小川哲 『斜め45度の処世術』: 複雑骨折の人

▷ 書評:小川哲『斜め45度の処世術』(CEメディアハウス)


直木賞作家・小川哲の、第一エッセイ集である。

タイトルからもわかると、ちょっとひねった視点から、世の中のあれこれについて、自分の考えを披瀝するといった内容だ。


例えば、本書の「はじめに」は、いきなり次のように始まる。

『 きわめて遺憾である。なにが遺憾かというと、本書のタイトルである。
『斜め45度の処世術』。

 そもそも僕は、自分が「斜め」だとは思っていない。僕はずっと自分が「普通」だと思って生きてきたのだが、小説家になって自分の考えを文章で書き始めると、いろんな人に「変わっている」とか「屁理屈」とか「ひねくれ者」とか言われるようになった。でも未だに納得できていない部分もあって、「僕じゃなくて世界の側が間違っている」と感じることも多い。「斜め」なのは僕じゃなくて世界の側なのではないか。』(P2)


このように、小川哲には似合わず、妙に大真面目な主張で始まるのだが、その先を読んでいくと、この「編集者に提案されたタイトル」について、次のように書いている。

『宇宙の果てからひねくれ星人が侵略してきた時、地球のひねくれ者代表として戦うことはできないけれど、書籍として出版して楽しんでもらうくらいならできるかもしれない。そう考えると、『斜め45度の処世術』は悪くないタイトルだと思う。だから了承した。「遺憾である」と冒頭で主張したのは、一度言ってみたかったからだ。』(P6)


つまり、小川自身、自分が世間から見れば「ひねくれ者」だというのは自覚しているし、そう思われることを、特に嫌がっているわけでもない。
ただ、素直に「はい、私はひねくれ者です」と言ってしまっては、面白くもなければ芸もないので、そこは、ひねくれ者らしく、いったんは否定して見せた、ということだ。

そして、上の引用部に続く締めくくりの部分では、ひねくれ者的な視点、つまり「斜め45度」的な視点を楽しんでもらい、参考にしてもらえればいいんじゃないかと、無難にまとめて見せるのだ。

そんなわけで、この序文には、小川哲の小川哲らしさが、とてもよく表れていると思う。

どういうことかと言うと一一、小川哲には、世間並みのストレートさで当たり前のことを当たり前に書く気は無い。そんなものはつまらないから、そもそもそんなことをやる気などさらさら無い。
だから「一捻りしてしまう」と、そういうことなのだ。

一一しかしながら、だからと言って、世間の凡庸な常識と、ガチンコで対立する気もない。
そんなことしても徒労だと、そんな醒めた考えの人だからである。

したがって、自分の「反・世間」的な考え方は、あくまでもエンタメ的な芸の内に無難に収めて、それを読者に楽しんでもらえれば、作家も読者もウインウインで、どちらも得だろうと、そういう「醒めた発想」なのだ。

とは言え、これまで、あちこちで書いているように、小川のご両親というのは、そうとう教育熱心な、ちょっと極端なところのある人たちだったようで、小川はそうした両親への反発を通して、そのひねくれ者的な発想を鍛えて上げていった人のようである。
だから、若い頃の小川は、両親が体現するような「当たり前」に対して、けっこう反抗的な人間だったようだ。

無論、世代が違うから、政治的な学生運動や家庭内暴力に走ったのではなく、ああ言えば上祐的に口答えしていたようなのだ。
「そんなの非合理で馬鹿馬鹿しい」と。

例えば、本書の中では、今でも「あけましておめでとう」という言葉が決して口にできないと、そんな偏屈ぶりを披瀝している。

「なんで、恣意的なものでさかない時期の区切りが来たというだけで、おめでたいのか? おめでたいのはお前らのほうだろう」と、そういうことだ。一一まったく同感である。

しかし、親になら、いちいち口答えしていてもそれでも済むが、歳をとって広く他人とのつきあいが迫られるようになってくるとそんなことをやってもいられないので、さすがの小川哲も、本音は隠して無難にやり過ごすという態度を採るようになっていった。
つまり「大人になった」ということだ。

だが、性根が変わったわけではなく、単に本音を隠しているだけだから、その態度は一歩ひいたような、どこかしら醒めた態度になるし、本音が語れるほど親しくなった友人たちからは「変わっている」とか「屁理屈」とか「ひねくれ者」とか言われるようになった。
さらに、小説家になってその頭の中を作品化するようになると、今度は「いろんな人」から「変わっている」とか「屁理屈」とか「ひねくれ者」とか言われるようになったと、そういうわけである。

だが、私個人は、「変わっている」とか「屁理屈」とか「ひねくれ者」とかが、嫌いなわけではない。一一と言うか、かなり好きだ。

だから、自分も「変わっている」とか「屁理屈」とか「ひねくれ者」とかの部類だと思っている、一一と言うか、その部類の中でも、チャンピオン級だと自負している。
つまり、「変わっている」とか「屁理屈」とか「ひねくれ者」とかいった点において、小川哲に勝っているとさえ思っている。

どこが、優っているのかというと、自分の「変わっている」とか「屁理屈」とか「ひねくれ者」とかいった部分を、あまり隠さない、という点である。普通は隠すものなのだ。

もちろん、私も社会人をやっていたし、それで公務員を無難に40年勤めあげたタヌキなのだから、自分の本性を隠すことができないわけではない。

しかし、本性を隠してばかりでは自分がしんどいだけで損だから、隠しても良い場面と隠してはならない場面を分けることにして、隠しても良い場面では徹底して「無難な常識人」を演じ、ここは自分にとって大切な場所だと思うところでは、徹底的に自分を出す。

つまり、食い扶持を稼ぐためだけにやっていた「職業としての仕事(職場)」は前者であり、文章書きに関わるところが後者だということだ。

例えば会社では、同僚が「NISAは、やらないとぜったい損ですよ」と言うと「あっ、そうなんですか。詳しいんですねえ」などと、毒にも薬にもならない返事を返していたのだが、文章を書く時は、そういうブームに乗っている人たちの危うさを、「一般論」として論じることになる。
そのことに、社会的な価値があると考えるからだ。


だが、では、個人的な場(面談的な場)では、自己を強く出さないのかと言えばそうではない。

自分が大切だと思う人に対しては、自分の本音をぶつけるのが「義務」だとすら感じている。だから、たとえそれで関係が悪くなる可能性があるとしても、その本音を口にする。
そして、それで潰れてしまうような関係なら、それまでのものだと、そこまで割り切って、本音を語るのである。

言い換えれば、NISAの同僚などは、どうなろうと知ったこっちゃないくらいの関係でしかなかったのだ。
そのくらい、割り切っているのである。

だから、私と個人的に親しい人は、私からたまに耳に痛いような意見を聞かされないようなら、それは自分が私から尊重されていないのだと捉えるべきである。
だから、嫌なことを言われたら、信頼されている証だと、そう喜ぶべきなのだ。一一いや、ホントに。

さて、自分語りが長くなってしまったが、これは私の個性だから、受け入れてもらいたい。一一と言うか、批評とは、本質的に「自分語り」なのだと、かの小林秀雄が言っている。
検索するのが面倒なので、引用はしないけれど、小林秀雄が言ってるか否か以前に、私はそう思っているのだから、その流儀でやるしかないのだ。

と、こう書いておいて、小川哲の文章に戻るのは、私がひねくれ者だからなのであろう。こういうひねくれぶりは、書いていて楽しいのだ。

さて、小川哲は「〝性格がいい〟ってなんだろう」と題したエッセイの中で、次のように書いている。
4ページ分のエッセイの、後半丸ごとを、まず引用する。

『 僕の経験では、SNSでよく炎上している人に実際に会うと、〝性格がいい”ことが多い。彼らは〝性格がいい〟からこそ炎上しているのだろう。〝性格がいい人〟は、自分の思いをまっすぐ言葉にする。そのせいで意地の悪い人に深読みされたり、無自覚なまま誰かを傷つけてしまったり、誤解や憶測を生んでしまったりする。

 逆に、SNSを上手に使っている人が〝性格が悪い〟こともある。性格が悪いからこそ、「こういうことを言うと意地悪な解釈をされてしまうかもしれない」とか、「こういう屁理屈を言われるかもしれない」とか、脳内でさまざまなケーススタデイができるので、慎重に言葉を選ぶ。本心のまま言葉にすれば誰かからイチャモンをつけられると知っているので、なるべく無難な内容を投稿する。

 僕がSNSの使い方を教える講師のような仕事をするとしたら、ある投稿(内容はなんでもいい)に対して、できる限り多くのクソリプ(クソみたいな返事)を考えてもらう、という授業をすると思う。〝性格がいい人〟は、あまり多くの例を出せないはずだ。自分で投稿する前に、あらかじめ自分の脳内でクソリプの例を出せない故に炎上してしまうのだ。もしかしたら〝性格がいい〟と思われるためには、〝性格の悪さ〟が必要だ、とすら言えるかもしれない。

〝性格がいい〟という言葉は難しい。自分(※ 小川哲)が感じる優しさは、むしろ冷たさに由来するものかもしれないし、厳しさは愛から生まれているのかもしれない。性格がひねくれているからこそ、相手の考えを想像することができる、という側面もあるだろう。
 現代では、誰かに意地悪なことを言われたら、「この世にはそういう発想もあるのか」と勉強するくらいがちょうどいいのかもしれない。』(P94〜95)


では、私は〝性格がいい〟人なのか、〝性格が悪い〟人なのかという問題だが、このエッセイでは、ぜんぜん説明がつかないから、及第点はあげられない。

(1)『 僕の経験では、SNSでよく炎上している人に実際に会うと、〝性格がいい”ことが多い。彼らは〝性格がいい〟からこそ炎上しているのだろう。〝性格がいい人〟は、自分の思いをまっすぐ言葉にする。そのせいで意地の悪い人に深読みされたり、無自覚なまま誰かを傷つけてしまったり、誤解や憶測を生んでしまったりする。』


とのことなのだが、私の場合は、人後に落ちない、燃えるマグマのファイアーマンである。つまり「炎上の人」。

なにしろ、小川哲も親しくしている東浩紀が昔やっていた、インターネットについての学際的研究において、「炎上」の代表事例として紹介されていたのが、他でもない、私がらみの炎上事件なのだ。


また、私は若い頃は「寄らば斬る」的に、やたらと論争をしていたので、すぐに危険人物扱いになったのだが、ある時、ミステリマニア関係の飲み会に参加した際、翻訳家で評論家の大森望がゲスト参加していて、初対面の私に対して「ネット上のイメージとぜんぜん違いますね」というようなことを言った。
つまり、実物は「温厚な人だ」という意味である。

また小川哲言うところの『〝性格がいい人〟は、自分の思いをまっすぐ言葉にする。』というのも、私にピッタリだ。
私は、直言居士であることを是としている。

つまり私は、小川哲が(1)で言うところの〝性格のいい〟人に、半分は当てはまるのだ。

しかし、『自分の思いをまっすぐ言葉にする。そのせいで意地の悪い人に深読みされたり、無自覚なまま誰かを傷つけてしまったり、誤解や憶測を生んでしまったりする。』という部分は、当たっていない。

というのも、小川哲がここでいっているのは、〝性格のいい〟人は、率直正直に話せば、その誠意は相手にも伝わるはずだと信じているような「ナイーブ」な人だと、そういう意味なのだが、私の場合は、ぜんぜん違う。

つまり、率直に語っても、誤解されることが少なくないことなど、百も承知している。
だから、シオドア・スタージョンの、

SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである


という言葉を、しばしば引用するのだ。

「読者の9割は、読解力の無いクズ」なんだから、率直に語ったところで、そのまま伝わるわけなどないと、そう思っているのである。

だからまた、私の文章は喩え話なども多く、かなりわかりやすく書かれているとも思う。読者の読解力を当てにしていない、これはその証左なのだ。

ともあれ、文章を公けにするのならば、誤解される場合があることなど承知の上だし、誤解されるのなら、当然、結果として他人を傷つける場合もあることだって承知の上だ。

つまり『無自覚なまま誰かを傷つけてしまったり、誤解や憶測を生んでしまったりする。』ということは、無い。

何を書いたって、それで傷つく人は「必ずいる」はずだが、意見の戦わされるべき民主主義の世界においては、必要な言論において、傷つく人が出るのは「やむを得ないこと」だし、それは、民主主義社会に住む者の「受任義務」の範囲内だと、私はそう考える。
「私が傷つく言葉は、すべて発してはならない」などと主張する権利など、誰にも無いと、そう考えているということだ。

もちろん、公的言論における自明の前提として、発言者には「理を尽くす義務」があって、言いたい放題が許されると言っているわけではない。

しかしそれでも、発言に対する『誤解や憶測』は生じる。

だがまた、自身の「理解」が正しく、私の意見が間違っているというのであれば、「根拠を示して、反論しろよ」ということであり、「私がそれを論駁してやるから」ということになるのだ。

だって、それが民主主義というものだろ、えっ兄弟? 一一というわけである。

(2)『 逆に、SNSを上手に使っている人が〝性格が悪い〟こともある。性格が悪いからこそ、「こういうことを言うと意地悪な解釈をされてしまうかもしれない」とか、「こういう屁理屈を言われるかもしれない」とか、脳内でさまざまなケーススタデイができるので、慎重に言葉を選ぶ。本心のまま言葉にすれば誰かからイチャモンをつけられると知っているので、なるべく無難な内容を投稿する。』


つまり、小川哲は、ここで自身を〝性格の悪い〟人に擬することで、世間の理解を求め、賛同と共感を集めようとしている。

なぜ、そう言えるかというと、世間の大半の人は、小川哲と同様に「無難を事とする」人たちだからだ。

「炎上」というのは目立つから、「炎上する人」というのが結構いるように勘違いされがちなのだが、そんな「不器用な人」は、滅多にいないのだ。少数派なのである。

なにしろ「自分を主張しないことで有名な日本人」なんだから、「無難に生きる人」が大半(9割以上)なのは、わかりきった話であり、小川哲はここで、そうした「9割以上」に向けて「僕たち、一緒ですね」と目配せを送っているのである。

(3)『 僕がSNSの使い方を教える講師のような仕事をするとしたら、ある投稿(内容はなんでもいい)に対して、できる限り多くのクソリプ(クソみたいな返事)を考えてもらう、という授業をすると思う。〝性格がいい人〟は、あまり多くの例を出せないはずだ。自分で投稿する前に、あらかじめ自分の脳内でクソリプの例を出せない故に炎上してしまうのだ。もしかしたら〝性格がいい〟と思われるためには、〝性格の悪さ〟が必要だ、とすら言えるかもしれない。』


〝性格のいい〟人はナイーブだから、自分の意見が誤解される可能性に配慮できないし、だから理不尽な「クソリプ」なんてものには想像も及ばず、それに配慮することができないから炎上するのだ、という、これが小川哲の〝性格のいい〟人理解なのだが、私の場合は、小川哲が言うところの〝性格のいい〟人であるにもかかわらず、クソリプにも配慮できる。

どう配慮できるのかと言えば、「いつでもかかってこいよ。返り討ちにしてやるから」という配慮である。

実際、昨年などは糞リプマンを名乗る人から「クソリプ」をされて(正確には、レビューのコメント欄にクソコメをされたので、その後)、数ヶ月にわたって「匿名でしか物の言えない、人生の負け犬野郎」とイジメ倒してやり、こっちをブロックさせてやったりしたのだ。


小川哲にすれば、そんなこと「人生の浪費」だということになるのだろうが、これは民主主義に必要な言論戦なのである。

そして、理屈が通じない卑怯者に対してさえ、武蔵大学教授で自称フェミニストの北村紗衣ように、「数の力」や「国家権力」を傘に着て反撃するのではなく、あくまでも「言葉」で応戦する民主主義者なのだ。




そんなわけで、私の場合は、小川哲が言うところ、「性格がいい・性格が悪い」という、単純な二分法になどは、到底収まりきらない。

言うなれば「極端にいい性格は、極端に悪い性格に通ず」みたいなものだ。
「テロリストには、真面目な人が多い」というのも、似たようなことかもしれない。

そこでは「良いと悪い」の単純な二分法など通用せず、「良いは悪い。悪いは良い」という、「不思議の国」的なロジックが、むしろ当たり前なのである。

(4)『〝性格がいい〟という言葉は難しい。自分が感じる優しさは、むしろ冷たさに由来するものかもしれないし、厳しさは愛から生まれているのかもしれない。性格がひねくれているからこそ、相手の考えを想像することができる、という側面もあるだろう。
 現代では、誰かに意地悪なことを言われたら、「この世にはそういう発想もあるのか」と勉強するくらいがちょうどいいのかもしれない。』


結局、このエッセイの結論は『誰かに意地悪なことを言われたら、「この世にはそういう発想もあるのか」と勉強するくらいがちょうどいいのかもしれない。』一一という、いかにも小川哲らしい、無難なところに落ち着くことになる。

だが、無論これは、小川哲の立場を正当化する議論でしかない。
「凡庸な意見だけど、これが当たり前でしょう?」というわけだ。

だが、こんなものが「面白い」わけがない。

「面白い」というのは、少々極端でも、少々間違ってさえいても、「当たり前」を揺るがすもののことだからである。

小川哲のこのエッセイ集は、「ひねくれ者」を強調することで、実は「凡庸な常識」論を追認し、それによって凡庸かつ多数派である読者を取り込もうとするものでしかない。

もちろん、一本4ページほどのエッセイでは、突っ込んだことが書けないというのもあるのだろうが、しかし、紙幅がゆるしてもそこまでは突っ込まない、というのが小川哲の処世術なのだから、やはり長さの問題ではないのであろう。

私と同様に、世の中には期待しないという「諦観」を持っていながら、それでも言わずに済ませることのできないのが私なら、それで済ませてしまえるのが、小川哲なのだとも言えよう。

その意味で小川哲は、所詮は売れてナンボのエンタメ作家なのである。

一一と、こういう挑発を不快に思いながらも、一面で『「この世にはそういう発想もあるのか」と勉強』し、喜んでもいるのが、心の複雑骨折者である、小川哲という人なのだ。



(2026年5月17日)

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