舞城王太郎 『短歌探偵タツヤキノシタ』: 神託としての批評

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▷ 書評:舞城王太郎『短歌探偵タツヤキノシタ』(ナナロク社)


極めてユニークな傑作である。

そもそも舞城王太郎は、一種「異能」とでも呼ぶべきものを持った作家なのだが、それ故に、不安定なところのある作家でもあった。
つまり、平たく言えば、当たり外れのある作家なのだ。

だが、私やミステリ評論家の千街晶之が「第五の奇書」と呼んだような破格の傑作『ディスコ探偵水曜日』(2008年)を書けたのも、それは舞城に備わる異能あったればこそだったのである。

ちなみに、「第四」までの奇書とは、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』、そして『匣の中の失楽』だ。


ともあれ、そんな舞城王太郎の作品を続けて読んでいると、その当たり外れのゆえに、失望させられることも少なくない。
当然のことながら、天才に恵まれた人物であっても、その天才とは、常に発揮できるものとはかぎらない。

舞城が何度も選ばれた「芥川賞候補作」レベルの作品ならばともかく、歴史に名を刻むような傑作ともなれば、生涯に2作と書けないことなど、よくあることなのだ。

そんなわけで、本作を「普通のミステリ」だと思って読み始めると、あれあれっ?ということになるだろう。

本作も「謎が提示され、名探偵役がその謎を解き、事件を解決する」という形式においては、正統派の本格ミステリを踏まえている。だが、肝心の「謎解き」が、いわゆる「論理的」なものではないのだ。

「1+1=2」あるいは「平行線は交わらない」といった、通常のロジック(論理)での謎解きではなかったのである。

オーソドックスな論理性(合理性)とは、言うなれば「ユークリッド的な論理」とでも呼べるものなのだろうが、だとすると、本作『短歌探偵タツヤキノシタ』を貫いているロジックとは、言うなれば「非ユークリッド」的なそれなのだ。

常識的な「ユークリッド的な論理」性からすればデタラメにしか見えないのだが、じつはそこには、「別のロジック」が存在しているのである。

だから、その「別のロジック」の存在に気づければ、つまり「非ユークリッド的な論理」における「合理性」というものを想定できる者には、本作は「論理的なミステリ=本格ミステリ」だということにもなるのである。

では、本作を貫いているロジックとはどのようなものなのか?

それは、「いくつも存在する正解の中にある、唯一の(特権的な)正解」をもたらすロジックである。

普通に合理的な解答ならば「いくつもある」。
けれども、そこへ「唯一の正解」が与えられると、目の前の事象を、正しく、合理的に説明し得る解答とは「それしかない」と感じられる、そんな文字どおりの「唯一の解答」。
それが、本作『短歌探偵タツヤキノシタ』において語られる「正解」を支えるロジックなのだ。

例えばそれは、思考実験「シュレーディンガーの猫」における「蓋を開けて、箱の中を覗いた瞬間の猫の状態」。
つまり、「猫が生きている状態と死んでいる状態の重なった状態」ではなく、どちらか「ひとつの状態に収斂された後の状態」である。そのとき「正解は一つしかない」のだ。


あるいは、「唯一の正解(解釈)」を保証する、もうひとつのロジックとは、一一「神託」である。

何か不都合な状態が発生し、それを解決しなければならなくなった時、私たちは、その現象の「原因」について、あれかも知れないし、これかも知れないと、あれこれいろいろ考えて、それらへの対策を講ずるだろう。
なぜなら、ひとつの現象における「原因」とは、多くの場合、複数の要因が複雑に絡み合ったものだからである。

例えば、東日本大震災における「福島第一原子力発電所の事故」は、決して1つの原因によって引き起こされたものではない。つまり、「地震」だけが原因なのではく、「人為的な要素」もそこにはあった。
東京電力が、過去の津波の歴史的データを考慮して、事前に十分な安全対策を講じていたなら、あの事故は起こらなかったのだ。また、だからこそ、あの事故後には、「安全基準」が見直され、ずっと厳しいものになったのである。

そんなわけで「不都合な事象」が発生するにあたっては、原因としての、複数の要因の絡まり合いがあり、その結果それが起こることになる。

だが、だからこそ私たちは、その「原因」を、あらかじめ完全に見極めることは出来ない。
出来たように見えていても、それが「完璧」であるという保証は、遂に得られない。

かつて「原子力発電の安全神話」が語られ「事故は絶対に起こらない(起こり得ない)」とされたのも、私たちが「完璧ではあり得ないもの」を「完璧」であると、誤認していたらからに他ならないのだ。

さて、ここで話を「ミステリ小説」に戻そう。

通常、「論理性(合理性)」を信条とする「本格ミステリ」における名探偵(役)は、最終的には「唯一の正解」に至ることになり、事件を「完璧に解決」した(する)、ということになっている。

しかしながら、こうした「論理的に完璧な解決」というのが、所詮は「フィクション」にすぎないということは、他でもなく「ミステリ小説」の世界において、なんども「自己言及」的に指摘されてきた。

その典型的な作例が、先に紹介した『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『匣の中の失楽』『ディスコ探偵水曜日』といった作品であり、どうしてこうした作品が「奇書」と呼ばれることになるのかと言えば、それは「当たり前の正解」には到達しない、あるいは、「絶対的な正解」の存在しない、その意味で「リアルな世界」を描いたミステリ作品だからなのだ。
だからこそ、これらの作品は「アンチ・ミステリ(ー)」と呼ばれたりもするのである。

通常のミステリ小説なら、どんなに悲惨な事件が起ころうと、それを名探偵が完全に分析し解明して、謎によって惹起された不安やしこりを解体解消してくれる。
不安を覚えるような不確定要素は残さず、すべて解消してくれるからこそ、私たちは「ああ、面白かった」と、安心して本を閉じることができるのだ。
それが「エンタメ」の使命だからである。

だが、「アンチ・ミステリ(反ミステリ)」においては、そうした安心感は与えられない。
なぜなら、作品の最後で語られる「解答」は、「唯一の正解」である保証など無ければ、「正解の一つ」である保証さえ与えられないからである。

なるほど「ひとつの説明」にはなっている。
例えば、「雨が降ったのは、神様のせい」だというのも「一つの説明」ではあるし、現にそれを信じて安心できる人もいる。なにしろ「万能の神の存在」を信じる人が、現に大勢いるのだ。

だが、そのほかの「神の存在を信じない人」にとっては「神様が雨を降らせた」とかいった説明は、非論理的なものとしか思えないだろう。いかに「神の不在証明」が論理的には不可能だとしても、やっぱり「そんな説明で良いのなら、いくらでも出来るよ」としか思えない。
私がよく引き合いに出す笠井潔の言葉で言えば、『理屈なら、何とでもつけられる』という程度のことにしかならないのだ。

だが、そんな「何でもありな説明」では困る。やはり、「唯一の正解」は存在して欲しいとそう思うから、私たちはしばしば「極めて単純化された説明」さえ鵜呑みにしてしまうのだ。

例えば、「専門家の説明」「事情通の説明」なんかがそうだ。
「あの人たちがそういうのだから、たぶんそうなのだろう」と、ついそれを鵜呑みにして信じてしまうのである。

だが、知ってのとおりで、そういう「権威ある説明」も、しばしば「不正解」なのだ。
専門家や事情通だって、私たち素人と同様に間違う。

私たちよりは知識のある分、間違える確率は下がるのかも知れないが、それだって一概には言えない。
なぜなら「専門家であるがゆえに、視野が狭まって、間違う(誤る)」ということも、現によくあることだからだ。


つまり、専門家も事情通も、私たちと「同じ人間」なのだから、間違うことがあるというのは当然なのだし、さらに言えば、「ある知識を並外れて持っている」というのは、「そのほかの知識を、人並みほどには持っていない」ということにもなりかねない。同じ条件なら、そうなる蓋然性が高くなるためである。

専門家や事情通は、神様のように「全知」なのではなく、所詮は「ある事柄についての専門家」であり「ある事柄についての事情通」でしかあり得ないのだ。


だが、私たちは、とにかく「正解」を与えてもらうことで「安心」したいと願ってしまう。
「不安」を抱えた状態で生きるのは辛い。だから、「嘘」でも良いからと、「正解っぽい」という程度のものにさえ、ついすがりついてしまう。

そのあたりの心理は、「宗教的な託宣」にすがる信仰家たちと何の違いもないし、私たちが「おみくじ」や「星占い」などをつい信じてしまうというのも、結局は、同様の心理(現実の不確実性への不安)に由来するものなのである。

そして、ミステリ小説の結末において名探偵により与えられる「正解(謎解き)」もまた、まったく同じことなのだ。

あれは、論理的に「唯一の正解」などではなく、作者によって捏ち上げられた「それっぽい正解」にすぎない。
「いくつもある正解の中で、比較的説得力のある正解」つまり「相対的によく出来た、正解の一つ」にすぎないのだ。

だから、「アンチ・ミステリ」とは、ミステリ小説のそうした欺瞞を暴くミステリ作品であり、「ミステリ小説とは、本当はそういうものなんですよ」と、ミステリ小説のことを語る(説明する)ミステリ小説だから、「メタ・ミステリ」と呼ばれることにもなる。

本当なら、「いくつも考えられる正解」の中から「比較的説得力のある正解」を導き出しているにすぎない「名探偵」たちが、さも一発で正解(それそのもの)に至ったかのように見えるのは、作者がそのように、読者を騙しているからにすぎない。
そうでなければ、よくあるように、名探偵が物語の最後まで「謎解きをせずにもったいぶる」なんてこともしないのだ。

言い換えれば、当然なされているはずの「途中の試行錯誤(途中経過)」を名探偵が口にしないのは、名探偵が「神のごとき明智を持つ存在」であるためには、「試行錯誤」しているように見えてはならないからなのだ。

「最後に語られる説明(謎解き)」が「真相」つまり「唯一の正解」であると、読者に信じされるためには、名探偵は「試行錯誤」してはならない。

なぜなら「試行錯誤」して得た解答、すなわち「近似値的な正解」は、「絶対的な正解(真相)」ではあり得ないからだ。
その推理(近似値的な正解)にはまだ、さらに「試行錯誤」する余地が残されている可能性(訂正可能性)のあるという事実が、バレてしまいかねないからである。

だから、先に紹介した『理屈なら、何とでもつけられる』と言った笠井潔の書いた本格ミステリシリーズの名探偵である矢吹駆は、正しく「神のごとき推理」を、現象学的本質直観を駆使することによって語ることになる。

この謎めいた「現象学的本質直観」とは何かというと、その名のとおりで、物事(事象)の「本質」に対して、「論理的な推論を重ねることで、にじり寄る」という当たり前の推論ではなく、現象学を援用することで、いきなり物事の「本質を直観する」という手法なのだ。そして、その「本質」さえ掴めば、あとはおのずと明らかになるという論法でなのである。つまり、一一「試行錯誤」の必要が無い。
だからこそそれは、「神のごとき推理」にも見えるのである。

だが、いくら「神のごとき推理」だと言っても、事件の依頼人が登場した途端、何の説明も受けていない名探偵が、いきなり「あなたの依頼しに来た事件の内容はこれこれですね。ならば、その犯人はこういう名前の人物で、彼の犯行方法はこうです」などと「正解」を語ったとすれば、それはもう「推理」などではなく、「神がかりの託宣」でしかなくなり、「推理小説=ミステリ小説」ではなくなってしまう。
そこで、名探偵は(安楽椅子探偵であろうと)、事件の説明を受け、それなりの調査もして、それを元に「真相」に至るという、形式を整えるのである。

そして、これが前記の矢吹駆の場合であれば、「事件の真相に至る現象学的本質直観を働かせるためには、まずその支点となる現象を特定しなければならない」という話になる。
「事件全体」に対して、漫然と「本質直観」を働かせることは不可能なので、その現象(事件)の支点となるべきものを見定め、そこに現象学的本質直観を働かせてなければならない。そうでなければ、誤った解答にしかたどり着けないと、矢吹駆はそう説明するのだ。

これは、いかにも「もっもとらしい説明」ではあるけれども、所詮は「フィクションにおけるレトリック」にすぎない。
実際のところ、矢吹駆がやっているのは、当たり前の「試行錯誤」にほかならないのだが、前記のとおり、名探偵が「試行錯誤」していると認めてしまっては、名探偵ではなくなってしまうので、こうしたレトリックも必要となるのである。


で、こうしたことは、例えば、最近は作例の増えた、見た目に派手な「多重解決」や「多重どんでん返し」などの作品でも、同じことである。

「多重解決」とは、要するに「いくつもの正解」が順に紹介される作品であり、前の推理よりは後の推理の方が「比較的説得力がある」というものにすぎない。
つまり、言い換えれば、最後の推理だって、絶対確実な真相だという保証のないまま、とにかく形式的には「それが最後の推理であり、この作品における結論なのだから、それが正解なのだろう」という(時間切れ的な)ものにすぎないのである。

同様に「多重どんでん返し」というのも、前の「どんでん返しを支えるロジック」に間違いや不十分さがあったればこそ、後の新たなどんでん返しも可能になるという形式なのだから、「最後のどんでん返し」が「最終的などんでん返し=決定的などんでん返し」であるという保証など、じつはない無いのだ。
作者がその気になれば、その後に、さらなるどんでん返しを付け加えるのも、原理的には可能なことなのである。



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さて、そんなわけで、前説が長くなってしまったが、本作『短歌探偵タツヤキノシタ』の凄いところは、ここまで説明してきたことをすべて踏まえたところでの、「名探偵小説」となっている点である。

というのも、主人公の小学三年生男子である木下龍也は、当たり前の名探偵ではなく「神から選ばれ、神からの託宣を授かる名探偵」なのだ。

この点で木下龍也の設定は、麻耶雄嵩の「銘探偵」メルカトル鮎に似たところがあるとも言えよう。


ただし、神様が丸ごと「正解」を与えてくれるのでは、「名探偵」でもなければ「探偵」ですらありえないので、おのずとタツヤには「推理する」仕事が強いられる。

どういうことかと言うと、神様は、タツヤが防ぐべき不幸(解決すべき事件)を、「短歌」を通して伝えるだけなのだ。

何か「不穏な事象」が起こり、そのあとに、何らかのかたちでタツヤのもとに一首の短歌が届けられる。
しかし、短歌というのは「詩歌」の一種なのだから、作者の伝えたいことや、作品の伝えるものが、字面そのままだとは限らない。

『短歌っていうのは言葉で描かれているものの向こう側にあるんだ。』(P254)


つまり、タツヤは、神による託宣として届けられた短歌を、ああでもないこうでもないと「試行錯誤」してその解釈を試み、ある瞬間に、その短歌の暗示していた「真相」に至ることで、「不穏な事象」の背後にあった問題を解決するという、そんな「特殊な探偵」なのだ。

『う〜ん。ちょっと神様とお化けが混在しててなんの判断もできないな。神様なんか出てくると、何でもありな気もしない?』(P148)


と、タツヤの兄は、こう疑問を呈するのだが、ではなぜ、タツヤがそんな「特殊な探偵」たり得るのか?

それは、本来の「名探偵」が、(擬似的に)論理的に「唯一の正解」に至ることになっているのに対し、タツヤの推理とは即ち「短歌の解釈」なのだから、作中でタツヤ自身が語るとおり、それは「唯一の解釈(真相)」では、到底あり得ない。
だが、そうであるにもかかわらず、結果としては、それが「事の真相」であり得たのは、タツヤの解釈もまた、神に授けられたものだからなのである。

『これで三回、届けられた短歌から結論っぽいもの捻り出したし、そのときはこの解釈しかないって思ったけど、次の日にはもう、何でそう思ったのか全然わかんなくなるんだよね』(P149)


つまり、タツヤは「神の依童」なのである。タツヤは、自らの頭を使い、自らの言葉で語るのだけれど、そこまで含めて、すべては「神の言葉」なのだ。
また、だからこそそれは、「唯一の真相」なのだ。

「いくつもある真相の中の、相対的に確度の高い真相」などではなく、神の語った、神の保証付きの、絶対的な真相なのである。

したがって、こんなに奇妙な短歌探偵タツヤキノシタは、しかし、正真正銘の「名探偵」なのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本作『短歌探偵タツヤキノシタ』もまた、「メタ・ミステリ」であり、その意味で「アンチ・ミステリ」なのだ。

『 僕は首を振る。
「僕の感覚としては、誰かが困ってたりして、その人を助けるためにとか、その人のところにただ行くために、その短歌は僕に届けられるって感じかな」
「いや、そういうふうに確かに見えるけど、そういうことでなくて‥‥‥漫画とかで名探偵出てくるのあるやんか?あれ毎回名探偵がたまたまみたいにして事件に遭遇するやろ。そんなはずないやんか?それもなんかトリックとかちゃんとあってそれ解いたりして、真犯人とかもいるとか、そんなん名探偵用の事件やんか。ああいうのって、名探偵がいるさけ事件が起こってるって感じせん?」
「え~~?ちょっと言ってること上手く想像できないな。名探偵がいるから、事件が用意されるってこと?」
「まあそういうこと」』(P156〜157)


作者は、こうした「メタ・ミステリ」的な問題意識を持って、ミステリを書いている。

だからこそ、そうとう毛色の変わった作品であるにもかかわらず、本作『短歌探偵タツヤキノシタ』は、やはり「論理的」な「本格ミステリ」なのである。

そして、さらに言うならば、「短歌の解釈」というかたちを採っていることからも分かるとおり、タツヤの推理とは、「小説家のフィクション」であるよりも、「批評家の解釈」に近いものなのだ。

一一そしてここが、何よりも本作の「独創的」なところなのである。

『 みそひと


 と呼ばれて、短歌が届けられて、僕はそれを受け入れたけれど、そして短歌探偵を名乗っているけれども、でもこれが僕以外にはできない仕事なんだって確信があるし、その確信を僕はどうしようもないんだ。
 どうしようもないってのは、やめることも別の道を選ぶこともできないし、そんな他のことができる気もしないってことなのだ。』(P159)


言い換えれば、「批評家はなぜ、小説家でもなければ、研究家でもないのか」?

一一それは、自分が、小説家でもなければ、研究家でもなく、批評家でしかあり得ないから、批評家なのである。

だから私は、研究者が当たり前に批評家を名乗ることに対して、「わかっていない」という苛立ちを禁じ得ないのだ。

例えば、文芸評論家を名乗っている三宅香帆は、その著書『考察する若者たち』の中で、世に言う「考察」と、文芸批評などの「批評」との違いを、

「考察は唯一の正解である作者の意図を探究するものであり、文芸批評は作者の意図に縛られずに、自由な解釈を示すものだ」

と、おおむねこのように説明したが、私はこの考え方をして、三宅香帆が「(本物の)批評家ではない、何よりの証拠」だと、厳しく批判した。


なぜなら、「作者の意図」を「唯一の正解」だとするような「考察」という行為も、無論「浅薄な権威主義的ゲーム」にすぎないのだが、三宅香帆の「ほとんど何でもありの批評」というのも、「批評」の名に値しないものだからである。

というのも、批評家による「解釈」とは、「面白ければ良い(ウケれば良い)」というものではなく、限りなく「唯一の真相としか思えないもの」としての「唯一の真相」でなければならないからだ。

無論、作品なども含む批評対象の「解釈」は、原理的には、無限にある。

だが、「解釈」にもピンからキリまであるというだけではなく、ある事物の解釈が語られる際に、その語り手である批評家自身が「これが真相である」と心底そう思え、それを聞かされた読者が「まさにそれこそ真相だ」と思えるようなものでなければ、それは、そもそも「解釈」の名には値せず、例の「理屈なら、何とでもつけられる」という類いの、「解釈の頽落形態」にすぎないからである。
そんなもので満足できるのなら、その者は「批評家」の名には値しない。

だから私は、三宅香帆の「ウケれば勝ち」の批評を、資本主義経済的に「頽落した批評」だと批判するのである。


『「あんたこれ、こっから(※ 今回の鳥浜さんの件については)関わらんときね」
「でもこれは(※ 事件の)依頼だよ。僕に助けを求めてる人がいる」
「いん(※ いない)よ。あんたのそばには誰も(※ 助けを求めた人なんて)いん。(※ 謎の短歌の中の言葉である)《刑務所》(※ に)関係ある人誰もいんが(※ いないじゃないか)」
「だから《刑務所》に関係ある話じゃないよ。(※ その短歌に出てくる)《独房》も《首吊り》も《看守》も本当の《独房》とか《首吊り》とか《看守》じゃない(※ 短歌的な比喩なんだよ)」
「ほやけどそういうのに近い何かなんやろ?危ないって」
「でも困ってる人がいるんだ。僕に助けを求めてる人がいる」
「ほやで‥‥‥それは知らん人やが。放っておけば?」
「そういうわけにもいかないよ」
「ほやったらあんた困ってる人誰でも助けに行くん?アフリカでご飯困ってる人全員にご飯あげに行くか?」
「アフリカ以外にも飢餓はたくさん起こってるしご飯に困ってる人は日本中にいる‥‥‥けど、行かないよ。そうだね。そういうふうにはやらない」
「ほしたら‥‥‥」
「それは手に余るということもあるけど、そもそもその問題に対応している人は他にいるし、その解決を任せるべき人が他にいる。でも短歌探偵は僕一人だよ。僕しか多分いないんだ」
「ほんなんわからんが」
「そうかもしれない。他にもいるかもね。でも現実問題僕のところにその短歌は来たんだ。(※ だから、これまでもそうして、苦しんでいた)枕子さんを見つけ、(※ その娘である、君)千早くんを見つけただろ?短歌が来たとき、必ず誰かが僕を求めてるんだ」
「でも今回は違うんでない?(※ 苦しんでいるのは、これまではそうだったような)私ら家族でないよきっと。(※ クラスメートの)鳥浜さんから来たんやもん。鳥浜さんの周りの人やろ」
「僕もそう思う」
「ほんなら(※ 見)知らん人やが」
「でも鳥浜さんの知り合いかも」
「鳥浜さんはあんたの友達でないやろ?」
「‥‥‥」
「あ~‥‥‥ごめんな。おんなじクラスの子ではあるもんな。でもあんた、アフリカの子助けるのは無理でも、顔知ってるだけの子なら助けていけるか?ほんまに?これからずっと?」
 アフリカは遠い。飢餓に苦しむ人は多い。ご飯を配り切ることはできない。お腹はまたすぐに空く。ずっとずっと配ることもできない。でも目の前の人は助けられるじゃないか、と思うけど、僕の目の前に現れる人だって多いし、さらに増えていくもんじゃないか?
「‥‥‥」
 答えられない僕に千早が言う。
「断っておけば?仕事なら断れるやろ?ほれに、どっかで断らなあかんことも出てくるんでない?」
 そうかもしれない。「‥‥‥依頼が人相手なら、それも可能だと思う」けど‥‥‥の先を制するように千早が言う。
「それなら可能って、あんた、人相手ならごめんって言うて断らなあかんけど、これ(※今回の場合)は違うんやで(※ 違うんだから)ただ無視するだけでいいんやで?」
「でもそうすると、僕が短歌を裏切ったような気が、するんだ」
「はあ?短歌なんてただの言葉の羅列やろ?」
「違うよ。ただの言葉の羅列はこんな不思議な現れ方をしない」
「あんたは短歌の神様みたいなもんを信じてて、ほんで、そいつを裏切られんってことやろ?」
「そいつって。‥‥‥まあ、そういうことかもしれない」
「でもその神様、あんたに何してくれる?」「え?」。僕に?「‥‥‥僕を使って‥‥‥」
「うん。あんたを使ってうち(※ 私)のこと良うしてくれたやん?それはわかってるよ。私のことも何つうか、見守ってくれるやんかその神様、あんたを使って。ありがたいよ?でもその神様はあんたに何をしてくれるんやって訊いてんの」
 僕は《ミソヒト》。《三十一文字の使い》。
 その神様は僕を《短歌探偵》にしたんだ。
「僕には何もしてくれないよ、確かに。でも僕を使って、他の人にいいことをもたらしていて、僕はそれを喜んでるから、つまり僕も喜びを受け取ってる」』(P206〜209)


一一これはまさに、「批評家」の思い、そのままであろう。

それが自分の使命だからこそ、それを言わずにはいられない、書かずにはいられない。

言い換えれば、批評家とは、それで金儲けをしたり、有名になったりすることが目的で、なる(やる)ようなものではないのだ。

たとえ、「批評家の肩書き」を得た者の多くが、生きんがために書くようになったとしても、批評家になる者の「初心」は、そんなものではなかったはずだ。
そんなものが欲しければ、もっと他の職業を目指したはずなのだ。

だが、批評家というものが、「職業」としては割に合わないものだとしても、しかし「自分にしか語れないことを語り、それが少しでも世の中の役に立つ」のだと思えれば、その割に合わない仕事も、「選ばれた者」の使命と「喜んでやれる」と、そういうことなのではないのか。

そうだからこそ、時に人から怨まれうとまれ、うるさがられてでも、そうした「批評」の言葉を発し続けることが出来るのではないのか。

『 僕は短歌探偵で、言葉を大事にしなくてはならない。
 言葉を味方につけておくことだけが僕に力を与える方法だ。
 僕は言葉を、短歌を、裏切らない。
 だから僕に短歌は届くし、僕のやれる仕事がある。そして僕に短歌は届いたのだ。
 仕事がある。
「僕は子供だけど、僕がやらなきゃいけない仕事があるんだ」』(P212)


批評家とて、同じ人間であり、言いにくいことは言いにくいし、言わずに済ませられればそれに越したことはないという思いにとらわれることだってある。

一一しかし、それでも「これは私にしか発せられない言葉なんだ」と思えば、もうそれは、私が発するしかない。

なぜならば、それは、神が私に遣わした言葉(預言)も同然だからなのだ。
それは、それを授けられた「私が、発しなければならない(意味のない)言葉」だからなのである。

このように、本作で語られている「探偵の仕事」とは、「批評家の仕事」にそっくりなのだ。

チェスタトン『ブラウン神父の童心』の第1話「青い十字架」には、怪盗フランボウが名探偵ヴァランタンに向かって放った、

『「犯人は独創的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎぬのさ」』


という、有名な言葉がある。

しかし、この言葉が有効なのは、探偵が、つまり批評家が、「二流」以下であった場合に限られる。


事実、優れた「批評家」は「クリエイティブ(創造的)」なのだ。
作品の可能性を引き出し、その価値を高めるような批評の言葉が、どうして「創造的ではない」などと言えよう。

そうした意味では、本作の短歌探偵タツヤキノシタは、「短歌解釈による推理」というその特性において、極めて「文芸批評家」的なのである。

だが、そんな批評家の発する言葉は、言うなれば「神託」なのだ。
だからこそ、タツヤは「言葉を大事にしなければならない」と言う。

つまり、「ウケるために」「金儲けのため」に発せられる「歪められた言葉」は、「言葉を冒涜する言葉」なのである。

作者・舞城王太郎が「特異な小説家」であり得るのは、彼には自身が「神託の小説家」であるとの自覚があるからなのだ。

本作もまた例外ではないが、彼の小説に特徴的な「子供を守れ」という思いは、魯迅『狂人日記』における「子供を救え」にも酷似して、さらに切実な「使命感」を帯びたものである。

『 成長途中の小さな子たちを守るために、僕は力を尽くしてみせるのだ。』(P139)

『今回僕が見たのは大人の《汚なさ》なんかじゃなくて《子供の抱く理想》にはそぐわない
《愚かしさ》だったってだけだ。それを隠蔽する必要は、少なくとも僕にはない。』(P237)


小説家であれ、批評家であれ、「言葉を偽らない」という思いのある者には、おのずとこうした「厳しさ」も宿ろう。

一一だが、それだけではない。

『「うん。あの短歌は一見何かおどろおどろしく感じるよ、僕も」
「ほしたら‥‥‥(※ 関わるべきじゃない)」
「でも内容を見てみて?独房の中にいる、おそらく首吊りの夢を見そうな誰かの夢を、その恐怖を、代わりに檻の外にいる看守が受け持とうとしてるっていう情景でしょ?この歌に歌われてるのは。ね?それって厳しさばかりじゃなくて、温かさがあるじゃん絶対に。でしょ?」』(P 210)


『絶対に』とまでは言えないだろう。

だが、短歌は、そして批評の言葉は、『厳しさばかりじゃなくて、温かさがある』ばかりではなく、じつは両者は、表裏一体であり不即不利なものであるはずだ。

そのどちらか一方でしかないものこそ偽物なのだと、舞城王太郎は、本作においてそう語っているのではないだろうか。



(2026年7月21日)

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