洋介犬 『反逆コメンテーターエンドウさん』: わかりやすい正義や便利の、裏にあるもの。

▷ 書評:洋介犬『反逆コメンテーターエンドウさん』(KADOKAWA・メディアファクトリー)


Googleニュースを見ていたら、そこに取り上げられていたコミックナタリーの作品紹介ニュースのタイトルが目についた。

もしこんなコメンテーターがいたら?現代に鋭く切り込む洋介犬の新連載


これをちらっと見て、面白そうだと思った。
誰でもそうだろうが、テレビのニュースバラエティ番組などに登場するコメンテーターの、予定調和的にいかにも優等生的な発言には、心底ウンザリさせられていたからだ。

また、それで私は、『羽鳥慎一モーニングショー』のコメンテーターである玉川透のファンで、以前にはその著書まで買って読んでいる。

しかし、残念ながらそちらは、テレビで話している時に感じられるような率直さや面白さが今ひとつ欠けるように思え、いささか物足りないものを感じた。
これはたぶん、話すのが得意な人もいれば、書くのが得意な人もいるためであろうと、そう理解している。玉川の場合はきっと、話す時の雰囲気も含めて、そっちの方が魅力的な人なのだろう。


玉川に該当する話かどうかはわからないが、私が思うに、文章で書くことの方が、テレビで話すよりも格段に自由度が高く、言うなれば「なんでも書けて当たり前」という部分もある。
だから、その緊張度の低さから、たとえ内容は同じであっても、文章の方は、切れ味を鈍く感じてしまうのではないだろうか。

つまり、テレビで話すのと同レベルのことを書いても、それはもう面白くもおかしくもないということになるのではないだろうか。

玉川の本については、読んだのはもうずいぶん前だから、その内容は記憶に残っておらず、なんとなく物足りないという印象が残るのみなのだが、その一方、内容的におかしなところは何もなく、納得できる内容だったとは思う。
つまり、同意できる正論が書かれていたのだろうが、それだけでは物足りなかったということなのであろう。

 ○ ○ ○

さて、本書『反逆コメンテーターエンドウさん』だ。


ナタリーのニュースに紹介されていた試し読みは、最初の一つしか読まなかった。それを読んだだけで、読んでみる価値はありそうだなと思い、それならあとは本で読もうと思ったのだ。

「読んでみる価値がありそう」との判断は、単に「面白そうだ」と感じた、いうことではない。
この作品を読めば、同意するにしろ反発するにしろ、何か触発されるところがあるだろうとそう直観したからで、そのうえで私が思ったのは「たぶん、批判することになるだろうな」ということであった。


なぜ、そう思ったのか。
本作の主人公エンドウさんのキャラクターデザインやその表情などを見て、私が真っ先に気づいたのは「この人は、小林よしのり『ゴーマニズム宣言』の影響を受けているな。この作品も、その直系の作品と見て、まず間違いない」ということであった。

あとは、絵柄的に魔夜峰央『パタリロ!』の影響もある」ということだった。
作者の洋介犬(ようすけん)は、その「ようかいいぬ」とも読めるペンネームどおり、ホラー作品も描いており、本作での人物描写にもそれが表れているが、この点も魔夜峰央の怪奇趣味と通ずるところがある。

で、読み始めて、最初に感じたのは、やはり本作は『ゴー宣』系の作品であり、それに対して私が感じていた不満が、この作品にも当てはまりそうだ、ということだった。

というのも、作中で描かれるニュースバラエティ番組の司会者や他のコメンテーターが、いかにも型通りに無難なコメントをするのに対し、エンドウさんは番組に忖度のなしの発言をして周囲を凍りつかせる一一というのが、本作の基本形となっているのだが、問題は、その忖度司会者や忖度コメンテーターの顔が、いかにも「卑怯者」のように醜く(妖怪のごとく)描かれていた点だ。

小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』でも指摘されていたのは、実在の人物を登場させて、それと小林自身との論争などを描く際、敵方の顔を、ことさらに嫌らしく、悪役風に描いたという点で、そこが批判されたのだ(また、意見を同じくする人物の顔は、好人物風に描かれた)。

つまり、意見主張のなかみ以前の、見た目の「印象操作」によって、読者を味方につけようする操作が、漫画的な手法であるとは言え、やはり「アンフェア」だから、『ゴー宣』はそこを批判されたのである。

で、その同じことを本作もやっていたので、「これはいただけないな」と思ったのだが、読み進めていくうちに、そのあたりが徐々に変化していった。

主人公のエンドウさんは、当初は眉間にシワを寄せた、いかにも攻撃的な反逆者として描かれており、まさに「ゴーマンかましてよかですか?」(『ゴー宣』の決めゼリフ)という感じだったのだが、徐々に「本当は、とても優しくて良い人」だということが強調される方向に変わっていき、眉間のシワも描かれることがなくなっていったのである。

これはたぶん、当初の挑発的な『ゴー宣』路線では、すぐにワンパターンになってしまうことが明らかになったためであろう。
つまり、基本ドキュメンタリーの説得力を持つ『ゴー宣』のようにはいかないから、エンドウさんの人物像に物語的な厚みを加えることにしたのではないか。「見た目はこんな人だけど…」という方向性での「ギャップ(萌え)」によるキャラクターづけである。

しかしだ、この方向性だと、おのずとエンドウさんは「本当は真面目で良い人」という方向性にしかならなくなってしまう。
そして、そのせいで、エンドウさんの発言はますます、良識的なものになってゆき、たしかにテレビ番組の予定調和に抵抗しているけれど、初期のような「わかりやすい攻撃性」は薄れてしまうのだ。
しかし、このようにして「人間化」すれば、そのぶんおのずと、エンドウさんに無茶をさせられなくなってしまう。

そこで、同じ「毒舌」キャラでも、エンドウさんのような「良い人=良識派」ではない、もう一人の毒舌コメンテーターが登場させられらことになる。

しかし、この人物もエンドウさんへの単なる当て馬的憎まれ役であっては、つまらない。
だから、エンドウさんとは、表面的には違ったタイプではあるけれど、やはりそのハートには、エンドウさんに通ずる「熱いものがある人」という人物造形になっていって、エンドウさんの「良きライバル」的な存在となっていく。
言うなれば、ブラックジャックに対する、ドクター・キリコだと考えればいい。


最初は「悪役」として登場しても、それがやがて単なる「悪役」ではなく、彼は彼なりに重いものを背負ってそうなったのだという描写が漫画作品ではよくあるが、そのようにしてライバルキャラは、厚みを増して魅力的になっていくのである。

本作に登場する、エンドウさんのライバルの場合は「最初は単なる悪役だったのが」というパターンではなく、エンドウさんをあるていと優等生化させなくてはならなくなった段階で、言うなればエンドウさんの失われた可能性を補うための存在(失われた半身)として、意識的に作られたものだったのであろう。

まあ、そのあたりの透けて見えてしまうところが、本作の弱さだとも言えるだが、いかにも、連載を続けるためにはそれしかなかった、という感じなのである。

作者の洋介犬も、当初はテレビのニュースバラエティ番組などに登場するコメンテーターたちの偽善に苛立ちを感じて、この作品を描くことになったのだろうが、しかし結局、洋介犬とて子供ではないのだから、自分が仮に彼らの立場に立たされれば、決してエンドウさんみたいな「反逆」など出来ないのだと、それは承知しているのだ。


だからこそ徐々に、現実的な妥協に対し、それを無条件に批判するのではなく、困難な現実を可能なかぎり引き受けた上で、しかし現状妥協的な態度に異を唱えるという、理想とのバランスをとらなければならなくなったのだろう。

そもそも、エンドウさんが「忖度なしの発言」で、それでも干されないのはフィクション故なのだ。
だから、フィクションだから許されるという「ぬるま湯」の中から、現実のコメンテーターたちの「保身による弱腰」や「偏向」を批判することは出来ない。

例えば、この作者が、本書の版元である「KADOKAWA」の問題を、忖度なしでぶっ叩けるのかと言えば、そんなこと出来るわけがないからである。


なにも私は、そのことで作者を責めようというのではない。
人間、食っていくための仕事を、そう簡単に捨てることなど出来ず、一定の妥協はやむを得ないところなのだ。

だがまた、だからといって、臆面もない「外弁慶」であって良いというわけではない。
やはり、そのぎりぎりの瀬戸際において、理想は求められなければならないだろう。だから、エンドウさんが「本当は良い人」化するのも、やむを得ないところなのだ。

しかしまたやはり、こうした方向性は、漫画としての力を低下させるものではあるだろう。
「ゴーマンかましてよかですか?」と、バーンとぶっ叩くのと、「難しい問題だが、私たちはその問題に誠実に向き合って、一歩ずつ進んでいたなければならない」と語るのでは、どう見たって、前者の方が、漫画的なアピール力を持っているからである。

幸い本作はすでに3巻くらいまで刊行されており(上の記事は、連載開始当時の古い記事であった)、固定読者を確保できたようなのだが、こうした喜ばしい結果も、「こんなふうにズバッと正論を言ってくれる人がいたらなあ」と感じている人が、それほどまでにいるということの証なのであろうし、そうした人たちが、本作を読むことで多少なりとも溜飲を下げ、そのぶん現実と向き合う勇気をもらっているというよりは、現実と向き合う必要性が無くなっているのではないかと、そう危惧されもする。

結局のところ、エンドウさんのような人は実在しないのだが、エンドウさんのようであらんとする人たちもまた、確実に存在するのだから、私たちは漫画に逃避するのではなく、現実のエンドウさんを応援し、何よりも自分自身が、一歩でもエンドウさんに近づこうとする努力が必要なのであろう。
作者の洋介犬も、きっとそのように望んでいるはずなのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本作には、エンドウさんの言葉として、私自身が以前に書いたことのあるような言葉が散見される。

例えば(正確な引用ではないが)「私なんか見なくて良いから、私の意見に注目してほしい」とか「(党派的にではなく)是々非々でやらなければならない」というような言葉だ。

理想を持って、ギリギリのところで正論を吐こうとすれば、自分自身が目立つことなど気にしてはいられないとか、わかりやすい一貫性になど拘泥していられないというのは、当然の結果なのだ。

実際、エンドウさんは、目立って人気者になる以前に、本当なら業界から干され、消されていて当然の人物なのだ。
少なくとも、この第1巻では、エンドウさんが干されない理由は描かれていないのである。

あと、私が「おやっ」と思った、警察官関係のエピソードが二つほどあった。
このあたりも、結局は「現実的な良識派」であり、またその路線を選ぶしかなかった作者らしい、実話に即したエピソードであった。

ひとつは、警察官による、犯人の射殺判断の問題。
「他に手立てはなかったのか」的な注文がつけられやすいこの事例について、エンドウさんは明確に警察官の判断を支持し、「実際、人の命に関わる緊急時において、動いている犯人と腕や脚を狙うなどという、悠長な芸当は不可能である」という警察官の主張を紹介している。

これについては、私も以前、記事の中で「撃つ必要のある局面に遭遇したら、私は迷わず殺すつもりで撃つ。失敗するわけにはいかないからだ」と、そのように明記したはずだ。
自分自身が殺されるつもりなどないのは無論、警察官として守るべき命を、守り損なうわけにはいかないからである。

だが、こうした射殺判断については、今では昔ほど、非現実的な要求をするコメンテーターも、良かれ悪しかれいなくなったのではないかと思う。
そんなことを言うと「ならおまえが結果責任を取れるのか」と言われて、非難される立場に立たされる蓋然性が、以前より高くなっているからである。

つまり、良かれ悪しかれ、世の中は「理想を口にしにくくなっている」のだ。現実的な問題であればあるほど。
たとえばこれは、政治の世界で、野党の与党に対する「注文的な批判」が、世間に好まれなくなっていることと同じであろう。
安易な現実主義が、世間において趣味的野次馬的に広がっているのである。

さて、もうひとつの警察官関連のエピソードは「警察官が制服姿のまま、コンビニなどへ買い物に行くことの是非」に関するものだ。

これを非難する人は「職務時間中に、私的な買い物なんかして良いのか。警戒に立ち寄るのなら良いけど、買い物は違うだろう」みたいなことを言うわけだ。

だが、エンドウさんは、この問題について、も、そんなことを批判する側の「あら探し」趣味的な物の見方を批判して、買い物に行ってもいいではないか、それが警戒にもなれば、それを推奨している都道府県警察もあると、おおよそそのように語っている。

で、この問題は、じつは私が現職時代に「退職したら、いつかこのことも書いてやる」と、そう思っていたネタであった。それを思い出したのだ。
だからこの際に、少し詳しく書かせていただこう。

交番勤務の制服警察官による、職務時間内での買い物が問題視されるようになったのは、たぶん携帯電話による写真撮影が可能になってからだ。

それまでは、買い物に来ている警察官の姿を見かけ「いいのか?」と疑問に思っても、それをわざわざどこかへ投稿しようなどと考える暇人はいなかった。
ところが、写真撮影が可能となり、言わば「証拠写真」付きの投稿が容易になったので、喜んでそれをするような者が増えたのである。

私が勤務していたのは大阪府警だが、そうしたことが問題にされ始めた時期、府警本部からは「買い物に行くのは休憩時間にかぎり、拳銃や体革、無線機などの装備品は、交番の所定の保管庫に納めたあと、上着を羽織って買い物に行くように」というような、お達しが出たこともあった。

しかし、私はこれに反発して、上司に抵抗した。
「そんなもん、ぜんぜん現実的ではないし、現場の事情もわからない奴にちょっと言われたくらいで、黙って引き下がっていたらキリがない」と、そう主張したのだ。

というのも、交番における、昼食時も夕食時も、休憩時間は1時間だけである。
それなのに、身にまとっている装備品をすべて下ろして保管庫にしまい、それから買い物に行っていたら、それだけで20分はかかってしまうだろう。当然、制服警察官は外食はできない。

(私が最後に勤務した交番の公かい内部)

また、家から弁当を持参する人は良いが、交番の当直勤務(朝の定時から翌日昼前まで)では、最低でも、昼と夜の2食はとらないといけないから、2食とも弁当を持参する人など、まずはいない。単純に荷物になるからだ。

だから一食はコンビニでの買い食いで済ますとしても、そればかりではすぐに飽きてしまう。今とは違い、当時のコンビニでは惣菜的なものはほとんど無かったので、夕食くらいは、可能であれば出前を取っていたのだ。

しかしこれも、近年では出前をしてくれる店が減ってしまったから、先に電話注文しておいて取りに行くということを、しなければならなくなった。
すると、休憩時間前に注文だけしておいて、休憩時間になってから装備品を下ろすなどして、注文した品物を取りに出向くとしても、そもそも、それまでの間に、事案や届け出や願い出などが無いという保証などない。
注文したはいいが、場合によっては、数時間も取りにいけない場合だってあるのだ。

また、そもそも、交番勤務というのは「常時警戒体制の保持」ということが定められており、要は、事件事故が発生した際、すぐに動けるよう、常時、無線の傍受体制をとっておけ、ということになっていたのだ。

ところが、前記のように、ちょっと買い物へ行くのにも、装備品をぜんぶ下ろしてなどいたら、無線の傍受体制など取れない。
仮に、本部の無線通信を傍受するための受令機だけは、ラジオを聴いているようなフリをしてまで聴いていたとしても、それで事件の発生を知ったからといって、スーパーマンでもあるまいし、そこからすぐに出動するわけにはいかず、いったん交番まで戻って、装備品をすべて身につけてから、おもむろに現場急行するということになる。
だから、早くても20分やそこらは出遅れてしまうのである。

つまり、常時警戒体制を保持するのであれば、警察官は(仮眠の4時間は別にして)休憩時間では制服と装備はつけたままでいなければならない。
それなのに、当然必要な食事のための買い出しのために、いちいち装備品を外し、制服を脱いで買い物に出ろなんてことは、所詮は無理矛盾の難題でしかないのである。

だから「それを要求するんなら、毎食、出前でも準備してくれるんですか? あるいは、休憩時間には、いっさい事案を入れないんですか?」と、私はそう言い、そうした八方美人的に非現実的で理不尽な指示に抵抗して、上司を困らせたのである。
そして、上司だとて、そんなことは百も承知していたから、それ以上、無理強いはしなかったのだ。

まあ、そうした現場の事情があって、本作でも紹介されていたとおり、都道府県警察によっては「コンビニの警戒にもなるので、制服での買い物もOK」令を出したところもあるにはあった。
だが、大半の場合は、曖昧なままな、どっちつかずの事なかれで、すべては現場に任される、みたいなことになっていた。

だから、若い後輩たちは、コンビニへ買い物へ行くときは、拳銃や無線機のついた体革までは外さないものの、大きめのジャンパーなどを羽織って、装備品を覆い隠すような服装で、(夏でも)買い物に出ていたのだが、私は意地でも、制服姿のまま買い物に行っていた。

実際それで、通報されたこともなければ、問題になったこともない。
また、通報されたとしても、そんな「為にする雑音」など、現場には出ない上(上級幹部)の責任において、無視すれば良いのだと、そう思っていたのだ。

私が若い頃の警察では、よく上司が「理不尽な要求には、断じて応じない」などと強気なことを言っていたが、ある時期(2000年頃)、不祥事が連発したために警察改革が行われて以来、どんな「市民の声」にも対応するということになって、上の方が保身に走り出した。
自分が動くわけではないのだから、ひとまず何でも現場派遣して「やりました」というかたちを作れ、という話になったのである。

コンビニへの買い物苦情などに対する、過剰に弱腰の対応も、こうした時代背景があったのだ。

そんなわけで、昔(私が若い頃)と比べて今は、情報の拡散が早くて広いから、世間の例に漏れず、警察組織もそれを恐れて、万事ことなかれになってしまい、そうした「声」への忖度が当たり前になってしまった。


(これは余談だが、退職後である昨年の話、私の「note」記事のコメント欄を荒らしに来た「糞リプマン」を名乗る人物は、逆に私からコテンパンにやり返され、その悔しさを晴らすために、私が記事に元警察官であると書き、本名まで公開しているのを探り当てて、警視庁と大阪府警本部に、苦情の電話だか投書だかをしたそうである。だが、さすがの警察も、退職した元職員の、その後の行動にまで責任を持つ気はなく、同氏を適当になだめて済ませたもようであった。
この糞リプマンさんは、書いている内容からして、私とほぼ同年代の人なのだが、そんな年寄りでも「会社に言いつけてやる!」みたいなことをするのである。こういうつまらない人間が、つまらないことについて、匿名通報したりするのだ)

ともあれ、物事の変化には、好ましい面と好ましからざる面が、表裏一体的に存在するものだということを、私たちはよくよく考えるべきだろう。

「それをして、誰も損する人はいないだろう(好ましいことばかりだろう)」というようなことであっても、それが回り回って、思わぬところで弊害を引き起こすというのは、当たり前にあることなのだ。

どんどん便利な社会になっているようでありながら、ある意味で私たちの生活はどんどん窮屈になり、息苦しいものになっている。
だからこそ、エンドウさんのような人物も、切実に求められているのだ。

これからも、世の中はますます便利になるだろう。
だが、それと同じだけの何かが失われるだろうということも、私たちはくれぐれも心得ておくべきだ。

そして時には、その「便利さ」や「わかりやすい正義」の裏に隠されたものの存在の故に、それらに抵抗することも、必要なのではないか。
たとえ、最終的には勝てない相手であったとしても、である。

まさしく「エンドウさんのように」なのだ。



(2026年5月6日)

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