▷ 映画評:ウディ・アレン監督『マンハッタン』(1979年/アメリカ映画)
ハリウッドにおけるカラー映画というのは、1930年代から1940年代にかけて普及し、1950年代には一般化したものである。
一方、本作『マンハッタン』は1979年の作なのだが、しかしモノクロ作品となっている。

この事実からしても、すでに本作が、ある種の懐古趣味による作品であることは明らかだ。
一一と言うよりも、そういう作品であることが示唆されていると、そう考えるべきだろう。
さて、ニューヨーク・マンハッタンと言えば、ブロードウェイを擁するアメリカ文化の中心地であると同時に、数々の名作映画の舞台ともなっており、その意味でもアメリカ文化を象徴するような場所である。
絵として真っ先に浮かぶ「アメリカらしいアメリカ」だという意味だ。
本作の冒頭は、朝焼けに浮かぶマンハッタンの高層ビル群のシルエットに、モノクロ時代の映画音楽の巨匠ジョージ・ガーシュウィンの名曲が重なって、古き良きアメリカのイメージが、映画ファンの胸を揺さぶる。
しかしながら、正確に言うなら、ガーシュタインは、
『ポピュラー音楽とクラシック音楽の両面で活躍し、アメリカ音楽を作り上げた作曲家として知られる。』
『舞台作品の数は50曲にのぼり、その中でオペラは2曲、ミュージカルが50曲、映画音楽は4曲しか残されていない。管弦楽曲は7曲を作曲している。室内楽曲は2曲のみ。ピアノ曲は10曲。歌曲は500曲も残されている。』
(Wikipedia「ジョージ・ガーシュウィン」)
と、映画音楽は意外に少ないのだが、それはガーシュウィンが、ブロードウェイ・ミュージカルの世界で大活躍し、その流れから初期のハリウッド・ミュージカルの段階では、すでに巨匠だったためであろう。
つまり、本作『マンハッタン』の監督であるウディ・アレンを含めて、同時代ではなくとも、戦前のアメリカ映画を見ている世代のアメリカ人にとっては、ガーシュウィンの音楽は映画音楽に限らず、古き良きアメリカを連想させるものだったのではないだろうか。
例えば、私がこれまでにレビューを書いたウディ・アレンの作品に『カイロの紫のバラ』(1985年)があるのだが、同作の、熱心な映画ファンであるヒロインが映画館で見る、フレッド・アステア主演のモノクロミュージカル映画『トップ・ハット』(1935年/マーク・サンドリッチ監督)は、ヒロインの不運な人生の「救いの象徴」となっている。
この『カイロの紫のバラ』は、ガーシュウィンが音楽を担当した作品ではなかったが、アステアと同時代に活躍したミュージカル映画の大スターであるジーン・ケリーの代表作である『巴里のアメリカ人』(1951年/ヴィンセント・ミネリ監督)は、ガーシュウィンが音楽を担当して、アカデミー賞の作品賞とともに音楽賞も受賞した、6部門での受賞作品だった。
本作『マンハッタン』は、朝焼けのビル群のシルエットから、マンハッタンの街中の風景へと画面は移ってゆき、そこに主人公のアイザックを演ずるウディ・アレンのナレーションが重なる。
その内容は、マンハッタンの風景に最も相応しい主人公の語りとはどのようなものなのかというものであり、それを試行錯誤して検討している様子の、本作主人公の独白だ。
本作の主人公アイザックは、テレビの脚本作家(シナリオライター)であり、当然のことながらと言ってもいいだろうが、熱心な映画ファンである。
大雑把に言えば本作は、そんなアイザックを中心としたマンハッタンの男女をめぐる恋愛模様を描いた作品だと言えるのだが、それは昔のアメリカ映画が描いたような、スマートかつロマンティックなものではなく、ちょっとどうしようもないようなものなのだ。
しかしながら、私はここにこそ、ウディ・アレンの「古き良いアメリカ映画」に対するオマージュを感じる。
「あの頃の映画が描いたような世界は、もうここにはない。
今ここにいる僕たちは度し難い俗物で、人様にお見せするような夢を提供するようなこともできない。それが現実なのです。
けれども、そんな僕たちでも、今でもあなたがたが見せてくれた夢を、追い求めているところはあるんですよ」
一一そんな思いである。
実際、物語の開幕早々、アイザックは「近頃のテレビコメディの質の低下は我慢ならん」と言って、衝動的にテレビ局の脚本家の仕事を捨ててしまい、途端に生活に窮してしまう。
不本意なところはあったにせよ、テレビ全盛時代にテレビ局の仕事をしていれば、少なくとも生活は安定していて悪くはなかったし、脚本家として、人から一目置かれる存在でもあり得たのだ。


だが、その職を捨てて、完全なフリーとなり「小説を書く」とそう決めたところで、それが失敗すれば、彼は単なる無職の中年男である。
友人の編集者は、彼の新作の冒頭を読んで、面白いと励ましてくれるし、アイザックにだって勝算はあった。
しかし、それに絶対確実だという保証まではない。
テレビの脚本家であった42歳アイザックには、二度の離婚歴があり、今は17歳の恋人トレーシー(マリエル・ヘミングウェイ)がいる。

しかし、なにしろあのウディ・アレンがそのままの姿で演じているアイザックなのだから、こんなしょぼくれた中年男が、どうしてこれほどモテるのかとは、見る者の誰もが感じるところだろう。
それに、彼の性格や言動が、とびきり立派だとか男らしいなんてことはないのだ。
劇中的な理由として考えられるのは、彼が脚本家としてはとても優秀な人で、それなりの有名人だった、ということくらいであろう。
それにしても、やはりモテすぎの感は否めない。
本作の詳しいストーリーは「Wikipedia」に譲るとして、この妙にリアリティを欠いた物語の意味するものは何なのかと考えてみると、やはりこれは「古き良いアメリカ映画」と「現実のアメリカ」のギャップを「自己卑下」的に描きつつ、「古き良きアメリカ」へオマージュを捧げた作品、ということなのではないかと、私は考える。
つまり、本作は、その根っこの部分で『カイロの紫のバラ』と似た動機によって作られた作品なのだ。
『カイロの紫のバラ』は、暴君である夫に搾取されている妻が、そんなつらい現実からの唯一の救いとして、映画の中のロマンティックな世界へ逃避して生きていたのだが、その映画の中の世界から、彼女の憧れのヒーローが「第四の壁」を超えて現実世界にやってきて、彼女とのロマンスが実現する一一という、そんなお話だ。
しかし、物語のラストでは、その束の間の夢も終わって、彼女はまた幸福だとは言い難い現実世界に取り残されてしまう。
だがまた、そんな傷心の彼女には、やっぱり映画が残されていた。一一というところで、この作品は「ささやかなハッピーエンド」を迎えるのである。
つまり、『カイロの紫のバラ』は、明白な「メタフィクション」の形式の作品だったわけだが、本作『マンハッタン』を、モテるはずのない主人公が、映画の中の主人公のようにモテて、しかし、映画の中の主人公のようなスマートな恋愛にはならないという「現実」をも引きずっているという、そんなギャップを描いた作品だと考えたら、どうだろうか?
つまり本作『マンハッタン』は、『カイロの紫のバラ』のような明白な「メタフィクション」ではないけれども、実は内容的には、現実の枠組みの中に、故意に矛盾するようなフィクションの枠組みを組み込んだ作品であり、その意味での「メタフィクション」だと考えても良いのではないか。
「古き良きアメリカ映画」では、多少の困難や障害はあれ、主人公の恋愛はスマートかつロマンティックなかたちで、たいがいの場合は成就する。
ところが、本作の主人公アイザックの恋愛は、うまくいきそうで、うまくはいかない。
彼自身、特に気が多いわけでもなければ、特に性格的な問題があるというわけでもない。
例えば、彼にはずっと年下の17歳の美少女トレーシーという恋人がいるわけで、これはちょっと非現実的ではあるのだけれど、しかしアイザック自身は、彼女の将来を考えて、あえて彼女との距離をとろうとする。
一時の恋愛遊戯ならまだしも、深入りするのは彼女の将来のためには良くないと考えたのだ。
「こんな関係がいつまでも続くわけがないし、君はこれからいろんな人が好きになり、そうした経験を経て大人になっていくんだ。だから、妙に僕なんかに固執するのは良くない」
などと、どんな二枚目(イケメン)でも、まず口にすることがないような、立派すぎるほどの言葉を口にする。

アイザックは、友人のエール(マイケル・マーフィー)が、妻(エミリー:アン・バーン)のある身でありながら、別に愛人(メリー:ダイアン・キートン)を作ったりすることに注文をつけたり、そのエールの愛人であるメリーにはその衒学趣味が鼻につくところがあり、そんな彼女がアイザックの尊敬する映画監督イングマール・ベルイマンをにべもなく酷評したことに腹を立てて「頭でっかちの、いけすかない女」だと批判したものの、しかしそんな彼女が、同棲を迫るエールに対し「奥さんに申し訳ない。そこまでしてあなたと一緒になりたいとは思わない」と言い、エールの方も妻と別れる気のなかったことから二人の関係が消滅した後、アイザックは彼に好意を示したメリーとつきあいはじめ、彼女の美的な趣味を受け入れるまでになる。
そうしたこともあり、アイザックは17歳トレーシーに、メリーとの関係を明かして、彼に執着するトレーシーとの関係を断ち切ることもする。
その一方で、彼の別れた2人目の妻ジル(メリル・ストリープ)には、彼との夫婦生活、特に「性生活」についての暴露本を出されて激怒するものの、出されてしまったものは、どうしようもない。

彼は、新たに恋人となったメリーに対し「どうして僕の結婚は長続きしないんだ」と嘆き、それに対してメリーは、私は大丈夫、「あなたは、子供を持ちたいと思わせてくれた人よ」と本気で答えて、アイザックを喜ばせる。



ところが、メリーを諦めきれなかったエールがメリーに連絡を取ったことから、二人の関係が再燃し、メリーはアイザックに「あなたに嘘をつきたくなかったの。でも、今はやっぱりエールが好き」と告白し、別れを告げる。
アイザックはショックを受け、もはやメリーに対しては怒る気にもならなかったが、友人を裏切ったに等しいエールには激怒して、彼の職場にまで怒鳴り込むのだが、エールは「君は俺に聖人君子であれと言うのか? 好きになってしまったものは仕方がないじゃないか。君を裏切りたいんじゃない。ただ、私はメリーが好きなだけなんだ」と、そんな身も蓋もない反論をされては、メリーのことを諦めるしかなかった。

理屈はどうあれ、メリーはエールが好きなのだし、今の二人は相思相愛。
しかも、エールの妻のエミリーすら、旦那の浮気を容認していると言うのだから、それに第三者が嘴を挟んでも、どうにもならないことなど分かりきっていたからだ。
そんなわけで、アイザックはひとりぼっちになってしまう。
メリーと結ばれるつもりで、トレーシーとの関係を完全に絶ったというのに、そのメリーに捨てられてしまったのだ。
それで「トレーシーと別れるんじゃなかった」と、アイザックは、そう未練がましくも後悔しはじめる。
かっこよく「君のためなんだ」と、こちらから別れを告げ、しかも、他に好きな人が出来たと告げて、トレーシーを傷つけておきながら、どのツラを下げて「やっぱり、もう一度つきあってくれ」などと言えよう?
しかも、トレーシーには女優修行のためのイギリス留学の話があって、当初トレーシーは、アイザックと別れたくないがためにその話を断ろうとして、かえってアイザックから「僕と別れて留学をするのが、君のためなんだ」とまで言われていたのである。
だが、アイザックにメリーという恋人ができたと知らされ、泣く泣くアイザックのことを諦めたトレーシーは、イギリス留学を受け入れて再出発をしようとしていた。
それはまさに、アイザック自身が求めたことだったのである。
ところが、ひとりぼっちになってしまったアイザックは、自分を心底慕ってくれたトレーシーのことが思い出されてならなかった。
出来ることならヨリを戻したい。
けれども、どのツラを下げてと煩悶葛藤した挙句、彼はこのままトレーシーと別れることなど出来ないと悟って、彼女のところへ電話するが、話し中でつながらない。
それで仕方なく彼女のアパートに駆けつけようとするも、タクシーがつかまらず、彼は必死でアパートまで走って行った。
そして、彼がトレーシーのアパートの正面玄関のガラスドアの前に立ったところ、まさに彼女が奥の廊下で荷物を持って、アパートを出て来ようとするところであった。
一一まるで、ダスティン・ホフマンが主演した『卒業』(1967年/マイク・ニコルズ監督)の、ラストシーンさながらである。
トレーシーは、アイザックが立っているのをのを認めて、驚いたように鞄を置いて立ちつくす。
アイザックは、そんな彼女に歩み寄り「僕が間違っていた。僕には君が必要なんだ。行かないでくれ」と、身も蓋もなく懇願する。
当然、トレーシーはメリーとの関係はどうなったのかと問うと、アイザックはダメになったと正直にうちあける。
トレーシーは、だからまた私なのと、これも当然の反問をするが、その表情は、決して冷め切ったものではない。
そんなトレーシーに対して、アイザックは情けなくも「行かないでくれ。僕には君が必要なんだ」と繰り返すことしかできなかったが、トレーシーは、
「もう遅いわ。留学の手続きは済んでしまったから、今更キャンセルしたら、多くの人に迷惑をかけてしまう。それに、両親があっちでアパート探しもしてくれているから、行かないわけにはいかない。
一一だから、もしも私たちの関係が続くとしても、それは留学後の話だわ」
と、そう言う。
それでアイザックが、留学期間を尋ねると、トレーシーは、半年だと言う。
「本当に私が好きなら、半年くらい待てるでしょ?」と。
しかしアイザックは「しかし、君はあっちで俳優の養成所に入るのだろう? そこには、俳優の卵たちや演出家など、才能豊かな人たちが大勢いる。そうなれば、きっと君の気持ちは変わってしまう」と言う。
だが、これに対してトレーシーは「でも、それは、あなたが私に望んだことだったんじゃなかったの。もっといろんな人と知り合って、世の中のことを経験しろ、って」と言い、そう言い返されたアイザックには、もはや返す言葉も無かった。

けれども、絶望したかのようなアイザックの哀れな表情を見つめた後、トレーシーは、落ち着いた調子でこういうのだ。
「少しは人を信頼したら」
そう言われて、トレーシーの顔を見返したアイザックの顔に、やがて安心したかのような笑みが浮かぶところで、この物語は幕を閉じる。
一一まさにこれは、『カイロの紫のバラ』と同様の、ラストカットではないだろうか?
つまり、現実的に考えれば、アイザックが心配するように、トレーシーは留学先で、新しい恋人を見つける可能性が低くはない。
つまり、彼女を行かせてしまうということは、彼女を失うということに限りなく近い行為なのだ。
けれども、この時アイザックが、トレーシーの言葉に感じたのは、「古き良き時代のアメリカ映画」の中で描かれた「変わらぬ愛」だったのではないだろうか。
半年くらいで変わるわけもない、真の愛。
それはたしかに「フィクション的な理想」としての愛なのかも知れない。
本作でも描かれたとおりで、現実はそううまくはいかないものなのだけれど、しかし、私たちが「古き良き時代のアメリカ映画」に夢見ていたのは、そんな「変わることのない愛」だったのではないだろうか。
つまり、このラストシーンは、そんな「古き良き時代のアメリカ映画の夢」を再現したものであり、それが「今やリアリティのないもの」であることを百も承知の上で、それへのオマージュ捧げたラストシーンなのではないか。
あの頃の映画は、私たちに、前向きな夢と希望を与えてくれた。一一そんな感謝の思いが、このラストシーンには込められていると、私はそんなふうに理解したのである。
現実を無視して逃避するわけではない。
けれども、度し難い現実を認めた上で、それでも理想を夢見ることが、私たちには必要なのだ。
本作は、そんな切ない思いを、祈るように語っているのではないだろうか。

(2026年5月19日)
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