サラ・ピンスカー 『いずれすべては海の中に』: それでもこだわる人びとに。

▷ 書評:サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』(竹書房文庫)


サラ・ピンスカーの第一作品集である。
邦訳では、第一長編の『新しい時代への歌』の方が先に刊行されているが、著書としては「短編+中編」集である本書『いずれすべては海の中に』の方が先。

本作品集には『新しい時代への歌』の原型となった中編「オープン・ロードの聖母様」を含む全13篇が収められている。

ちなみに、私がこの作家に注目したのは、大森望が、『本の雑誌』連載の【新刊めったくたガイド】(2026年3月号)で、ピンスカーの第二作品集を取り上げて、次のように絶賛していたからである。

『サラ・ピンスカー『いつかどこかにあった場所』(市田泉訳/竹書房)★★★★★は、2020年のディック賞を受賞した『いずれすべては海の中に』に続く第2短編集。ホラーとファンタジーを中心に全12編を収録する。「二つの真実と一つの嘘」は、ヒューゴー賞ネビュラ賞の二冠に輝く超絶技巧の中編。』


で、これは面白そうだと思ったのだが、いかんせん3,300円となかなかお高いし、第一作品集の方は文庫版なので定価も半分以下だったので、どうせ読むのなら第一作品集からと、そう考えたのだ。

ではなぜ、先に長編の『新しい時代への歌』を読もうとは思わなかったのかと言うと、同作はそのタイトルや邦訳版の装画からもわかるように、音楽活動をテーマとした作品だったためである。
ピンスカーは、音楽をやっている人なのだそうだが、私の方は、音楽にはあまり興味がなかったからだ。

なお、本書の版元である竹書房のSF文庫は、お値段的に安くはないものの、装丁に凝ったものが少なくないのだが、その中でも本書は、飛び抜けて装丁が美しい。


もちろん趣味の問題はあるにしても、私としてはポストカードでも飾るようにして、飾っておきたいような美しい装画・装丁であることを、ひとことここに書き添えておきたい。


 ○ ○ ○

さて、本作品集を頭から順に読み進めていくと、半分くらい読んだところで、
「この作家は、失われたものや失われた可能性にこだわる人なんだな」
というのが、すぐにわかる。

見事なまでに、すべての作品がそうしたテーマだったからだし、逆に私は、そうしたことにはほとんど拘らないタイプの人間だったからだ。

無論、このテーマが悪いというのではないのだが、本書を半ばまで読んだ段階では、その内容のいささか沈鬱なところと、何よりもそのテーマのワンパターンさが、私としては気に入らなかった。
それで「この作家は、これ1冊でお別れかもしれないな」と、そう思いさえしたのである。

ちなみに、本作品集の特徴は、前半に短編が多く、後半に中編が多いというところであろうか。
これが、発表順あるいは執筆順なのかどうか、その説明は無いからよくわからないのだが、少なくともこの翻訳版では、そのようになっている。

で、前半の短編にはあまり好印象を持てなかった私なのだが、後半になってくると、「イッカク」のようなユーモラスな作品もあって、少々その印象が変わってきた。

そして、本作品集前半の悪印象を決定的に覆したのが、長編『新しい時代への歌』の原型となった中編「オープン・ロードの聖母様」であった。


前述のとおり、本作はバンド活動を描いた作品だから、題材的には私の趣味ではなかった。
しかし、本作の場合、コロナ禍を思わせる感染症拡大後の世界における、生演奏にこだわる主人公たちを描いて、SF的なアイデアとはべつのところで、とても共感できたのだ。

『「オープン・ロードの聖母様」 “Our Lady of the Open Road”
 本作は、先に翻訳された長備『新しい時代への歌』の元になる中篇です。感染症の流行により、人々が密を避けるようになった時代、ステージ・ホロという技術が、演奏するミュージシャンの3D映像を酒場や家庭に届け、それが一般的な音楽の楽しみ方になっています。主人公のルースはそんな時代に生の音楽にこだわり、おんぼろのバン(※ デイジー)で各地を巡業しています。
『新しい時代への歌』ではまだ若かったルースも今や五十代、背中や膝の痛みに悩むお年頃。ペースのシルヴァ、ドラムのジャッキーとライブ先のコロンバスへ向かいますが、道中でも巡業先でも、出会いや事件が次々に‥‥‥。』

(P452〜453、市田泉による「訳者あとがき」より)


私が気に入ったのは、主人公ルースの、この「反時代的なこだわり」だ。

「そんなもの、もう流行らない。それよりも、すでに多くのミュージシャンが移行を済ませているステージ・ホロの方が、多くの人に音楽を届けることができ、またミュージシャン自身も楽に稼ぐことができる」

と、そんな誘惑に対して、ルースは頑ななまでに抵抗するのだ。

『「ルースさんは可能性を理解なさっていないようです。わが社は多様性に目を向け、新たな聴衆に曲を届けたいと思っています。パンク、フォーク、メタル、ミュージカル」あといくつか、連中が完全には破壊していないジャンルを挙げていく。
 今にも殴ってしまいそうだ。わたしは粗暴な人間ではないが、今にも殴ってしまいそうなのは、事実としてわかっている。「あんたは目の前に立ちはだかって、わたしの暮らしを台無しにするのを手伝えと言ってる」
「違います! 台無しだなんて。もっといい生活へお招きしてるんです。これからもライブは続けられます。聴衆だっています」
「金で雇われたエキストラの聴衆? あんたのスタジオの聴衆?」食いしばった歯の隙間から訊いた。
「イエスでもあり、ノーでもあります。実際のライブでも装置をセットできますが、難度が高くなります。アリーナのような場所なら問題ありませんが、こういう会場だと、3D撮影機器が目障りになるでしょうね。ルースさんのために、どこかの劇場かアリーナを用意します。必要なら観客でいっぱいにします。ご希望なら合間にこういうライブもできますが‥‥‥」肩をすくめ、わたしが〝ご希望〟する理由がわからないと示す。
「なあ、ルース。こっち手伝ってくれないか」目を落とすと、わたしの両手はマイクを(※ 片づけのために)箱に戻すかわりにねじり上げていた。目を上げると、シルヴァがベースアンプを台車に載せるのに四苦八苦していた一一週に七晩、自力でやってないみたいに。明らかに救いの手だ。
「行かなきゃ」悪魔のA&R(※ スカウト)に告げる。「おとといまた来て」
 ベースアンプ運びを二人がかりの仕事にするには、ありったけの演技力が必要だった。わたしたちは大げさなくらいゆっくりとドアまで進んでいった。バンに載せるのは正真正銘二人がかりだが、ふだんは背中と膝の痛みがあるから手伝わない。歯を食いしばって持ち上げた。
「なんだったんだ」シルヴァが(※ 愛車のバン)デイジーのリアハッチを閉め、もたれかかって訊いた。「あの女の喉、食いちぎりそうな形相だったぞ」
「ステージ・ホロ! 信じられる? 厚かましいったら。こんなとこまでやってきて、ダークサイドに誘惑しようとするなんて」
「厚かましいな」シルヴァも言い、かぶりをふったが、おかしな顔でこっちを見た。そのあと汗ばんだ額を腕でぬぐい、バンから離れた。
 シルヴァのあとから(※ 会場の)中に戻った。ニッキ・ケラーマンはまだそこにいた。
「ルースさん、こちらのオファーをすっかりわかっていただけていないのでは」「まだいたの? あんなでっかいヒントをあげたのに」「見てください」空っぽに近い部屋をぐるっと手で示す。
 わたしはニッキの顔をまっすぐ見ていた。反応するほど敬意を払いたくない。「ルースさん、今夜はたしかに大勢の観客が来てましたけど、もうやってこない人がいるんじゃないですか? この場所を見てください。ここにはもう、公共交通機関が通じていません。あなたが演奏を聞かせる相手は、二、三ブロック以内にある倉庫を不法占拠してる人たち。それと、自転車やショーファー(※ 自動運転車)を買える余裕のある人」
「たいていのやつは自転車くらい手に入れられる。それについて文句言ってるやつは見たことがない」
「それじゃあなたは、自転車に乗れる人のために演奏してるんです。最初のバンドのベーシスト、あの人、車がなかったらここに来られたでしょうか」
 聞くに値することを言ってると初めて思った。わたしはアンプに腰を下ろした。
「あなたが演奏を聞かせる相手は、町のごく一部のパンクで、その人たちにとってこのライブは天の声でしょうね。このあともあなたは、一晩外出する余裕があって、それでも自分を革命派だと思ってる一握りの人たちのために演奏する。べつにかまいません。立派な活動です。だけど、ほかの人たちは? シッターを雇えない親は? まだ若すぎて自力でここまで来られなかったり、町なかへ出る手段のないティーンは? 音楽を愛していて、あなたのメッセージを聞くに値する人たちは大勢います。でも運悪く、あなたが演奏する町に住んでいないんです。そういう人たちにも声を届けたくありませんか」
 畜生、畜生、畜生、まともなこと言ってる。ゆうべ酒代を払ってくれた男のこと、中華レストランの外で会った教会のバンの男のことを考え、トウルーリー(※ ライブ会場で知り合った、バンドをやってる若いファンの名前)に車を持ってる姉さんがいなかったらと考えた。
 ニッキは自分の背中に触れた。「ライブのあとのご様子も、今までに二、三度見ました。演奏中のあなたはすばらしいけど、ステージを下りたところを見れば、どんな苦労をしているかわかります。あなたは疲れてる。病気になったり、背中がすっかりだめになったりしたら、どうするんです」
「ずっとなんとかやってきた」そう答えたが、一分前の勢いはなかった。
「もう〝なんとかやる〟必要はないんです。こういうライブは続けられるけど、今までみたいに数をこなさなくていい。お手伝いさせてください。マッサージ療法士だろうと、カイロプラクターだろうと、自動運転バンだろうと提供できます」』(P305〜308)


なぜ、ルースのスタンスに共感したのかと言うと、これは「文章書き」の世界でも、まったく同じことだからだ。

「もっと多くの人に届けたい」と思ったら、商業主義と妥協しなければならないという現実に対する、私なりの「ささやかな抵抗」。

上の中で、

『「あんたは目の前に立ちはだかって、わたしの暮らしを台無しにするのを手伝えと言ってる」
「違います! 台無しだなんて。もっといい生活へお招きしてるんです。これからもライブは続けられます。聴衆だっています」
「金で雇われたエキストラの聴衆? あんたのスタジオの聴衆?」食いしばった歯の隙間から訊いた。』


というやりとりがあるけれども、これは商業出版における「過大広告」と、いったいどれほど違うだろうか?

大した作品でもないのに、ことさらにヨイショしてみせる御用ライターによる提灯持ちの氾濫と、そんな宣伝に手もなく踊らされる大衆。そして、本気の批評の壊滅。

誰だって、自分の作品を多くの人に届けたいし、また、すべての人が差別なく多様な作品に触れる機会を持てる方が良いに決まってはいる。

けれども、そのために「生の声」にこだわること、「本音の言葉」にこだわることを、捨ててしまって良いのだろうか?

私はこの問題について、以前に、忌野清志郎の言葉を紹介するレビューを書いている.
彼も終生、こうした誘惑に抵抗し続けた人だったのだ。


『例のステージ・ホロのオファー、くる夜もくる夜も、雇われた聴衆の前で演奏するという考え、その長所と短所。悪魔との取引に関する奇妙な点は、断ったという人間の話をめったに聞かないことだ。取引の内容によっては、魂を差し出す価値があるのかもしれない。』(P316)


このように、ルースにさえ迷いはあった。自分の体力の限界、あるいは、自分のこれまでの「幸運」にも、自覚があったからだ。

だが案の定、その幸運にまで見放されてしまう。
彼女たちの愛車デイジーが、積載していた楽器やライブの後に手売りするTシャツなどの商品とともに、丸ごと盗難にあってしまうのである。

それでなくても、ギリギリでやっていた彼女たちは、まさに万事休す。
頼りたくなかった警察にも、頼らざるを得なかった。

また、長年の相棒だったシルヴァでさえ、ステージ・ホロに身売りするしか選択肢はないと、そう悔しげに語るのだ。

そこでルースは、最近メンバーに加わったばかりで、まだ年若いジャッキーの意見を聞くことにした。

『「ステージ・ホロってどう思う? まじめな話」
 ジャッキーは地面に唾を吐いた。
「だよね」わたしも同意した。「だけど、身一つでやり直すか、あの会社に立て直してもらうかって二択になったら、あんたどうする?ほかにやりようがなかったら」
 ジャッキーはマイクロブレイズを撫でた。「ほかにやりようがなかったら?」
 うなずいた。
「やりようなんていくらでもあるよ。おれがあんたと契約したのは、にせものの倉庫でにせものの客相手ににせもののショーをやるためじゃない。だったらおれは残らない。そしてあんたは(※ このバンドを)続けられない」
 わたしは草を一握りむしってジャッキーに投げつけた。
 ジャッキーはくり返した。「本気だよ。あんたがどうするかなんて知ったこっちゃない。ルースはもうルースじゃなくなる。あんたの言葉がまだ伝わる相手もいるだろうけど、あんたの怒りは間違った怒りになる。みんなのためじゃなくて、自分のための怒りだ。ルースはホログラム版のルースになる。実体がなくなる」』(P324)


私の胸を強く打ったのは、

あんたの怒りは間違った怒りになる。みんなのためじゃなくて、自分のための怒りだ。


という、ジャッキーのこの言葉だ。

たしかに、ステージ・ホロに魂を売ったところで、それらしいメッセージを発することはできるし、それでたいがいの人は満足してくれるだろう。
その言葉が、本物か偽物かなんて、字面だけを見ているかぎり、決して区別はつかないからだ。

けれども、魂を売った後の、自身の「もっもとらしくも空々しい言葉」に傷つくのは、誰よりもその当人だろう。
「私は、心にもないご立派な言葉を身の程知らずにも語っており、またそれが商品になっていることを歓迎している。そんな度し難いペテン師だ」と。


もちろん、ステージ・ホロの、あるいは商業出版の「誘惑」を拒絶し得た人の話など聞かないし、多くの人は、それで良しとし、むしろそうしたものにこそ憧れるというのが、今どきの現実なのではあろう。

だから、自分を騙してでも、その誘惑を呑み込みたいと、そう切実に思う一方で、しかし、それで自分を騙し切ることは出来ないだろうと、私自身はそう感じている。
だからこそ私は日頃から、自分自身のために、そうした誘惑に対して、声高なまでに抵抗しているのだ。

一一ともあれ本作は、愛車デイジーが見つかるところまでは描かれていない。

しかし、結局のところルースたちは、これまでのやり方で、やれるところまでやってみようと決めたところで、この物語は幕を閉じるのである。

野垂れ死ぬところまで抵抗し切ることができるかどうか、そこまではわからない。
けれども、やれるところまでやろうとした者だけが、「転向=闇堕ち」の汚名から逃れられるというのは確かなことだ。

またそれで、本当に野垂れ死したとしても、それはむしろ、自分にとっての誉れとなるのではないだろうか。

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なお、本作品集で、上の「オープン・ロードの聖母様」とともに、私がことのほか気に入ったのは、本集の最後に収録されているSFミステリの中編「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」である。

多元宇宙をつなぐポータル(出入口)が発見され、それを発見した物理学者サラ・ピンスカーから、平行宇宙に住む300人ものサラ・ピンスカーに対して、「サラ・ピンスカー・コンベンション」への招待状が届く。
そして、その会場となった孤島のホテルで、1人のサラ・ピンスカーが何者かに殺害され、語り手である保険調査員であるサラ・ピンスカーが、嵐の孤島と化して警察を当てに出来なくなったイベント会場のホテルで、主催者であるサラ・ピンスカーから依頼されて、事件捜査を開始する。一一と、そんなお話である。

つまり、殺害被害者も、その犯人も、探偵役も全員サラ・ピンスカーだという状況での「本格ミステリ」なのだ。

見てのとおり、本作のタイトルは、アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』を踏まえたものなのだが、実のところ本作は、連続殺人事件を描いた「フー・ダニット(誰が犯人か?)」の作品ではない。

中編ということもあるにせよ、本作は「ホワイ・ダニット(なぜやったのか?)」の傑作。じつに引き締まった、無駄のない「本格ミステリ」の傑作なのだ。

だから、本作だけは、本格ミステリのファンにこそ、是非とも読んでほしいと、最後にご紹介した次第である。



(2026年5月15日)

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