなんていう手垢に塗れた形容にはいささかうんざり気味なのだが、本作の冒頭シーンは、幻想的なだけではなく、とにかく美しいのだ。
しかもそれは、「桜のライトアップが幻想的」みたいなありきたりなものではなく、計算し尽くされた、人工的な、あるいは幾何学的なと評してもいいような映像美であり、ちょっとやそっとで真似のできるような代物ではないのである。

もちろん、以前にWikipediaを読んでいたから、フェリーニが「映像の魔術師」と呼ばれる人であることくらいは承知してはいた。

しかし、『道』と『カリビアの夜』の2本を見ただけでは、到底この言葉はピンと来ず、「ケッ、ありきたりの褒め言葉だな」なんて思っていたのだが、本作を見て「そのまんまの形容だな」と、そう思いなおすことになった。

平たく言うと本作は「新作映画の制作に行き詰まった有名映画監督の懊悩を、夢と現実、現在と過去が、無媒介に連なるかたちで描いた作品」ということになるだろう。

つまり、わかりやすく言えば、とにかく「行ったり来たりする」作品であり、「起承転結」あるいは「三幕構成」の作劇術によるような作品ではない。
だから、ストーリーの説明がしにくいと言うか、ストーリーの説明は、「無意味」なのである。

たぶん本作は、実際に「新作の制作に懊悩したフェリーニが、それをそのまま取り込んで映画化した作品」なのであろう。
その意味では、苦しまぎれの開き直りが、結果的にうまく転んだ作品だと言っても、あながち間違いではないのかもしれない。

無論、うまくいかない現実をそのまま並べ立てたような「私小説」的な作品などではなく、そうした苦しい状況を、映画として「絵」で見せる様式性が与えられている。
それが、「幻想的」と言われる表現形式だったのであろう。頭の中の懊悩を、「絵」として表現して見せたのだ。

たがまた、その結果、オーソドックスな「物語」的形式性は与えられなかったために、物語が先に進むほどに、何かが展開発展するというわけでもなければ、問題が解決するというわけでもないのである。

仕事はうまくいかないわ、女たちとの関係もうまくいかないわで、あっちからもこっちからも、やいのやいの言われて、もう頭がパンクしそうだという現在と、いろいろあったけど「昔は(子供の頃は)良かった」という過去が現実逃避的に想起されれば、そこですら「ああ、なんで自分はああだったのだろう」といった後悔も起こる。しかしまたそこで、唐突に開き直りもする。
なにしろ現実というやつは、映画のようには、きれいな曲折を経て大団円に至るというふうには出来ていない。


映画なら、おおよそ2時間ほどで、なんらかの結末に至るけれど、現実は、死ぬまで完結することはないのである。


だから、ひとつ問題が解決したように見えても、次の問題が出てくる。それが解決しないうちに、別の問題も出てきて、問題が幾重にも折り重なってしまい、もうそうした問題群から逃避してしまいたくなるのだが、その逃避先にまで、彼を非難する声が押し入ってきて、決して彼を逃してはくれない。

だからこそ、それもこれも無かったことにして誤魔化そうとし、その場かぎりの嘘をついては「度しがたい嘘つき」呼ばわりされることにもなれば、自己嫌悪に陥ることにもなる。

問題が何も解決していないというのに、そうした外的な問題ばかりではなく、内的な自己嫌悪までが加わって、もう「うわぁーーっ!」と叫んでしまいたくもなれば、死んでしまいたくもなる。
けれども、死ぬ気になれば、適当に生きることだって出来るじゃないかという楽観も出てきて、ひとまず問題はうっちゃっておくことにする。

一一と、こんな調子の物語なのだ。

こうした様を、私は「行ったり来たり」の物語だと表現したのである。

しかし、これだけなら、単に「混乱した、筋らしい筋のない映画」であり、鬱陶しくはあっても、面白いということにはならないはずなのだが、そこは「映像の魔術師」。

この混乱した世界を、ビジュアル的には幻想で魅力的なものとして描き出しつつ、同時に、観客に「わかる、わかる」と思わせてしまうのだから、単なる「前衛映画」とは、本質的なところで違う作品となっているのだ。

例えば、本作には、主人公のグイドの両親が何度となく登場する。
これは、現実の両親ではなく、思い出の中の両親であり、現実逃避先としての「両親の思い出」だ。


そこでグイドは、両親に救いを求める反面、両親に対する後ろめたさも感じている。

有名人となった孝行息子でありながら、しかし敬虔な信仰からは逸脱して、女性にはだらしなく、その点でトラブルをひき起こす自分が、両親の期待どおりに育ったなどと、胸を張ることなどできないためである。

で、そんな両親の登場する最初の方の夢のシーンが、独特の淋しさを湛えた、なんとも言えず魅力的なものに仕上がっている。

一一だが、このシーン「どこかで見たことがあるような…」と思い、あれこれ考えていると、ふと思いついた。
このシーンは、アンドレイ・タルコフスキーのそれと、とてもよく似ているのである。


私の見たタルコフスキーのなかでは、『鏡』『ノスタルジア』といったところに似ていると言えようか。
なにしろ、だいぶ前にいちど見たきりなので細かいところは忘れてしまったが、作品全体に漂う独特の「非現実感」が、とても似た印象をなのだ。

だが、あえてその違いを言えば、フェリーニの幻想は乾いた軽さを持っているが、タルコフスキーのそれは暗く湿った粘着質で、いささか押しつけがましい、という感じだろうか。

しかし、ともあれこの共通点は、フェリーニがタルコフスキーに似ているのではなく、タルコフスキーがフェリーニの影響を受けたということになるようだ。時代的には、そうなるのである。

『フェリーニの映画はスタンリー・キューブリック、アンドレイ・タルコフスキー、マーティン・スコセッシウッディ・アレンミケランジェロ・アントニオーニイングマール・ベルイマンロマン・ポランスキーなどの巨匠監督達に影響を与えており、映画史における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人である。寺山修司松本俊夫などのアングラ映画監督にも影響を与えた。』

(Wikipedia「フェデリコ・フェリーニ」


このとおり、幻想的な面白い「絵」を撮る監督の多くは、フェリーニの影響を受けているのである。

したがって、「映像の魔術師」と呼ばれる映画監督は多いけれども、その元祖が、他でもないフェリーニだったということになるし、フェリーニは決して、ヒューマニズムの映画作家ということでは済まされない、個性派作家だったということになるのだ。

無論、このあたりのことは、知っている人(映画マニア)にとっては、常識的な話なのだろうが、フェリーニ初心者の私は、3作目にしてその事実を実感として理解した、ということなのである。

本作を含む私が見てきた3作からわかる、フェリーニの基本的な性格というのは、次のような感じになるだろう。

(1)キリスト教・カトリックの影響を受けた理想主義者
(2)弱者に優しい庶民派のヒューマニスト
(3)女好きの快楽主義者
(4)真面目に悩みはするけれど、けっこうあっさりと開きなおることもする楽天家

つまり、大雑把に言って、(1)と(2)はフェリーニの「頭(上半身)」であり、(3)と(4)は「肉体(下半身)」なのだと言えるだろう。

だから、(1)と(2)の理想主義連合が、(3)と(4)の快楽主義連合と対立して、そこに葛藤が生まれる。

また、それだけではなく、(1)のカトリック思想の中には、本作で描かれるような「教会の外に、救い無し」とする原理主義的に厳格な保守主義と「神の愛に従って生きる者は、たとえ神を知らずとも救われる」といったリベラルな部分の両方があって、フェリーニの(2)は後者に由来して、前者に反発するものだから、現実には、カトリック信仰と対立する部分もある。
また、フェリーニのそんなリベラルな人間愛が、(3)と(4)の人間主義につながって、カトリックの原理主義的な信仰からは「退廃的」だと非難されることにもなるのである。


つまり、フェリーニという作家は、こうした多面的な矛盾を抱えた作家であり、それでいてその矛盾について、どちらかに決着をつけようとするような突き詰め方をするのではなく、その両方をどちらも間違いではないとして、その矛盾葛藤をそのままに突き詰めようとするようなスタンスの作家なのだと、私にはそのように感じられる。

その意味で彼は、矛盾葛藤を受け止め得る楽天性、したたかな柔軟性を持った作家なのではないだろうか。

本作のラストでは、主人公のグイドが、行き詰まった映画制作について、プロデューサーなどから早く進めろとやいやい言われて、ついに拳銃で頭を打って自殺するというような、現実とも悪夢ともつかないシーンが描かれる。

しかし、その後には、グイドは、それまでの登場人物たち全員を集め、メガフォンで指示して、皆が輪になって踊るという、まさに作ろうとしている映画のラストシーンを撮り、自らもその輪のなかに入って踊るというところで、メビウスの輪的な、なんとも不思議にねじくれたシーンで、この映画はフェードアウトして幕を閉じるのだ。


さて、そんな本作を語る場合に、この有名なラストシーンの前にグイドが口にした、

人生はお祭りだ。一緒に過ごそう。


というセリフが重視されて、結局のところ本作をハッピーエンドだとみなす見方(解釈)が、どうやら主流となっているようだ。

実際、フェリーニは「映画がなければサーカスの座長になっていた」 と語るほど、生涯にわたってサーカスを愛し、そうした精神やサーカスの登場人物を、多くの作品に投影してきた人なのだから、そんなイタリア人らしい楽天主義からすれば、本作も、

「いろいろ悩んだけど、でも、所詮は人生はお祭りなんだから、みんなでわあわあ言いながらやれば良いんだ」


と、そんな開き直りにも似た楽天的な考えを結論とした作品のようにも解し得よう。


けれども、グイドが自殺したと解釈するならば、このラストの輪舞は「死後の夢」とも考えられるし、また、それとは真逆に、この輪舞を、タルコフスキーと同じくフェリーニから多大な影響を受けた映画作家イングマール・ベルイマン『第七の封印』で描いた、「死の舞踏」と見ることも可能であろう。


「人はその生において、わいわい騒々しくやっているけれども、それもこれもいずれ最後は死の闇に消えていくさだめのものなのだ。愛も恋も、映画作家としての仕事も名声も、すべては現世の儚い夢なのだ」と、そんなちゃぶ台返し的な開き直りを語っているようにも見える。

だが、私が思うには、この「どちらにも決着をつけない」し、「決着なんて、つけられるわけないじゃないか」というのが、フェリーニのフェリーニらしさなのではないだろうか。

映画は、2時間ほどで、何らかの決着をつけなければならない。
しかし、われわれの人生は、死ぬまで決着はつかないのだし、死んだからといって、そのときに抱いていた考えが、正解だという保証など、どこにもない。

つまり、われわれの葛藤は、生死を超えた輪舞として、ああでもないこうでもないなどとやりながら、人から人へと途切れることなく永遠に回り続ける、そんなものなんじゃないのか…。

一一フェリーニとは、そんなことを考えていた人なのではないか。
だからこそ、どこか見ても、割り切ることのできない人なのではないか。

無論、これは私の「暫定的な解釈」でしかない。
どこかでフェリーニへとつながるこの輪舞は、この先もまだまだ続くのである。




(2026年5月6日)

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◇ ◇ ◇





“フェデリコ・フェリーニ監督 『8 1/2』: 輪舞は途切れない。” への2件のフィードバック

  1. もりもり食べるぞのアバター
    もりもり食べるぞ

    ビートたけしは本作に影響され「TAKESHIS’」を撮りました。公開当時、映画館で見ました。
    すぐに、「8 1/2」だな、と分かりましたが、下手な模倣に終わった作品です。
    それよりも、映画評論家が”難解だ”と言うだけで、フェリーニに言及した人が誰もいないことに驚きました。

  2. 年間読書人のアバター

    > もりもり食べるぞさん

    コメント、ありがとうございます。

    『8 1/2』を真似したくなる気持ちは、よくわかります。でも、出来そうで出来ないのが、天才のわざの真似なんですよね。
    この世には『8 1/2』を真似ようとした失敗作が、きっと何百何千とあるのだと思います。
    もちろん、アマチュアの作品も含めてですが。

    「難解だ」で済ませる感想ほど、無内容なものはないですよね。
    それは、「傑作だ」とか「失敗作だ」と断じるだけの評価も同じことなのですが、問題なのは、評価の根拠を説明できないことではなく、結論としての評価を語るだけで、その根拠まで説明できたと思い込んでいることであり、その誤解に気づけないことなのだと思います。

    作品などを含む対象を語るということは、ひるがえって、自分を語って世間に晒すことなんだということに気づいていない人が、あまりにも多いように思います。

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