フランシス・フォード・コッポラ監督 『ゴッドファーザー PART II』: 失われた時代の輝きと、現在の現実

▷ 映画評:フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー PART II』(1974年/アメリカ映画)


言わずと知れた「名作」である。

傑作シリーズ映画の多くは、第二作が最高傑作だとされることが多いのだが、本作もその例に漏れない。
つまり、「ゴッドファーザー」三部作の2作目となる本作は、シリーズ第1作をしのぐとされる、傑作中の傑作なのである。

もちろん第1作の評判とヒットを受けての『PART II』なのだが、たいがいの場合、事実として本作は、第1作の評判を超えており、私が見たかぎりでも、そうした定評に間違いはないと思う。


ちなみに、三部作の第3作『PART Ⅲ』は、前の2作よりは評判が落ちるようだが、実際、どの程度の作品なのかは、私はまだ見ていないので、ここでは何とも言えない。

ただ、Wikipediaの語るところ『急遽のキャスティングで』抜擢された、コッポラ監督の実娘ソフィアの縁故主義的な登用と、その演技が問題になって、厳しい批判を晒されることにはなったようだ。

ソフィアの演技がどの程度のものなのかも、まだ見てはいないからわからないのだが、『特にキャリアがないまま』(Wiki)の登用だったというのは事実であり、またコッポラの場合は、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカ監督のように、故意に素人をキャスティングするというタイプの監督ではないので、その点でも、縁故主義と批判されてもやむを得ないところではあっただろう。


もちろん、ソフィアの演技が、そうした批判を跳ね返すほどのものであればよかったのだが、どうやらそこまでのものではなかったようだ。

当シリーズで描かれた「コルレオーネ・ファミリー」がそうであったように、イタリア移民の末裔であるコッポラにも、「家族主義」的なところがあったのかもしれない。
またそれが、実力主義としての資本主義国アメリカにおいては、もはや通用しなかったということなのかもしれない。
ずっとヒット作をとばし続けて(稼いで)いれば、それすら許されたのではあろうが。

ともあれ、ここまで来れば『PART Ⅲ』も見ないわけにはいくまい。

 ○ ○ ○

そんなわけで、傑作の誉高い『ゴッドファーザー PART II』だが、どこが前作よりも優っているのか言えば、それは全体に「余裕のある語り」と「凝りに凝った絵作り」だと、そう言えるだろう。

前作の、無駄のない作りの魅力をも超えて、その「余裕」がプラスに働いており、決して「贅肉」にはなっていないのだ。

前作の場合、コッポラは何番目かの監督候補でしかなかった。
当初、予定されていた監督の都合がつかず、何人かの候補者を経た後、まださほど有名ではなかった気鋭の映画監督コッポラが採用され、見事に結果を出したのが、第1作『ゴッドファーザー』だったのである。

だが、そうした製作事情であったがために、コッポラは、会社側からの度重なる干渉に苦しめられ、予算についても厳しく注文をつけられて、そうとうな苦労を強いられたようである。

だがまた、ああしろこうしろと言われて、そのとおりにはしない、骨のある監督だったからこそ、『ゴッドファーザー』は傑作になったのだし、またそのせいで、会社側との衝突は、かなりのものであったようだ。

またそんなわけだから、第1作『ゴッドファーザー』の大ヒットを受けて、続編の制作が決まり、監督就任を打診された際、コッポラは、いったんはこれを断ったそうである。
1作目で味わわされたような苦労など、二度と御免だと、そう考えたからだ。

だが、これに対して会社側は、コッポラに白紙委任状を与えることで、コッポラとの契約にこぎつけたようだ。
本作『ゴッドファーザー PART II』では、コッポラはプロデューサーも兼ねており、作品の内容はもとより、製作費などについても、ほとんど無条件で任されたのである。

そんなわけでコッポラ自身も、本作『PART II』の制作にあたっては、気持ちよくスムーズに仕事を進めることが出来たと、その満足を語っている。
その「余裕」が、作品の端々に、良い意味で表れているのだ。

よく知られるように、「余裕がある」というのも良し悪しで、変に余裕があったがために、作品から緊張感が失われてしまうというようなことも、ままあるのだ。
カネのかかった超大作が、期待に反して失敗作になってしまうというのは、結構よくある話なのである。

しかしながら幸いにも、本作の場合はそういうことにはならず、実力で勝ち得た「制作上の余裕」は、作品にプラスに働いたのだった。

 ○ ○ ○

本作の場合、内容的に特に目を惹くのは、前作で、初代「ゴッドファーザー」のヴィトー・コルレオーネマーロン・ブランド)から、その跡目を継いで二代目となった三男マイケル・コルレオーネアル・パチーノ)の、「その後」を描くだけではなく、それと並行するように、前作ではすでに老人として登場した、ヴィトーの、それまでの経歴(過去)が描かれる点であろう。
つまり、ヴィトーの幼き日から、アメリカへと渡り、やがて犯罪に手を染めながらも、「町の親分(顔役)」的な存在へと成り上がっていったという経緯が、一種の「成功譚」として、明るい調子で描かれるのだ。

(両親と兄を地元コルレオーネ村で殺され、アメリカへと逃亡したヴィトー少年)

そしてこの「過去のヴィトー」パートが話題になったのは、何といっても、若きヴィトーを演じた、まだ無名に等しかった頃のロバート・デ・ニーロの、生き生きとした演技とその存在感によるところが大きかった。
まさしく、「スター誕生」の輝きが、彼の演技にはあったのだ。

(若き日のヴィトー・コルレオーネ)

当初、コッポラ監督は、この役をマーロン・ブランドに要請した。
実際のところ、当時のブランドの実年齢は、決して「老人」などではなかったから、若作りをすれば、青年ヴィトーも演じられるはずだと、そうコッポラは考えたのである。

だが、ブランドとの出演交渉は、条件面で折り合いがつかなかったため、やむなく、まだ無名に等しかったデ・ニーロを抜擢することにした。

この頃のデ・ニーロは、すでにマーティン・スコセッシ監督の『ミーン・ストリート』(1973年)で、全米映画批評家協会賞の助演男優賞を受賞しており、その並々ならぬ演技力において、一部に注目される存在ではあった。

しかし、まだまだスターなどではなかったから、大スターであるマーロン・ブランドの演じた役を演じるとなれば、会社側からの注文もないではなかったようだ。
だが、それこそコッポラが白紙委任状を受けていたからこそ、通せたキャスティングだったのである。

ちなみに、コッポラは、早くからスコセッシ監督を高く評価していたようだが、そこにはスコセッシがイタリア系であったことも、多少なりとも影響していたのではないかと、私は見ている。

なお、デ・ニーロについては『父親はアイルランドとイタリアの血を引いており、母親はオランダ、イングランド、フランス、ドイツの系統である。』(Wiki)とのことで、こちらに血統的な贔屓感情は無かったようである。

ともあれ、デ・ニーロは、コッポラの信頼に応えて、期待以上の結果出してを見せたのだった。

しかしながら、デ・ニーロの演じるヴィトーが生き生きしていればいるほど、その息子であるマイケルの表情の暗さや険しさが、より際立ってしまう。
一一しかし、それこそがまさに、コッポラ監督の狙ったところだったのだ。

私は、前作『ゴッドファーザー』を論じて、次のように書いた。

『本作で描かれているのは、大雑把に言えば、大戦後すぐのアメリカ社会における、イタリア系マフィアの世代交代劇だとでも言えよう。
移民第一世代を象徴する、マーロン・ブランドが演ずるところの、通称ドン・コルリオーネことヴィトー・コルレオーネ。その地位を継ぐことになる三男、アル・パチーノ演ずるところのマイケル・コルレオーネ。この二人における、世代的な「体質の変化」が興味深い作品なのだ。
(中略)
先代のヴィトーの場合は、まさに家父長的なふるまいが当然のものであり、つまり子分などの身内、つまりファミリーに対しては「親子」としてふるまったし、そうした「情と義理」の部分を強調した。
ヴィトーの場合なら「損得なんかではなく、私の息子であるお前なら、とうぜん私の言うことが聞けるよな?」というような言い方だったのが、二代目のマイケルの時代には、もっと乾いた、もっとビジネスライクな関係になる。情だの義理だのといったウエットのものを強調することはなく、「力関係」がすべてを決する。「お前の立場なら、とうぜん俺に従うよな?」というような感じになるのである。』



今回『PART II』を見てみると、本作のマイケルは、前作のイメージよりは、かなり「柔らかく」なっていると感じられた。

つまり、「情」の部分について「冷徹に割り切っている」というわけでは決してなく、むしろ、父と同じような「家族主義」で行きたいと願っているのに、それを時代が許さないがために苦悩し、徐々に「やむを得ず冷徹になっていく」と、そんな姿が描かれているのだ。

当然、前作の場合は、それ一作で完結するつもりだったから、ヴィトーとの対比においてマイケルは、分かりやすく冷徹に描かれていた部分があったのであろう。

ところが、本作『PART II』では、そのマイケルが主役そのものなのだから、単純な「迷いのない冷徹な男」であっては、人間ドラマにはならない。是非とも彼には、葛藤がなくてはならないのだ。

(ファミリーの命運を背負った男・二代目ゴッドファーザーのマイケル・コルレオーネ)

だからそのため、前作のマイケルよりも、かえってナイーブなところからマイケルが描かれ、その変貌とギャップを、本作『PART II』では、丁寧に描くことになったのであろう。

さて、マイケルにそうした変貌を強いるものとは、無論「時代の変化」ではあるのだが、より厳密に言うならば、それは「高度資本主義経済の進展」だということになるだろう。

つまり、ヴィトーの時代とは違い、マイケルが「町の親分」でいることの許されない時代になったのだ。

資本主義というのは、会社組織がそうであるように、常に成長拡大(資本の蓄積)が求められる。
「もう、これくらいで満足だ。このままで行こう」というのは許されない。


成長を止めた途端、その組織は、その権益を他から狙われ奪われることになって、やがて衰退することになる。

つまり、現状を維持するためには、常に成長し続けて、新興勢力を寄せつけないだけの力が保持していなければならないという、ジレンマを抱えることになる。
「もう、これくらいで満足だよ」では、済まされないのだ。

喩えて言えば、眠ることなく常に泳ぎ続け、エサを求め続けるサメのようなものでないかぎり、自分の方が食われるしかないという、そんな宿命を背負わされるのである。

(マフィアの仕事は政治とも深く関わるようになった。コルレオーネ・ファミリーと敵対したユダヤ系マフィアのボス、ハイマン・ロスが、政治家を動かして「上院組織犯罪委員会」にマイケルを召喚させて、コルレオーネ・ファミリーを潰そうとする)

だから、現代において、ファミリーを守り続けようとすれば、他者に非情になってでも、自身の権益の拡大に取り組まなければならない。
もうこれくらいで満足だという守りの姿勢に入った途端、家族ともども、他者の食い物にされてしまう。

したがってマイケルとしてはただ、父と同じように家族や仲間を守るために、「時には」非情になることも必要だと、そう思ってやっているだけなのに、しかし、家族やファミリー(身内組織)を守ろうとすれば、時に家族をすら犠牲にしたり、仲間だったはずの者を切り捨てたりしなければならなくなってくる。

「こんなこと、したくてやっているわけではない! だが、それを俺が決断しなければ、一族郎党が共倒れになって、家族を守ることすら出来ないんだ」というのが、マイケルの偽らざる思いなのだ。

だが、その結果、彼は最愛の妻から見放されて子供を奪われそうになり、そのために妻を切り捨てることになる。
また、実の兄であり、しかし仕事においては役立たずであった、守るべき兄フレドにさえ、妬みからの裏切りに遭って、最後はその兄さえ切らなければならなくなってしまう。

(突然、妻のケイに別れを告げられる。「貴方の非情なやり方には、もう堪えられない。カタギになると約束したのに…」と、子供を連れて出て行こうとするが、マイケルは自分に従おうとしないケイだけを追い出してしまう)
(自分への嫉妬から、敵方に不用意な情報を流した兄フレドに激怒するマイケル。いったんは一家からの追放で済ませるが、母の葬儀の際に謝罪しに現れたフレドを、家族の手前許したかのように見せかけるも、しばらくして暗殺してしまう)

つまり、本作は、マイケルの地獄堕ちの物語なのだ。

マイケル当人としては、家族のために良かれと思ってやっていることが、結局のところは「非効率・非経済的な存在(足手まとい)」でしかない「家族」というものを、ひとつひとつ切り捨てねばならないという、皮肉な結果へとつながってしまう。
もはや彼は、何のためにに生きてきたのかがわからないような、孤独の中に一人で取り残されることになるのである。

(本作最終盤の「回想シーン」。父ヴィトーの誕生日のために集まった兄弟妹だが、父を待つ間に、マイケルが戦争に志願したということを伝えると一悶着が起こる。だが父がやってくると、みんなは玄関へと父を迎えに行って、マイケルだけが残される。マイケルの「家族」を失った孤独を象徴するシーンだ)

だから、父ヴィトーの若い頃の「明るい成功譚」は、決して父と息子の人格的な差異によるものではない。
決して、マイケルが、父ヴィトーよりも「冷たい人間」だったからではないのだ。

そうではなく、生活の隅々にまで入り込んできた資本主義経済が、マイケルをして「町の親分」に止まることを許さなかったのだ。

父を尊敬し、父のようであらんと願ったマイケルが、同じヤクザ者の犯罪者であるとは言え、「弱きを助け、強きを挫く」、そんな「任侠の人」だったヴィトーのようにはなれなかったのは、それも時代の要請であり、必然でさえあったからなのである。

また、だからこそ晩年のヴィトーは、昔のようにはいかない仕事に苦労していた。
「麻薬の売買という、汚い仕事には手を出さない」と、頑なに一線を守ろうとしたために、他の「組」(ファミリー)に遅れをとって、苦しい立場に立たされることにもなったのである。

つまりもう、ヤクザであろうがなかろうが、私たちの「高度資本主義経済」の社会というのは、「個人の人格」だけでは、どうにもならないものになってしまっているという事実を、本作『ゴッドファーザー PART II』は、赤裸々に描いているのである。

だからこそ、若き日のヴィトーの生き生きとした姿は、ある「懐かしさ」を持って、私たちを魅了する。

けれどもそれは、「失われた」ものだからこそ美しく、それ故にこそ、私たちを魅了せずにはいないのだ。

そして私たち自身は、「父のようでありたかった」マイケルと同じ場所に立ち、同じ苦悩を共有するからこそ、本作『ゴッドファーザー PART II』は、そんなやるせなさに満ちた作品として、私たちの心を、つよく打って止まないのである。






(2026年5月11日)

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