▷ 書評:山白朝子『スコッパーの女』(角川書店)
山白朝子の小説を読むのは、これが初めてだ。名前だけは前々から知っていたけれど、評判からすれば、是非とも読まなければならないほどの作家だとは思えなかったためである。
では、それがどうして今回読む気になったのかと言えば、ネットニュースの紹介文で、本書が、次のような建てつけの作品集であることを知ったからだ。
『この本に収録されている作品は、私(※ 山白朝子)が収集した出版関係者の奇妙なエピソードを、小説の形式に書き直したものである。関係者が特定できないよう、様々な箇所に変更や工夫を加えている。中には現在も活躍中の小説家も登場する。もしかしたら、あなたの尊敬する大好きな作家こそ、この本に登場する破滅的な小説家その人かもしれない。』
(P5・本書「前書き」より。※は引用者補足)
つまり、小説的な誇張はあるにしろ、『出版関係者の奇妙なエピソード』を読めるのなら、その部分だけは面白いかも知れないと、そう思ったのだ。
小説としてはあまり期待しておらず、ノンフィクションの部分に期待したのである。

一一だが、そんな期待は裏切られた。
上に一部引用した「前書き」を書いているのは、作者その人ではなく、「作中の語り手である作家の山白朝子」だったのだ。
だから、そこで語られる、『出版関係者の奇妙なエピソード』も、基本的にはフィクションだったのである。
しかしながら、物語の中核をなすエピソードがフィクションではあっても、なにしろ「小説家小説」であることには違いはないのだから、小説家の内面吐露は、多少なりともあった。
それさえ、物語に合わせて誇張されたものだとは言え、どこまでが「実在の著者である山白朝子」の実感で、どこからがストーリーテリング上の誇張かは、読めば比較的にわかりやすく、十分に区別のつくものだったのである。
ちなみに、本書には5篇の短編が収録されており、それは、語り手の山白朝子が「他の作家から聞かされた、あまり公には出来ないエピソード」という体裁の連作であり、個々に内容的なつながりはない。
ホラーやミステリを中心とした文芸誌『怪と幽』に連載された作品らしく、超常的な現象と合理的な説明の中間をいくような、「ホラーミステリ」とでも呼ぶべき作品集となっている。
さて、私はここまで、山白朝子という作家の「正体」については触れなかったが、これはすでに公にされているとおり、小説家・乙一の、別名義の一つだ。
山白朝子の小説を読んだことはなかったが、乙一の作品なら読んだことがあるし、ご本人にサインをもらったこともある。
私が昔、乙一の本を読んだのは、彼のデビューからほんの数年後で、「新本格ミステリ」ブーム初期の頃だ。
乙一が、今で言う「ラノベ(ライトノベル)」、当時ならたぶん「ジュブナイル小説」と呼ばれた小説ジャンルの公募賞に応募して、大賞ではなかったけれども、次点的な賞をとったその作品が、作家デビュー作となる『夏と花火と私の死体』だった。

同作は、「叙述トリック」を使った作品であり、また執筆当時、乙一がまだ十代半ばだったということもあって、デビューから数年後に、乙一の最大のヒット作で、本格ミステリ大賞の受賞作ともなる『GOTHリストカット事件』が刊行される直前ごろに、前記デビュー作品である『夏と花火と私の死体』が、新本格ミステリの綾辻行人やその妻である小野不由美、あるいは山口雅也などによって絶賛され、それで、乙一という気鋭の作家の存在が、私の視野にも入ってきた。
それまでは、ラノベ作家として文庫本ばかりを刊行していた乙一だったが、この『GOTH リストカット事件』は、初めて若者向けに限定しないハードカバー作品として刊行することになったため、「新本格ミステリ」ブームの最中のこと、綾辻行人や小野不由美らが絶賛するかたちになったのではなかったか。
また、そうしたことから私もこの若手作家に注目して、件の『GOTH リストカット事件』を読み、(今ではすっかり内容を忘れてしまったが)とにかくこれが、とてもよく出来た作品だったので、他の作品も5、6冊は贖い、そのうちの2、3冊を読んだはずだ。
買ったのは、『GOTH リストカット事件』のほかに、デビュー作の『夏と花火と私の死体』、『きみにしか聞こえない CALLING YOU』、『さみしさの周波数』、『失はれる物語』、『ZOO』といったところで、『夏と花火と私の死体』は間違いなく読んでおり、『きみにしか聞こえない CALLING YOU』と『さみしさの周波数』は、たぶん読んでいる。
他のものは、積読の山に埋もれされて読んでいないはずだ。
したがって、乙一初期の作品を4冊くらいは読んでいるのである。
で、乙一に興味を失ってだいぶ経ってから、(先般休肝の報じられた)『ダ・ヴィンチ』誌か何かで「手だれの覆面作家・山白朝子がデビュー」と紹介されていたのを知り、それからさほど間をおかずに、山白朝子の正体は「乙一らしい」という情報が伝わってきたのだと記憶する。
だから、乙一が別名義で書いたものなら、今さら読む必要はないとは思ったものの、なぜわざわざ別名義で書きはじめたのか、その意図するところには、多少の興味はあった。
だから今回は、「小説家小説」らしいということで、山白朝子を「読んでみるか」という気になったのである。
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さて、肝心の本作品の出来だが、忌憚なく言えば、「まずまず」の出来といったところ。
特別良くもなければ、どうしようもなくつまらないということもない、「手堅くまとめた作品」という感じである。
収録作品は、次の5篇。
(1)終焉を告げる小説家
(2)小説講師の憂鬱
(3)シンクロニシティ
(4)青軸卿
(5)スコッパーの女
内容を紹介すると、こうだ。
(1)の「終焉を告げる小説」は、小説作品だけではなく、あらゆるものの「深さ」が視覚的に見えてしまう超能力を持った小説家の話。
個別小説のあらゆる要素の浅深が、視覚的に見えてしまうだけではなく、あらゆるもの、例えば、個人や個物の存在そのものの深さが見えてしまい、まもなく死ぬ人、失われる物は、存在そのものな深さを失いかけているように見えてしまうといった能力で、この能力が物語を駆動する。
まあ、そっちはありがちな超能力ホラーであって、特にどうってことはない。
だが、この作品によって、本作品集で語られる「作家をめぐる奇妙なエピソード」とは、基本フィクションだというのがわかってしまうのだ。
(2)の「小説講師の憂鬱」は、小説家養成スクールの講師をやっている、盛りを遠にすぎた老作家の「小説観」が語られて、それがリアルなものであったため、とても興味深く読むことができた.
一一その部分を紹介しよう。
(A)
『 小説の器…….。
それは人間にとっての肉体のようなものです。
(※ 小説作法の)様々な方法論を紹介し、世に出まわっているテキストを参考にしながら、理想の物語構成、理想のキャラクター創作術について私たち小説講師は説明することができます。
しかし方法論というものは、小説の器の設計方法でしかないのです。そこに込める魂の方は、なかなか説明ができない領域でした。作者の人生や経験に由来する部分が多いため、学問として体系化しづらいのです。講義で私にできることは、作品のテーマ選びに関するアドバイスだけでした。自分の実人生に関わりの深いテーマを内包している場合、作者の魂が作品の中に入り込み、それが小説を輝かせる助けになるのです。
方法論に懐疑的な作家、編集者、読書家がいます。彼らは小説という存在に触れる時、主に魂の部分に注目し、その輝きこそを愛しているのでしょう。いかに器(※ 外形)が歪んでいようと、魂に独自の輝きがあったなら、それを作家性として好ましく感じるものです。』(P57〜58)
私は、この作中作家の言う「方法論に懐疑的な読者」の一人だ。つまり、テクニックで書く作家には、あまり興味が無い。
無論、テクニックがあるに越したことはないけれども、やっぱり『魂に独自の輝き』の無いような作品を読みたいとは思わないのだ。
(B)
『 私が小説を書けなくなったのは、なぜでしょう。きっと、最初の数年間で書いたものが評価され、満足してしまったせいです。
社会に認められたい、何者かになりたい、そのような飢餓が作家になる前の自分にはありました。怒りにも似た熱が体の内側に存在したのです。家族の不和、社会に適合できない自分、様々な悩みが溶岩となって私という人間を形成していました。自分を認めてくれない社会をぶち壊したくてたまらなかった。そういう心のどろどろをエネルギーに小説を書いていました。
初期に発表した私の作品には、どれも胸に迫る息苦しさのようなものがありました。社会で潰されそうになりながら懸命に生きる主人公たちの姿に読者は感動したことでしょう。それは当時の自分に本物の苦しみがあったせいです。しかし、後年に発表した自分の作品から熱量は失われていました……。
私の本が賞にノミネートされ、世間に認められて大金が入ってくると、それでもう私はやり遂げた気持ちになったのです。世間は私を成功者とみなし、大勢の女性から誘いを受けました。私は小説を書かなくなり、遊びほうけてしまったのです。
これではいけないと、しばらく経って思い出したように書こうとしましたが、もう以前のようには執筆できませんでした。社会への憎しみ、孤独、そういう心の飢餓状態がすっかり消え失せ、私という作家は空っぽになっていたのです。』(P61〜62)
つまりこの作中作家は、作家にとって大切な『魂に独自の輝き』としての「ハングリー精神」を、その初期の成功によって消尽してしまった。
だから、そのあとはテクニックで書いてきただけであり、小説家養成スクールで教えているのも、教えられるのも、そうしたテクニックだけだと語るのである。
そして、そんな彼が、稀有な『魂に独自の輝き』を持つ作家志望者と出会ったがために、犯罪を犯してしまうことになる。
(3)の「シンクロニシティ」は、完全に独自に作り上げた小説作中の登場人物と、名前から性格や生活環境などまでが、たまたま完全に一致した実在の人物がいたために起こった悲劇を、サイコホラーとして描いた作品で、これも完全に作り物のエピソードだ。
(4)の「青軸卿」は、青軸系と呼ばれるキーボードを使う小説家に関する奇譚である。
文章を打つためのキーボードには、現実に、青軸系だとか赤軸系だとかいうのがあるようで、それぞれに個性があり、熱心な愛好者もいるようだ。
本作で、作中の山白朝子に対して自分語りをするのが、「青軸卿」とあだ名される老作家。元は「青軸狂」と呼ばれていたのだが、出版業界的に「狂」という語の使用が、ある時から避けられるようになった結果、「青軸卿」と呼ばれるようになった人である。
で、この「青軸卿」は、そう呼ばれるほどの、青軸系キーボードの愛好家なのだが、この作品のユニークなところは、この青軸卿のキーボードの打突音が、山に反響(こだま)し、海峡を渡るほど「どデカい」という点である。
無論、そんなことは現実にはあり得ないのだが、それがあり得る「ちょっと妙な世界」を描いているところが面白い。
特にオチというほどのオチはないのだが、この作品が描いているのは、小説家が小説を調子よく執筆する上で大切なのは、心や身体の状態ばかりではなく、執筆道具の使用感のようなことも小さくないのだ、というようなことのようだ。
つまり、キーボードの合う合わないで、作品の質まで違ってきてしまう、そんな作家の繊細な感受性の問題を、大いに誇張した物語として描いた「作家小説」なのである。
(5)の「スコッパーの女」の「スコッパー」とは、新人作家発掘を趣味とする人のことだ。「スコップで発掘してくる人」というほどの意味で、こうした人は実在するのである。
本作「スコッパーの女」では、「共感覚」を持つスコッパーの女性が、その能力のゆえに、狂気の世界に囚われていく姿を描いたもので、まあ、表題作のわりには、ありがちな話だと言えるだろう。
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さて、そんなわけで、以上5篇の紹介からもおわかりいただけるとおり、私の興味は「現実の作家」にあって、誇張された「フィクションの作家」の物語にはない。
だから、(2)の「小説講師の憂鬱」については、小説家についての「リアル」な部分を引用紹介したのである。
で、(2)の「小説講師の憂鬱」において、『魂に独自の輝き』こそが作家の命だとまで、作中作家に語らせておきながら、しかしこの作品集自体は、そのタイプの小説でもなければ、それを目指した気配すらない、極めてテクニカルに作られた作品である、という事実が、むしろ私には興味ぶかい。
そうした「矛盾とも見える特性」をもつ本作品集を読んで、私が考えたこととは何か?
それは、乙一という作家は、小説家にとって最も大切なものが「魂のもつ独自の輝き」であることを重々理解していながら、しかし、自分にはそれが無いことも承知しており、そんな自分の限界を受け入れた上で、自分に書ける最良の作品を、テクニカルに淡々と書いている、そんな作家なのではないか、ということであった。
つまり、自分に「魂のもつ独自の輝き」的な「特別なものがない」からといって、作中作家たちのように無駄に悲嘆にくれることもないし、逆に、意地になって「小説って、結局は面白ければいいんだから、そんな芸術家主義みたいな考えは間違っている。作家は、その技巧によって、質の高い商品を生み出せばそれでいいんだよ」などといった見苦しい自己正当化などもしない、きわめて醒めて謙虚な知性の持ち主なのではないか、というようなことだ。
小説家なんて、多少なりとも馬鹿かキチガイじゃないかってくらいの方がむしろ良いものを書くのだが、乙一の場合は、良くも悪くも、すべてを冷静に見通してしまっている人なんじゃないか。一一そんな印象なのだ。
乙一のWikipediaには、次のようなエピソードが紹介されている。
『妻の押井友絵は乙一の制作への姿勢について「小説にも映画にも執着してないんじゃないか」といい、本人も「作品が形になっていくのがとにかく楽しくてやっている感じ」だと述べている。』
(Wikipedia「乙一」)
妻のこの言葉が証言しているのは、乙一という人は、小説家としては、良くも悪くも、頭が良すぎ、目が見えすぎた人であり、しかも謙虚に身の程を知りすぎている、ということなのではないだろうか。
作中の山白朝子は、スランプだとしきりにその悩みを訴えるのだが、現実の乙一は、けっこうな著作数の持ち主であり、ある時期からパッタリ書けなくなったというタイプではなさそうだ。
無論、彼にもスランプはあっただろう。だが、彼が作中の作家たちのように、完全に書けなくなったり、書くのが苦痛でならなくなったりしてしまわないのは、良くも悪くも、自分には無いものを無駄に追い求めたりしない明晰さがあり、だからこそ自分の「器」に合った、自分なりの創作を楽しく続けられている、というようなことなのではないだろうか。
(2026年6月2日)
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