▷ 映画評:スティーヴン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』(1977年/アメリカ映画)
スティーヴン・スピルバーグの子供っぽさやオタクさには親近感をおぼえていたし、その一方、彼の正義感の強さや理想主義にも共感する。
しかし、だからといって、彼の映画をぜんぶ見ているわけでもなければ、見たいというわけでもない。
むしろ、期待して見たわりには、イマイチだったという結果に終わるものが少なくないし、そもそも、まったく触手の動かない作品も少なくなかった。
スピルバーグを面白いと思ったのは、監督デビュー作の『激突!』や出世作の『ジョーズ』であったと思う。
正体不明の「敵」を描いて、そのサスペンスの盛り上げ方に、卓越したものがあったからだろう。
だが、そうした成功作に続いて作られ、大ヒットもした本作『未知との遭遇』には、最初から惹かれなかった。
一一と言うか、見る前から反発を覚えて、見る気にはならなかったのだ。

実際、今回見て、たしかに私は本作を見ていない、ということを確認できた。
有名な大ヒット作なのだから、これまでに見る機会は何度もあったはずで、もしかしたらテレビ放映などで見ている可能性もないではないという思いもあったのだが、物語が始まってすぐに「これは見てないな」と確信できた。
物語冒頭の、比較的私好みのシークエンス、「第二次世界大戦中、バミューダ海域で消息を絶った米軍戦闘機数機が、現代のアメリカの砂漠で、新品同様の姿で見つかった」というシーンの映像に、まったく記憶がなかったからだ。
映画というのは、中身がつまらないと、数年も経てば見たこと自体を忘れてしまい、その後ながらく、見ていないと勘違いをしたままでいる、といったこともたまにある。
だから『未知との遭遇』もそのパターンの作品かもしれないと、一応は自分の記憶力を疑ってみたのだが、どうやらそれは考えすぎだったようだ。
本作を見て、その中でこのシーンは知っているというのは、予告編や映画紹介などで引用紹介された一部のシーンやその写真で見たカットなど、ごく有名な「絵」に限られており、それ以外の大半は、まったく見覚えが無かったのである。

Wikipediaから、スピルバーグの「主たる監督作品」の項目を拾ってみると、次のようになる。
「●」印を付けたものが、現時点での私の鑑賞済み作品だ。
『激突!』(1971年)●
『ジョーズ』(1975年)●
『未知との遭遇』(1977年)● ※ 本作
『インディ・ジョーンズ』シリーズ●
『E.T.』(1982年)●
『カラー・パープル』(1985年)
『ジュラシック・パーク』シリーズ●
『シンドラーのリスト』(1993年)●
『プライベート・ライアン』(1998年)●
『A.I.』(2001年)●
『マイノリティ・リポート』(2002年)●
『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)
『ターミナル』(2004年)
『ミュンヘン』(2005年)
『戦火の馬』(2011年)
『リンカーン』(2012年)
『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015年)
『レディ・プレイヤー1』(2018年)●
『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021年)
『フェイブルマンズ』(2022年)
このように、2002年の『マイノリティ・リポート』までは、本作「未知との遭遇」と、1985年の『カラー・パープル』以外は、すべて見ている。
『カラー・パープル』を見ていないのは、この頃はまだ「黒人差別」問題に、さほど興味を持っていなかったということなのかもしれない。
また、他に考えられる大きな要因としては、主人公が女性ということもあるだろう。昔から私は、女性主人公の作品には、あまり惹かれなかったのである。
では、男性が主人公で、しかも私の好きなSF作品でもあれば、好きな題材であるUFO(未確認飛行物体)を扱った本作を、どうして見なかったのか?
見ないばかりか、なぜ反発まで覚えたのだろう?
それは、本作に登場するUFOのデザインが、まったく気に入らなかったからである。
UFOが好きなだけに「あんな、シャンデリアみたいなもの、UFOではない。UFOの魅力をわかっていない」と、そう反発したのだ。

私は、UFOというものの存在を、基本的には信じてはいない。
UFOと言っても、もちろん語義どおりに「未確認飛行物体」のことなら、そりゃあ実在するだろう。この世界には、まだまだ正確に把握確認できていない、物や現象ならあるだろうからだ。
つまり、私にとってのUFOとは、あくまでも「空飛ぶ円盤」のことであり「宇宙人の乗り物」のことなのだ。
そんなものが、地球に飛来しているとは思わない(正確には、その可能性はきわめて低くと思っている)。

しかし、一瞬でも「もしかして」と思わせてくれる「夢」としてのUFOが、私は子供の頃から大好きだったのだ。
その意味では、私にとってのUFOは、ネス湖のネッシーやヒマラヤの雪男、あるいは超能力などと同じようなものだったのである。
言い換えれば、私はUFOのリアルさ(現実性)にはあまりこだわりはなく、「UFOらしさ」にこそ、こだわりがあった。
例えば、UFOが人類の作った飛行機やロケット、月面着陸機そっくりなかたちをしていたら、それはリアルだろうが興醒めだし、想像がふくらむこともないだろう。
だから私としては、UFOと言えば、可能なかぎり「空飛ぶ円盤」っぽいものの方が好きだったのだ。
ただし、「可能なかぎり」という条件を付けたのは、リアリティとの兼ね合いを無視して、かたち(形態デザイン)にのみ固執するほどではなかったからだ。
昔はよくあった「UFO番組」なんかで紹介されるUFOについては、「空飛ぶ円盤」型にはこだわらず、むしろそこではオーソドックスな「光る球体」的なものでもかまわなかった。
なぜなら、ああした番組で紹介されるUFOの映像とは、「実在するもの」であることを前提とし、だからこそフィルムに捉えられたのだとするものだったからで、その場合、典型的な「空飛ぶ円盤」は、当時すでにリアリティを失いかけていたためである。
つまり、私は「UFOの美学」みたいなものは持っており、それをある種のファンタジーとして楽しんではいたけれど、それがわかりやすくて目に見える状態で存在するような、リアルなものだとは思っていなかった。
基本的には、その実在を信じていなかったのだ。
まただからこそ、フィクションとしてUFOを描く場合は、その時くらいは、リアリティよりも「UFOらしさ」を大切にしてほしいと思ったのである。
もちろん、フィクションである映画に登場するUFOであっても、フィクション色の強いSF作品なら、ゴツゴツトゲトゲした宇宙戦艦みたいなものでも一向にかまわなかった。その作品世界を表わす乗り物だと、そう理解するからである。
また、本作『未知との遭遇』のような、リアル志向の作品であっても、「光る球体」くらいまでならば許容範囲だったのだが、赤青黄色のネオンが明滅するような、派手なものはいただけなかったし、ましてや、本作の中で「マザーシップ(母艦)」と呼ばれる、あの「シャンデリア」みたいな巨大UFOは、私の許容範囲を完全に超えていた。
「こんなもん、UFOじゃない!」と、そう思ったのである。

では、なぜ私は、あのマザーシップに対し、反感まで覚えたのかというと、あのデザインでは、私が夜空を見上げた際に、そこにぽっかりと浮かんでいる様子を、リアルに想像することが出来ない類いの(凝りすぎた)ものだったからだ。
あまりにも映画的であり、「もしかして」と思わせてくれるような、そんな「夢」を見せてくれるようなデザインではなかったのだ。
だから「スピルバーグは、わかっていない!」と、腹を立てたのである。
○ ○ ○
で、今回初めて本作を見てみても、やっぱり違和感を覚えるところが、多々あった。
例えば、次のような点だ。
(1)UFOを恐れる様子がほとんどない。
(2)宇宙人の悪意を、まったく想定していない。
(3)交流のためにUFOに乗り込むための、人類側の要員までが準備されている。
(4)UFOに攫われた人たちの、損なわれた人生という問題が、完全にスルーされている。
第二次世界大戦中に、UFOに攫われた人たちが、そのまま現代の世界に返されたって、それで、良かったよかった、宇宙人に悪意はなかった、では済まされない。


つまり、私に言わせれば、スピルバーグは、UFOやそれに搭乗する宇宙人に対し、「無根拠に好意的」なのである。
一一そこが、私には「甘い」としか評価し得ないし、その意味で物足りないのだ。
私にとってのUFOとは、その「実態が知れない」という「不気味さ」や「恐怖」を伴うものとして魅力的な存在なのであり、その意味では、幽霊や各種モンスター(未確認大型生物)などと同じなのだ。
「本当にいたら怖いけど、ちょっと見てみたい」一一そんな存在なのである。
ところが、本作『未知との遭遇』の場合は、キャッチフレーズとして「われわれは、独りではない」を掲げていたことからも明らかなとおり、UFOで飛来する宇宙人は、基本「好意的な隣人」であり「お友達候補」なのである。
だが、それでは「リアリティが無さすぎる」。

UFOやそれに乗った宇宙人とは、基本的に「正体不明」だからこそ、「怖いながらも魅力的」なのだ。それでこそリアリティもある。
ところが、本作における宇宙人は、まるで「外国人」としての人類と大差がない。
「姿かたちは違えども、きっと理解し合える隣人だ」みたいな感じなのだが、人類どおしでさえ文化が違えば、分かり合えないことも多々あり、そこに誤解が生じて殺し合いさえするというのに、はるか宇宙の彼方からやってきた、たぶん文化も何もかも相当違った異生物である宇宙人が、どうして人類のように考えてくれるとか、ましてや人類に好意を持ってくれるだろうなどと、能天気に考えることができるのだろうか?
本作『未知との遭遇』と同じ年(1977年)にテレビ放映された、富野喜幸(富野由悠季)監督によるアニメ『無敵超人ザンボット3』では、人類を滅ぼそうと地球に攻めてきた、典型的な「悪の宇宙人」の正体が最終回で明かされるのだが、その正体とは一一なんと「宇宙における危険生物たる地球人類が、地球以外の惑星にまで繁殖する前に駆除してしまうおうと、そのために派遣された害虫駆除装置」だったというのだ。
つまり、「人類を守る」ことが、果たして自明の「正義」だと言えるのかと、そこまで突きつけてくる、きわめてアダルトな、「苦い」作品だったのである。

だから、そうした「当たり前に頭を使って作った作品」に比べると、本作『未知との遭遇』は、あまりにも能天気であり、幼稚だとしか思えない。
リアリティが無いというのは無論、内容的にも、馬鹿馬鹿しいとしか思えなかったのである。
では、スピルバーグはなぜ、こんなものを作ってしまったのだろうか?
それはたぶん、彼が根っからの「子供っぽい」人だったからであろう。
友好的な宇宙人の飛来なんてことを、本気で信じることのできる人だから、その「危険性」には配慮できず、こんな間抜けな作品が作れたのだ。
「遠い宇宙からはるばる飛来するほど文明の発達した宇宙人なら、無闇に争いを起こすようなことなどあり得ない。それなら、遠に滅びているはずだ。
つまり、彼らは人類より、技術的にも文化的にも優れた存在であり、人類から見れば、神の如き叡智を持つ、善なる生命体であろう」
一一などという、人類にきわめて都合の良い(人間中心主義的な)小理屈だけで、納得していたのではないだろうか?

そして、そうした観点からスピルバーグという人を見れば、たしかに彼は「正義感の強い理想主義者」であり、人柄として「良い人」てあることは間違いなく、その点に関しては、基本的に好感が持てるのだが、しかし、その理想主義の中身までつきつめると、それはいささか単純素朴に幼稚であり、物足りないものだとしか評価し得ない。
つまり、「思想」として、幼稚なのである。
だから私は、彼の「正義感」の発露として作られた社会派の作品も、好意を持って見てはきたけれども、結果としては、いずれも物足りなさの残る作品だと感じられた。
『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』のことである。
たしかに、これらの作品で語られている、スピルバーグの理想主義には共感する。
けれども、スピルバーグの作品には、「理想」は語られていても、度し難い「現実」とどのように向き合うのかという、リアルな「葛藤」が希薄なのだ。
「差別はいけない」「戦争はいけない」というのは当然のことだ。
しかし、それでも、差別をし戦争をやめられない、そんなリアルな人間存在と、取っ組み合いしてでも向き合おうという気迫が、スピルバーグの作品には感じられない。
ただ「理想を語っているだけ」なのである。
そして、同様の物足りなさ、本気で現実と向き合い対決しようという意志の「希薄さ」が、本作『未知との遭遇』にも感じられる。
「もしかすると、宇宙人には悪意があるかもしれない」とか「誘拐されて、解剖実験されたり、家畜にされたりするのかも知れない」とは、絶対に考えない。(考えたくないことは)考えようとしない、そんな「甘いご都合主義」が、スピルバーグの作品にはあるのだ。
一一だから私は、ある時期から、スピルバーグ作品を見なくなってしまったのである。
見たこともない世界を映像化して見せてくれるという点では、あくまでも娯楽映画作家としては、高く評価できる。
しかし、それ以上のものを期待したら、必ず失望させられるのだ。
「まあ、こんなもんか」といった程度の作品なのである。
だから、『マイノリティ・リポート』(2002年)から16年ぶりに『レディ・プレイヤー1』(2018年)を見たのも、それはもう完全に「単なる娯楽作品」以上のものは期待しておらず、ただ「ガンダム」が登場するらしいから、『機動戦士ガンダム』ファンとして、そこだけは見ておきたいと思ったからにすぎない。
そして実際『レディ・プレイヤー1』とは、所詮は、そうした話題性だけの、単なる娯楽作品だったのである。
私は以前、スピルバーグが映画化権を取得しながら、結局は映画化できず、その結果、ずいぶん遅れて、別の映画監督によって撮られた映画を論評している。
それは、キリスト教・カトリック教会のスキャンダルと言っても良いであろう、「エドガルド・モルターラ誘拐事件」を扱う作品だった。
この「エドガルド・モルターラ誘拐事件」という題材については、結果として、スピルバーグが映画化しなくて良かったと、私はそう評価している。
たしかに、スピルバーグが作った方が多くの人に見てもらえただろうけれど、しかし、彼が作っていたら「可哀想な話だね」「宗教的な独善は許されないよね」といった、通り一遍の感想を観客に与えた後、あっさりと忘れられる、そんな「社会派の娯楽映画」にしかならなかっただろうからだ。
今回、未見の「気になる作品を片づける」といった気持ちで『未知との遭遇』を見たのだが、私は本作を見たことで、これまで漠然とスピルバーグに対して感じていた「物足りなさ」の正体を、はっきり見極めることができた。
実は、私が見た『未知との遭遇』のDVDには、特典映像としてスピルバーグのインタビューなども収録されており、その中でスピルバーグは、自身の「甘さ」についての自覚を語っていた。
「この映画には、良くも悪くも若かった私の甘さ、若さゆえの甘さが見で取れる。歳をとり人生経験を重ね、社会の中で責任を負わなければならなくなった今の私には、もう本作のような映画は撮れない。帰ってこれないかも知れないのに、マザーシップに乗り込んでいく政府職員の姿など描くことはできない。まさに、若さゆえの思いのままに飛び込んでいく無謀が、当時の私にはあったのだ」
という趣旨のことを語っていたのである。
一一まさに、その通りではあろう。
スピルバーグは、このインタビューに答えた時点で、自分はもう「大人になり、その責任を引き受けて映画を作るようになった」と、そう思っていたのだ。
だが、私からすれば、スピルバーグの本質的な「甘さ」は、基本的には、この時点でも変わっていない。
まさに「三つ子の魂、百まで」なのだ。
スピルバーグ自身は、自分が「夢みがちなオタク」から、厳しい社会認識を身につけた「歳相応の大人」になったつもりでこのように語っていたのだろう。
けれども、すでにそうした意識で作られていたはずの『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』を見るかぎり、スピルバーグの「甘い理想主義」は、本質的には変わっていないし、また、その後の社会派作品の評判を聞くかぎりにおいても、やはり本質的に変わったとは思えない。
たしかに、スピルバーグという人は、良い人なのだろうし、子供心を失わない天才映像作家なのではあろう。
だが、やはりその「思想」自体は、「優等生的なマンガ」の域を出ないものだとしか、私には評価し得ないのである。

(2026年6月3日)
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