▷ 映画評:本多猪四郎監督『マタンゴ』(1963年)
マタンゴと言えば、とにかく「キモい」怪物のキング・オブ・キングスだと思う。
例えば、映画『エイリアン』(1979年/リドリー・スコット監督)に登場する宇宙生物、H・R・ギーガーのデザインした、いわゆる「エイリアン」なんかは、確かにグロテスクだし、粘液タラタラなのだが、スタイリッシュすぎて、さほど気色悪いわけではない。
あれは、暗闇の中から襲ってくるから「怖い」だけで、ぜんぜんキモくはないし、むしろカッコいいとすら言えるだろう。

まただからこそ、エイリアンの場合、キモいのはむしろ、その幼体である(通称)フェイスハガーであろう。
あのいきなり人の顔に取りついて、人体の中に卵を産みつけてしまうやつである。

しかし、このように考えると、怪物・怪獣・怪人など、いわゆる「モンスター」と呼ばれるものの中で、「キモい」というのは、案外少ないというのがわかる。
では、それでも「キモい」と感じられるモンスターの特徴とはどんなものか、ここで思いつくままに挙げてみよう。
(1)形が整っていない(シンメトリーではない)
(2)体表が粘液で覆われている
(3)体表がぶつぶつ(出来もの様のもの)で覆われてる
もちろんこれは、私の個人的な感覚によるところも大きいのだけれど、こういうのが好きだという人は、あまりいないのではないだろうか。
ではなぜ、こういうものを「キモい」と感じるのかと言えば、当然これは「病い」による病み崩れ、特に見た目にそれとわかりやすい、皮膚病的な病み崩れを連想するからではないだろうか。

では、どうして、視覚的な病み崩れを「キモい=気持ち悪い」と感じるのかというと、それは「私=自己」というものの境界が侵犯された状態だと感じられるからではないか。
つまり、自己というものが他者によって侵犯されて、自己と他者の明確な境界線が無くなって、自己の統制がとれなくなることへの不安や怖れが、そこにあるのではないだろうか。
前述のエイリアンが、成体よりも幼体フェイスハガーの方が気持ち悪いのは、まずフェイスハガーの場合、その形体が「人型」ではないから、意思や思考といったものが感じられず、何をするのかわかりにくいということもあろう。
しかし何よりも、人間に卵を産みつけるというその属性が、生理的に気持ち悪く感じられるのだと思う。
これは「粘液」に覆われた(滴らせた)モンスターにも言えることで、なぜあれが気持ち悪いのかと言えば、それが人体に付着しやすいし、染み込んでしまうからではないだろうか。つまり、これも他者の自己に対する「侵犯・侵襲」の気味悪さである。
では、マタンゴがまさにそうであるような、ぶつぶつぼこぼこが気持ち悪いのは、なぜなのだろう。
それは、前述のとおりで、侵犯の結果としての病み崩れや体内における異物の増殖を連想させるからではないか(こう書いているだけで、痒くなってきそうだ)。

そんなわけで、なぜマタンゴが「キモい」のかといえば、それはあれが「完成形」ではなく、病み崩れ的な「変形」の過程的な形象だと感じられるからではないだろうか。
そういう「設定」になっているのを知っているというだけではなく、私たちはマタンゴを見て、他者としてのモンスターではなく、自分自身の「なれの果て」の姿を、そこに幻視してしまう。だから気持ち悪い。
マタンゴとは、本来は放射能による突然変異で生まれた新種のキノコの名称であって、あのキノコ人間の名称ではない。
だが、あのキノコ人間を通称のマタンゴと呼んでおけば、マタンゴとは実のところモンスターではなく、キノコに侵された私たち「被害者」の姿であって、危害を加えてくる、恐るべき他者としてのモンスターなどではなく、何物かにおそわれた結果の姿なのだ。
だから、マタンゴには当初「吸血怪物」という設定もあったようだが、映画の中では、そんな設定は完全に失われている。
なぜそうなったのかと言えば、マタンゴの気味悪さは、人間から、血や命などの何かを「奪う」点にあるのではなく、「送り込んできて侵犯する」点にあるからなのであろう。
だから、マタンゴは何やら襲いかかってはきても、具体的に何をするのかが、よくわからない。
怪力があるわけでもなければ、食いかかってくるわけでもない。前記のとおり、吸血という属性も描かれてはいない。
また「胞子」を飛ばして、人間の中へ入り込むというのは、いかにもありそうながら、これも作中で描かれているというわけではない。
では、なぜマタンゴは人間を襲うのか?
いや、正確に言うならば、なぜ人間に「迫ってくる」のか?
ただ単に、迫ってくるだけでは、攻撃にはならない。迫ってきて、つまり「接近」して来て、それから何かをするのでなくては、攻撃にはならない。
マタンゴは、「接触感染」するような性質のものだとも描かれてはいない。あくまでも、キノコのマタンゴを食べなければ、キノコ人間のマタンゴにはならないのだ。

であれば、なぜマタンゴは人に迫ってくるのかといえば、それはたぶん「仲間を増やしたい」という、本能的なものからなのではないだろうか。
ただ、迫って接触しただけでは、相手をマタンゴにすることなどできないのに、なぜそんなことをするのかといえば、それはたぶん、理屈ではなく本能で、そうしているだけ、だからだろう。
マタンゴはもはや「思考」してはおらず、ただ「増殖」本能によって、自分たちの「元となる」人間のそばに寄ろうとしている、ということなのではないかと、私にはそんなふうに思えるのだ。
そして、彼らの気味悪さは、この「考えていない」というところ、「自然に動いているだけ」という、その粘菌的な非人格性にあるのではないか。
そもそも理屈があって行動しているのではないので、その行動が読めないところが不気味に感じられるのではないだろうか。
私は以前、この『マタンゴ』にインスパイアされた奇想小説『日々のきのこ』 (高原英理)のレビューを書いている。
このレビューの中で、私はこの小説が描こうとしたのは、次のようなことなのではないかと指摘した。
『本作『日々のきのこ』の場合は、視点人物である「私」自身が、きのこに侵食される側であるから、「私」自身の「美しさ」はどうでもいいし、そもそも「わかりやすい美」であってはならない。
わが体を侵食してくるのが、きのこの「菌糸」であるというのは、言うなれば「キモいものに犯される(汚される)」ということであり、そこに「被虐的な快感」が生じるのだから、「綺麗」なだけではダメであり、むしろ「グロテスク」なくらいで、ちょうど良いのである。
要は、「作者」であり「読者」自身が、「怪物に凌辱される美女」になって、その「堕ちる悲劇」に酔うのである。江戸川乱歩ではないけれど、醜い「人外」に堕ちてしまうことで、裏返しの「選ばれたる者」に変身変態する。ポール・ヴェルレーヌの「撰ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり」という詩句に表現された「恍惚と不安」を、きのこに犯されて怪物化するという幻想において、作者は楽しみ、マニアックな読者も、それを共有するのだ。一一この小説は、そんな小説なのである。』
前半部分がちょっとわかりにくい言い回しになっているが、要は、私を審判してくる「相手」は、美しくあってはならず、むしろグロテスクなくらいでなくてはならない。そうでないと「侵犯される快楽」を味わうことができない、という意味だ。
ドラキュラ伯爵では、もはや「弱い」のである。
そう。私たちは、汚される側の美しい存在であり、言い換えれば「汚れの無い存在」なのだ。
だから、その無垢な身体や精神を侵犯され汚されることに嫌悪感を覚え、それに恐怖するのだが、その一方で、それを待ち望んでいるところもある。
要は「(ダークサイドに)堕ちてしまいたい」のである。
どういうことかと言えば、これは私たち人間は「理性の動物」であるために、その理性や、理性の生み出した「倫理」によって、否応なく縛られていて、矛盾だの不純物だのを排除する傾向がある。論理的な一貫性(純粋性)を求めてしまう。
私たちは、法則性を欠いたデタラメな状態を不快だと感じがちであり、かえってその意味では、実に不自由な存在なのだ。
例えば、「窃盗罪」が成立するためには、自分のものは自分のもの、他人のものは他人のものという「自他の区分・境界」が明確でなければならない。
ところが、自然においては、こうした「所有権」的なもの存在せず、言うなれば、見つけた者勝ち、先に手に入れた者勝ちとなる。
その獲物は、自然状態では、誰のものでもなく、誰のものでもないからこそ、押さえてしまった者のものになるのだ。
で、ここで思い出されるのは、本作『マタンゴ』において、謎の無人島に漂着した若者たち7人が、食糧を確保しようと、手分けして食料捜索をした際、見つけた難破船の中に残されていた缶詰を、最初に見つけた青年が、ひとりでこっそりと食べ、それを仲間に見つかって非難された際に言い放った「これは最初に見つけた者の役得だよ」という、実にあっけらかんとして、開き直った言葉であろう。





彼も、無人島に流れ着くまでは、こんなことを平気で言えるほど厚顔無恥な人間ではなかったはずだ。
だが、自分の力で食糧を見つけなければ生き残れないという極限状況に置かれて、彼はあっさりと動物化してしまった。本能の命ずるままに行動するようになってしまったのだ。言い換えれば、「自然」に還ったのである。
そして、こうしたことからわかるのは、本作『マタンゴ』は、実のところ、「非人間性というモンスターに汚されて、非人間化していく人間の物語」であるというよりも、「自然」から離れて、特別な力を手に入れることができた特別な動物としての「霊長類」となった人間が、自然からの反攻を受け、一度は体内から排除した「自然」を受け入れることで「自然に回帰する物語」だ、とでもいったことになるのではないだろうか。
この物語は、枠物語となっており、冒頭とラストは、謎の無人島から一人だけ生還することのできた青年・村井研二(久保明)が、外から施錠のされた病室において、自分の体験を語るはじめ、語り終えるという形式を採っている。

しかし、その病院の位置を示すように、冒頭の病室が映し出される前には、ネオンサインの賑やかな、東京のビルディング街が映され、そこには背景音として、ガンガンという大きな「杭打ち音」が響いている。
これは、今では聞くことの出来なくなった、建築現場における、基礎工事のための杭打ち音であろう。



今ならば、ドリル式のねじ込み的掘削が可能だから、杭打ち式のような派手な音がたてられることもないのだろうが、昔は大きな音を立てて工事が行われていたのだ。
そして、この枠物語の部分でもそうだし、物語の実質的冒頭部である、若者たちのヨットクルーズのシーンでも、彼らは「ゴミゴミした都会」というものを否定的に語り、そこから逃れ得ている自分たちを、一種の「エリート」であるかのように語っている。


しかし、そうなのだとすれば、彼らがマタンゴになってしまうのは、彼ら自身の願望の成就ではあっても、決して悲劇などではないのではないだろうか。
いったんは人間によって、いいように蹂躙された「自然」が、「放射能」の力を得ることによって、人間への反攻を始める。
このあたりは、同じ本多猪四郎監督の『ゴジラ』と、まったく同じパターンだと言えよう。
ゴジラの場合は、暴力的な破壊によって文明を自然に返そうとするけれども、マタンゴは人間の自然回帰願望に呼応するかたちで、人間の中へと入り込み、人間そのものを自然化する(マタンゴ化する)ことで、人間の文明を滅ぼして、自然の支配を取り戻そうとしているのではないだろうか。
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本作『マタンゴ』で無視できないのは、キノコを食べた男性たちが、見るからに気持ちの悪い変形(変態)を見せるのに対して、二人の女性は、ほとんど変形しないどころか、水野久美の演じた悪女キャラの関口麻美は、病み崩れるのではなく、かえってその「妖艶さ」を増したようにさえ見える点であろう。
これはいったい、どういうことなのだろう?

一一たぶんこれは、少なくともこの映画においては、女性は「自然」に近い存在であり、「理性的」な男を自然の側に取り込むという、自然の側の尖兵の役目を担わされているからであろう。


無論、こうした「性役割的な決めつけ」は、現代においては性差別として許されるものではないのだが、かつてはそうした偏見が確固として存在していたという事実そのものは、決して否定できないのだ。
ともあれそんなわけで、キノコを食べた麻美は、その マタンゴの対人間用の特殊形態として、その「女性性=妖美な姿体」を強化されたかたちで、人間に接触してきたのではないだろうか。
理性にとらわれた、愚かな男たちを「自然」へと還元するために。

まただからこそ、ゴリゴリの理性主義者であり、そうした自然の誘惑をすべて退けて、独り文明社会に復帰した青年・村井研二は、最後の最後で「自分も島に残り、キノコを食べて、愛した相馬明子(八代美紀)とともに生きるべきだったのではないか」と、後悔を語ることにもなる。


「非人間的であるということでは、この都会もあの島も同じなのだから」と、人間社会の非人間性を告発しながらそう言う村井なのだが、一一しかしながら、たしかに文明社会というのは「人間が人間のために作った非人間的な社会」なのに対して、マタンゴの島の「自然」とは、ただ単なる「自然」なのだ。
人間の方がそこ(自然)から勝手に出ていっただけで、そこに戻ることは、別に「悪」でもなんでもないのである。
つまり、「非人間的な都会」と「マタンゴの島」は、同じように「非人間的」だというわけではない。


そもそも「都会の非人間性」とは「人間性というものが、反自然的なものであるからこその非人間性」であり、「自然の一部としての人間」を否定するための「非人間性」なのだ。
だから、この物語は、決して「おぞましい自然が、清潔な人間文化を侵犯する物語」なのではなく、そもそも「自然を侵犯して汚した人間を、自然が反攻的に浄化する物語」だとさえ言えるのではないだろうか。
キノコを食べて人間が病み崩れるのは、人間の中にある「文明の毒素」を排除するためであり、その結果として、人は「自然に還る=土に帰る」ということなのではないか。
もろくもポロリともげ落ちてしまう、キノコ人間の腕のように。
すでに多く指摘されているであろうとおり、キノコというのは、そのかたちが「男根」に酷似しており、男根とは、女性の身体に侵入して、精子を植えつける性器である。
だとしたら、マタンゴが人間に自然の種子を植えつける男根的な存在だとしても、なんら不都合はないだろう。
前述のように、人間が「機械仕掛けの男根(ペニス)たる杭打ち機」のようなものを使って自然を侵犯し蹂躙して、その領土を暴力的に広げてきたのだとしたら、反攻を始めた自然は、マタンゴという男根によって、人間の文明に対し、反攻の杭を打ち込み始めたということなのではないだろうか。
畢竟、ネオンサインに彩られた都会のビル群というは、本作で描かれた、色とりどりの巨大キノコの群生するジャングルと大差のない、コンクリートジャングルとでも呼べるものなのである。



(2026年5月16日)
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