▷ 映画評:ケネス・ブラナー監督『スルース』(2007年/アメリカ映画)
かの名作『探偵<スルース>』(1972年/ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督)のリメイク作品である。
アンソニー・シェーファー脚本の舞台を、シェーファー自身の脚色で映画化したのが、オリジナル映画版である『探偵<スルース>』であったが、本作リメイク版は、そのオリジナル映画のリメイクではなく、シェーファーの舞台脚本をもとに、劇作家でノーベル文学賞受賞作家のハロルド・ピンターが脚色し、それをシェイクスピア俳優としても知られて、自らの主演で監督をした『ヘンリー五世』でアカデミー賞監督賞の候補となるなど、俳優と監督の両面で活躍したケネス・ブラナーが監督を務めた作品である。
本作は、オリジナル版もリメイク版も、基本的には、金持ちの老作家と、この老人の若い妻を寝とった若い伊達男との、知恵の対決を描いた犯罪スリラーであり、登場人物はこの2人だけという、シチュエーション・ミステリーだ。
金持ちの売れっ子ミステリ老作家の名前は、アンドリュー・ワイク。彼の妻を寝とった若い伊達男の名はマイロ・ティンドル。
新旧両作での二人の役柄・役名も同じなのだが、旧作オリジナル版で若い伊達男のティンドルを演じたマイケル・ケインが、本作リメイク版では老作家ワイクを演じているところが面白い。


本作の特徴は、物語が二転三転するところにあって登場人物のキャラクターも、微妙に変化していくところが興味深いところなのだが、旧作と新作リメイク版とでは、マイケル・ケインの役柄が、鏡像のごとく反転しているのである。
本作リメイク版で、若い伊達男ティンドルを演じたのは、色男を絵に描いたようなジュード・ロウだが、彼は本作ではプロデューサーも兼ねており、「役作りに入る3年も前から、本作に関わっているから、脚本の隅々まで知り尽くしている」と、インタビューに答えている。
本作で、興味深いのは、製作こそアメリカではあるものの、主演の2人も、監督も脚本も、主要なキャスト・スタッフはイギリス人であるという点だ。
そして実際、本作は旧作に比べて、あきらかにイギリス的であり、より舞台的な作りの作品になっている。
よく言えば「芸術的」、悪く言えば「エンタメ性が後退していて暗い」作品なのだ。
ジュード・ロウが、インタビューに答えて語ったところでは、本作は当初、予算を集めることに相当苦労したようで、ハロルド・ピンターの書いた芸術性の高い脚本は、アメリカの出資者たちには評判が良くなかったようだ。
ところが、そうしたプレプロダクション段階での苦労は、ピンターがノーベル賞を受賞したことで風向きが変わり、出資者が次々と現れたので、アメリカ風のわかりやすいエンタメ性に妥協させられることもなく、オリジナル版とは一味も二味も違う路線を、当初の予定どおりに進めることが出来たのだそうである。

さて、私は、本作のオリジナル版である『探偵<スルース>』を子供の頃にテレビで見て、すっかり魅せられてしまった人間だ。
二転三転する驚愕の展開が、本格ミステリ的な魅力を存分に伝える傑作となっていたためである。
だからそれ以来、私の頭には『探偵<スルース>』という、いささか奇妙なタイトルが刻み込まれ、そのせいで、リメイク版が作られたという話も、早い時期で耳にしていた。
もともと名作のリメイク版といったものには、さして期待は無かったものの、本作については、どんな作品に仕上がっているのだろうという程度の興味はあった。だから、そうしたことから、機会があれば是非とも鑑賞したいとは思っていたのである。
そして、昨年、ひさしぶりにオリジナル版である『探偵<スルース>』を見て、その古びない面白さを確認した後、この機会にリメイク版も見てみようと、そう思い立ったのだ。
前述のとおり、旧作では、ティンドル役だったマイケル・ケインが、本作ではワイク役を演ずるという趣向は面白いし、新たにティンドル役を演ずるジュード・ロウについては、『リプリー』(1999年/アンソニー・ミンゲラ監督)で、その圧倒的な色男ぶりを見せられて以来のファンだったから、いかにもロウ向きなティンドル役を、どのように演じるかということにも、とても興味があったのである。
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そこで、本作『スルース』を見始めてまず感じたのは、オリジナル版にあった「カーニバル的に狂騒的でブラックな感じ」がすっかり影をひそめてああるということ。
そしてそれとは真逆に、新たにデザインされたワイク邸の内装にはっきりと示された、青を基調とした「モダンで洗練された冷たさ」のようなものである。

たしかに、物語の前半は、旧作とほとんど同じセリフで、同じ展開を見せている。一一だが、雰囲気が違う。
前作には「毒々しい哄笑」があったのだが、本作には「笑い」そのものが無く、暗く冷え冷えとした愛憎と狂気が交錯する、笑えない物語になっているのだ。
だから、このまま後半も、前作と同じように展開するのなら、ハッキリ言って本作は「失敗作になるな」とそう思ったのだが、後半では、オリジナル版とは明らかに違う展開を、本作は見せ始めた。
それでも筋自体が大きく変わっているわけではなかった。作り手の「見せたいもの」が、あきらか違っていたのだ。
前作では、二転三転する物語が、どこまで転ぶのかもわからない、何か真相なのかもわからない迷宮世界へと転落していくところに、その面白さがあった。




だが本作の場合は、そうした「面白さ」ではなく、むしろ二人の主人公の理解しきれない謎めいた性格の落ちゆく先を描いている。
つまり、「物語的な面白さ」ではなく、「人の心の不可解さ」を描くことを主眼とした作品になっている。
登場人物の二人が、いずれも容易にその正体を解し得ない、言うなれば「迷宮としての人間」なのである。
したがって、本作リメイク版は、オリジナル版とは違い、見終えて「ああ、面白かった」というような作品ではない。
何か捉えどころのない、人の心の闇を見せつけられたとでも言うか、なすりつけられたような感じで終わる作品になっているのだ。
これはもうエンタメ作品ではなく「芸術作品」だというのは、そういう意味なのである。
この「芸術作品」という言葉を「前衛文学的な作品」と言い換えてもいいし、本作はもはや「不条理劇」に近いものに仕上がっている。
そこで、演劇に詳しい人なら、本作がなぜこうなったのか、その理由はほとんど明らかであろう。
そうだ。これはまさに脚本を書いたハロルド・ピンターの個性が、そのまま反映された作品だったのである。
『20世紀後半を代表する不条理演劇の大家と評され、説明的な台詞や行動の動機、さらには明快でリアリズム的な舞台設定を嫌い、観客はもちろん作中の登場人物に対しても状況が明示されぬまま物語が進行してゆく反=リアリズム的な戯曲を書いた。それらの作品群にあっては、現実と非現実、現在と過去、理性と狂気、論理と非論理、明晰と曖昧が縦横無尽に交錯してゆくなかで、個々の「キャラクターが一人歩き」をはじめ、物語は多様な解釈を受け容れることのできる長大な奥行きを獲得する。』
(Wikipedia「ハロルド・ピンター」)
見てのとおりである。
本作『スルース』自体は、たしかに「不条理劇」とまでは言えないにしても、やはりその登場人物も性格は、決してわかりやすいものではない。
前作では、相手を騙すために演じていたキャラクターの変化が、本作では「演技」ではなく、むしろ「人格の変容」に近いものを感じさせ、「本来の性格」といったものの不在までも感じさせるから、不気味なだけではなく、見る者を不安にする。
そんな「わからなさ」を残す作品となっているのだ。
そしてその結果、本作は、アメリカにおける評論家筋からは、散々な酷評を受けることになった。
『映画批評家によるレビュー
Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「『スルース』は、サスペンスフルでアクション満載というよりは、あまりにも露骨で下品なので、オリジナル版を改善するものは何もない。」であり、122件の評論のうち高評価は36%にあたる44件で、平均点は10点満点中5.17点となっている。 Metacriticによれば、30件の評論のうち、高評価は11件、賛否混在は14件、低評価は5件で、平均点は100点満点中49点となっている。』
(Wikipedia「スルース」)
しかし、私が見たところ、本作は決して不出来な作品などではない。
ただ、アメリカ風のエンタメ作品でないのは明らかで、前作のような「笑い」や「陽気な楽しさ」が皆無であったのだ。
本作に描かれていたのは「人間というもののわからなさ」だったのである。
上の評論家による評の中に、
『サスペンスフルでアクション満載というよりは、あまりにも露骨で下品』
とあるのは、どういう意味か。
本作もまた、もちろん前作だって、サスペンスフルではあっても、『アクション満載』なんてことはまったくなかったのだから、この『アクション満載というよりは』などという評言は、完全に的外れである。
だが、ではここで言う『下品』とは、どういう意味なのだろうか?

それは、本作リメイク版では、オリジナル版とは違って、その後半において「男性同性愛」的な世界が描かれる点を指しているのだ。
一人の女をめぐって、老若二人の男の対決する物語が前作だったのだが、本作では、後半に至って、敵対していた男たちの間に、本当とも嘘とも、本気とも演技とも断じきれない、男同士の「愛憎」が渦巻き始めて、二人の感情や人間性は、にわかには了解し難いものへと変貌していく。

だから、ここをどう評価するかで、本作の評価は180度ちがってしまう。
この謎めいた展開を「面白い(興味深い)」と感じるか、あるいは「なんだこれは!」と、その理解不可能性と「同性愛」の隠微さに拒絶反応を示すのか、という違いである。
当然、前者はイギリス的であり、後者はいかにもアメリカ的だと言っても、さほど大きく間違ってはいないだろう。
そのようなわけで本作は、エンタメ映画としての評価を受け損なってしまった作品なのだが、アメリカの単細胞なホモフォビア映画評論家たちが誤解したような、単なる失敗作でもなければ、ましてや『下品』な作品などではない。
「性の迷宮的な妖しさ」を突きつけられて、慌てふためくというのは、あまりにも幼稚な、カマトトの反応でしかないのである。
本作の後半では、ジュード・ロウが『リプリー』以来の妖しさで、男を誘惑する。
それはワイクを誘惑する以上に、観客を誘惑するものだったのであろう。

だから、本作を、前作と同様の「安心して楽しめるミステリ映画」だと思い込んで見たのであろう評論家たちは、まったく違うものを見せられ、そこに感じられた「暗い誘惑」に恐れをなして、自己防衛的な拒絶反応を示してしまったのであろう。
わかりやすいエンタメ作品にばかりうつつを抜かしているから、暗く毒のある作品に対しては、怯えつつ拒絶し、激怒して見せることで、その怯えを人目から隠すしかなかったと、そういうことなのだ。
本作は、そうした危険な作品なのである。

(2026年5月7日)
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