宮崎夏次系 『夕方までに帰るよ』: 「切なさ」に隠された、切ない素顔

▷ 書評:宮崎夏次系『夕方までに帰るよ』(講談社)


『SFマガジン』誌に連載されていた読み切り漫画を集成した短編集『もじるひと』(2026年2月刊)の刊行を紹介したネットニュースで、初めてこの漫画家のことを知った。

『もじるひと』は、どうやらSF小説や映画などのパロディ漫画みたいなので、ちょっと読んでみてもいいかなと、そんな軽い気持ちで手に入れることにした。
いつものとおり、ブックオフオンラインに登録しておいて古本に落ちたらと、そう思ったのである。


ところが、宮崎夏次系の作品をブックオフオンラインで商品検索してみると、すでにけっこう多くの著書を刊行している作家だというのがわかった。決して新人作家ではなかったのだ。

まただからこそ、数年前の本ならずいぶん安くもなっていたので、そっちを先に読んだ方がいいかなと考えはじめた。

それで、何を読めば良いものかとAmazonで宮崎夏次系の本の評判をチェックしてみると、どれも評判は上々のようで、よく売れているようだ。
また、すでに批評誌の『ユリイカ』でも、特集の組まれていたことを確認した。


それでもうこの段階では、「SF小説や映画のパロディ漫画だから、ちょっと読んでみよう」ではなくて、「この漫画家は、どんな作家性の持ち主なんだろう?」という方向に興味の向きが変わって、件の『もじるひと』よりも先に、古いところを何冊か入手することになったのである。

そうした中から今回、最初に読むことにしたのが、著者の連載デビュー作で第一長編の『夕方までに帰るよ』だった。

 ○ ○ ○

当然、宮崎夏次系という作家の作風やそのバリエーションをよく知らないまま、本書『夕方までに帰るよ』を読んだわけなのだが、まず思ったのは「なるほどこれなら、人気が出るはずだ」ということだった。


どういうことなのかというと、基本的には「切ない系」の作品なのだ。

だがそこに、一種の「不条理ユーモア」的な色合いもあって、生々しくはなりすぎないし、重くもなりすぎない。
かと言って、軽いわけではないから、読んだ後にちょっとため息をつきたくなるような、そんな独特のリリシズム(叙情性)を湛えた作風なのである。

『偽りの幸せは、絶望の味がする。

ーーひきこもってしまった、僕の姉。優しく完璧だった姿は、もう、見当たらない。

ありのままの自分で誰かと繋がることなんて、もはや幻想でしかないこの世界で、

行き場のない虚無感に立ち向かった、作者初の長編作品!

ひきこもってしまった姉、カルト教団らしき怪しげなクラブ活動に熱を上げる父母、そんな家族と真正面から向き合えない「僕」……。壊れかけた一家を通して描かれる、誰かと繋がっていたいのに誰とも「本当」にはつながれないすべての人に贈る、99%の絶望と1%の希望の物語。』

Amazonの本書紹介ページより)


主人公で中学生と思しき「僕」がまだ幼かった頃、優しくて綺麗でしっかり者だった大好きな姉が、いまは別居した先のアパートで、引きこもりになっていた。

「僕」が子供の頃の両親は、いつもいがみ合い喧嘩ばかりしており、家の中は殺伐としていた。
また、そんな両親の矛先は、姉弟にも向かうこともあり、だからこそ姉と弟は、二人だけの世界を作り上げていた。
まるで、映画『禁じられた遊び』(1952年/ルネ・クレマン監督)のように。


ところがその両親が今は、いかにもあやしげな新興宗教にハマり、それに入れ上げている。
宇宙から降ってくる悪性の電波から頭脳を守るためのヘルメットだとか、信憑性の低い自然食品とか、そんな物を高価に売りつけられながら、それでもそれを信じている両親は、昔とは違いとても幸福そうで、いがみ合うようなこともすっかり無くなってしまった。


もちろん、うさんくさい宗教に入れ上げることが、好ましいことでないというのは、よくわかっている。
けれども、両親がそれに幸福を感じて喧嘩をしなくなり、家の中が平穏になったのなら、それはそれでよかったのだと、「僕」は現状を静かに受け入れている。

だが、そこで気になるのは、家を出て行った先でひきこもったままの、姉のことだ。

姉がなぜ、徐々に壊れ変貌してしまったのか、どのような経緯で家を出て行ったのか、本作にはそのあたりの具体的なことは描かれていないからよく分からない。
だが、それはたぶん、子供時代の逆境に堪えつづけ、無理に良い子でいたことの反動が、両親の変貌によって、かえって噴出したのではないかと、そんなふうにも想像できる。

弟の「僕」は、そんな姉の無理を、早くからどこかで感じていた。

けれども僕は、優しくてしっかり者の姉ちゃんに満足していたから、姉ちゃんにはただ、そんな姉ちゃんのままでいて欲しかった。
だから、姉ちゃんがどこかで壊れかけているのを感じながらも、積極的に救いの手を差しのべようとはしなかった。
僕は、姉ちゃんに救われながらも、姉ちゃんに対しては、無責任な傍観者でしかなかったのだ。

しかしその結果、姉ちゃんは家を出ていき、アパートの一室に引きこもってしまったのである…。


それでも「僕」は、姉ちゃんが心配でならない、というわけではない。
気にはなるけれど、関わり合いになるのが面倒だという気持ちもあって、姉ちゃんのアパートを訪ねることを避けていたのだ。

けれども、そんなある時、両親に言われて、姉のアパートを訪ねることになった。

ベルを押し、玄関ドアの外から声をかけても返事がなかったので留守だと思い、いったんはそのまま帰ろうとした。
だけど、魔がさしたのか、ふと目の前のドアノブを回してみると、鍵はかかっていなかった。
中に向かって声をかけながら、おそるおそる部屋へ入っていくと、「僕」はそこに異様なものを見つけてしまう。

雑誌や段ボールなどで作られた、4分の1の球形テントの如きもの。
まるで、巨大な昆虫が壁に沿わせるかたちで作った巣のごときものを発見し、僕はその中に姉ちゃんのいることを確信した。

それは、僕と姉ちゃんが子供の頃に二人で作った秘密基地のようでもあった。その中に、今や姉ちゃんが独りで立てこもっている。


僕はその外から、出てくるようにと、そっと姉ちゃんに声をかけ話しかけたのだが、姉ちゃんは、ひたすら「帰れ!」と言って、僕を拒絶するばかりだった…。

この数日後、このアパートの大家だという、犬をつけたサングラスの中年男が登場し、「僕」と、そのとき「僕に同行していた担任の先生」に対して、「このアパートの住人は全員、僕が集めてきて飼っている、コレクションでありペットなんですよ」と、異様なことを告げる。
良識派の先生はそれに激怒し、僕はとうてい信じられない話だと思ったけれど、とにかく姉をこのアパートに置いておくことはできないとそう考えて、以降、頻々とアパートを訪れるようになった。


すると、家主であり管理人であるというそのふざけた男は、僕のせいで、それまでは安定していたアパートの生活が台無しにされたと言い、住人全員で引越しすると言い出した。
だが僕は、僕がいない隙をみて実家に出入りをしており、まだ家に未練のありそうな姉を連れて帰ることに成功する。

こうして、両親も姉も、変なままではあったけれど、家族の平穏な生活が初めて実現したのであった。

一一でも、そんな僕らの今は、果たして幸せだと言えるものなのだろうか?

だが僕は、これはこれで満足している。だからこれも、幸せのうちなのではないだろうか。
一家の幸せや人の人生の幸福って、案外そんなものなんじゃないかと、そう思っているからだ。

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一一と、以上は、本作の内容を、読者である私の第三者視点と、主人公の「僕」の主観視点とを交錯させながら紹介したものである。

したがってこれは、決して正確な内容紹介ではなく、私が感じたものを紹介したものにすぎない。

本作がどのような作品なのかは、たぶん外形的な説明では伝達不可能だと感じられたから、私の読み取った「空気」を、「あらすじ」のようなかたちで語ったのである。

こんなやり方で、本当に本作の空気を伝えることが出来たのかどうか、それは私にもよく分からないのだが、これしかやりようがなかったのだから、仕方がない。

ともあれ、宮崎夏次系とは、その本性を見極めるに値する、「何かある」作家だというのは、間違いのないところであろう。

この人は、諦めてしまった何かを韜晦し、韜晦することで、またそれを伝えようとしている一一そんな作家なのだと、私の直観は、そうささやくのである。





(2026年5月14日)

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