小川哲 『言語化するための小説思考』: 小川哲のわかりにくさのわけ。

▷ 書評:小川哲『言語化するための小説思考』(講談社)


本書は『言語化するための小説思考』であって、「小説化するための言語思考」ではない。つまり、小説を書くための言語技法の本ではなく、言語化するという行為について、小説を書くという行為を通して考えたことを書いた本である。

したがって、『誰でも書ける小説入門』みたいな技法書ではなく、「小説家として考える、文章を書くとは、どういうことなのか」ということを語った、作文論の本だと言えるだろう。
当然、それが小説を書くことのヒントになる場合もあるけれど、それが本書の目的なのではない。

著者の小川哲からすれば、たぶん職業作家として「(小説を)書くとは、どういうことなのか」ということを、嫌でも考えなければならないというだけではなく、そもそもそれを考えるのが楽しい、ということもあるのであろう。
実益のあげ方ばかりを考えていたのでは嫌になるけれども、好きなことをあれこれ考えて(探究して)、それが実益につながるのなら、こんなにありがたい話はないからである。

で、端的に言って、本書は面白い。
どういうところが面白いのかというと、小川哲の考えていることが、私ととても似てるところもあれば、それゆえにこそ真逆に近いところもあって、そのあたりが「なるほど」と腑に落ちたから面白かったのだ。


私がこれまで読んできた小川哲の文章において、何が気に入らないのかと言えば、それは、小川が読者の要請に合わせようとしすぎるところ、つまり読者への迎合である。

まあ、それにしては、小説作品については、それほど迎合的だとも感じないのだが、エッセイなんかだと、かなり迎合的に感じられる。


だから、私としては「こいつ、本音はそこまででもないくせに、エッセイでは、読者に耳障りの良いよう、多少なりとも本音を偽って書いているのではないか」と、そんな印象があったのだ。

私自身は本音主義だし、そうした文章の方が面白いと感じるので、小川哲のエッセイ的な文章には、いつもどこか引っ掛かりを覚えるところがあったのである。

ところが、本書を読んでみると、どうして小川哲には「小説におけるマイペースぶりと、エッセイなどにおける読者迎合的な感じとにギャップ」があるのか、そんな疑問への答えが、だいたいわかったのだ。だから面白かった。

で、そのギャップの正体から、明かしてしまえば、小川哲という人は、本人も認めているとおりで、およそ一般的ではない、非・大衆的美意識(趣味)というものを確固として持っており、にもかかわらず、しかしその度が過ぎていて逆に振れてしまったという、一種の「変態」なのである。

このことを本人は「小説ゾンビ」だと表現している。
その心は「小説とは何かを見極めようとせんがために、自身の人間らしさを殺してまでその探究を続けている、そんなゾンビ同様の人間(小説フリーク)だ」と、そういうことなのだ。

『(※ 作家)デビューしてから知ったことなのだが、(※ 読書と同様)行き先のわからない電車に乗っていると多くの人は不安に感じるようだ(僕のように、どこへ向かっているのか自分なりに考えながら(※ 本を)読み進めるのが好きな人も存在するが、おそらく多数派ではない)。
 だからこそ、本の帯には「全米が泣いた」とか「最後にかならず驚く」とか、そこまで下品でなくとも「文藝賞受賞作。選考委員の小川哲氏絶賛!」とか「直木賞受賞作」とか「ミステリーランキング三冠」とか「大森望推薦!!」とか、なんとなく電車の行き先(※ 本の内容)がわかるような文言が書いてあったりする。』(P61〜62)


つまり、小川哲自身は、『どこへ向かっているのか自分なりに考えながら読み進めるのが好きな人』なので、こういう「わかりやす過ぎる(馬鹿に物を教えるような)ガイド」は、余計なお世話なのである。そんなものはいらない。

だが、世の中、そんな「馬鹿みたいなガイド」が求められるし、「馬鹿みたいにわかりやすい(下品な)小説」の方がありがたがられるという、厳然たる現実がある。

こうした「嫌な現実」に対して、小説家になる以前の小川哲は、ものすごく腹を立てていたのだ。
一一そしてこのあたりは私と同じなのだが、例えばこんな具合である。

『当時の僕は「(※ 当時、東大生の間で流行った、「検見川総合運動場」と書かれた)便所サンダルを履いているやつは全員ゴミ」という結論に至り、便所サンダルを履いているやつらを漏れなく軽蔑していた。合宿のたびに大量の便所サンダルを仕入れ、クラスメイトに斡旋している人物もいて、便所サンダルに関わるすべての人間が「まとめて全員ゴミ」だと思っていた。SNSのある現代だったら、履いているだけで炎上しそうなサンダルだと思う。
 当時の自分が間違っていたとは今でも思わないが、便所サンダルを履いている人物に対して僕が抱いていた感情はある種の「偏見」でもある。前述の見解は僕が勝手に想像したものであり、どういう理由で便所サンダルを履いていたのか当人から直接聞いたわけでもないからだ(当時の僕は便所サンダル関係者との対話を拒否していた)。そもそも「便所サンダルを履いてくるのがカッコいいとされていた」という前提自体が僕の偏見だった可能性もある。もしかしたら、最初に便所サンダルを履いた人は、靴を買うだけの金もない苦学生で、止むに止まれず検見川総合運動場の便所からサンダルを盗んだのかもしれない。そしてそれを見た他の苦学生が真似をしたのかもしれない。あるいは、便所サンダルが僕の知らないところで大量に安売りされていて、苦学生にとって大変助かる履物だった可能性もゼロではない。』(P136〜137)


この『「便所サンダルを履いているやつは全員ゴミ」という結論に至り、便所サンダルを履いているやつらを漏れなく軽蔑していた。』というあたりが、私ととても似ている。

私の場合だと「コロナ禍さなかのオリンピックで、金メダルの数に一喜一憂しているような奴は、国家に踊らされている馬鹿」だとか、同系統のことで「まんまと宣伝に乗せられて、公営カジノの前振りたるお粗末な万博に、暑い中を喜んで出かけていくような奴は馬鹿」だとか「ミャクミャクが可愛いとか言ってる奴は馬鹿」だとか、そういうのがある。


無論、小川哲と同様に、幼稚な「感動作」に体よく乗せられて「泣きました」とか言ってる読者大衆も、わかりやすい馬鹿だと、そう思っている。

しかし、そのあとが私と小川哲との違いで、小川哲は、自身の趣味や価値観に合わないものについても「自分の趣味や価値観だけで判断してそれを否定するのは簡単だが、ひとまず自分の価値観を傍に置いて、他の価値観を吟味してみる方が意味がある」といったふうに考えるのだが、私は決して、そんなことはしない。
別に、嫌なものを無理してまで、肯定しようとは思わない。

と言うか、そういう発想は、極めて危険なのだ。
なぜなら、それは「自身の実感に反した、観念操作」であり、所詮は、笠井潔的に言うならば『理屈なら何とでもつく』という類いの、自己洗脳だとも言えるからだ。

例えば私は、幽霊やUFOを信じない。なぜなら、そんなものは一度も見たことがないし、また普通に考えて、存在する蓋然性が極めて低いからだ。
だが、世の中にはそういうものを本気で信じている人が大勢いるのだからと、そちらに配慮して、そうしたものが「存在するのかもしれない」などと、自身の実感に反してまで考えてみる一一なんてことをするのは、宗教や陰謀論にハマる人と同様で、物分かりが良すぎて(思考に芯がなくて)、かえっておかしなことになりかねないと、そう考えるからである。

だが、幸いなことに、もとが気難しい小川哲の場合は、実際のところ、「スカスカの小説でも価値があるかもしれない」とか「幽霊は存在するかもしれない」などとは考えない。

あくまでも、そう考える人がいて、その人はどうしてそんなことが信じられるのかと、その内面をトレースすることで理解するのを楽しんでいるだけなのだ。
本物の馬鹿になるのではなく、馬鹿になりきってみる、ということを楽しんでいる。

そうすれば、馬鹿な読者を理解することもできれば、馬鹿にもウケる小説の書き方もわかる。
それを採用するかどうかはまた別の話だが、ひとまず頭から否定して何も考えないよりは、理解した上で採用しないというのが、知的な態度だというのは、論をまたないところだからである。

だが、ではこのようにして解説している私が、なぜ小川哲のようなスタンスを採らないのかと言えば、それは端的に言って、そんなあちこちに気をつかうような態度を採るのは面倒くさいし、わざわざ面倒くさいことをする必要もないからだ.

つまり、小川哲のように、クソつまらないものの中にも、見るべきものを見つける楽しみみたいなものを求めなくても、世の中には面白そうなものが無限にあるのだから、クソを深掘りしている暇があったら、その未開拓の土地に目を向ける。
また、だからこそ、私の趣味や読書やレビューは、ジャンル限定的ではなく、あれもこれもになるのだし、私はそんな自分のことを「快楽主義者」であると呼ぶのである。

ではなぜ、小川哲は、私のような快楽主義の方向へは走らないのか。なぜ、クソを深掘りするみたいなマゾヒスティックなことをするのかといえば、その理由は二つある。

ひとつ目は、アマチュア批評家の私とは違い、小川哲の場合は、それで食っているプロの小説家だから、好きなことを好きなようにやるだけでは済まされないという、現実問題があるからだ。
小川哲は「あとがき」で、次のように書いている。

『僕が本書で「小説はコミュニケーションだ」と繰り返していたのは、小説を書くときに「この話はどれだけの数の人に伝わるか」ということを常に意識せざるを得ないからだ。自分にとってどれだけ価値のある話であったとしても、そしてそれが自分の信じる芸術の本質であったとしても、小説を商品として見た場合に、一定の需要がなければ出版することができない。』(P159〜160)


じつに正直なものである。

小川哲という人の美徳は、この正直さにあると断じても良い。


だが、こういう正直な人が、自身の思いのままに書くわけにもいかないという現実に置かれているからこそ、そこに「観念的倒錯」が生じる。

良いとは思えないものを、しかし、それで切り捨てるわけにはいかない状況に置かれているのだとしたら、いったんは自分の現実認識を傍に置いて、切り捨てなくてもよいという立場に、仮想的(思考実験的)に身を置いて、その正当化ロジックを立ててみる。

そして、そういうロジックを立てられれば、それはそれで「ひとつの考え方」だとも思えてくるから、自分の行動も「仮の姿」的に、そのロジックに合わせることも出来るようになってくるのだ。

これは、昔の人が「ミイラ取りがミイラになる」といったことを、自覚的に自分に仕掛けているということなのである。

つまり、平たくいえば、小川哲という人は、本来なら簡単には世間に迎合できない頑固な人なのだが、むしろだからこそ、自分を説得できるようなロジックを、自分で捻り出すしかないと、そんなふうに頑張っている人なのだ。だからこのこの人は、わかりにくい、ということにもなる。

だが、同じ頑固者でも、私と小川哲の違いとは、単に私がアマチュアで小川がプロだというだけではないと思う。

プロの作家だって、抵抗なくあっさりと世間に迎合できる人もいれば、決して迎合することが出来ず、結果として書けなくなってしまうような作家だって、現におおぜい存在するからだ。

では、小川哲がそのいずれでもなく、自己に対する「観念的な思考操作」によって、そうした隘路をすり抜けようというのは、どのような個性に由来するものなのだろうか?

私が思うに、小川哲は、私よりも頑固であり、それでいて私よりも頭がいいから、単純な割り切りや決断を選ぶことが出来ず、「観念的な思考操作」なんていう面倒なやり方を選んでしまうのではないだろうか。

つまり、小川哲が、私のように「嫌なものは嫌」というシンプルな態度を採らず、一見、世間に迎合しているかのような態度を採るのは、むしろ私などよりも頑固だからなのではないか。

私の場合、「嫌なものは嫌」だと切り捨てる反面、切り捨てたものの存在自体は容認する。

「馬鹿ばっかりだけど、世の中そんなものだし、馬鹿の存在も認められるべきだろう。個人的には関わりたくないけれど、悪口のネタにはなるから、それはそれで存在価値もある」的な、割合あっさりとわり切ったところがある。

私はよく「結局、この世界には善も悪もない。良いも悪いもない。それは、人類が繁殖のための自己都合で捏造したフィクションにすぎないのだ」なんてことを言うけど、これは要するに、最後は「どうでもいいよ。どうせ、世界とはそんなものだし、なるようにしかならない」と、そんな調子でぶち投げてしまうようなところがある。
一一だが、小川哲には、そういうところがないのだ。
もちろん、プロの作家としては、そんなふうには書きにくい世の中だからなのかもしれないが。

ともあれ、私よりも遥かにこだわりが強い人だからこそ、自分自身を説得する理屈を立てないわけにはいかないし、納得できないことにも、無理をしてでも納得しようとする。
だから、側から見れば「醒めた態度」にも見えてしまう。

こだわりが強過ぎるからこそ、態度としては逆にまで振れてしまう、そんな倒錯的と形容してもいい人なのだ。

自意識やこだわりの強い人でなければ、おおよそ「変態」と呼ばれるものにはなり得ない。
その意味で、意外にアッサリした私なんかとは違い、小川哲は「変態大魔王」級の人なのであろう。

だがまた、作家(クリエイター)というのは、変態と呼ばれるくらいのこだわりがなければ、一流になどなれはしないものなのだ。

言い換えれば、私の「二流」性とは、意外に、あっさりした「いい人」である点なのであろう。残念至極である。



(2026年6月8日)

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