「TikTok」は面白い。だが…。

昨日は、食事以外はずっと「TikTok」を見ていた。のべ16時間くらいだろうか。つまり、食事と睡眠の時間以外は、ずっとである。

私が、TikTokアプリをダウンロードしたのは、ほんの数日前のこと。
その理由は、現在、最もお気に入りの美人タレント多部未華子についての、良い画像はないかものかと思ったから。

昨年暮れ、日本映画『花束みたいな恋をした』土井裕泰監督・坂元裕二脚本/2021年)のレビューを書いた。


私は、このレビューで、次のように書いている。

『(※ 私が、外見的に好きだった)深田恭子が(※ このところ痩せすぎだし、表情まで乏しくなって、可愛らしさが無くなってきて)もうダメなので、他に誰が良いだろうと、考えてみると、思いついたのが、多部未華子と、本作の主演女優・有村架純だった。

ちなみに、田中麗奈は、昔から好きだし今でも好きだ。うまく歳をとっていると思う。
そんな昔からのファンである田中麗奈は別にして、多部未華子と有村架純についてはどっちも、映画やドラマに出ているからといって、その出演作を見るというわけでもないのだが、テレビコマーシャルなどで見かけて、きれいだな可愛いなと思うだけである。』


これを書いたあと、改めてここに名を挙げた4人について、ネットに上がっている写真をしげしげと見たところ、意外だったのが、思ってたほど良くない、と言うか、これは良いという写真が意外に無かったことだ。

昔、深田恭子の写真集の2冊同時刊行の際に、その2冊を買ったときにも思ったことなのだが、写真集というのは、表紙の写真が飛び抜けてよく、中身の写真はまあまあという感じが強い。
表紙写真が「主人公」なら、中身の写真の数々は、そのバリエーションくらいの感じで、一冊でそのタレントの「物語」を描くという感じであって、1枚1枚独立したベストショットを撮ろうという気が無いようにすら感じられたのである。


で、それはなぜかと考えてみると、こうした美人たちも、それを美人だとか可愛いだとか感じるのは、普通は動いている姿、つまり動画を見てそう感じているのであって、決して、静止画をしげしげと見て、そう思っているわけではないからだと、そのことに初めて気づいた。

また、同じ理由からだろう、最近の画像生成AIによる実写風に生成された美女画像というのは、たしかにその静止画においては、人間の美女よりはるかに「整った顔」をしてはいるのだが、動くと、どれも似たり寄ったりに見えて、魅力に乏しい。
そして、なぜそう感じられるのかと言えば、それは多分「表情が死んでいる(生きた表情ではない)から」なのだと、私は見ている。

「表情が死んでいる」とは、どういうことかと言うと、表情は「ある」のだけれども、その表情が「型どおり」でしかなく、「生き生きしたものではない」という意味だ。

言い換えれば、いかにも「笑っています」という、型どおりに整った表情でしかなく、例えば、笑顔であっても「そのバリエーション」が限られている。
しかもその笑いが、前後の文脈(流れ)の中で生まれる「笑み」ではなく、個別の「表情単位」の連なり(デジタル串団子)のうちの、個別的な1要素でしかないのである。

まあ、このあたりのAI動画についての考察は、本稿の本題ではないのでこのあたりにしておくが、要は、生身の人間に感じられる「魅力」や「美しさ」というのは、「静止画」的(造形的)なものであるよりも、「動的なプロセスの中で生成されるもの」だと、おおよそそういう意味だ。
いくら、整った造形の顔を持っていても、表情に乏しい人が魅力的に見えないのは、そのためなのであろう。

まただからこそ、いくら美人タレントだといっても、動かない写真(静止画)においては、その魅力が十全には「表現(発揮)」し得ず、どこか物足りないものになってしまうのであろう。
つまり、美人というのは、写真なんかで、しげしげと見る(観察する)ものではない、ということである。

そんなわけで、上の4人の写りの良い写真を集めて、しげしげと眺めてみると、納得できる写真は意外と少ない。

同じ人物の写真でありながら、顔の輪郭ひとつにしても、カメラアングルや髪型、手の添え方などでぜんぜん違って見え、これだと言えるほどの決定的に美しい写真は、意外に少ないのだ。

そんな中で、私が最も気に入った写真が、下の多部未華子の写真だった。


で、多部未華子が好きな人が見れば一目瞭然なのだろうが、この写真は、いつもの多部未華子らしくはない写真である。
髪型が違うし、表情もテレビCMやドラマで見せるような表情豊かなものではないし、いわゆる「可愛らしい」表情でもない。

そこで、私は、もっと多部未華子らしい可愛らしい表情で撮れていて、それでいて美しい写真はないかと考えたのだが、これがなかなか無い。

そこで、写真(静止画)の中に無ければ、表情豊かな動画の中から、ベストの瞬間を切り出せば良いのではないかと、動画検索をしたところ、TikTok動画が検索に引っかかったので、これを見たいと思い、アプリをダウンロードしてみたのである。

で、それを見てみると、当然のことながら短い動画であり、しかも、CMやドラマから切り出したものの寄せ集めで、特に目新しいものではなかった。
しかも、ドラマの動画だと、動いているからこそ動きの中ではピントが甘くなったり、画面が若干暗かったりする。

(ドラマからと、テレビコマーシャルから)

例えば、映画のカラースチール写真に暗いものが多いのは、映画(動画)の場合、画面そのものは暗くても、人物に動きがあるから、その点で情報量が多くなって、脳が対象を認把握識しやすいのであろう。
だから、動画から一部を切り出してみると、意外に暗いということになりがちなのだ。
(ちなみに.私は映画のレビューに本編の写真を添える場合は、そのままではなく、しばしば少し明るく画像処理してから、アップしている)

そんなわけで、表情豊かな動画から、ベストショットを切り出そうと考えた私だったのだが、事はそんなに簡単なものではなかった。

映画やドラマの場合、意外に暗い画面を暗いとは感じずに登場人物をはっきりと認識できたのは、人物が動いていたが故だったのだが、そうしたことは、「表情」についても言えるのだ。

つまり、「美しい」とか「可愛い」と感じられた表情も、それは「動き」の中で「表現されたもの」であって、「形(形象)」そのものとしてのそれではなかったのである。だから、切り出せるようなベストショット(部分)は、その中には存在しなかったのだ。
その魅力は、一連の「流れ(動き)」の中にのみ、存在していたのである。

そんなわげで、TikTokアプリを落として、多部未華子の動画を見て、これは良いという動画から、ベストショットを切り出してみると、どうもうまくいかない。
切り出されたものは、動いていた時の「アウラ(オーラ)」を失ってしまっているのだ。

だからこうした問題は、TikTokでは動画数が限られているからYouTubeで探せば良いと、そういう問題ではないと、はっきり気づかされたのであった。

 ○ ○ ○

さて、ここからが本題なのだが、以上のような「多部未華子のベストショット切り出し作戦」が失敗に終わって、私にとっては、もはやTikTokは不要なものと化した。

与たいことがたくさんあって忙しい私には、TikTokの短編動画など見ている暇はないのである。見るのなら、映画DVDの長編動画なのだ。

ところが昨日の朝食時、いつもならテレビニュースを点けての「ながら食事」なのだが、この時は、TikTokが「ながら」向きだと気づいたので、特に目当てなしに見始めたところ、意外に面白い動画がいろいろあって、結局は、その日まるごとTikTokを見ることになってしまった。

ちなみに「ながら食事」とは、食事のみに集中するのではなく、食事をしながら、別のことを並行して行うこと。
いつもなら、テレビニュースを見ながら食事をすることにしているのだが、これは、読書や映画(DVD)鑑賞は、「ながら」ではしにくいし、したくないからである。それらは、「ながら」ではなく、それにのみ集中して鑑賞したいのだ。

そんなわけで、最初は特に目当てもなく流し見をしていたのだが、下のようないくつかのコンテンツが面白いと思い、それを中心に、流れてくるままにTikTokを視聴した。

(1)ハーフのスタンドアップ芸人、ユリエ・コリンズの動画
(2)テレビ番組『上田と女が吠える夜』からの切り出し動画
(3)画像生成AIによる、アニメ作品などの3D化動画


(1)は、たまたま流れて来たのを見て、初めてその存在知った。
今のところ舞台専門の芸人だけあって、毒舌・下ネタ上等であり、それでいて、本質的なところでは良識派であり、ドナルド・トランプ弄りが好きそうである点で、好感度が高い。
また、観客を遠慮なく弄りながら楽しませる点などの即興性も、とても面白く興味深かった。

(「政治の話をするな」という日本語のツイートが増えたというマクラ)


(2)の『上田と女が吠える夜』は、テレビでよく見ている番組だ。
だが、よく見ると言っても、毎週見るとかそういうことではない。テレビを点けた時にたまたまやっていたら、たいがいは最後まで見る、という感じだ。だから、放送曜日も時間帯も知らない。

この番組の良さは、ひな壇の女性タレントたちが、世の中のあれこれに対して、ユーモアを交えながらも本音トークをするところである。また、そのせいだろうか、自由に物の言えるベテラン不美人芸人の他に、元ヤンキーだとか、関西出身者の比率が高いようだ。


(3)は、もともと私がアニメファンであり、同時に絵を描くのが好きなためだ。
だから、こうした新技術による作品を見ると「アマチュアでもここまでやれるようになったのか」と感心するその反面、「俺がもっと若くて時間があったら、画像生成AIで、かなりの出来の作品が作れるはずだったのに」とも思ってしまうのだ。


つまり、純粋に作品に感心するのではなく「俺もやりたいが、残念ながら、今からそっちに時間をかけてる暇のないのが悔しい」と、そう感じながら、よくできた作品に見入ってしまう。自分なら、この程度の作品は作れただろう、なんて思いながら。

そんなわけで、上のような番組を楽しみ、その間に流れてくる「日本はかくも素晴らしい」動画とか、皇室との血のつながりで売り出したネトウヨの政治評論家・竹田恒泰による「中国はけしからん、日本政府はわかってない」といった内容の政治活動動画、あるいは「こうすれば、人生がうまくいく」とか「この商品が凄すぎてヤバい」とかいった動画などはすぐに飛ばして、面白そうなものを見ていたら、あっという間に時間がすぎていた。

テレビである程度は見ていたはずの『上田と女が吠える夜』でさえ、そこに流れてくるものは、ひとつとして見たことのないものばかりで、それは何年も前のものからのセレクションだからであろう。

そんなわけで、私はまだ見たい番組の絞り込み方は知らないから、自動的に流れてくるものを適宜選びながら見ていただけなのだが、途中からは時々「イイネ」を押したりはしたので、それで、ある程度は自動的に、好きな傾向の番組が流れて来るようになっていたのであろう。

ともあれ、もちろん私にも「日頃は見られない面白いものを見たい」という気持ちはあったけれど、しかしその一方では「TikTokにハマるとは、どういうことなのか? ハマって時間を取られるようになると、どうなるのか?」を、わが身をもって体験的に試してみようと、そういう意識も確かにあった。
単なる暇つぶしで良いとは、毛頭思わなかったのである。

で、TikTokを実際にやってみてわかったのは、たしかに「面白い動画」がたくさん見られるという事実であり、これならハマるのも無理はない、ということであった。

しかしながら、TikTok動画の楽しさに決定的に欠けていると感じられたのは、「楽しい結果(快感)」を得るに至るための「過程」が無い、ということであった。つまり、「結果」しかない。

楽しい「結果」(美味しい部分)だけが得られるんなら、それに越したことはないではないかと、そう言われそうだが、私の感覚ではそうではない。

私は子供の頃に、ゲームセンターのゲームが大好きで、小学生時のある日、お年玉の3千円をポケットに入れて、いそいそとゲームセンターへ向かった。

その頃の私のお小遣いは、週に百円くらいだったはずだから、3千円と言えば、かなりのものであり、ちょっとやそっとで遣い果たさないはずの、大金であった。

だから、その日も、せいぜい200円くらいだけ使うつもりだったのだが、やっているうちに、「もう一回」「もう一回だけ」「10円硬貨に崩した、この百円分を遣い切るまで」などとやっているうちに、半日ほどで、その3千円をすべて使い果たしてしまったのである。

この時の私の絶望感は、前例のないものであった。
せっかくもらったばかりの大金を遣い果たしてしまったということも勿論あったけれど、それ以上にショックだったのは、途中で何度も「もうこれくらいにしておかないといけない」と思いながら、その自制がまったく利かず、結局は遣い果たすまでやってしまったという点にである。
自分は「なんて意志が弱いのだろう」「ゲームをやり始めたら、途中で止められない人間なんだ」と、そう思い知らされたのである。

一一そこで私は、以降、ゲームを敬遠することを決めた。
これは金額の問題ではないと、そう感じたからである。

後年、パソコンを初めて購入しようとした時も、わざと対応しているゲームの少ないMacintosh(Mac)パソコンを選んだ。
その頃にはすでに、読書がメインの趣味で、他の遊びに割く時間などないと、そう考えていたからだ。

しかしまたそれでも、ゲームをやり始めたら、きっとハマってしまい、読書が出来なくなるに決まっていると、我がことながら、それを本気で怖れたのである。

で、そんなゲーム恐怖症の私からすると、TikTokの短編動画の魅力というのは、ゲームのそれほど強烈なものだとは感じなかった。
平たく言えば、止めようと思えばいつでも止められる程度の魅力だと感じたのだ。

昨日の場合は、「実験」だったから、あえて自制しなかっただけなのである。

では、ゲームとTikTok動画との、魅力の違いとの違いとは何なのか?
少なくとも私にとって、どこが決定的に違っていたのだろうか?

それは、ゲームには「目的達成までの困難(な過程)」があるけれど、TikTok動画には、それが無い、という違いである。

TikTokの場合は、あまりにも簡単に「快楽(報酬)」が与えられてしまい、かえってそのせいで、その「報酬」の魅力(価値)が薄れて感じられるのだ。

喩えて言うならば、同じ外見的な魅了を持つ異性であっても、簡単に落とせる相手と、容易には落とせない相手とでは、だんぜん後者の方が魅力的に見えるものであり、そのため後者に執着してしまうことにもなる、というようなことだ。

したがって、今どきの若者がTikTok動画にハマってしまう理由とは、単にそれが「面白い(快感だ)」からではなく、他にもっともっと自分のしたいことを、見つけられていないから、なのではないだろうか。

つまり「快楽」とは、単にその対象の持つ「魅力そのものの絶対量」ではなくて、他との相対的な価値で魅力が決まるのではないか。

例えば私は、長らく「初版本コレクター」だったのだが、初版本の価値というのは、その本の「中身」以上に、「稀少価値」で決まるものである。
いくら素晴らしい小説でも、いつでもいくらでも安く手に入る本なら、人はそれを欲しい(持っていたい)とは思わず、読んだらすぐに処分することもできる。
ところが、滅多に手に入れることのできない稀少価値の高い本なら、内容的にはB級C級であっても、皆が欲しがって、おのずと市場価格(時価)も上がってしまうのだ。

これはポケモンカードなどともまったく同じことだから、全世代に理解してもらいやすい話なのではないだろうか。
人は「限定もの」が大好きであり、その実質的な価値以上に、それをありがたく感じてしまうものなのである。

そんなわけで、簡単に見たい動画を見ることができてしまうTikTokは、他にやりたいことのない人には、ひとまず便利な娯楽なのだが、これと決めた趣味のある者には、そこまで魅力的なものではない。
面白くないわけではないのだが、「いますぐここで見なくてはならないもの」ではないから、いくらでも「後回し」に出来てしまう、その程度のものなのだ。

だが、多くの若者たちは、まだ「私はこれだ。これで行く」というほどのものを見つけてはいない。
そのため、仕方なく手近な快楽としてのTikTokに流されてしまうのではないだろうか。

そしてそうなるのは、今の若者や子供たちには、意外に「選択肢が狭い」からなのではないだろうか。

私が子供の時分には、遊んでいられる時間が、余るほどあった。
友だちと「今日は、何して遊ぶ?」なんてやりとりを、よく交わしたものだ。

サイト「日野宿発見隊 街角写真inひの」より)

今のように、選択に困るほどの娯楽がなく、たいがいはろくな遊び道具もないから、近所の子供たちと鬼ごっこや缶蹴り、良くて駄菓子屋で売っていたゴムボール一個と棒切れだけの草野球なんかをやって、有り余る時間を過ごしたのではなかったか。

しかしまた、だからこそ珍しい玩具や目新しい遊びには貪欲であり、一度はそれを試さないではいられなかった。
いろいろ試してみた上で、これは面白いとか面白くないなどと自分で判断して、お気に入りの遊びを決めていったのだ。

一一ところが、今の子供たちはどうか?

良い(正しい)遊びも、流行りも遊びも、すでに決まっており、その中から「親の薦める遊び」を、選ばされることになっているのではないだろうか? 


どの遊びもそれなりに洗練されており面白くはあるのだが、どれもそれなりに面白いからこそ、かえって「これだ」というものが見つけにくい。
あれも面白ければこれも面白いと、面白いものが色々ありすぎると、かえってどれかを強く選択するという動機づけ(モチベーション)が失われてしまう。

するとそこで、「親の選択(オススメ)」が働いてしまい、子供もそれを易々と受け入れてしまう。それも、面白くないわけではないからである。

しかし、そのようにして選ばれたものには、自分で「これだ」と思って選んだもののような魅力が欠ける。それでなければならないという理由が、ないに等しいからだ。

たしかに、親の選んで与えてくれたその「趣味」が、「適度な困難性」を持っており、自分にそれを乗り越えるだけの「才能」があれば、子供はそれに積極的にのめり込んでいくだろう。
オリンピック選手になるような子供の「趣味」とは、おおよそそのようなものである。

ところが、自身にさしたる才能がなく、その趣味で人並み以上の結果が出せないとなれば、その趣味はやがて、重荷や苦役にならざるを得ない。

その趣味自体は嫌いではないにしても、どうしたって自身の実力を周囲のそれと比較してしまうことは避けられず、そこで明らかに自分の方が劣っていることに気づけば、いくら好きな趣味でも、いや、好きな趣味だからこそ、苦痛を感じるようになるのではないか?

そして、このようにして、自分の大切な「遊び時間」のほとんどを注ぎ込んできた趣味が「苦痛」でしかなくなった時に、人はそこで、改めて、新しい「趣味」に舵を切るなんてことが出来るものだろうか?

それをやれば、明らかに人よりも随分と遅れた地点からの再スタートになるから、やはり最初から満足できるほどに楽しいというわけにはいかないだろう。
だからこそ、これまでやり続けてきた「趣味」や「習い事」を捨てる(辞める)という決断は、そう簡単にできるものではないのだ。

しかしその結果、その「主たる趣味」は慣習的、あるいはアリバイ的に続けながらも、その趣味では十分に満たされることのない「快楽(欲望)」を、手近に別なところで補給できる、「お手軽な趣味」に求め、それに頼ってしまうのではないだろうか?

それが、TikTokなのではないだろうか?

「数分で見終えてしまうような、結果しかなく、過程の無いTikTok動画ばかり見ていたら、思考能力が養われない」

などとよく言われるし、それも、事実そのとおりなのではあろう。

だが、今の子供たちが、TikTokのような「お手軽な娯楽」にハマってしまうのも、それはそのような環境が出来てしまっているからで、彼らが悪いというわけではないはずだと、私は思う。

そして、そうだとしたら、「TikTokばかり見てないで、漫画でもいいから本を読みなさい」と言うのではなく、子供たちが、いろんなものに「主体的に触れる機会」を作ってやることこそが、大人の役目なのではないだろうか?

今の子供たちは、多様な娯楽に囲まれており、その意味で、昔の子供たちよりも「恵まれている」とはいるだろう。

だが、「恵まれている」ことが、そのまま「幸せだ」ということと、イコールでは結べないというのを、大人たち自身が、もっと認識すべきなのでないだろうか。



(2026年5月10日)

 ○ ○ ○



“「TikTok」は面白い。だが…。” への2件のフィードバック

  1. moha the foolのアバター

    現代は両親が共働きの家庭が多い事もあり、子供の世話の負担を軽減しようとゲーム、スマートフォン、タブレットに親が頼る気持ちは分かります。デジタル機器に子供は夢中になりますから、忙しい親としては助かる事でしょう。反面、TikTokやYoutubeはコンテンツ数が膨大で「本を読み終わった」「模型を組み上げた」のような物理的区切りと無縁ですから、弄せず延々と快楽に浸り続けられる中毒性の高さが心配です。大人でも自制心が効かずに易々とスマホ中毒になっていますので。

    現代の子供が可哀想なのは、放課後の学校は生徒の立ち入りが禁止されて校庭で遊ぶ事が御法度だったり、公園は球技禁止だったり、道路で遊んだら当然怒られてしまう環境にある事です。様々なものが便利に進化してはいるものの、子供を取り巻く環境はNG項目がどんどん増えているように思われてなりません。保育園で元気に遊んでいる子供の声がうるさいと近隣住民から苦情が出るような世の中に、子供は息苦しさと生き辛さを感じているかもしれません。結果、スマートフォンに子供が依存するとしたら、それは大人の責任なのでしょう。

  2. 年間読書人のアバター

    コメント、ありがとうございます。
    おっしゃる通りだと思います。

    私が『子供たちが、いろんなものに「主体的に触れる機会」を作ってやることこそが、大人の役目なのではないだろうか?』と書いたのは、多分に「子供に習い事を強いることのできる、比較的恵まれた家庭」を想定してのものであって、共働きではあっても経済的に余裕のない家庭では、子供を流行りのスポーツクラブなどに入れて、車での送り迎えも親がする、などといったことは、容易なことではないと思います。

    それこそ、親に金がなければ、子供にはさらに選択肢がないという現実があって、その解決策など、私に思いつくわけもありません。

    ただ、だからと言って、「昔は良かった」と嘆くだけでは、今の子供が可哀想ですから、せめて多少なりとも生活に余裕のある親は、「世間並みの成功」に追随するだけではなく、自分の頭で「子供にとっての幸せとは何なのか」ということを、真剣に考える義務があるのではないかと思います。

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