▷ 書評:ALT236『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』(フィルムアート社)
「リミナルスペース」というものが、近年ネットの世界で、カルトな人気を集めていると言う。
この言葉を直訳的に言い換えると、「中間空間」あるいは「中間地帯」とでも言えるだろうか。
どのように「中間」なのかと言えば、人が生活するための拠点としての家などの空間から、何らかの活動のための目的地である職場や娯楽施設などを結ぶ、その間に存在する空間、というほどの意味だ。

しかし、では家や職場や娯楽施設などにはリミナルスペースが存在しないのかと言えば、そうではない。
場所と場所を繋ぐための空間がリミナルスペースなのだから、マンションのエントランスや共同通路、あるいは映画館の廊下なども、リミナルスペースだし、その意味では、一戸建て住宅内の廊下だってリミナルスペースだと言えるだろう。
つまり、そうした意味でなら、ごくありふれた空間なのだ。
だが、しかしそれは、そこに私たち自身を含めた「利用者としての人間」が存在していればこそ、ごく当たり前の空間だと認識されているだけである。
例えば、深夜ひとけのなくなった地下街の通路、閉館後の映画館の廊下なんてものを思い浮かべてもらえば、そこに、なんらかの「不気味さ」をともなった「異空間性」的なものが、感じられはしないだろうか。
つまり、リミナルスペースとは、こうした「(人の存在を省いた上で)よく見ると不気味な空間」のことなのだ。
単なる(価値中立的な物理空間としての)「中間空間」などではなく、「不気味さ」や「異空間性」といった「剰余」を感じさせるものが中間地帯にはあり、だからこそそうした、ある種の不穏さを感じさせる空間のことを、中間空間に代表させるかたちで、「リミナルスペース」と呼ぶようになったのである。

だから、本作で考察されるのは、中間空間に限定されるものではない。
そのような「特殊な感覚を惹起する、多様な空間」の「謎めいた魅力」が、本書では写真や絵画、映画や漫画作品などを通して、考察されているのである。
しかしこれは、そうした空間の観察者である私やあなたがその場にいる際に、そうした不穏さや不気味さの感じられるといった空間なのではなく、その場に私やあなたなどの人間が存在しない状態を、画像や映像などを通して見たときにこそ感じられる、そんな特殊な意味空間だと考えるべきだろう。
では、私たちはどうして、(「生きられた空間」ではなく)そうした状態において「観察された空間」に、不気味さや不穏さを感じるのであろうか?
私が思うには、それは、私たちが現にそこにいて、そこを「利用」しているときには、そこには「有用性」があり、その意味で、経済生活に密着した「意味」が、そこには存在するからであろう。
私たちはそうした「意味」を消費することで、その空間を意味づけしているのだが、そうした意味づけとは切り離された状態で、その「空間だけ」を見てみると、私たちは、その「無意味さ」に、不気味さだとか不穏さといったものを感じてしまうのだ。
それは、私たちが日頃はほとんど意識することのなかった「空間の意味」というものが、きわめて一面的な意味づけによるものでしかなく、実のところ、その空間そのものには、そもそも絶対的な意味が存在しない(どうにでも意味づけできる)ということに初めて気づいたための、不安なのであろう。
それは、自由でもあれば不安定でもあればこそ、その場所が「無気味」だと感じられて、不安にもなるのではないだろうか。
ひところ、廃墟ブームというのがあったが、廃墟もまた一種の「リミナルスペース」である。

廃墟になる前は、意味を持った活動(生活)空間だったものだが、その活動を停止し、そこから人がいなくなって、その本来の意味を喪失してしまった空虚な空間、それが廃墟であろう。
だとすれば、廃墟の魅力とは、単に「オバケが出そう」とか「滅亡の美学」とかいったようなものではなく、むしろ、そうした「非日常的な意味」を呼び込んでしまう、その「無意味性」であり「空虚」さにこそ、あるのではないだろうか。
本書で著者があれこれと考察して、結局は、明確な答を出せないと結論したことについて、私はここまででいきなり答を出してしまったようだが、私はこの解答には、それなりの自信を持っている。
なぜなら、本書で扱われている「リミナルスペース」や類縁概念としての「バックルーム」(裏側の世界)といったものが指すものに、私は昔からずっと惹かれてきて、無意識のうちにもそれを、あれこれと思考してきたからである。
私にとっては「日常に接した異空間」が、そうしたものだったのだ。
だから、本書には、私が好きな作家や作品が多数登場する。
その典型的なものが、本書でも扱われている、『ツイン・ピークス』であり『エルム街の悪夢』であり『サイレントヒル』だ。
『ツイン・ピークス』の「赤い部屋」あるいは「ブラック・ロッジ」と呼ばれる異空間、『エルム街の悪夢』の「夢の世界」、『サイレントヒル』の「霧に閉ざされた闇と死の街」。
これらはいずれも、日常空間に接して存在しており、外形的には日常空間と大差のない場所でありながら、どこかが決定的に違っているために、不穏でもあれば不気味でもある。
ではなぜ、私たちはそれらに対して、そのような感覚を覚えるのかと言えば、それはそこが「通常の意味」を剥奪されて「何か別の意味」を充填された「異空間」だからである。
「似て非なる空間」だからこそ、私たちはそこに不気味さを感じる。
本書でも「無気味の谷」というSFファンにはお馴染みの言葉が登場する。
これは通常、人型ロボット(アンドロイド)を作ろうとして、人間に似せようとすればするほど、「似て非なるもの」としての「不気味さ」が増幅していき、その「谷」を越えなければ、人間そっくりにはならない、というような議論の際に使われる言葉だ。
で、本書著者は、これは「空間」についても同様だとして、「無気味の谷」という言葉を援用して見せる。
「空間も、そっくりでありながら、どこか違うという場所ほど、無気味に感じられるものなのだ」というような、リミナルスペース理解である。




したがって、これ見よがしに「怖いもの」を詰め込んだ「お化け屋敷」的なものというのは、さほど「無気味」ではない。
なぜならばそこに、「人間の意図」としての「娯楽」だの「金儲け」だのを読み取ることができ、理解することができるからで、そのためその空間そのものは、怖くはないのだ。
あくまでも、オバケに扮した人が驚かせてくるから、驚かせてくるだろうという「予感」があるから、それが怖いだけであって、空間そのものは、さして怖くはないのである。
まただからこそ、『ツイン・ピークス』や『エルム街の悪夢』、『サイレントヒル』といった作品の描く「異空間」が不気味なのは、そこに「通常の意味」が存在せず、なにか「得体の知れない別の意味」が充填されており、それを私たちが理解し切れないから、不気味だし、不穏だし、その意味で「怖い」と感じもする。
つまりリミナルスペースやバックルーム、あるいは、私が言うところの「異世界・異空間」とは、正確にはその「意味の決定不可能性」において、人を「不安」にする空間なのである。
(「バックルーム」という言葉を一躍有名にした、ケイン・パーソンズの作品『The Backrooms (Found Footage)』。本年2026年には、「A24」の製作で、同人による映画化作品が公開される)
日常的な意味を持たないというのは無論、非日常的な意味だとしても、だとすればそれゆえに、私たちはその非日常の意味を明確に理解することができない。だから、不気味だし不安だし、怖いものと感じる。
「こちらの世界」でもなければ「あちらの世界」だとも言い切れない、つまり「それは、こういうものなんだよ」と明確に規定できない、そんな空間だからこそ、私たちはそこに「不気味なもの」を感じるのだ。
しかし、「不気味」だとか「不安」だとか、あるいは「不穏」だとかいうのは、単に「悪しきものについての予感」だとは限らない。
なにしろそれは「把握認識しきれないもの」なのだから、もしかするとそれは「好ましきもの」「祝福されたもの」「懐かしきもの=失われた大切なもの」である可能性だってある。
一一だからこそ私たちは、そこに不気味さや不穏さや怖れを感じながらも、どこかで魅了されてしまう。
たとえ危険をはらむものではあっても、決まりきった意味にがんじがらめにされた「日常空間」から解き放たれて、自由になれる「好ましい空間」である可能性をも感じられるからこそ、私たちはそうした異空間に対し、腰が退けながらではあれ、興味を持って半歩ふみ込まざるを得ないのだ。
つまり、感じられる「恐怖」とは、必ずしも否定的なものを意味するわけではないのだ。
恐怖とは、これまでの「安定(安心)」から切り離された状態であるがために起こる「警報」的な感情なのだ。
けれど、しかしまたその警報とは、私たちがこれまで囚われてきた「日常という名の牢獄」から、半歩ふみ出してしまったがために鳴り響いた「自由への行鐘」なのかも知れない。
私たちは、そうした「安全装置」による警報音に臆することなく、勇気を持って「外の世界」に踏み出してみれば、もしかするとそこは、私たちが願って止まなかった「懐かしい世界」が広がっているのかも知れないのだ。
無論そのような「好ましいもの」ではなく、苦痛と死に満ちた空間なのかもしれないが、それは、そこへと出てみないかぎり、確かめようもないことなのだ。
だから、私たちは「安全なこちら側の世界」にいて、写真や絵画や映画などの画像や映像を通して、そうした「外の世界」を眺め、憧れることをする。
思い切ってそちらの世界へ飛び込む勇気はないけれど、しかし、それを遠望して、その「ひんやりとした空気」に触れるだけなら安全だ。
だから、それでも済ませられるのならば、どうしたって私たちは、そうしたものに、惹かれないではいられないのである。
つまり、「ホラー映画」などの描く「これまでの恐怖」とは、通常私たちが日常的に持っている「意味的価値」を、奪われることへの「恐怖」であろう。
言い換えれば、非日常の世界へ「是非もなく引き摺り出される」恐怖だ。
だが、リミナルスペースに代表される空間の生み出す恐怖とは、そうしたわかりやすいものではなく、「日常的な意味的価値」が失われたところに初めて存在し、かつ主体的に見出しうる「魅力」のことなのだ。
そこではもう、私たちは「当たり前に生きる」ことは出来ないし、たぶん「人間」のままでいることもできないだろう。
だが、だからこそ「自由」なのだ。
私たちはたぶん、心のどこかで「人間ではなくなる」ことに憧れている。それはとりもなおさず、「自由」に憧れているということだ。
だが、自由にはリスクがつきまとう。だからこそ、そんな「その意味するところの把握し難い自由」は、不気味であり、不穏であり、怖いのである。
こうした感情が、本書のサブタイトルで言うところの「新しい恐怖」であり、またそれを魅惑的なものとして指し示すのが、その得体の知らない「美学」なのだ。

(2026年5月12日)
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