内田百閒 『残夢三昧 内田百閒集成16』: 夢の通い路

▷ 書評:内田百閒『残夢三昧 内田百閒集成16』(ちくま文庫)


内田百閒の「夢文学」と言えば、なんといっても短編集『冥途』に収められた、表題作や「件」などの諸短編であろう。
その次が、これも短編集『旅順入城式』ということになる。


しかし、『冥途』と『旅順入城式』の間には、じつに12年もの隔たりがある。
と言うか、正確には、三十過ぎの頃に『冥途』を刊行するも、第二著書となる『百鬼園随筆』との間に11年の隔たりがあって、それ以降は、コンスタントに著作を刊行しているのだ。

つまり、内田百閒が作家として本格的に始動したのは、『百鬼園随筆』を刊行した1933年からだと考えていいだろう。

● 『冥途󠄁』稲門堂書店、1922年2月
● 『百鬼園随筆』三笠書房、1933年10月
● 『旅順入城式』岩波書店、1934年2月
● 『續百鬼園随筆』三笠書房、1934年5月
● 『繪入りお伽噺・王様の背中』楽狼書院、1934年5月
● 『百鬼園俳句帖』三笠書房、1934年6月
● 『無絃琴』中央公論社、1934年10月
● 『鶴』三笠書房、1935年2月

(Wikipedia「内田百閒」)


では、『冥途』と『百鬼園随筆』の間の、この11年間に何があったのか?

まず大きいのは、『冥途』を刊行した翌1923年( 大正12年)に「関東大震災」が発生しており、百閒も罹災して、大変な目に遭っているということだろう。

『1923年(大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授を命ぜられる。9月1日の関東大震災に罹災。前年刊行の『冥途』の印刷紙型を焼失。同時に機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。』

(Wikipedia「内田百閒」


それまでは、大学教授(ドイツ語)や陸軍学校の教授などをして、わりあい安定した生活をしていたのだが、それが一気に失われて、ひとまず食うために働かなければならなくなったのだ。

しかし、そのあとも世情は落ち着かない。
日本が中国との戦争へと向かい始めた時期だからである。

1928年(昭和3年)には「張作霖爆殺事件」があり、1931年(昭和6年)には「柳条湖事件」により、「満州事変」が勃発する。
1932年(昭和7年)には5.15事件、1936年(昭和11年)2.26事件
1937年(昭和12年)には「盧溝橋事件」が発生して、いよいよ「日中戦争」に突入する。

そして以降、日本は破竹の勢いで勝ち進み、その勢力圏を押し広げていくのだが、その潮目の変わったのが、1942年(昭和17年)のミッドウェイ海戦での敗北であった。
それからは終始後退戦を強いられ、1945年(昭和20年)には、長崎・広島に原子爆弾を落とされて、ついに無条件降伏を受け入れ、敗戦することとなる。

つまり、百閒が作家として活躍し始めたのは、関東大震災でのダメージを乗り越えて、世の中が戦争に向かって勢いづいていた時期だと言えるだろう。
そうした戦前、戦中、戦後の時代を横目にしながら書き続けたのが、内田百閒という作家なのである。

したがって、戦争の影が差していないのは、第一作品集である『冥途』だけで、それから12年後の『旅順入場式』では、その表題からもわかるとおりで、すでに戦争とは無縁ではいられなかった。

だから、『冥途』に収められた作品が、「夢文学」として極めて完成度の高い作品となり得たのは、百閒が若かったということも無論あろうが、現実の「悪夢」から無縁でいられた時期に書かれたものだったから、ということも大きかったのではないだろうか。

『冥途』収録の諸作を書いていた時期には、夢を純粋に夢として書くことができた。
ところが、『旅順入場式』の頃には、現実が夢を侵襲し始めて、良かれ悪しかれ、夢の純粋さ、あるいは「夢としての自己完結性」が、失われてしまったのである。

忌憚なく言えば、私の場合、『冥途』所収の作品群と『旅順入場式』のそれとを比べた場合、小説としては、はるかに前者の方を高く評価している。

前者はまさに「珠玉の作品集」なのだが、後者では、『冥途』の頃にはあった「虚構としての自己完結性」が失われて、何やら得体の知れないものに変容し始めているのだ。

無論、『旅順入場式』所収の作品も面白いには面白いのだが、『冥途』所収の作品群とは、肌あいがあきらかに違ってきている。
『冥途』が硬質だとすれば、『旅順入場式』は軟質なのだ。後者の時分には、夢と現実との境界は曖昧となり、虚構と事実との境いも曖昧になる。

それらが画然と区別できるものであるというリアリティが、百閒の中で、どこか失われてしまったような風が、すでに『旅順入場式』のころの作品には感じられるのだ。

だからもう、『冥途』のような、自己完結性の高い「夢文学」を、百閒の他の著作に求めてはいけないのかも知れない。

だが、やはりそれに期待してしまう気持ちを捨てられないから、百閒の日常を描いた随筆にはあまり興味は無いものの、そんな随筆集のなかでは、「夢」がテーマとなっているらしい本書『残夢三昧』を読むことにしたのである。

 ○ ○ ○

しかし、そうした期待を持って本書を読み始めると、まずは期待を裏切られてしまう。

数ページほどの随筆を集めた本書の前半は、夢とはまったく無縁な、火事、空襲、雷、台風といったものの記憶を語るものであり、およそ夢とは関係のないリアルな経験に関するものだからで、平たく言えばそれらは、「身辺雑記」に類するものだと言えるだろう。

だが、中盤以降の収録作には、徐々に夢の気配が漂ってくる。

それは百閒の「暗所恐怖症」など、各種の恐怖症が語られ始めるからで、それまでの火事、空襲、雷、台風といった「誰もが怖い(リアルな)もの」から、「私(百閒)だけが怖い(感覚的な)もの」、つまり、その怖さに「実体的な根拠の薄いもの」へと、質の違う恐怖が語られだし、そうした「恐怖」の実体の無さが「夢」へと通じていく、という構成を、本書は採っているのである。


本書巻末の「初出一覧」を確認してみると、
上のような(前半・中盤・後半の)変化は、時間軸に沿ってのものではなく、意図的な編集によるものであることがわかる。
したがって、百閒その人の時間的変化を、忠実に反映したものではない。

少なくとも第二著書『百鬼園随筆』刊行以降の百閒その人は、基本的に変わってはおらず、「誰もが怖いもの」と「自分だけが怖いもの」と「夢」との間を行ったり来たりした人だというのが、「初出一覧」を見ればわかるのだ。

本書所収の作品で、最も古いものは1934年(昭和9年)であり、最も新しいのは1970年(昭和45年)なのだが、本書中盤の収録作品は、古いものと新しいものが並んでいて、意図的に、リアルな前半から「夢への回帰」と見ることのできる後半への、中間的な「移行期」的なかたちが構成されているのだ。

つまり、関東大震災や戦争の体験を経ることで、百閒はもう、『冥途』の頃のように夢を対象化して描くというようなことが出来なくなり、そうする気も無くなってしまっていると、そう見ることができる。

夢は描くものではなく、「現に夢を生きている」という感覚が、作家として自立した後の内田百閒には、確固としてあるようなのだ。

だからこそ、夢は対象化できず、夢を描くことと「身辺雑記」に、明確な区別を設けることが出来なくなってしまった。
それは「別物ではない」と感じられるようになったからである。

本書の表題作である「残夢三昧」シリーズは、そうした百閒の、完成した「生活リアリズム」を描いた作品だ。
夢から覚めても、まだ夢の感覚が抜けきらず、夢と現実が混濁した中間地帯で、百閒は「遊んでみせる」。

翻訳家であり名エッセイストとして知られる岸本佐知子が、そんな百閒を評して、次のように書いている。

『 百聞の書くものに夢の話が多いのも、夢もやっぱり異界に通じる”通路”の一種だからなのだろう。「残夢三昧」「残夢三昧残録」「新残夢三昧」は、そんな夢の路を通ってこの世とあの世を行き来するものたちの、賑やかな往来の記だ。眠るでもなく起きるでもなく、うつらうつらしている意識の中へ、まるで縁側からひょいと家に上がり込むように、幼なじみやら昔の教え子やら、同級生やら踊りのお師匠さんやら、庫に乗ったお医者さんやらが、お構いなしに「這入って」くる。その中には懐かしい顔もあれば見知らぬ顔もあり、とうに鬼籍に入ってしまった人や得体のしれない曖昧な生き物や、さらにはあのノラまでがいる。
 百聞はその様子を「押すな押すなの忙しい残夢」とか「混雑」などと形容し、ほとほと困惑しきっている様子なのがおかしい。ことに、隣の建物から塀を乗り越えてオランダ人の子供がわらわら入ってきてさんざん悪さをする話(「新残夢三昧」)などは、夢とは思えない騒々しさで、百聞が夢の中でぷりぷり怒っているのも可笑しい。
 そうかと思うと、時には会いたいのに会うことの叶わない人々に向かって、夢を通って会いにおいでと、優しく、情愛をこめて呼びかけもする。

 君はしょっちゅう私の所へやって来て、他の学生達と私が会合するどんな席にも、君が加わっていなかった事は殆んどなかったではないか。その君が、あれ以来、と云うのは鎌倉の別荘で死んでから、一度も私の所へはやって来ない。随分お見限りだね。ちとどうじゃ、幸い私には残夢の席がある。これからは春めき、萬物の発動期である。残夢の隙間にもぐり込んで来なさい。山の芋が鰻になり、竹の子も竹になる季節だよ。 (「新残夢三昧」)

 遠来の懐かしい客を座敷に迎えいれるようにして、夢の通い路で待っている寂しい笑顔が見えるようで、胸が詰まる。』

(P253〜255・岸本文中に引用された百閒文は、年間読書人が〈〉で括った)


もうここでは、夢というものは百閒にとっては、対象化するものではなく、生活の一部なのだ。
そこではすでに、生死が乗り越えられている。

もしかすると百閒は、関東大震災や戦火をくぐり抜けて幸運にも生き残った自分が、すでに死んでしまった人たちと、何の区別もない存在だと、そう感じられるようになったのではないだろうか。

あの人が死んでいなくなり、私がここにこうして生きているのは、単なる偶然でしかない。
しかし、だとすれば、それが逆であってもよかったし、もしかすると、そんな世界も存在するんじゃないか。

私が死んで、あの人が生き残っており、あの人が、死んだ私のことを思い出して、困ったオヤジだったなとか、でも会えるものなら会いたいな、なんて思ったりしてくれているのではないか。

だとすれば、私が生きているこの世界と、あの人が生きているあの世界とは、夢でつながっているということなのではないだろうか。

この世とあの世に本質的な区別はなく、夢とは、あちらとこちらの通い路なのではないだろうか?

百閒は、そんなことを半ば本気で信じて、もはや死ぬことに、さほどの恐れを感じなかったのではないだろうか。

また、そんな人だからこそ、晩年、芸術院会員に推挙された際、それを「イヤダカライヤダ」といって断ることも出来たのではないか。


そんなものは、死んでしまえば意味が無い、というだけではなく、そもそも死んだあの人(例えば、漱石先生)が選ばれなくて、生きて長らえただけの自分が選ばれるというのは、なんだか不合理であり、納得できないと、そんなふうに感じたのではなかったろうか。




(2026年5月20日)

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