三浦しをん 『夜の恩寵』:「夜の恩寵」とは何か。

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▷ 書評:三浦しをん『夜の恩寵』(集英社)


先日ひさしぶりに、三浦しをんが著者として名を連ねる本を読んでみたら、これが私の逆鱗に触れて、これでもかというくらいぶっ叩いてしまった。
英米文学の翻訳家で人気エッセイストでもある岸本佐知子、作家・装丁家「クラフト・エヴィング商會」として知られる吉田篤弘・吉田浩美夫妻との4人による座談会本『『罪と罰』を読まない』である。


まあ、プロも含めて、文章をまともに「読めない読者」たちによる太鼓持ち書評か、さもなければ主観だけの悪口しか読む機会のない作家たちには、一生のうちにそう何度も目にすることの出来ないような、一晩や二晩は眠れなくなって当然の、そんな峻烈な批判レビューになってしまったのだが、もとよりそのつもりで書いたものなのだから、私はそのことを、反省しているわけでも後悔しているのでもない。

私はこれまでにも何度か、

「私の批判文を読んでその相手が自殺したとしても、それは仕方のないことだと思って書いている。それだけの根拠を示した上で、必要な批判をしているだけだからだ」

という趣旨のことを書いてきた。

基本的には、その批判が当たっているからこそ傷つき、それで本人が自殺するのなら、それは本人の責任でしかないという認識だ。
そもそも、正当な批判に耐えられないような人間は、意見を公にするべきではないのである。


一一と、そんな具合に考えていたところに、三浦しをんの単著の新刊が刊行されたと知った。それが本書『夜の恩寵』である。


そこで「まあ、小説家が小説以外のことで批判されたのでは、納得しきれない部分もあろうから、小説の方も読んであげようか。出来さえ良ければ、それはそれこれはこれで、きちんと褒めもするのだから」と、そんなことを考えて、本書を読むことにしたのである。

またそれだけではなく、本書のテーマが「カリスマ」だというのを知ったというのも大きい。

「三浦しをん自身が、ある種のカリスマなんだから、このテーマをどう扱うかで、三浦が考えていることも、おのずとある程度はわかるはずだ」と、そうも考えたからだ。

本書が、「白・三浦しをん」の、いわゆる「いい話」系の作品だったら、決して読む気にはならなかっただろう、ということである。

 ○ ○ ○

さて、本書『夜の恩寵』には、5つの短編を収められている。
その内容は、おおよそ次のようなものだ。

『夢のなかで生まれたものは、夢のなかに還っていく。

「カリスマ」をテーマに描き出される五つの物語。

故郷の父親からの電話で三年ぶりに帰った俺を待っていたのは、相変わらず若々しい継母の姿だったが――(「神馬に乗る女」)。他、夢見の力(予知夢)がある祖母をもつ未千が、二十一歳の誕生日に高熱に浮かされて以降、それまで見ることのなかった夢を見るようになる「胡蝶」や、「夢見る家族」「金の糸」「夢の子ども」の全五篇が奏でる、夢をめぐる妖しくも美しい不思議な物語。

その問いに答えてはいけない。決して。

夢か、うつつか。それとも――。』

集英社の本書紹介ページより)



まず、最初の短編「神馬に乗る女」を読み終えて感じたのは、「これのどこが、カリスマをテーマとした作品だと言うんだ?」ということだった。

たしかに、語り手の男性の義母は、年齢不相応に若いというだけではなく、ヌチガミ様という神霊の類いがとり憑き、その力で託宣をなすという憑座能力のある女性で、その力のゆえに、信者的な人たちからの尊崇を集めているというのだから、その意味では「カリスマ性」がある人物(カリスマ)だと呼ぶことも出来るだろう。一一だが、それだけのことだ。

つまり、ここで当たり前に心得ておくべき重要なポイントは、「カリスマ性のある人物を描く」ことと、「カリスマということをテーマにした小説」とは、まったく別物だ、という点なのである。

そもそも、娯楽作品の主人公というのは、たいがいは何らかのカリスマ性をもっているものだが、だからと言って、その作品のテーマが「カリスマ」だとは言わない(評さない、評し得ない)。
例えば、「ヒーロー」小説や映画などの作品を、「カリスマをテーマとした作品」だなどとは言わないだろう。

そして、このような「常識的な分類認識」において、「神馬に乗る女」は、とうてい「カリスマをテーマとした作品」と呼べるような内容のものではなかったのだ。

では、どんな作品だったのかと言えば、それは「私秘的に隠し持った思いを、暴露されることへの恐怖」を描いた作品、ということになろう。

誰もが多少なりとも抱えている、人には話せない(明かさない)感情なり何なりを、他者に見透かされ、暴露されてしまうことの恐怖。

一一短編とはいえ、「神馬に乗る女」には、そうした感情が、じつに生々しく描かれている。

その「読心能力」とでも呼ぶべき超常的な力の存在という「世界設定」は、所詮、「秘められた欲望の暴露に対する恐怖」を描くための、フィクションとしての道具立ての域を出るものではない。
つまり、「テーマ」と呼べるような、中身のあるものではなく、所詮は「方便的な仮設」にすぎないのだ。

では、次の「胡蝶」はどうであったか?

「神馬に乗る女」の「読心能力」が、「予知夢」能力というものに、ワンクッション置いたかたちでズラされているだけで、本質的なところでは、同種の恐怖を描いた作品であることに大きな違いはないだろう。

予知夢能力があるというのは、本作でも描かれているとおりで、他者からの忌避感情を招くものなのだから、出来ればそんな能力のあることは隠しておきたいということになる。

つまり「私の特殊性(人とは違ったところ)を知られたくない(暴露されたくない)」という心理においては、「神馬に乗る女」と同型の作品だということである。

ところが、次の「夢見る家族」では、少々方向性が違ってくる。

前作に続き、不可思議な「夢見」を扱った作品なのだが、それが、夢を「見る側」と「見られる側」、「現実」と「夢」といった固定的な二者関係ではなく、双方向的に入れ替え可能なものに変えられており、登場人物Aにとっては、登場人物Bは「夢の中の人物」なのだが、登場人物Bにとっては、登場人物Aこそが「夢の中の人物」であるという双方向性と、決定不可能性が与えられるのである。

そして、その結果なにが起こるのかというと、前の2作(「神馬に乗る女」「胡蝶」)のような、「内面を暴かれることの恐怖」というものが、完全に消失してしまう。
そもそも、どちらが暴かれては困る内面なのかが、決定不可能な世界を描いているためである。

そのおかげで、いわゆる「夢のような不思議な世界観」を描いた作品にはなっているのだが、その一方、前の2作のような「生々しさ」が失われてしまっている。

その点で、エンタメ小説としては「面白くなった」とも言えようが、私には、エンタメ作家としての「面白がらせのテクニック」ばかりが鼻につく作品になってしまった、とも感じられたのだ。

四つ目の作品「金の糸」は、本書中では、文字どおり「毛色の変わった作品」だと言えるだろう。
だからと言って、本作が一般的な意味での「変わった(変な)作品」だというのではない。

他の作品が、大雑把に言えば「ホラー味のある幻想小説」なのに対して、本作は、ほとんどBL(ボーイズラブ)小説そのまま、なのである。しかも「多幸感」に満ちた作品なのだ。

本作「金の糸」には、若い男性同士の「恋愛」は描かれていない。
その意味では、青年たちの「青春小説」だと言えないこともないが、やはりそのノリは、作者のBL趣味がほとんどストレートに表現されおり、女性から見た「理想的な男性同士の友情」が描かれているという点において、やはり本質的にはBL小説なのである。

ただし、前の作品との、登場人物の微妙なつながりが「つけられて」はいて、その点において「だけ」、まったく無関係な(独立した)作品ではない、という「体裁」が与えられている。
言い換えれば、登場人物の名前さえ変えてしまえば、それだけで他とは完全に無縁な作品になってしまう程度の、内容的には独立した「異質な作品」なのである。

さて、いよいよ最後の「夢の子供」だが、本作には、最初の「神馬に乗る女」の登場人物たちが再登場し、全5作を不連続的に貫く、捻れた関連性を示すとともに、本冊全体を、ウロボロスの蛇的な「円環」構造の中に閉じる作品となっている。

つまり、本書に収められた5作品は、「夢」がそうであるように、完全にピッタリとは重ならない「ズレ」を含みつつ、「不可視な底の部分でつながっている」といった体の、不思議な余韻を残す、連作短編集に仕上げられているのだ。

だが、私には、この大枠組の作りは、いかにも「後付け」くさい、という印象の拭えないものだった

なぜなら、最初の2作にはあった「秘めたる内面性(心)を暴かれる恐怖」というものが、3作目からは、きれいに拭い去られて、「胡蝶の夢」的な、ある意味では「幻想小説の定番」、いささか手垢にまみれたお馴染みの形式へとズラされており、体良く誤魔化されてしまった、という印象だったからである。

さて、ここまでの内容紹介を見て貰えばお分かりのとおり、本書に「カリスマ」というテーマなど、どこにも存在していない。

一一それなのになぜ、本書のテーマは「カリスマ」だとされるのか?

じつのところその根拠は、そう評した「読者」の「作品の読み」にあるのではなく、作者側・出版社側の「恣意的な意向」にしかないのだ。

作品の中には「カリスマ」という言葉すら出てこないのに、しかし、出版社の公式紹介ページには、

「カリスマ」をテーマに描き出される五つの物語。


と、そう断定的に書かれている。

だから、プロの書評家も含めた多くの読者は、「本書のテーマは、カリスマなんだな」と、そう単純に思い込んだだけなのだ。

「出版社が、ここまで明確に言い切るのだから、きっと作者がそのように言ったのだろう。『この本のテーマは、カリスマです』と」一一と、そんな具合に考えたのである。なんとまあ、無邪気なことか。

ところが、作者なり製作者なりが「この作品のテーマは、○ ○ です」と言ったから、その作品のテーマが、そうだということにはならない。
作り手の意図が、そのまま作品に反映されるのなら、作家は誰も苦労しないのである。

例えば、作家が「この作品のテーマは、愛です(そのつもりで作りました)」と主張したところで、作品がそうしたものに仕上がっている保証など、どこにもない。

「主人公の独善的な正義とやらを描いたこの作品の、どこが愛なんだよ?」などと批判されるようなこと(言うほどのものが描けていないという事態)は、当たり前に起こるし、よくある話なのだ。

つまり、「作者の意図」と「作品の実際」は、しばしば別物なのだ。

だから、「作品批評」を行う場合、私たちは「作品そのもの」を見て、それを評価しなければならない。
作者が「本作は、奇蹟的な傑作です」と断言したとしても、その作品が傑作である保証など、どこにもない。

私たちは「作者の思い(主観的主張)」を鵜呑みにするのではなく、ストイックなまでに作品そのものを見て、作品を評価しなければならないのだ。

ところが、前述のとおり、プロも含めて「読めない読者」というのは、著者の権威を鵜呑みにすることで、それに依り頼みがちだから、「作者がそう言うのだから、そういう作品なのだろう」とか、「公式がそういう作品だと言うからには、そういう作品なのだ」などと、安直に思い込んでしまう。

だが、本書こそが、まさにそういう「レッテルと中身に齟齬のある」作品の典型なのだ。

私が、確認した範囲では、本書のテーマが「カリスマ」だと断じたのは、前記の出版社の公式ページと、その紹介文をそのまま転載したAmazonなどの紹介サイトの紹介文、そして、本書末尾の「初出紹介」ページにおける。

各編のテーマは「カリスマ」。


という「奇妙な断言」だけである。


それ以外で、本書のテーマを「カリスマ」だと紹介した文章もまた、すべて、こうした作者・出版社サイドの「公式見解」をそのまま鵜呑みにしたものだと考えて良いだろう。

したがって、本書に関して「テーマは、カリスマ」だなどと、何の躊躇もなく「書き写している」ような記事の著者は、プロであろうとアマチュアであろうと、頭が空っぽなんだと、そう考えてかまわないのである。

一一しかし、それにしても、本書の「初出紹介」ページにおける、

『各編のテーマは「カリスマ」。』


などという「断言」あるいは「決めつけ」とは、いかにも「異様なもの」ではないだろうか?

あまり本を読まない人なら気づかなくても当然だが(これは皮肉である)、こんな注釈を、出版社サイドが付けることなど、普通なら、まずあり得ない。

なぜなら、作品を「どう読むか」は、読者個々の専権事項であって、作者や出版社に「これはこういう作品なのだ(だから、そう読まない読者は誤読している)」などと、決めつける権限などないからである。

つまり、「分」を知った作者や出版社ならば、こんな厚かましいことを、わざわざ書いたりはしない。
こういう無駄に越権的な「決めつけ」の言葉を、わざわざ「初出紹介」ページなどに、こっそりと書き込んだりはしないのである。

では、なぜ出版社(編集部)側は、わざわざこのような「異例の措置」を採ったのかといえば、それはほぼ間違いなく、著者である作家から、そのように記載してくれと指示を受けたからであろう。
編集部が、独断で、こんなことするとは考えにくいのである。

例えば、これらの作品が、初出誌の「カリスマ特集号」に書かれた作品だったから、というのも、100パーセントあり得ない、とまでは言わない。
だが、そんな特集を始終組んでるような文芸誌は、かなり狂っていよう。

また、仮に「カリスマ特集号」に書かれた作品だとしても、「カリスマ」というテーマに対する切り口はいろいろとあり、むしろその作家独自の切り口こそが「その作家固有のテーマ」なのだから、そうした作品を集めた作品集に、わざわざ、『各編のテーマは「カリスマ」。』だなどと「蛇足」したりもしないのではないか。

では、なぜ作者・三浦しをんは、本書の場合に限って、こんな「おかしなこと」をしたのだろうか?

どうして「本書のテーマは、カリスマです」などという、ベテラン作家にはまったく似合わない、いかにも素人くさく、ある意味では間抜けと呼んでもいいようなことを、わざわざしたのであろうか?

くり返すが、みずからの小説本に『各編のテーマは「カリスマ」。』だなどという「異様な注釈」を、わざわざ書き込むことなど、普通はしないのだ。
一一本書の他に、そんな注釈の加えられた本を見たことのある人が、一体どれだけいるか、すこし立ち止まって考えていただきたい。

そんなわけで、本書の「初出紹介」ページに、上のような「異様な注釈」が書き込まれたのは、著者から直々に「そのようにしてくれ」という指示が編集部にあったためだという蓋然性が高い。
「先生(作者)が、わざわざそう言うのなら、そうしておきましょう、お易い御用です」というわけである。

一一それ以外に、まともに考慮しうる理由など存在するだろうか?

つまり私は、この「異様な注釈」は、作者である三浦しをんの指示によって、わざわざ書き込まれたものだと考えている。

では、なぜ三浦しをんは、そんな「野暮なこと」を、あえてしたのだろうか?

わざわざ「この作品のテーマは、カリスマです」と書いておかないと、誰もそのようには読んでくれないような作品を書いてしまったと、みずからそう認めるも同然のことを、なぜしたのだろうか?

三浦しをんは、それほどまでに、自身の作家的力量に自信のない人だったのだろうか?

だが、到底そのようには考えにくい。

事実として三浦しをんは「売れっ子」なんだし、その作家的な実力が広く認められているからこそ、「日本文藝家協会」の会長に選出されもしたのではないのか?(2026年6月)


そしてさらに言うなら、最初に紹介した座談会本『『罪と罰』を読まない』において、ドストエフスキー『罪と罰』における小説作法について、自身の創作論の観点から、あれこれ嘴を挟むなんてことだって、よほどの自信がなければ、おこがましくて出来なかったはずだ。

つまり、三浦しをんは、自身の作家的力量に、相応相当の自負を持った小説家なのである。
そして、そうした自負を持つことは、三浦しをんの場合、決して間違い(思い上がりの勘違い)ではないのだ。

しかし、それならばなぜ、三浦しをんは、わざわざ編集部を介して、本書のテーマが「カリスマ」だなどという「野暮なこと」を書き込ませたのか?

前述のとおり、自作に、そう読ませるほどの自信がなかったから、というのは「あり得ない」。

だとしたら、「本書のテーマは、カリスマである」という、この殊更な「宣言」は、なぜ、なされたのか?

その最も有力的な解答とは、
一一「そうは読まれたくないことを、うっかり書いてしまったため」である。

そのために、その「目眩し」として、「偽のテーマ」を読者に示して、そちらへ「誤導しようとした」ということなのではないだろうか。
つまり、読者の「読み」を、恣意的にコントロールしようと、あのようなことを、編集部に書かせたのではないか。

では、三浦しをんが「どうしても隠したかったこと」とは、いったい何なのか?

一一それは、本作品集の最初の2編「神馬に乗る女」と「胡蝶」に描かれてしまった、「自身の内面を知られたくない(悟られたくない)という恐れ」の感情である。

つまり、三浦しをんという作家には、「白しをん」「黒しをん」とでも呼ぶべき、わかりやすい「二面性」があるのだ。
だからそこに不安定さが生じる。

一一しかしながら、それ自体は、何も悪いことではない。
人間誰しも、多かれ少なされそうした二面性を抱えているものだし、矛盾葛藤を引き起こす、そうした「複雑さ」を持たないような単細胞な人間など、そもそも作家には向かない、とさえ言えよう。

だから、「二面性」はあっていいし、「心の中にドス黒い何かを抱えて」いて「矛盾葛藤」していてもかまわない。
それが、作品に昇華されるのであれば、むしろそれは、作家にとって「必要な資質」でさえあるのだ。

一一だがそれは、「読者側の理屈(都合)」でしかない。

「死ぬほどの苦しみを抱えていても、それが作品に結実するのなら、それは大いに結構なことだ」というのは、悩みの当事者ではないからこそ言えることで、そうした悩みの当事者であれば、「こんなに悩み続けなければならないくらいなら、小説なんか書けないノーテンキな人間になった方が幸せだ。ああ、馬鹿がうらやましい!」と、そう考える人だって、当然いるだろう。

芥川龍之介川端康成三島由紀夫の話ではないが、彼らも「作家」でさえなかったら、死なずに済んだのかもしれないのだ。

しかしながら、だからといって「死ぬくらいなら、作家を辞めてしまおう」と思い切れる人も、そうはいない。

まったく売れていない作家ならばともかく、一度は売れっ子にもなり、世間からも「先生、先生」とチヤホヤされ、また、それで生計を立ててきた人が、いきなり「作家を辞めて、一般人になります」というわけには、普通はいかないのである。

だから、三浦しをんが、自身の内面をあまりにも正直に書いた作品を公表してしまったとしたら、どうするだろうか?

その作品を「封印する」という手もあるだろう。
だが、売れっ子だからこそ、封印作品になどしてしまうと、悪目立ちして逆効果になる恐れがある。

ミステリ作家・法月綸太郎の「封印作品」、つまり、長らく「単行本未収録」にしている作品について、私はその中身を紹介して、それが「やましい作品」だからそうしているのだと、何度か指摘したことがあるのだが、そのような目に遭わされる(晒しものにされる)恐れは、売れっ子ならばこそ無視しがたく存在するのだ。


では、作品を封印しないで、読者の目を逸らすには、どうすれば良いか?

一一それは、読者が本来読み取るべき「内容」の上に、「別のレッテル」を貼りつけることで、それを「覆い隠してしまう」ことなのではないだろうか。

これは、心理ミステリなどでは、よくある「トリック」なのだ。


つまり、三浦しをんは、最初の2短編「神馬に乗る女」と「胡蝶」において、みずからの赤裸々な内面性を描いてしまったことを後悔して、3作目以降は軌道修正をした。だから、作品のトーンが微妙に変わったのだ。
「隠したい内面性」の問題が、「私秘的な夢」の問題へとずらされて、最後は「夢の円環」の中へ封じてしまった。

だが、そこまでしても、やっぱり現に書いて公表してしまったものなのだから、そこから作者の「真の思いを読み取られてしまうという恐れ」は、拭いきれなかった。

だから、隠蔽工作のダメ押しとして、わざわざ、

『各編のテーマは「カリスマ」。』


なんてことを、編集部に指示して書かせたのではないだろうか。

そう「明記」しておけば、大半の読者は「この作品のテーマは、カリスマである」などと、知ったかぶりの鸚鵡返しをくり返すことを、三浦しをんは、それまでの「経験」から、よく知っていたのである。

言い換えれば、読者の大半は、自分の力で作品を読むほどの、頭も目も持っていないという事実を、三浦しをんは知っていたのだ。
だから、作者や出版社が「こうだ」と明記してやれば、そのとおりに信じ込むことをも承知していたのである。

まして、三浦しをんは実力も実績もある「カリスマ作家」なのだから、その言葉は、信者には「絶対」なのである。

「教祖」三浦しをん自身、そのことを重々心得ていたのだ。

したがって、本書のテーマが「カリスマ」だというのは嘘(目眩し)であり、本書では「作者のカリスマ性が、読者に対してどれほどの影響力(威力)を持つものなのか」一一それを試してみた、というのが「本書」だったのだと、そう理解すべきなのである。

つまり、「本書のテーマは、カリスマである」などと本書を紹介している者は、プロアマを問わず、権威主義的な盲信者でしかない、ということであり、それは、私から軽蔑されるだけではなく、他でもない、作者である三浦しをんからも軽蔑されている、ということをも意味するのだ。

結局のところ三浦しをんは、自身の中にある、そうした「黒いもの(=他人をコントロールしようとする欲望)」が我慢ならなかったのだ。
自身の読者さえ「心の中では嘲ってしまう」、そんな、毒のある自分。

だが、三浦しをん自身が望んだのは、そういう自分ではなかった。

そうではなく、大好きだったBL小説が描いたような「美しくて切ない世界」に憧れた。

そして自分自身も、そういう世界に生きる明朗な人間でありたかったし、だから、そういう小説も書いた。
一一つまりそれが、「白しをん」の書いた小説であり、例えばそれは、『風が強く吹いてくる』や『舟を編む』といった、世間ウケの良かった作品だったのではないだろうか。

だが、三浦しをん自身は、自分が「それだけ(白いだけ)」の人間ではないことを自覚していたし、だから「黒しをん」的な作品も書いた。
しかし、そちらは、「白しをん」的な作品ほど、世間から歓迎されはしなかった。

つまり、三浦しをんという作家は、三浦しをんという存在をそのまま丸ごとを肯定(評価)されたのではなく、「白い」部分だけを歓迎され、「黒い」部分は無視されてしまったのだ。
一一そのことを、三浦しをん自身、自覚しないではいられなくなかったのである。

だが、自身の「白黒善悪を含めた全体」を評価されなかった三浦しをんは、自分の「黒い」部分を、自分でも容認できなくなり、嫌悪し忌避するようになってしまう。

そして、そうした「心理」が、かなりストレートのかたちで出てしまったのが、本書の最初の2編である「神馬に乗る女」と「胡蝶」だったのだ。

だが、それを書いてしまったあと、「私の黒い部分が見透かされてしまう」と、そう恐れたのではないだろうか。

だから、3作目からは、その方向性を素知らぬ顔でズラしていったし、単行本化にあたっては、『各編のテーマは「カリスマ」。』だという「煙幕」まで張ったのである。

ちなみに、最初の2編は2014年と2015年に発表されており、後の3編は、2023年から翌2024年に発表されたものなのだが、前者と後者の間の「8年もの断絶」は、決して偶然ではないだろう。
つまり、前の2編は「封印作品にしたくても、そうは出来なかった作品」であった蓋然性が、十分にある。

三浦しをん当人としては、本作品集の4作目である「金の糸」のような、「輝ける幸福な世界」に生きる人間でありたかった、ということなのであろう。

だが、そうではあり得ない自分を、嫌というほど知っていたから、つい「筆が滑って書いてしまった真実」を、島崎藤村の『破戒』さながらに、自身に対して「隠せ!」と迫ってしまったのではないか。

しかしそれは、あまりにも「痛ましい」とことである。

私は『『罪と罰』を読まない』のレビューで、三浦しをんが『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフについて「童貞くさい」と評した点について厳しく批判したが、三浦しをんのこうした「過剰な忌避感」とは、たぶん自身の負い目の裏返しなのであろう。だからこそ、言葉が過ぎたのだ。

だが、それは私に言わせれば、そんなふうになってしまう当人が「弱すぎる」ということにしかならない。

私に言わせれば、「童貞」も「変態」も「貧乏」も「無名」も、そして、今日では公認された「オタク」もまた、当人さえ気にしなければ、それ自体は決して「悪いこと」ではないのだ。人に責められるべきことではないのである。


だから、三浦しをんが、何に負い目を感じているのかまではわからないが、それはそんなもの気にするほどことではないのだと、私はそう考える。

またそうした意味で、三浦しをんは、自身に対して「高望み」が過ぎ、かえって自身を苦しめることになっているのだと、そう推察している。

『夜の恩寵』とは、その「闇」の力によって、「汚い部分」を覆い隠し、一見綺麗なものに見せてくれる、「魔力」のことであろう。

だが、それは所詮、偽りの、気休めの、幻想でしかない。
いっとき、それに遊ぶのは良いとしても、それは現実ではない。

かつて三浦しをんが敬愛した小説家・中井英夫は、「幻想文学新人賞」の選評「七いろの翼」で、次のように語ったのを、三浦しをんは思い出すべきであろう。

『幻想文学の書き手にもっとも必要なのは、峻烈な現実凝視の他にはない。』



闇は、汚いものを覆い隠してくれはするだろう。
だが人は、その闇が汚いものを覆い隠していることを知っていればこそ、今度は「闇の中には、きっと汚いものが隠されているはずだ」と、そんな疑心暗鬼に捕らわれるようにもなってしまう。

だから、私としては、人間なんて所詮は「白黒まだらな存在」でしかないのだから、そんな現実を、まずは認めてしまえと、そう言いたい。

縞馬は、白馬に恥じる必要などないのである。


(画・岡上淑子



(2026年7月15日)


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