▷ 映画評:アルフレッド・ヒッチコック監督『めまい』(1958年/アメリカ映画)
ヒッチコックの代表作のひとつということで、当然見るつもりでDVDを買ってはあったのだが、できるかぎり古い作品から順に見ようとしたものだから、なかなか本作にまで辿り着けずにいた。

だが先日、ありがたいことに、本作について、私の感想を聞きたいというご要望をいただいたので、今回は順序をくり上げて、本作を見ることにした。
それにしても、ヒッチコックについては、すでに買ってある未見のDVDだけでも10本くらいはあるのに、せいぜい年に3本のペースでしか見ていないのから、買い置き分を見終えるだけでも、3年以上かかってしまう。
しかも、スラヴォイ・ジジェクの『ジジェク×ヒッチコック』や『ヒッチコックにおけるラカン 映画的欲望の経済』、あるいは「ヌーヴェル・ヴァーグ」コンビ、エリック・ロメール&クロード・シャブロルによる『ヒッチコック』なんていう関連書籍まで買ってあり、これらも「ヒッチコックの作品をひととおり見てから読もう」なんて考えているのだから、生きているうちに読めるのかどうか、いささかあやしいところである。
一一いや、これらの本については、もうそろそろ積読の山に埋もれさせてしまいそうで、例によって発掘不能となるのも、そう先の話ではなさそうなのだ…。
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本作『めまい』は、フランスのミステリ作家ボワロー=ナルスジャックの『死者の中から』の映画化作品である。
だが、私は原作の方は読んでいないから、そちらとの比較はできない。
なお、この原作小説の方も、日本語訳番は、ヒッチコックの映画版に合わせて、『めまい』のタイトルで刊行されていたと記憶する。

私のような古いミステリファンには、ボアロー=ナルスジャックという名前(ボアローとトマのナルスジャック兄弟の合同ペンネーム)は懐かしい響きを持つものなのだが、さて今も読まれているのだろうか?
一一と、偉そうなことを言ってみても、じつは私自身、ボアロー=ナルスジャックの小説を、ひとつも読んでいない。
たぶんその理由は、フランスミステリというものに、あまり魅力を感じていなかったせいであろう。
理詰めが大好きな「本格ミステリ」ファンの私としては、ミステリといえば英米の「本格ミステリ」であって、フランスのミステリは「心理サスペンスもの」が中心であり、心情に偏りすぎだという印象が強かった。
「人間心理を読みたいのなら、日本の純文学作品を読む」というのが、夏目漱石の『こころ』で活字に開眼した、私の偽らざる思いだったのである。
だから、そんな私が思うに、フランスの作家の多くには、「人間(のリアルな心理)を描いていない」という点において、本格ミステリに対する違和感があったのではないだろうか。
例えば、フレンチミステリを代表する、ジョルジュ・シムノンによる「メグレ警視シリーズ」だって、トリックをうんぬんするような作品ではなく、事件の陰に隠された人間模様(人間の悲哀)を描く作品が中心なのである。
まあ、そうは言って、ヒッチコックもまた「人間を描く」ことには、ほとんど興味がなかったのだが、「人間の極限心理」を描くことだけは大好きだったので、おのずと「心理サスペンス」もののミステリを好みもしたのであろう。
そんなわけで、私が唯一買ったことのあるナルスジャックの本とは、ボアロー=ナルスジャックつまりナルスジャック兄弟の、弟の方であるトマ・ナルスジャックによるミステリ小説論『読ませる機械=推理小説』だけであった。

だが、それさえ積読の山に埋もれさせて、先年の蔵書整理で、ついに未読のまま手放してしまったのである。
これまでも何度か、ヒッチコック映画のレビューの中で書いてきたとおりで、私は基本「サスペンスもの」のミステリは読まない。
だが、それとは真逆に、本格ミステリ嫌い(理屈嫌い)のヒッチコックは、「サスペンスもの」のミステリをこそ、好んで映画化していた。
ヒッチコックの代表作のひとつ、本作と同じジェームズ・スチュアート主演の『裏窓』だってそうで、原作のコーネル・ウールリッチは英国作家だが、その作風は、やはり「サスペンスもの」が中心であった。
したがって、本作『めまい』も、人間の「極限的な心理状態」を描いた作品であり、その意味で、ヒッチコックの独擅場であったと言えよう。
ヒッチコック自身は、後年本作を「失敗作」だと言っていたようだが、それはWikipediaにもあるとおりで、主演のキム・ノヴァクとの相性の悪さが原因だったようだ。
したがって、本作の作品評価としては、こんにちの評論家の(高)評価の方が正しく、ヒッチコック自身による低評価は「本来なら、もっと良い作品に出来たはずなのに」という悔いゆえなのではないかと思われる。
『発表当時(※ 本作)はヒッチコックの他の作品と同様、その女性蔑視のイデオロギーが批判されていた。(※ だが)徐々に評価を高め、近年ではヒッチコック作品の中でもトップクラスの傑作との評価を得ている。2012年には英国映画協会が発表した『世界の批評家が選ぶ偉大な映画50選』の第1位に選ばれた。しかしヒッチコックはこの作品を「失敗作」と語っている。当初ヒロイン役にと構想していたヴェラ・マイルズが妊娠のため降板し、キム・ノヴァクを起用したが、監督はノヴァクのキャラクターや態度(演出面に関する口出し)に非常に不満を感じていたことが、ネガティブな評価につながっている。
ヒッチコックはヒロインの女性像を、ノヴァクのような魅惑的なものではなく、清楚で健全な女性に求めていたようである。泳げない彼女をサンフランシスコ湾に飛び込ませたり、彼女が大嫌いであったグレー色を主要な衣装に使用したりとその仕打ちは苛烈なものだった。』
(Wikipedia「めまい(映画)」)
こうした事情だったのだ。
つまり、私が見たところ、ヒッチコックは「清楚系」の美女が好きであり、さらに言うなら「清楚系の美女を(心理的)いじめる(いたぶる)」ような物語を、好きで作りたかったのだ。

ところが、その主演に抜擢したヴェラ・マイルズがやむなく降板となり、そのためにやむを得ず使ったのがキム・ノヴァクで、無論、ノヴァクも美人は美人なのだ、「清楚系」というのとはちょっと違い、どこか勝気さを感じさせるタイプである。
また実際、物語の後半で、ノヴァク演ずる女性の正体が明かされたあと、その女性の素顔は、いささか蓮っ葉な感じさえさせるもので、ヒッチコック好みの(いじめ甲斐がありそうな)「清楚な上流女性」という感じではなかった。
そして、Wikipediaにもあるとおり、ノヴァクは、その印象どおり、監督に絶対服従するような「お人形さん」ではなく、自分の意見を率直に口にする女優だったので、そこがヒッチコックの気にも障って、本来なら「清楚系の女性」をいじめたいヒッチコックが、清楚だとは思えない点で不満をおぼえたノヴァクを、リアルでいじめることになってしまったのではないだろうか。
いや、こう言ってはなんだが、一一自制心に欠ける(権力を持った)「変態」には、困ったものである。
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本作の詳しい筋については、(私とは多少解釈の異なるところはあるものの)Wikipediaをご参照いただきたい。
長くなるので、ここには引用しない。
そのかわりにここでは、私が見たDVDのケース裏面に記されていた、短い内容紹介文を引用しておこう。
『死の気配を漂わせた美女と 彼女に魅入られた男の皮肉な宿命
同僚の転落死を目撃して以来、極度の高所恐怖症に悩まされるようになり、警察を辞職したスコティ(ジェームズ・スチュアート)。旧友の頼みで彼の妻マデリン(キム・ノヴァク)の監視を引きうけた彼だったが、自殺した曽祖母に操られるように奇妙な行動を重ねる彼女を、いつしか愛するようになる。しかし、マデリンは教会の鐘楼から衝動的に身を投げて自殺。失意で街をさまようスコティは、マデリンに生き写しの踊り子ジュディ(キム・ノヴァク)と出会い…。』

愛した男に捨てられ、娘まで奪われての発狂ののち、不遇の中で自殺した曽祖母カルロッタ。
その亡霊がとり憑いたかのように、夢遊病者のごとく曽祖母ゆかりの場所を連日さまよい歩き、しかもその記憶が無いという、美女マデリンの「謎」によって、本作の前半は牽引されていく。

しかし、そんなマデリンが、彼女の夫から監視尾行を依頼された元刑事スコティの目の前で、教会の鐘楼からの飛降りにより死んでしまい、マデリンを愛し始めていたスコティは、精神のバランスを崩してしまう。

そして、たまたま街角で見つけたマデリンそっくりの女性ジュディを追いかけていき、かなり強引にジュディに迫ったスコティだったが、やがて二人は相思相愛になる。

だが、実はこのジュディこそが、スコティに妻マデリンの尾行を依頼した、マデリンの夫エルスターの愛人であり、マデリン殺害のアリバイ作りのために、スコティの前で「曽祖母の亡霊に憑れたマデリン」を演じていた女性だったのだ。
スコティが高所恐怖症であり、高い鐘楼の上までは上がっていけないことを見越して、鐘楼の鐘撞場まで登って行ったジュディとすれ違いに、エルスターは本物のマデリンを鐘楼から突き落として自殺に見せかけ、落下していくマデリンの姿をスコティに目撃させることで、マデリン殺しのアリバイ作りをしたのである。

さて、ここであっさり「曽祖母の亡霊にとり憑れたマデリンの謎」について、ネタをバラしてしまったのは、この「謎とその解明」自体は、本作のキモではないからである。
事実、マデリン自殺事件の真相とジュディの正体が明らかになったあとも、物語はまだまだ続くのであり、マデリンの死とその真相は、言うなれば、本作の「折り返し地点」でしかないのである。
では、本作の後半では何が描かれているのかというと、それは「死したるマデリンに対する、スコティの妄執」である。

スコティは、ジュディに「愛しいマデリン」の面影を見て、ジュディを愛するようになるし、ジュディの方も、マデリンを演じていた頃からスコティに惹かれていた。つまり、ふたりはもともと、相思相愛だったのだ。
だが、ジュディとしては、自分がマデリンの謀殺の共犯者であり、スコティを利用し彼を苦しめたという後ろめたさがあるので、事の真相をスコティに打ち明けることができない。そんなことをすれば、スコティに嫌われるだけではなく、きっと憎まれるとそう思ったからだ。
だから彼女は、ジュディとして、スコティに愛してほしいと願ったのである。
ところが、マデリンへの思いがすでに妄執の域にまで達していたスコティは、まるでありし日のマデリンを復活させようとでもするように、嫌がるジュディに、マデリンの髪型や服装を強要する。
口では「君(ジュディ)を愛している」と言いながら、そうした要求をやめないのだ。
そして、ジュディの方も、スコティに愛されたいがために、スコティの望みを叶えてやることにするのである。
だが、そんなある日、ジュディは、マデリン殺害のあと自分を捨てたエルスターからの手切れ金と共にもらったマデリンの首飾りを、スコティは知らないものと思って身につけてしまい、そのせいでスコティは、ジュディがマデリンそっくりなのは、他人の空似ではなかったことに、ついに気づく。
そこでスコティは、ジュディにマデリンの装いをさせたまま、マデリンの死んだ教会へと連れ出し、マデリンの死んだ日を再演しようとする。
ジュディを鐘楼に登らせ、それを彼が追跡し、今回こそは自分も鐘楼の鐘撞場まで登りきり、ジュディを、いやマデリンを助けることで、高所恐怖症を乗り越えると同時に、マデリンの死をも乗り越えようとしたのだ。

だが、ジュディを追って鐘撞場にまでたどり着いたスコティに、ジュディは怯える。
彼の態度が尋常ではないと感じられて恐ろしかったし、罪の意識もあったからであろう。
だがその時、たまたま鐘を撞くためにその場にやってきた修道女が、物陰からぬっと姿を現したのに驚いたジュディは、手すりなど無い鐘撞場の窓から、誤って墜落死してしまう。
そしてそれを呆然と見下ろすスコティの姿で、本作は幕を閉じるのだ。

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そんなわけで、私が見たところ、本作のキモは、「異常心理」であり、それが生み出す「不穏なサスペンス性」である。
物語の前半は「曽祖母の亡霊にとり憑かれた美女マデリン」の醸し出す「不穏さ」が物語を主導し、後半では「死したマデリンの面影にとり憑かれたスコティ」の「妄執」が、前半以上の「不穏さ」で、物語を牽引して、ラストの悲劇へと突き進むのだ。
つまり、本作はこうした「異常心理の世界」であり、その「不穏さ」を描いた作品なのであって、決して「美女マデリンの謎を解く」ことが主眼の作品ではなかった。
そして本作は、その「異常心理」の描写と、その「不穏さ」によってこそ、名作ともなり得た作品なのである。
少し考えてほしいのだが、本作くらい「趣のある異常性」を描いた作品は、ちょっと他には見当たらないのではないだろうか。
というのも、「異常性」を描いた作品とは、ヒッチコック自身の、のちの作品『サイコ』(1960年)を含めて、とにかく「血みどろ」な猟奇事件を描くものが多いのだが、本作の場合は、そうした露骨なものではなく、「死したる愛人に対する妄執」を描いて、同等以上のサスペンスをうみ出しているのである。
もちろん、そうした「心理サスペンス」性優先であり、本格ミステリ的な「論理性」になど、とんと頓着しないヒッチコックらしく、お話の細部には、いろいろと無理もある。
例えば、警察を退職して悠々自適のスコティが、それほど親しかったわけでもない旧友エルスターから、妻マデリンの監視尾行を頼まれ、気の進まないまま、なぜかその仕事を引き受けてしまうなどというのは、有能な元刑事の行動とは考えにくい、優柔不断さであろう。
また、そうした「心理面」だけではなく、マデリンを尾行していたスコティは、マデリンが入っていったアパートの家主管理人である高齢女性に聞き込みを行い、その際に乞われて「警察手帳」らしきものを見せるのだが、当然のことながら、すでに退職しているスコティが警察手帳を持っているはずがない。
仮に、何らかの方法でその女性を騙したのだとしても、その説明が作中ではなされていないのだ。
また、このアパートからの「マデリンの消失の謎」の説明もなされてはおらず、尺の関係で切られただけなのかもしれないが、いずれにしろ必要な説明がなくて、ただ不思議な雰囲気を盛り上げるためだけのシーンになってしまっている。
さらに何よりも無理のあるのは、突然現れた修道女に驚いたジュディが、マデリンと同様に鐘楼から墜落死してしまうという、いささか無理やりっぽい、本作のラストである。
もちろんこれは「悲劇は繰り返す」ということで、その自業自得やら因果応報やらを感じされる「因果話」として、暗い余韻のあるラストになってはいるのだが、しかし「驚いて落ちました」というのは、やはりご都合主義の印象は否めないのである。
つまり、本格ミステリファンの私としては、そうした「最低限の辻褄合わせ」くらいはやってほしいところなのだが、しかしながら、そのあたりを呆気ないほど大胆に無視し、切り捨ててしまえるところが、ヒッチコックのヒッチコックたる強みなのではあろう。
本作については、有名な鐘楼内の「めまいショット」や、ユニークな「悪夢」シーン、それに見事な色彩設計などなど、絵づら的にも極めて優れた作品となってはいるし、それはもう論をまたない長所であって、そうした美点を指摘し論ずる論者は多いはずだ。


だが、私に興味があるのは、そうした技巧的な面よりも、そうした技巧の裏にある、ヒッチコックという人の「心理特性」なのだ。
なぜ、ヒッチコックは「異常心理」が好きで「不穏さ」が好きで「怯える清楚な女性」が、そこまで大好きなのか?
なぜワンパターンなまでに、金髪碧眼の美女じゃないといけないのか?

彼自身に、それほどのトラウマがあり、それを「美女に代替させることによって、自身の不安を解消する」というようなところ(代償行為)であったというのは、ほぼ間違いのないことだと思うのだが、だがだからこそ、彼の言うとおりにはなってくれないキム・ノヴァクに対する彼の「いじめ」は、実に「病的」なものとして興味深い。
なぜなら、ヒッチコックは、見事なまでにスコティの行動を、「無意識に」なぞってしまっており、決してその逆ではない。つまり、スコティを、自分に似せて描いたわけではないと、そう感じられるからだ。
だから、本作のラストだって、本来のヴェラ・マイルズによるマデリン=ジュディが実現していたならば、マデリン=ジュディは死なずに済み、スコティもトラウマを乗り越えてジュディと結ばれ、めでたくハッピーエンド、ということになっていたのではないだろうか?
無論、ハッピーエンドになっていたなら、本作は、これほどの「傑作」にはなり得なかったであろう。
なぜなら、それは「予定調和」的にすぎるからである。
当然のことながら、スコティがトラウマを克服したところで、ヒッチコック自身のトラウマが、それで解消されるわけではない。
だとすれば、作品としても、トラウマは解消されないまま、というのが、やはり「正解」だったのだと、そう考えられるのである。
さて、私のこの考え方は、本格ミステリファンらしく、辻褄合わせにすぎるものなのだろうか?

(2026年7月23日)
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