アルフレッド・ヒッチコック監督 『白い恐怖』: マクガフィンとしての精神分析

▷ 映画評:アルフレッド・ヒッチコック監督『白い恐怖』(1945年/アメリカ映画)


本作最大の特徴は、精神分析を扱っている点であろう。

作品冒頭では「精神分析とは、如何なるものなのか」についての説明がテロップで流されるが、その説明は簡にして要を得たものであって、基本的に間違ったものではない。
「皆さん、この原理的な〝精神分析〟理解を前提として、本作を見てくださいよ」という、観客との「取り決め」の提示である。

そんなわけで、本作のストーリーは、殺人容疑が着せられた男性の無罪を信じて、彼を愛した精神科医のヒロインが、彼の精神分析を行いながら、事件の真相に迫っていく一一というものである。

(ジョンとコンスタンス)

つまり、外形的にいえば、本作は「分析」という言葉からもわかるとおりで、極めて「本格ミステリ」的な作品だと言えようし、要は、その「精神分析」が、いかにして事件の真相に結びつくのか、その「ロジック」の切れ味が、作品の魅力となるのであろう作品だ、ということである。

『バーモント州のグリーンマナー精神科医院の新しい病院長に就任したエドワーズ博士は、白地に縞のある模様を見ると発作を起こす奇妙な病癖を持っていた。

やがて彼はエドワーズ博士とは別人であることが発覚する。本物のエドワーズ博士はどこにいるのかわからぬまま、疑いの目は「彼」に向けられるが、病院の勤務医で、「彼」と愛し合うようになっていたコンスタンスは「彼」の無罪を信じ、2人は協力して発作の原因である「彼」の記憶をたどっていく。

警察に追われる身となった2人はコンスタンスの恩師であるブルロフ博士を訪ねる。ブルロフ博士は事情を知ると「彼」の記憶をたどる手伝いをする。
その結果、エドワーズ博士がスキー場で亡くなったことがわかると、コンスタンスと「彼」は現場となったスキー場に向かい、そこで「彼」はエドワーズ博士が崖から転落して亡くなったこと、そして自分が「ジョン・バランタイン」であり、事故現場を目撃していたことを思い出す。

こうして事件は解決したと思われたが、警察がエドワーズ博士の遺体を確認したところ、事故死ではなく、背後から銃で撃たれていたことが判明し、ジョンはエドワーズ博士殺害の容疑で逮捕され、有罪判決を受ける。

それでもジョンの無罪を信じ続けるコンスタンスは、エドワーズ博士とは会ったことがないと明言していたマーチソン院長が実はエドワーズ博士と面識があるともらしたことから、院長が怪しいと睨み、彼と対峙する。

追い詰められた院長はコンスタンスを銃で撃とうとするが、エドワーズ博士の殺害は神経衰弱で責任能力なしとされる可能性があるのに対し、今ここでコンスタンスを殺害すれば計画殺人として確実に死刑となるとのコンスタンスの言葉に、結局、その銃で自らを撃つ。
こうして無罪放免となったジョンはコンスタンスと結婚し、新婚旅行に向かう。』

(Wikipedia「白い恐怖」・引用者が適宜改行と太字強調を加えた)


(ハッピーエンドのラストシーン)

上の「あらすじ」に出てくる部分としては、

『「彼」の記憶をたどる手伝いをする。/その結果、エドワーズ博士がスキー場で亡くなったことがわかる』

といった部分が、「推理の質」の問題となる部分である。

この「あらすじ」による紹介だと、まるで記憶喪失の「彼=ジョン・バランタイン」(グレゴリー・ペック)が、精神分析によって、スキー場での記憶を取り戻したかのように思えるが、そうではない。

作中での描写は、病院での新院長歓迎の晩餐会の際、ヒロインのコンスタンスイングリッド・バーグマン)が、フォークでテーブルクロスをなぞり模様を書いて説明をしようとした際、「彼」ジョンがいきなり取り乱したとか、同様に、コンスタンスの着ていたガウンの縞模様やベッドの縞柄のシーツに彼が激しく反応した(発作を起こした)ということから、この「縞模様」に何かあるというのが仄めかされた(伏線が張られた)上で、最終的にはブルロフ博士の協力を得て、ジョンの失われていた記憶について「自由連想法」による聞き取りをし、それを終えて、部屋を薄暗くするために閉じていた窓のカーテンを博士が開けたところ、ジョンが激しく反応したため、コンスタインが窓の外を見ると、いつの間にか雪が降っており、雪の降り積もりかけた地面には、橇(そり)の跡が残っているのを見て、コンスタインは、ジョンが怖れた「縞模様」とは、雪に残った橇かスキーの跡(模様)だと気づく一一と、そういう「段取り」なのである。


ジョンはその際、ソファーに横になっていたとは言え、催眠術などを施されていたわけではなく、当たり前の聞き取りに対して答えていただけなのだ。
だから彼がその時に語り得た「失われていた記憶」というのは、分析医の手柄でも何でもなく、ジョン自身の前向きな努力によって甦ったものでしかない。

したがって、ここで注目すべきなのは、コンスタンスの「ジョンが怖れた縞模様の正体は、雪に残されたスキーの痕跡だったのだ」という、「鋭すぎる解釈」の方なのである。

だが、この発見は、いかにも取ってつけたようなご都合主義の産物であり、あまり説得力のあるものでもなければ、ましてや「論理的」なものでもない。
単に、「たまたま見つけた」だけの、幸運の産物にすぎないのだ。

こうした点は、他の「(精神)分析」の場面でも同じで、例えば、先の「自由連想法」による想起の中で、ジョンは、(行方不明で、のちに殺されていたと判明した)エドワーズ博士と一緒に行ったカジノの「目の描かれたカーテン」ということを話すのだが、コンスタンスはマーチソン院長(前任から復帰)とのやりとりの中で、それを精神科医院の看護師のことだと分析する。
ジョンが、エドワーズ博士のもとで治療を受けていた際の記憶が、変形されたものだという分析なのである。

サルバドール・ダリのデザインした「記憶」の中のシーン)

この分析については、マーチソン院長も即座に同意して、物語の中ではズバリと一発で的中したことになっているのだが、しかし、いくら優れた分析医の二人だからといって、「カジノのカーテンに描かれた目玉」が「精神科医院の看護師」のことだとは、そう簡単にはわからないはずだ。

つまり、たったそれだけの情報だと、多様な解釈が可能であり、それだと決めつけられるほどの根拠など無い、ということである。
例えば、その「カジノのカーテンに描かれた目玉」を、「精神科医院の看護師」のことではなく、「カジノの用心棒」のことだと解釈した方が、よほど自然であろう。

したがって、コンスタンスとマーチンソンの分析には飛躍がありすぎて、決して論理的ではあり得ず、要は、ご都合主義の産物でしかない、ということになるのだ。

実際こうした推理を披瀝した直後、コンスタンスは、ジョンの語った「建物から墜落死したエドワーズの後ろに立っていた男は、手に車輪を持っており、それをその場に落とした」という記憶について、「その車輪とは、拳銃の変形された記憶であり、それをその場に捨てたのだから、現場付近の雪の中には、今も凶器であるその拳銃が埋もれているはずだ」と指摘して、彼女が疑いを抱いているマーチンソンに、もう観念しろとばかりに迫るのだが、その時マーチンソンは「そうではない」と言って、座っていた院長室のデスクの引き出しから、犯行に使った拳銃を取り出して、コンスタインに向けるのである。

つまり、コンスタインの「分析」推理は、この程度に、当てにならないものなのだ。

(右が、コンスタンスの恩師、ブルロフ博士マイケル・チェーホフ

たしかに「縞模様」や「カーテンの目」の謎については、見事に一発で真相を言い当てたのだが、なぜか「拳銃のありか」については、解釈を誤った。

そもそも、どうして「車輪」が「拳銃」の変形された記憶なのかの説明もないのだが、そのあたりを勝手に補足しても、その拳銃が、弾倉の回転するシリンダー式(リボルバー)だったので、それが「車輪」に変形したのだろうと、それくらいのことしか考えられない。
しかし、その程度の連想なら、車輪から連想できるものなど山ほどあって、車輪を拳銃だとするのは、あまりにも決めつけにすぎるのである。

(背景の雲はもちろん、顔の見えない男の持つ「車輪」も、ダリのデザインらしく、ぐにゃりと歪んでいる)

したがって、なぜコンスタンスの「分析推理」は、ある時には「名探偵」的に神がかりの鋭さを見せる反面、ある時には、つまらない外し方をしてしまうのか、そこが問題となる。

無論、現実の「分析推理」というものは、当たったり外れたりするものであり、そうした試行錯誤の果てに、ようよう真相にたどり着ける場合もある、という程度のものなのではあろう。

しかし、本作の場合は、あくまでも「フィクション」なのだから、物語内における「論理的な一貫性」というものが、やはり必要なのだ。コンスタンスは、鋭いのかそうではないのか、そこが曖昧なままでは困る。

なぜなら、そのあたりをハッキリさせておかないと、物語展開の都合によって、探偵役が鋭かったり鈍かったりするのでは、それは作者の「ご都合主義」だと批判されることになるからである。

一一だが、本作の場合は、まさにその「ご都合主義」そのものなのだ。

コンスタンスの「分析推理の精度における、一貫性のなさ」については、作中で合理的な説明のなされることは、ついに無いのである。

しかしだ、以前に何度も指摘しているとおりでもあれば、ヒッチコック自身も認めているとおりで、ヒッチコックは「本格ミステリ的な論理性」には、ほとんど興味がない人なのだ。


彼にとっては、「厳密な論理性」や「正確な一貫性」など、まったく重要ではい。
「論理性」や「一貫性」などといったものは、物語を面白くするための「飾り」であり、サスペンスを盛り上げるための「小道具」にすぎない。それは、「本格ミステリ」のおける「論理性」のような、「キモ」の部分、などではないのである。

ヒッチコックが、サスペンスを盛り上げるためなら、少々無茶なことも辞さないというのは、周知の事実であり、彼が「サスペンスの神様」と呼ばれるのも、決してダテではないのだ。

例えば、グリーンマナー精神科医院には、院長以下、6、7人の医師が勤務しているようなのだが、当然のことながら、その医師たちは全員、精神科医のはずである。
ところが、ある患者が自殺を図って大量出血をした際、医師たちは病院内の手術室で、当たり前のようにその患者に対して外科手術を施し、患者の一命を取り留めさせてしまう。

(右端がマーチソン院長レオ・G・キャロル

当然これなどは、ほとんどあり得ない話であり、いかにも不自然な描写なのだが、本作を見て、そこを気にする人はほとんどいないだろう。
(この事故の報告を受けて、まだ新院長と思われていたジョンと、コンスタンスの二人が、早速、手術衣に着替えて手術室へやってくるのだが、手術用のヘアキャップやマスク、手袋などのひと通りを身につけた姿で、二人がそろって手術室にやってくるというのも、不自然ではないだろうか?
そもそも、二人は手術の役にはたちそうにないし、ジョンに至っては、本当は医師ですらないのだから、そう簡単に手術衣に着替えることなどできないはずなのだ)

実際、本作は、一見したところは「本格ミステリ」的な「謎解き」作品風に幕を上げるものの、その後の展開の大半は、ヒッチコックお得意の「逃亡サスペンスもの」であって、「分析推理」そのものは、すでに書いたとおり、ご都合主義の域を出るものではない。



しかしながら本作を、ヒッチコックの意図したところであろう「単なる娯楽映画」として見るならば、それはそれなりに楽しめる作品に仕上がっており、本作を見ながら「分析推理のご都合主義」が気になる人など、ほとんどいないはずである。

そんな細かいことなど気にはせず、ほとんどの人は、イングリッド・バーグマンとグレゴリー・ペックという、希代の美女美男によるサスペンス・ラブロマンスの方に魅せられるのではないだろうか?


だから、本作のWikipediaでは、

『Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「『白い恐怖』の潜在意識の探究はもっと分析した方が良かったかもしれないが、アルフレッド・ヒッチコックのサイケデリックに飾り立てた演出は、イングリッド・バーグマンとグレゴリー・ペックのスターパワーとともに、この酔わせるようなスリラーを高めている。」』

(Wikipedia「白い恐怖」


ということなのだそうだが、ハッキリ言ってこの評言は、的外れであろう。

本作が制作された1945年当時の、映画評論家たちの「フロイト心理学の理解」がいかほどのものであり得たのかがまず疑わしいし、そもそも現実の「精神分析」をそのまま作中で再現していたなら、2時間で(作中時間では数日で)分析が成功して事件が解決することなど、あり得ないのだ。

また、ヒッチコックがそういう「細かい理屈」には興味のない人であることくらいは、映画評論家ならば、すでに承知していて然るべきなのに、そんなこともわかっていない評論家たちが、知ったかぶりで「作中の精神分析」のみを云々するのは、もはや片腹痛い所業でしかないのである。

したがって、こうした評論家筋の知ったかぶりの感想を聞かされたヒッチコックは、きっと「こいつらは、何もわかっていないな」と、いつものように眉を顰めたこと間違いなしなのである。

マクガフィン (英: MacGuffin, McGuffin) とは、小説や映画などのフィクション作品におけるプロット・デバイスの一つであり、登場人物(キャラクター)への動機付けや話を進めるために用いられる作劇上の概念のこと。作中人物にとって重要でありドラマもそれをキーアイテムとして進行するが、物語の成立を目的とするならそれ自体が何であるかは重要ではなく代替可能ですらあるものを指す。』

(Wikipedia「マクガフィン」





(2026年5月13日)

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“アルフレッド・ヒッチコック監督 『白い恐怖』: マクガフィンとしての精神分析” への2件のフィードバック

  1. 俵三四郎のアバター
    俵三四郎

    はじめまして。
    noteを読んでいた者ですが、ずっと「ねんかんどくしょ〝にん〟」だとばかり思っていました……。

    活動再開、おめでとうございます。

  2. 年間読書人のアバター

    > 俵三四郎さん

    わざわざ祝いの言葉を下さり、ありがとうございます。

    これからも「note」の時と変わることなく、バリバリやっていく所存ですので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

    記事を読んでいただけるのであれば、〝じん〟でも〝にん〟でも、ぜんぜん平気です(笑)。

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