▷ 映画評:ロルカン・フィネガン監督『ビバリウム』(2019年/アイルランド・デンマーク・ベルギー合作映画)
私の大好きなパターンの作品である。
最近の言葉で言えば、「リミナルスペース」の不気味さを描いた作品だと言えるだろう。

「リミナルスペース」とは、ごくごく大雑把に言えば、「人がいて当然の空間でありながら、人がいない不気味な空間」とでも言えようが、この当たりのニュアンスを噛み砕いて説明しだすと長くなるので、是非とも、ALT236の著書『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』について論じた、次のレビューをご参照していただきたい。
なにしろ、同書の表紙を飾っているのは、本作『ビバリウム』の町並みなのである。

さて、本作は分類するならば「ホラー」に属する映画である。しかし、わかりやすいバケモノの類いが登場するような作品ではない。
たしかに「人間そっくりの、人間ではない存在」が登場しはするのだが、それは、人間以上の「特別な力」を発揮するわけではない。
ただ、人間ではないからこそ、やたらに成長が早い(数ヶ月で成人に育つ。たぶん寿命も短い)とか、当然のことながら何かと人間とは感覚的にズレており、人語こそ話すものの円滑なコミュニケーションがとれず、そこが不気味だ、といった程度のちがいなのである。
では、本作のどこが「怖い」のかといえば、それはすでに書いたとおり、「空間」そのものが怖いのだ。
一見、開発されたばかりの平穏な新興住宅地に見えながら、じつは「普通」ではない。
何が「普通ではない」のかというと、
(1)新しく造成された住宅地だとは言え、まったく同じデザインの家が、延々と並んでいる。
(2)不動産屋の男マーティンと、その車に先導されて自家用車でこの新しい住宅地「ヨンダー」へ物件を見るために訪れた若いカップル(ジェマとトム)の、都合3人以外、町に人影がまったく見えない。あたりは森閑として物音ひとつしない。
(3)「9番」を付された家の中を見学している最中、突然マーティンが姿を消し、やむなくジェマとトムは、勝手に帰ることにするが、車をいくら走らせても、どうしてもヨンダーの町から出ることができない。
堂々巡りの果てに、何度も「9番」の家の前に戻ってしまい、最後はその家の前で、車がガス欠により動かなくなってしまう。
つまり、この「ひと気のない住宅地ヨンダー」から、ジェマとトムのカップルは出られなくなってしまう一一と言うよりも、この住宅地に「捕えられてしまう」のである。
本作の「ストーリー」は、次のようなものだ。
『1組のカップル(ジェマとトム)が家を購入するために不動産屋を訪れていた。店主のマーティンは2人に最近開発されたばかりの宅地、ヨンダーにある家を購入するよう勧めた。マーティンの案内でヨンダーの9番地(※ 正しくは、9番の振られた戸建ての家)にやって来た2人だったが、その不気味さにゾッとさせられた。と言うのも、ヨンダーには住人が1人もおらず(※ 見当たらず)、そこにある住宅も全て同じ設計のものだったのである。帰ろうとした2人だったが、マーティンは車を残したまま忽然と姿を消してしまった(※ 正しくは、マーティンの車も消えていた)。やむなく、2人は自力でヨンダーから帰ろうとするも、どうやっても9番地に戻ってきてしまうのだった。
翌日、2人は思いつく限りの手段を使ってヨンダーからの脱出を図ったが、どれも失敗に終わった。怒り狂ったトムはヨンダー(※ 9番の家)に火を放ち(※ 救難信号の狼煙としようとし、救援の駆けつけるのを待ちながら)、そのまま(※ 表の路上で)眠りに就いた。ところが、翌日には(※ 9番の家は)全てが元通りに再建されていた。愕然とする2人だったが、その目に謎の箱が飛び込んできた(※ どこからともなく現れた)。その箱の中には赤ん坊が入っており、「この子を大人になるまで育て上げたとき、貴方たちは自由の身となります」というメモ書きが付されていた。
その言葉を信じて(※ 嫌々ながら)赤ん坊の世話に励む2人だったが、(※ その)期待は脆くも裏切られるのだった。』
(Wikipedia「ビバリウム」)



くり返すが、本作の魅力は、なんといっても「延々と同じ家並の続くヨンダーの町から出られない」という、まさに悪夢のような状況だ。



上のストーリー紹介にもあるとおり、町から出られないだけではなく、ジェマ(イモージェン・プーツ)とトム(ジェシー・アイゼンバーグ)は、いつの間にか何者かによって、家の前に届けられていた(宅配されていた)、段ボール箱に入れらた赤ん坊を育てなければならなくなる。

つまり、「町から出られない」という葛藤は、わりあい短く(1日で)切り上げられて、その後は、宅配された、その「不気味な子供」との生活における心理的な葛藤が、物語の中心を占めて描かれるのだ。


だが、私の見たところ、本作の中心にあるのは「町から出られない」という状況にあって、「不気味な子供の養育を強要される生活」の方にあるのではない。
そっちは、「苛立たしい」ものではあっても、「恐怖」そのものではないのだ。
ではなぜ、後者のほうが長く描かれるのかと言えば、単調な風景の町を脱出しようと、ジェマとトムの2人が、太陽を目印にし、町の「果て」を目指して延々と歩き続ける、というだけでは、行為が単調すぎて、映画として話が持たないからである。
本作の不気味さの中心は、その「何も語らない、無表情な町」の存在感にあるとは言え、それだけではドラマにならない。
当たり前にドラマを成立させるためには、やはり「物を言う存在=反応を示す存在」が必要なのだ。
そのために、「不気味な子供の養育の強制」というエピソードが必要となっただけなのである。
たしかに本作は、「カッコウの托卵」のエピソードから始まる物語だ。
『托卵(たくらん、brood parasite、brood mimicry、egg mimicry)とは動物の習性のひとつ。自分の卵への世話を他の動物に托す(代行させる)こと。巣作り・抱卵・子育てなどを仮親に托す(代行させる)ことを托卵。育ての親を「仮親」と表現する。』
(Wikipedia「托卵」)
つまり、カッコウの場合だと、卵を別種の鳥の巣に生み落とすことでその親鳥を欺き、その親鳥に自分の産みつけた卵を孵させ(孵化させ)、巣立ちまでの養育を押しつけるのである。

で、本作の冒頭で描かれる「カッコウの托卵」シーンの不気味なところは、他の鳥の巣の中で孵化したカッコウのヒナが、まだ孵化していない、巣主である親鳥の産んだ本来の卵を潰したり、孵化した本来のヒナを、巣から蹴り出して殺し、親鳥(仮親)の養育努力を独り占めにして横取りするところであり、さらに言えば、親鳥よりも大きくなったカッコウのヒナが、それでも自分より小さい仮親に餌をせがみ、仮親はそれにせっせと餌を与えているという、その様子である。
一一まさに、「怪物を育てている」という印象そのままの「絵ヅラ」なのだ。
そんなわけで、本作は最初から「托卵の残酷さ」を描いた作品だと言えないこともない。
事実、本作のタイトルも、この「托卵」的な状況を指す言葉なのだ。
『タイトルの「ビバリウム(vivarium)」とは、自然の生息状態をまねて作った動植物飼養場である。』
(Wikipedia「ビバリウム」)
だが、そうだとしても、私の見たところ、この「托卵としての子育て」という要素は、長編映画を成り立たせるために、後から加えられたものであって、本来の狙いは「悪意ある町に捕えられて、そこから出られない」という恐怖にこそあると考える。
例えば、現在、アメリカで大ヒット中の映画『バックルームズ』も、こうした「悪意ある閉鎖空間の恐怖」あるいは「リミナルスペースの恐怖」を描いた作品なのだが、同作はもともと、YouTubeにアップされたショート動画をもとに長編化した作品なのだ。
だから、オリジナル版のような「バックルームズ(壁の裏の、人っ子ひとりいない迷宮的な空間)」をさまようだけで、はたして長編を持たせることが出来るのか、それとも本作『ビバリウム』と同様、長編をもたせるための工夫が追加されるのか。しかしまた、そうした要素が追加された場合、その要素は本来の魅力を損ねるものになってはいないのだろうかと、そんなところが問題になっても来よう。
だが、未見の『バックルームズ』の、そのあたりの処理において、いずれお手並み拝見ということになるはずだ。
さて、話を『ビバリウム』に戻せば、本作における「強制された子育ての恐怖」というのは、もっぱら、その配達された子供の不気味さ(子役の演技)によるところのものである。


彼が、異常なスピードで成長するというだけではなく、どこか「人形」を思わせるその容貌や、ことあるごとにジェマとトムそっくりのモノマネ(声真似)をするところ、あるいは、不満があると(映画『ブリキの太鼓』の主人公オスカルを彷彿とさせる)「甲高い奇声」を発して威嚇するところなどが、不気味さを演出しているのだが、しかしそれも、実害は無いと言えば無いものなのだ。

彼を育てないと、町から出られそうにないから、二人はいやいや育てているだけで、決してこの少年が怖いわけではない。
だから、少年のマイペースぶりにキレたトムが、少年を表に駐めたままになっていた自家用車に閉じ込め、ひと気のない町に向かって「こいつを助けたければ、姿を現せ!」と脅迫するシーンにも、それは明らかだ。
つまり、少年自身は、大した力は持っておらず、問題の中心は、二人が「町に閉じ込められて出られない」という状況の方にあるのだ。
結局のところ、心優しいジェマは、なんらかのバケモノだとは言え、人間の子供の姿をした少年を痛めつけることはできず、少年を車から救い出して、もとの生活を続けることになる。
そのうえで、なんとか真相を見つけて、町から脱出しようと、そう考えるのだ。

一方、ジェマの心優しさを否定できないトムは、それ以降、庭に穴を掘る作業に没頭するようになる。
なぜ、彼がこんなことを始めたのか?
あるとき彼は、町からの出口を見つけるべく、家の屋根に登って、町を俯瞰するのだが、そこで彼が見たものは、地平線の彼方まで延々と同じ家の並んでいる光景だった。
それは、この町が地上を覆い尽くしており、出口なんかないとしか見えない、絶望的なものだったのだ。


それにジェマは、自然災害時などにやるように、屋根の上に「HELP(助けて)」の文字を書いたのだが、彼らはこの町に来て以来、一度も飛行機を見たことがなかった。つまり、この町は、外の世界とはつながっていないのだ。

また、まったく同じ家が並んでいるのと同様、空に浮かんでいるのは、子供が絵に描いたような、一様な「ひつじ雲」であり、天候が変わることもなければ、風が吹くことさえなかった。
つまり、この町は「異空間」の中に存在しているのである。
だからトムは、少年を人質にして、彼らを町に閉じ込めた存在を脅迫するという手立てが断たれた結果、水平移動もダメで、空もダメなら、地面の下しかないと、庭の穴掘りに没頭するようになったのだ。
それで何かが見つかるという保証などないが、そんなことでもしていないと気が狂いそうだったからである。
だが、もともとジェマよりも体力のなかったトムは、いつしか空咳をするようになり、最後はジェマの腕の中で力尽きて死んでしまう。
そして、一人残されたジェマは、もはや成人に達していた元「少年」を、トムの使っていたシャベルで殴り殺そうとするのだが、慌てた元少年(元赤ちゃん)は、獣のように四つん這いになって逃げ出し、いきなり、庭の芝生をめくるようにすると、その奥に広がった地下世界へと逃げ込んでしまう。
それを追いジェマが入り込んだその場所は、いくつもの部屋が複雑に組み合わさったような、エッシャー的な不思議な空間であり、一種の「バックルームズ」だと言っても良いようなものだった。


そして、その地下世界でジェマが見たのは、この町に捕らわれた他の人たちの、家庭内の様子の数々であった
ある家庭では、そこの主婦と思われる女性がキッチンのテーブルに座って途方に暮れており、別の家庭の風呂場の浴槽には、逃げた元少年と似たような青年の死体が横たわっていた。きっと、絶望した仮親によって殺されたのであろう。
このようにしていくつかの家庭世界を経巡ったジェマは、やがてその多重世界の底へと、底なし沼へ沈むようにして呑み込まれてしまうのである。
このラストの展開が意味するのは、ヨンダーの町が、異空間に作られているというだけではなく、各戸が独立した空間としてそれぞれに閉じられているということ。言うならば、ライプニッツのモナド的な「平行宇宙」だということなのだ。
つまり、ヨンダーの町には、途方もない数のカップルが囚われており、そこに住んでいるのだが、相互の空間的な連絡が閉ざされているために、町には「(他には)人っ子ひとり」いないように見えていた、ということなのである。

だが、私にすると、こうした「SF設定」的な「種明かし」もまた、長編映画としての体裁を整えるための「つけ足し」でしかなく、本質的なものではないと考える。
だからこの種の「裏設定」をつき止めようとするような、いわゆる「考察」的な態度とは、本質的に、この映画の魅力を捉え損ねたものであり、「野暮な行い」としか思えない。
それと同じことで、本作になんらかの「メッセージ性」を読み取ること、読み取ろうとすることもまた、的を外した「野暮」でしかないだろう。
例えば、本作の「テーマ」とも言える「托卵」の問題がある。
この「托卵」の問題をとらえて、「しかし、われわれ人間だって、同じことをしているではないか」という、文明批判的なメッセージを読み取ることも可能だろう。
具体的に言えば「養鶏場」がその典型で、私たち人間は、養鶏場を作り、鶏たちを騙して閉じ込めることで、卵を産ませ、それを食糧としている。
だから、もしも鶏に人間並の知能があったなら、こんなに残酷な処遇もまたとはあるまい。
なぜなら、彼ら(鶏)は、人間に食べさせるために卵を産んでいるのではなく、子供を作るため、子孫を残すために卵を産んでいるつもりだからだ。
たしかに、本作におけるジェマとトムの場合とは違って、鶏には「騙されているという認識」が持てないから、その意味では、主観的には「残酷ではない」と、人間の行いを正当化することもできるだろう。
また、そうした人間都合の発想があるからこそ、イルカやクジラなどの「知能の高い動物を、殺したり苦しめたりしてはならない」などといった主張も生まれてくるのだろう。
だが、その生物の知能を、いったい何と比較して、高い低いなどと決めることができるのか?
その基準を、人間が決めてよいという、客観的な根拠や資格があるのであろうか?
そのように考えれば、人間が他の生物にやっていることと、本作で描かれた「正体不明の知的生命体」が、人間に対して行なった「托卵」の残酷さとは、まったく大差のないものだと言えるだろう。
つまり、本作は、そうした「なぜ人間は、特権的な存在として、他の生物の生命を自由にする資格があるのか?」という根源的な問いを発した作品だと、そのように言うこともできるだろう。
一一だが、この「テーマ論」的な考え方も、本作の本質を捉え損ねた、小理屈の域を出るものではないと、私はそう考える。
本作の本質は、やはり単純に「捕えられて、逃れることの出来ない迷宮世界の恐怖」なのだと思う。
しかし、それでもあえて突き詰めるのなら、本作の「恐怖」とは、人間とはまったく価値観の違う「論理性の恐怖」とでも言えるのではないだろうか。
人間のカップルに「托卵」することに、何の後ろめたさも感じない、人間より高度に知的な生命体の「冷たい価値観」と、最も優れたデザインの家なのであれば、すべてそれにすれば良いという「論理的な合理性や画一性」の価値観とは、底の底の部分で、たしかに通底しているのである。
言い換えれば、人間という生物は、不揃いであったり、非合理的であったりするような要素を必要とする、奇妙に非合理的な生物なのだ。
ヨンダーの町では、生きるために必要な物資がすべて宅配され、子育て以外の仕事をする必要もないのだが、しかし、そんな「無駄のない生活」には、人間は順応できないのである。
人間が生きるためには、イレギュラーな要素が是非とも必要であり、安定した生活の保証された「マイホーム」があるだけでは、まったく不十分なのだ。
そして、そんな「不十分な完璧さ」を象徴するのが、美しいデザインでありながら、まったく同じ家が延々と続いている、ヨンダーの町並みなのではないだろうか。
そこには、少しも無駄やイレギュラーさや生活騒音(ノイズ)すら無い。
ヨンダーの町は、そうした意味において「完璧」なのだが、そうした「完璧さ」とは、人間にとっては「地獄」でしかないという、そんな事実を、本作は描いているのではないだろうか。

(2026年7月19日)
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