▷ 書評:方丈貴恵『盾と矛』(角川書店)
この新作も、ネットのオススメ本記事で知り、評判が良さそうだったので買ってみたものだ。
その記事とは「連載:道玄坂上ミステリ監視塔 書評家たちが選ぶ、2026年3月のベスト国内ミステリ小説」である。
この連載記事にはミステリ評論家あるいは書評家6人が寄稿している(本来は7人だが、この回は1人が休載な)のだが、本書『盾と矛』だけが、その中の3人、若林踏、酒井貞道、梅原いずみによって、重複して選出されていたので、(この3人のことはよく知らないが)「これは出来の良い作品なのかもしれない」と、そう素直に期待したのである。
ちなみに、この7人の中では、名前も知っておれば、唯一「信用して良い」と思っているベテランのミステリ評論家である、千街晶之の選出していた、楠谷佑『猫鳴く森で謎解きを』も、すでに入手済みであることを、ついでに書き添えておこう。
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さて、今回初めて読む作家、方丈貴恵の新作『盾と矛』だが、本作について、選出者の3人は、共に「現時点での著者の最高傑作」だと褒めている。
『現時点における著者の最高傑作と言えるだろう。』(若林踏)
『現時点における著者の最高傑作である。』(梅原いずみ)
『方丈貴恵の最高傑作に推す。』(酒井貞道)
この6人のメンバーが、なんらかの打ち合せをした上で、その月の推薦作を個々に選ぶのかどうかを、私は知らない。
しかしまあたぶん、そんな面倒なことをしないとは思うし、それをしていたのなら、6人中3人が同じ作品を選出することなどせず、もっと選出作を散らしていたんじゃないかとも思う。
また、3人がわざわざ口を揃えて「現時点で著者の最高傑作」だなどと書くこともないだろうと思ったので、6人中3人が選出した本作ならば、さすがにかなりの出来なのだろうと、そう期待したのだ。
だが、結論から言わせて貰えば、本作は「まずまずの努力賞作」程度の出来だ。
著者のこれまでの作品が本作に及ばない出来だったのであれば、本作をして「これまでの中で最高傑作」という表現は、「嘘ではない」だろう。
けれども、ミステリを評価して、それを語る評論家なり書評家なりが、そのように書いたのだとしたら、私はそこに、意識的な「叙述トリック」を疑ってしまう。
つまり「優れたミステリ作家の作品と比べれば、まだまだだが」といった「暗黙の条件付き」で、しかし「著者のこれまでの作品の中でなら最高傑作」だと、そのような意味で書いても、それは明示的な嘘にはならない、とそう考え、その自覚に立って、そのように書いたのではないかと疑われてしまうのだ。
もちろん、そういう「引っ掛けてやろう」という「邪念」なり「下心」があり、読者の「誤解」を招くことを狙って、このように書いたのでないと思いたいが、万が一、故意にそうした「叙述トリック」的な引っ掛けを意図して書いたのなら、そのような「心掛け」は恥じるべきだし、反省してもらわなければならない。
なぜなら、批評家というものは、あるいは推薦者というものは、「字面さえ、嘘をついていなければ、それで良い」というものではなく、「読者に対して、誠実でなければならない」からだ。
レトリックによって読者を欺き、本を売りさえすれば、「それで良い」というものではない。
それは「欺瞞的な過大広告」の一種でしかないのである。
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前記のとおり、私は本作をさほど高くは評価できない。
作者は作者なりに全力を尽くした作品であろうことまでは疑わないから「努力賞作」だとは認めるが、一般的な意味での「傑作」と呼べるような作品ではないと評価する。
せいぜい、百点満点の「65点」程度の作品であり、普通なら絶対に読まないし、この先、作者が作家的に成長したとしても、3倍くらいの大化けでもしないかぎりは、もう二度と読むことはないだろう。
無論、これが「現時点での最高傑作」ならば、過去作はすべて読むに値しない作品だと考えるしかない。
今、Wikipediaを調べて、作者が「京都大学推理小説研究会」出身で、鮎川哲也賞受賞作家だと知ったのだが、では、鮎川賞受賞作は、本作よりも不出来なのかとそう思えば、賞自体の水準まで疑いたくなる。
まあ、応募作の中では、最も優れていたというような話なのかもしれない。

私が本書を贖うことにした理由のひとつには、麻耶雄嵩が、
『名探偵と名犯人の頭脳バトルなのに、この終わり方はズルい!』
という推薦文を寄せていたからで、よっぽど「意外性のある終わり方」なのかと、そう期待したのだが、最後まで読んでみれば、そうではなく、ガッカリだった。
要は、宿敵たる人物がいなくなれば探偵を辞めると言っていた主人公が、ラストではその宿敵だった人物のためにも探偵を続けようと語る、そんな「当たり前の(感動)ラスト」が、ミステリとしての論理的一貫性からすれば、いささか主情的なもので『ズルい』というほどの意味であったようだ。
「そんな〝いい話〟に落とすなんてズルい」と。
だが、この書き方も、故意に読者の誤解を招く、「叙述トリック」的な書き方であった蓋然性が低くはなくて、こちらも推薦者の言葉としては「アンフェア」であると感じられる。
繰り返すが、字面として嘘をついていなければ、故意に誤解されるような書き方をしてもかまわない、ということにはならないのだ。推薦文は、ミステリ作品ではないのだから、読む者を騙してはならないのである。
それとも麻耶雄嵩は、京大ミス研の先輩として、推薦文の依頼を断れなかったというようなことなのか?
しかし、本作程度の出来では、綾辻行人や法月綸太郎なら、頼まれても推薦文を引き受けなかったようにも思えるのだが、どうだろうか?
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私はここまで、いっこうに本作の具体的な中身については触れなかったが、これは本作が、中身を紹介したくなるほどの作品ではなかったからである。
それでなくても、あらすじ紹介などというルーチンは面倒なだけなのに、オススメしたくもない作品の内容紹介など、なおさら面倒でもあれば御免なのである。
『「事件は犯人が分かってからが本番だよね」
罪を犯した者を必ず捕らえて有罪にする「絶対に逃さない探偵」草津正守。旧友である霧島は、草津の「助手」として彼の探偵事務所に勤めている。
ある日、雪山の別荘で発生した殺人事件の調査が舞い込み、霧島は現地調査へ向かう。事務所に戻った霧島から報告を聞いた草津は、すぐさま犯人を見抜く。
早くも事件解決――と思われた矢先、犯人確定に必要な証拠が「消失」してしまう。
事件を隠蔽・捏造して犯人を確実に逃がす「必ず無罪にする仕事人」ヒミコが裏にいると気づく草津。
「事件は犯人が分かってからが本番だよね」
草津は霧島と共に現地へ臨場し、仕事人ヒミコとの上書き推理合戦に挑む!』
(Amazonの本書紹介ページより)
まあ、上のような内容の作品なのだが、本作の何がダメなのかというと、今どきの作品によくあるように、登場人物が「まんが・アニメ的リアリズム」で描かれている点である。つまり、リアルな人間を描いていない。
無論、それで面白くなるのであれば、別に、純文学的な人物像だとか、リアリズムの人物像を描けなどと言うつもりはない。
もともと、本格ミステリにおける人物とは、「人間」ではなく、「将棋の駒」でかまわないからだ。
だから「人間が描けていない」のが問題なのではない。
そうではなく、登場人物が「リアリズム(自然主義)のルール」に依拠しないがゆえに、ある意味で「なんでもあり」になってしまっている点が、問題なのだ。読者が、当たり前に推理することの出来ない作品になってしまっている。
言い換えれば、「将棋の駒」の動き方(法則性)を、作者が一方的に決めて、それを読者と共有できていないのである。
たしかに、作品世界の中では、整合性は取れているのであろう。作品の「世界観」に矛盾するようなことを書いてはいない。
しかし、リアルな現実世界では不可能なことについては、明示されるべきであろう。
そうでなければ「なんでもあり」だからだ。
ところが、作中世界において、どこまで可能なのか、それが作者の胸先三寸、筆先三寸であるがために、読者の方は、作者に対して圧倒的に不利な立場に立たされてしまっている。
「作者が読者を騙し切るか、読者が作者の企みを見抜くか」といった、メタレベルでの「知的ゲーム」性は、本作ではすでに、完全に失われているのだ。
「今どき、そんなものは流行らない。今どきの読者は、作者によって、ただその鼻面を楽しく引きずり回して欲しいだけなのだ」と、そう言ってしまえば、それまでなのではあろう。
だが、本格ミステリから「知的ゲーム」性が完全に失われて、ただ「娯楽的な物語性」だけが残るのだとしたら、それはもう「本格ミステリの形骸化」であり、終焉を意味するのではないだろうか?

(2026年5月8日)
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