江原由美子 『フェミニズム』: 偽善的な党派理論家によるプロパガンダの書

▷ 書評:江原由美子『フェミニズム』(岩波新書)


本書を読んで、少なくとも現在の「日本のフェミニズム」のダメさの本質が、よくわかった。

本書は、「フェミニズム」を考えるための素材としては役に立つけれど、ここに書かれていることだけなら、大して役には立たない。

なぜなら、本書は「フェミニズムとは何なのか」を考えるつもりが端から無く、「フェミニズムは、全面的に正しいものだ」というのを大前提とした、党派的な議論(自家宣伝)しか展開していない「イデオロギーの書」だからである。
喩えて言えば、「共産主義は素晴らしいから、ロシアも素晴らしいに決まってる」みたいなものと大差がない。現実を見る気が、さっぱり無いのである。

そんなわけで本書は、「フェミニズム」という「教義」についての、護教書なのだ。

世間からの「逆風」を強く意識した「でも、本当はフェミニズムって、こんなに素晴らしいものなんだよ」と語るものであり、なぜ「逆風」が吹いているのかという点については、まったく考察していない。

平たく言えば、フェミニズムに対する逆風とは「差別者たちの抵抗」であって、検討するに値する「他者の意見」などではないと、端から決めつけているだけ。
だから、自分たちへの批判には聞く耳を持たす、頭から全否定して終わりなのだ。

こうした態度のわかりやすいものとしては、例えば「キリスト教神学」がある。

「キリスト教神学」とは「(キリスト教で言うところの)神は(キリスト教で説くとおりのものとして)実在している」ということを、問答無用の大前提として構築された教義理論。言うなれば、手前味噌な大前提に立って、でっち上げられた「壮大なる空中楼閣」なのである。

そこでは当然「神は存在しないかもしれない」という可能性は、1ミリたりとも検討されることはない。
何がなんでも「神は存在するに決まっている」からである。

「ではなぜ、この世に不幸や理不尽が存在するのか?」といった、ごく当たり前の疑問に対しては、「神は存在する」という前提に立った上で、「神の都合(自己正当化理論)」を案出することこそが、「キリスト教神学」の役目なのである。

例えば一一「人は、神の操り人形ではない。神は人に自立した存在であることを求めたもうた。だからこそ、人は苦難にも遭えば、罪をも犯す。けれども、神を信じて生きていけば、やがてそうした不幸さえ、神の存在を実感するために与えられた試練として、喜びを持って受け止められることにもなろう」一一なんて理屈を捻り出すのが「キリスト教神学」。つまり「(キリスト教の)神のための(という建前での、自分たちの信仰のための)信仰内学問」なのである。

したがって、繰り返すが「神は存在しない(かも知れない)」とは、絶対に考えない。
そこまで考えたらもう「信仰」からの逸脱であって、それは「神学」ではなく、世間並みの「宗教学」にすぎなくなってしまうからだ。

キリスト教を唯一正しい「信仰」だという前提に立たないものは、「キリスト教神学」ではない。
だから彼らは「キリスト教は宗教ではない」という。キリスト教は、「宗教」ではなく「真理」なのだ。

言い換えれば、キリスト教もいろいろある「宗教」のひとつだという「現実」に立って、その中のひとつの「宗教文化」としてキリスト教をとらえるのは、端的に「間違いである」一一という前提に立たないと、それは「誤った認識に立つ」宗教学でしかない、ということになる。
つまり、考えてはいけない(考慮してはならない)前提の存在を認める(盲信する)ことで初めて成立する「学問」。
両手両足を縛られて状態で、さあ走れと言われて、走ろうとするような「学問」が、「キリスト教神学」なのである。

当然「無神論」など、「意見」でも「ひとつの考え方」でもなく、端的に「反キリスト」であり、要は、考慮に値しない、ではなく、考慮してはならない「悪魔の思想」なのだ。

だから、絶対に耳を傾けててはいけない。議論の相手などではない。
つまり、客観的な根拠はなくても、そういうこと(無神論は悪魔の思想ということ)になっているから、とにかくそれは、全否定すべき「誤った考え」なのである。

キリスト教会は、「無神論」を、論破すべき相手だとは考えてはおらず、文字どおり「抹殺」すべき相手だとは考え、かつてはそのようにしてきた。

しかし近代以降、世間の風向きは、そうしたキリスト教会の態度(正義)に対して、完全に逆風だった。

「十字軍による悪魔の徒の成敗」も「異端審問」や「魔女狩り」による「悪魔狩り」も、近代以降では、その表面だけを見て「同じ人間に対する虐殺」だと見なされるようになって、もはやそれをすることは出来なくなった。
それをすれば、教会はこの地上において立ちいかなくなるだろう。

一一と、そう考えて、「十字軍」も「異端審問」も「魔女狩り」も、表立ってはやらなくなった。
でも、カトリック教会には今も「悪魔祓い師」がいるのは、周知の事実。

だが、それらのことを表立ってやらなくなったのは、それらの行為が「誤りだった」と認めて反省したから、ではない。

一部に個人的な過ちはあったにしろ、それらはすべて基本的には正しかったのだが、誤解されること間違いなしの今は、それをやるべき時期ではないと、そう考えているだけなのだ。

だからこそ、カトリック教会の近代化には、限界がある。
カトリック教会の「近代化」とは、「教えのままに」と考えて「再解釈の欺瞞」を決して認めはしない保守派=原理主義者からすれば、それは、信仰の放棄に他ならないからである。

つまり、「キリスト教神学」というの、キリスト教のための「護教理論構築のための学問」であって、「客観的な真理」を求める探究などではない。
「神が真理である」と、結論は出ているのだから、あとはそれをいかに説得的に語るか、という問題でしかないのである。

で、こうした「キリスト教神学」の中には「教会史」というものがある。
要は「キリスト教会の歴史」を研究するという、これも「信仰内学問」だ。

キリスト教の前史として、選ばれし民たるイスラエル民族(ユダヤ人)の歴史が語られ、そこでの「神(エホバ)」との関係が語られる。これが「旧約聖書」。

しかし、旧約の神とは「民族神」でしかない。イスラエル民族が「選ばれし民」なのは、神が彼らを「特別に選んだ」からであり、言い換えれば、その神エホバは、民族を守るための「民族神」でしかないのだ。
他の民族のことは知ったこっちゃないし、イスラエルの民のためであれば、虐殺も厭わない。そういう神なのである。(「出エジプト記」12章)

ところが、神がついていてもなお不遇なイスラエル民族を救うためにやってくると、そう旧約文書(旧約聖書)で預言されたキリスト(救世主)が、実はイエスその人だったとするのが、新約聖書なのだ。

イエスは、戒律にがんじがらめに縛られたユダヤ教の考え方に対して、「寛容」の精神を説いた。それこそが、本来の神の教えなのだという「新解釈」を提示した。

「姦淫の女」は、戒律に沿って石打ちにして殺すのが当然だという考え方を否定して、「心の中で姦淫したことのない人がいますか?」と問い、誤ちを犯した女への寛容を説いたりした(ここで間の話は、新約聖書でのいくつかの考え方をまとめている)。

しかし、だからこそイエスは、イスラエルの民(ユダヤ人)の反発を買い、「偽キリスト」として処刑されることにもなったのだ。

しかしまた、それが故にイエスは、のちに「(真の)キリスト」だったのだと、そう考えられるようになった。

イエスは、それまでイスラエルの民(ユダヤ人)のための民族神でしかなかったものを、すべての人々のためのものとして開こうとし、それがために憎まれ、処刑されてしまった。

しかしイエスは、人々のそうした「自分さえ救われればいい」というケチな精神(人間らしさ)の「罪」を、我が身に引き受けることで、すべての人を救おうとしたのだ。

神が天から降って、わざわざ限界のある人間の身となり(肉となり)、その身に人間と同じ苦しみをあえて引き受けることで、すべての人間への救済の道を開いたのだ。

だから、彼イエスこそが、キリスト(救世主)だったのだ。
人間イエスは、人々の手にかかって死ぬことで、すべての人間への救いの道をひらいて、初めてイエス・キリストとなったのだ。ここに、人間と神との「新しい約束」が交わされたのである。
一一というのが「新約聖書」である。

つまり「教会史」とは、この旧約と新約という「神の真理を解いた聖なる文書」を根拠として、キリスト教会の「正義の歴史=救済の歴史」を語る、「信仰内学問」なのである。

当然、そこからは「不都合な事実」などは、体良く排除されることになる。

「十字軍」も「異端審問」も「魔女狩り」も、それは根拠のある正しい行いだったのだと、手前味噌な理屈をつけ、正当化されて、歴史の中に位置づけられる。一一しかし、それにも限度があるからだ。

いくら正当化したところで、信者でない者は、当然のことながらそれを、鵜呑みにはしてくれない。
むしろそこに、キリスト教の独善と無反省ぶりを見て、かえってキリスト教会を攻撃することになるだろう。それはまずい。
一一ならば、どうするか?

正解は「なるべくそこには触れないようにする」。これである。

 ○ ○ ○

つまり、本書『フェミニズム』がやっているのも、これと同じことなのだ。


「私たちは人々を救うためにこれだけ頑張ってきました。しかし、悪魔の勢力はこれに抵抗をして、権力と結びついたり、人々を誑かしたりしたために、私たちはしばしば、謂れなき誹謗中傷を浴びせられ、迫害されてきました。
でも、キリスト教がなければ、今のような他者への愛に満ちた世界は実現しなかったでしょう」

と、この最後の、

「キリスト教がなければ、今のような他者への愛に満ちた世界は実現しなかったでしょう」

の部分を、

「フェミニズムがなければ、今のような女性の人権が尊重される社会実現しなかったでしょう」

に、さし替えれば良い。

このどちらについても、基本的には「それはそのとおり」なのだ。
キリスト教もフェミニズムも、人間社会に「多大な貢献」をしてきたというのは、誰にも否定できない事実なのである。

ただし、問題は、「それだけなのか?」「良いことしか、しなかったのか?」「批判されるに値する事実は、まったく完全に存在しなかったのか?」「それはぜんぶ濡れ衣だったのか?」ということなのだ。

言い換えれば、「不都合な部分を隠してはいないのか?」ということなのだが、無論、隠している。

だから、彼らが「謂れなき誹謗中傷や迫害」に遭ったというのは事実だとしても、「謂れのある批判や、自業自得の攻撃に晒された」というのも、隠してはいるが、動かぬ事実なのである。

そもそも、キリスト教だってフェミニズムだって、「公式見解」は、極めてご立派なものであろう。

だが、個々のメンバーが「その理想どおり」の行動だけをしたのかと言えば、そんなことはない。それは、あり得ないのだ。

個々のキリスト教信者や個々のフェミニストは、決して聖人君子ではないのだから、しばしば「公式見解」や「原理原則」を逸脱して、「私利私欲」の走る。一一なにしろ「人間だもの」。

その良い例が、私が批判している、武蔵大学の教授で自称フェミニストである、北村紗衣である。
北村紗衣は「大嘘つきの陰謀家」なのだ。

このあたりについては、何度も書いているので、ここでは次の記事を読んでもらうとして、話を先に進めよう。


当然のことながら、フェミニズムの辞書には、女性の権利を獲得するためになら、「嘘をついても良い」とか「陰謀を企んでもよい」とか「他人を犠牲はしても良い」などということは書いていない。
書いてはいないのだが、一一現実にはそれが行われている。

なにしろ、キリスト教徒もフェミニストも、ただの人間だからである。
だから、不都合なことは隠すし、嘘もつく。

当然、キリスト教の「教会史」は、不都合なことは避け、自分たちの信仰については、非現実的なまでに美化された「原理原則」だけを書いている(奇跡なんかも起こる)。

これは本書『フェミニズム』も同じことだ。不都合なことは隠され、美化された「理想」だけが、まるでそのまま実践されてきたことのように語られている。

そして、その「自己美化」には無理があるから、おのずと敵手を悪魔化しないではいられない。

「こんなに、正しいことを正しくやっている私たちがどうして迫害されたのでしょうか?」という彼らによる問いの答は、その相手(敵手)が「悪魔の徒であったからだ」ということにしか「出来ない」。
そうでないと、筋が通らない。

しかし、この問いへの、現実的なもうひとつの答えとは、

「あなた方が迫害されたのは、あなた方ご自身が、ご自分でおっしゃるほどには、正しくもなければ立派でもなかったからでしょう。だから、恨みを買うようなこともあった。自分は何も悪くない、完全無欠の清廉潔白な人間だなんて、そんな言い草は、いささか厚かましいですよ」

ということになる。

一一さて、どっちが現実的だろうか?

実際、フェミニストの中には、北村紗衣のような人物もいる。

にもかかわらず、そんな北村紗衣が、フェミニストの中で批判されることは無い。
一一なぜか?

それは、北村紗衣を批判しないフェミニストたちもまた、北村紗衣と同じ穴のムジナであり、不都合なことは隠しあい庇い合い、建前では「議論しましょう」とか言いながらも、実際には「ノーディベート」で逃げるような、「嘘つき」が少なくないからである。


筋を通すことよりも保身を優先するのが、凡俗の凡俗たるところで、これは「フェミニスト」であろうが、「大学教授」であろうが、例外ではあり得ない。

SF作家シオドア・スタージョンは、こう言っている。

SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである。


まさに、至言であろう。

物事を「肩書き」だけで判断してはいけない。それは「偏見」でしかない、ということだ。
人間なんて、ごく一部の例外を除いては、だいたい似たようなものなのだ。

そして、こうした「真理」は、本書についても言えるし、当然、本書著者についても言えるのだ。

したがって「岩波新書の9割はクズである(名著などではない)。フェミニストの9割もクズである」ということになる。

 ○ ○ ○

さて私は、本書著者・江原由美子の名前を、以前から知っていた。
なぜなら、江原の名を冠した本を、すでに何冊も所蔵していたからである。

私は、北村紗衣というフェミニストと遭遇し、その「嘘(誣告)」による被害を受けて、その事実を告発し始めて以来、フェミニズムの勉強を始めた。
仮にも北村紗衣は、「フェミニスト」を公言する大学教授だったからである。

そうした独学のなかで、私は内外のフェミニストの著作を読み、レビューも書いてきた。

そうして読んだフェミニズム関連著作の中には、さすがに有名なだけはあると、そう感心させられた著作もあった。
本書でも触れられている、シモーヌ・ド・ボーヴォワール第二の性』やジュディス・バトラージェンダー・トラブル』、あるいは、なぜか本書では触れられていない上野千鶴子による『家父長制と資本制』 などである。


しかし、私がすでに読んでレビューを書いたのは、入手したフェミニズム書の半分ほどでしかない。
その残りの半分の中に、本書の著者・江原由美子の名を冠した本が、最低5冊ほどはあるのだ。

だが、だからといって、私が江原由美子に特に注目していたというわけではない。
ちょっとネット検索して貰えばわかるとおり、江原はフェミニズム入門書やフェミニズム理論アンソロジー本の「編者」として、多くの関連書に、その名を連ねている。
だから、江原由美子の本を読もうというのではなく、広くフェミニズムのことを学ぼうとしたら、おのずと江原が編者となった本を買うことになってしまうのだ。

当然、このように、多くのフェミニズム書に編者として名を連ねている江原由美子は、フェミニズムの専門学者であり、その第一人者である。

本書『フェミニズム』の帯に、『第一人者による待望の入門書』とあるのは、文字どおりにそういうことなのだ。

それに江原は、私が高く買っている上野千鶴子との共編書もあるから、それなりに優れた人なのだろうと、そう期待したのだが、一一本書によって、その期待は裏切られてしまった。
明らかに、上野千鶴子とは格が違うし、中身も違う。

上野千鶴子は、自分の頭で考えて、自分の言葉で語れる人だったが、この江原由美子は所詮「フェミニズムの護教的な理論研究者」にすぎなかった。

フェミニズムを客観的に研究するのではなく、フェミニズムを正当化するために、内外の本をあれこれ専門的に読み、そのことで護教的な理論の構築に日々勤しんでいる、そんな「党派理論家(イデオローグ)」の一人にすぎない。

例えば、江原由美子の「書き方」とは、こんな具合だ。

なぜ「他者のため」なのか
 アメリカの中流上層階級の女性参政権運動では、奴隷制度廃止運動が出発点となっていました(本章の後半を参照)。このようにイギリスとアメリカの中流上層階級の女性たちの女性参政権運動に共通しているのは、「自己のための社会運動」を出発点にするのではなく、「他者のための社会運動」を出発点としていることです。
 このことは今の時点で考えると、やや「偽善的」に感じるかもしれません。けれども、当時の「女性は自分を犠牲にしても人のために尽くすのが当たり前」とするような強固なジェンダーのもとでは、女性が家の外で活動するには「他者のため」の運動を理由とするほうが、ずっと世間的に「通りやすかった」ことに注意する必要があります。それだけ「女性が自分自身の解放のために闘うこと」は、世間からの攻撃を招いたのです。
 中流上層階級の女性たちは、他の階層の女性たちよりも、時間・影響力・経済力などの社会的資源を持っており、彼女たちの活動なしには、有効な女性運動の確立はなかったのではないかと思います。』(P72〜73)


この記述を読んで、引っかかりを覚える人もいるはずだ。少なくとも、私は引っかかった。

なぜなら、彼女たちが人種差別に反対したことを、「やや」ではあれ、「偽善的」に見えるかもしれないと、そう言っているからだ。

少なくとも、私はそれを「偽善的」だなどとは思わない。
差別されている人を見て「可哀想」だと同情するのは、当たり前の人情だと思うからである。

しかし言い換えれば、そのような「同情」を当たり前のものだとは思わず、「何か打算的な裏がある」のではと疑ってしまうからこそ、江原由美子にとっては、自己の利益に直結しない反差別活動は、「偽善的と見えても当然」だということになるのである。

しかしこれでは、フェミニストがしばしば、「女性差別」か、せいぜいいま流行りの(社会的な耳目を引きやすい、マスコミウケの良い)「トランスジェンダー差別」くらいにしか反対しないというのも、当然だということになろう。


自分の利益にもならないのに、「差別」だからといって、あれにもこれにも反対したところで、一銭の得にもならないと、そう考えるからである。

しかし私は、北村紗衣を批判するのに、しばしば次のように言ってきた。

「反差別としての女性差別を告発するのであれば、どうしても、他の差別については一言半句触れないなんてことができるのか? どうして部落差別(同和問題)、在日朝鮮人差別、従軍慰安婦問題、沖縄への米軍基地押しつけ問題に触れないでいられるのか? それは、それらに触れることが、自身に何のメリットももたらさないからではないのか?
女である自分がフェミニズムだけ語っておれば、いつでも自分を被害者の立場に置けるから、他者に向けて各種の要求をする側に立てて、得をすることはあっても、損をすることはない。
ところが、部落差別(同和問題)、在日朝鮮人差別、従軍慰安婦問題、沖縄への米軍基地押しつけ問題なんてことに触れると、北村紗衣は、被害者側ではなく、加害者側の一人になってしまうから、そのために働いても、自分には何のメリットも無いと、それでそれらには関わらないだけではないのか?
つまり、北村紗衣のフェミニズムとは、自身の属する女という党派のための利益追求運動ではあっても、反差別運動ではないのではないのか。そこに差別があろうがなかろうが、とにかく取れるものは取ってやろうとする、そんな貪欲のなさしめる行為なのではないのか?」


大筋で以上のように批判し、逆に、例えば従軍慰安婦のため働いているようなフェミニストこそが本物の「反差別者」であり、北村紗衣のような自己利益のためだけに動いているような者は「反差別者ではない、似非フェミニスト」だと批判したのである。
自分自身が「成り上がる」ために、フェミニズムを利用しているだけの「リーン・イン・フェミニスト」であると、批判したのだ。


(リーン・イン・フェミニストの代名詞である、シェリル・サンドバーグ)


ところが、そんな北村紗衣よりも一世代上の江原由美子が、こんなことを書いているようでは、その段階ですでに、日本のフェミニズムとは、「反差別」の旗印でしかなく、その実質は、単なる「(女性)党派利益の追求」運動でしかないのではないかと、そう疑われたのだ。

こんな江原由美子の書いたような本を読み、それに学んで「(大学)フェミニスト」になったのだから。

たしかに、「他者のため」という建前が無ければ、女性が運動しにくかったという時代はあったのだろう。
だから、本音は別にして、言うなれば「黒人を出汁にして」自分たちの運動を進めたフェミニストたちも大勢いたのだろう。

だが、そうではなく、純粋に「他者(黒人)のために」運動した中流階級以上の白人女性もいたはずだし、まして今となっては、そう見ることの方がよほど自然なのだはないだろうか?

つまり、「他者のために」動いた彼女たちを、殊更に「偽善的」だと見る(疑う)のは、よほどの根性曲がりか、事実そんな偽善に生きている当人をおいて、他にはあるまい。

つまり、江原由美子自身の発想が「自分にメリットもないのに、他人のために働くなんて、何か裏があるに違いない」というものだから、こういう物言いにもなるのではないか、ということ(疑い)である。

そしてこうした、江原由美子のような発想は、とりも直さず自分自身が「自己の利益のためのフェミニズム」に生きているせいであり、一般的な「女性のため」とか「他人のため」なんてのは、そうした発想の人にとっては、建前の綺麗事(嘘)でしかない、ということを示していると、そう言えるのではないだろうか?

そしてそうした「江原由美子的な発想」が、日本のフェミニズムにおいては「当たり前」だと感じられているのではないのかと、私はそう疑ってしまうのだ。

実際、中流階級以上の白人フェミニストは、黒人女性のフェミニストから、厳しく批判された過去がある。
「結局、自分たちのことしか、考えていないじゃないか」と。

『 「アメリカのフェミニズム運動は初めから黒人解放運動と密接な関係にあった。女性の権利の要求は一八三〇年代の奴隷制廃止運動から生まれ、女性参政権運動家たちは奴隷制廃止運動でもあり、両者はともに平等を求めて活動を行っていた」(有賀夏紀「アメリカ女性運動/フェミニズムの歴史再考」)
 現代の視点から見れば、このような女性参政権運動に参加した(白人の)女性たちもまた、人種差別意識から免れていたわけではないと言いうるかもしれません。現代アメリカでは、これまでの白人の女性参政権運動を中心に置く見方に対して、黒人女性の活動を無視した見方だったりたのではないかという観点から、見直しが進んでいます。そこでは、女性参政権活動家の女性たちにも、黒人に対する拭い難い差別意識があったということも指摘されています。しかし、そうした指摘を踏まえたうえで、アメリカの女性参政権運動が生まれてきた主要な流れが奴隷制度廃止運動であったということは、確認しておくべきことだと思います。』(P82〜83)


この最後の部分、

『しかし、そうした指摘を踏まえたうえで、アメリカの女性参政権運動が生まれてきた主要な流れが奴隷制度廃止運動であったということは、確認しておくべきことだと思います。』

の「しかし、」とは何を意味するのか?

これは、アメリカのフェミニズムの発端である「女性参政権運動」が「差別意識を内包していたという事実」よりも、「反差別運動から出てきたものであるという事実」の方が重要であると、そう「手前味噌に」主張しているのだ。

「中身よりも、形式が大事だ=実際には差別していても、形式的に反差別なのであれば、その方が運動としての実益があるのだから、そっちの方が大切ではないか」と、そういう主張なのである。

ちなみに、本書でも言及されているとおり、そうした白人女性フェミニストたちの黒人女性に対する差別意識を厳しく批判した黒人女性フェミニストの一人が、私もレビューで紹介している、ベル・フックスだ。


その著者『ベル・フックスの「フェミニズム理論」 周辺から中心へ』 のなかでフックスは、こんなふうに書いている。

『「共通の抑圧」という概念
 現代フェミニズム思想の中心となる教義はこれまでずっと、「すべての女性は(※ 同じように)抑圧されている」という主張だった。それは今でもそうである。こうした主張は、女性は共通の運命を(※ 同じように)分かち合っているということを意味している。また、一人ひとりの女性の生活において、性差別主義が及ぼす抑圧的な力の程度を決定する体験の多様性は階級、人種、宗教、そして性的指向などといった要素によって生じるわけではない(※ それらは、本質的なものではない)ということも意味している(※ そう暗に示唆している)。
 (※ しかし)支配システムとしての性差別主義は制度化されているが、この社会のすべての女性の運命を絶対的に(※ 単独で)決定づけてきたわけではない。』

(P23。本文中、一段落としで表現された「引用文」部分は、ここでは〈〉で括った。※は、年間読書人による補足)


『スーキー・スタンプラーは著書『ウーマンリブ 将来の青写真』(1970年)の導入部分で、(※ 男性を批判することで、一気に世界が変えられるとする)そうした急進的な精神をこう表現している。

〈(※ フェミニズムの)女性運動家は、有名人やスーパースターをつくりあげようとするマスメディアのために、いつもわき道に脱線させられてきた。これはわたしたち(※ フェミニスト)の基本理念に反することである。私たちは、名誉や名声を鼻にかけるような女性たちと関係を結ぶことなどできない。わたしたちは、特定の女性の利益や特定の女性集団のために闘っているわけではない。わたしたちは、すべての女性にかかわる問題に取り組んでいるのである。〉

ブルジョワ的イデオロギー
 運動の初期、こうした意見は多くのフェミニストによって支持されていた。しかし、それは長続きしなかった。フェミニズムの文章を書いたり、あるいは労働における平等を要求するフェミニズム運動によって利益を得たりして、名誉や名声や金を手に入れる女性が多くなるにつれて、自分勝手な日和見主義が横行し、集団闘争の訴えの土台は(※ こうした、堕落したフェミニストによって掘り)崩されていった。そして、社会、資本主義、階級差別、そして人種差別に反対する気もない女性たちが、自らを「フェミニスト」と称した。
 そうした女性たちの期待はさまざまだった。特権階級の女性は自分たちと同じ階級の男性との社会的平等を望んだ。同じ労働に対して同じだけの賃金を要求する女性もいれば、今とはまったく違った(※ より恵まれた)ライフスタイルを望む者もいた。そして、これらの特権階級の女性にとって正当な要求の多くは、社会を支配する資本主義的な家父長制によって簡単に取り込まれて(※ 彼女らは懐柔されて)しまった。フランスのフェミニスト、アントワネット・フーケは著書『警告』(1980年)のなかで、こう述べている。

〈フェミニスト集団の提案する行動は、著しく挑発的である。しかし、挑発(※ だけ)であぶりだされるのは社会の矛盾の一部分でしかない。挑発では社会のなかの根本的な矛盾を暴くことはできない。フェミニストは、自分たちは(※ 単に)男性との平等を求めているわけではない(※ もっと本質的な変革を求めているのだ)と主張している。しかし、彼女たちの行動は明らかに矛盾している。(※ 実際のところ)フェミニストとは、男女(※ の性別)を逆転させただけの支配的な価値観を持つブルジョワ階級のアバンギャルド、すなわち時代の先頭に立つ革新的な人びと(※ 過激派なの)である。
 (※ しかしながら、)価値観を逆転させただけでは何ものも生まれない。改革は(※ 一部のアバンギャルドのためのものではなく)すべての人びとのためでなければならない! (※ そうでなければ)ブルジョワ的な秩序、資本主義、男性中心主義は、必然的に多くのフェミニストを取り込んでしまうことになる。そんな(※ 前衛的な)女性たちが「男性」になるということは結局、男性の数が少し増えるという意味でしかない。性が違うということは、その人間がペニスを持っているかどうかなのではなく、その人間が男根崇拝的(※ 権威主義的)な男社会の経済に取り込まれているかどうかで決まるのである。〉

 アメリカ合衆国のフェミニストたちも、こうした矛盾には気づいていた。キャロル・エールリヒは、評論「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚を救うことはできるのか?」(1981年)のなかで、こう指摘している。「ブルジョワ・フェミニズムへ向かうことでフェミニズムの急進的な本質が力を失っていく」につれて「フェミニズムはますます、行き当たりばったりで、安全で、革命とはほど遠い様相を呈してきたように思われる」と。そして、「わたしたちはこんなことをいつまでも続けさせるわけにはいかない」と強調している。

 〈フェミニズムは、成功の衣を身にまとうことでも、会社の重役になることでも、選挙によって選ばれることでもない。そのことを女性たちは知っておかなければならない。そして、そのことを見極めることは、ますます難しくなってきている。フェミニズムは、夫婦でキャリアを追いかけることでも、スキー休暇をとって夫や可愛い子ども2人とたくさんの時間を過ごすことでもない。
 なぜなら、自分にはそんなことをする時間も金もない家政婦が必要なすべてのことを(※ 奥様の)代わりに引き受けている(※ ために出来ることな)のだから(※ そのことに差別を感じないような人間は、フェミニストを名乗る資格はない)。フェミニズムは、女性のための銀行を開くことでも、どうしたら積極的に(攻撃的に、ではなく)なれるのかを伝授してくれる金のかかる(※ ばかりの贅沢な)ワークショップに参加して週末(※ の暇)を(※ 潰して)過ごすことでもない。そして何より、刑事やCIAの諜報員や海軍の将校にな(※ って、社会を支配する側の人間にな)ることでは絶対にない。
 しかし、こうした(※ 資本主義な男性中心主義によって)歪められたフェミニズムのイメージが、わたしたちが思っているより現実(※ のフェミニズム)に近いとしたら、わたしたち(※ そうしたものに反対するフェミニスト)にその責任がまったくないとは言えない。(※ だから)わたしたち(※ 平等な社会を目指すフェミニスト)は、人びとの生活にそくした明確で有意義な、そして新しい分析を提供するように、そして有益かつアクセスしやすい組織として機能している集団、たとえば、集会、NPO、会社などを用意するように、もっともっと努力してくるべきだった。〉』

(P26〜28。見出し以外のゴシック強調は年間読書人)


こうした「白人フェミニスト」像は、日本においては、北村紗衣にも江原由美子にも、そのまま当てはまるだろう。

大学教授という社会的に高い地位を占めて、安泰の生活を送り、本を書けば「フェミニズム映画論の第一人者」(北村紗衣)だとか、「フェミニズム研究の第一人者」(江原由美子)だとか言われて、方々から「先生扱い」されている者に、差別の現場にいる(低所得や低教養の)女性のことが、「同じ女性だから」というだけでわかるとか、本で読んだからわかる、などと言う方が、厚かましすぎるのである。

だが、そんな「日本におけるフェミニズムのスター」だからこそ、江原由美子は次のように書くのだ。

『 憲法修正条項に対する(エリザベス・キャディ・)スタントンの反対の発言の中には、「自分たち教養ある白人女性のほうが、無教養な黒人男性よりも国に貢献できる」といった、人種差別的な発言が見出されます。ここから、彼女たちに対して「白人中心主義者」「人種差別主義者」などの批判もなされています。また、このようなスタントンの発言が、選挙権行使には識字能力を必要とするという、事実上、人種差別的に機能する選挙制度につながったという指摘もあります。
 それゆえ、女性参政権運動を、スタントンと(スーザン・ブローネル・)アンソニーを中心にして描き出すことに対しては、見直しの必要性を指摘する声もあります。けれども、他方でスタントンは、女性参政権は白人女性と黒人女性が同時に実現するべきものだと強く主張しています。少なくとも女性参政権に関しては、人種差別的主張をしてはいなかったことを確認しておきたいと思います。』(P88〜89)


要は、スタントンに「差別意識があったこと」よりも、「女性参政権運動を黒人差別反対運動と抱き合わせにして推進した事実」の方が大切で、『少なくとも女性参政権に関しては、人種差別的主張をしてはいなかったこと』が大切だと、そう言うのである。

当然これも「差別意識の有無」などではなく「権益獲得運動としての実行性」の方が重要だという発想によるものなのだ。

だから、仮に江原由美子に各種の差別意識があったとしても、権威ある専門家の大学教授としての自身の発言は、それだけで特別な価値があると、そういう意識なのだ。

スタントンが「自分たち教養ある白人女性のほうが、無教養な黒人男性よりも国に貢献できる」と言ったのと同様の、「階級意識」に基づくものと考えていいだろう。

「私たち知識人が言うから、同じ内容でも、政治的な影響力があるのだ」と、そういう「階級差別意識(有力者意識)」である。

つまり、ここまで見てきただけでもわかるとおり、江原由美子や北村紗衣の「フェミニズム」にとって大切なのは、「反差別」ではなく「権利獲得(実益)」なのである。

だとすれば、当然、利用できるものは何でも利用するだろう。
「筋論」ではなく「結果論」なのであれば、言っていることとやっていることがバラバラでも、別にかまわない。
言っていることは「煙幕としての綺麗事」だってかまわないのだ。

さらに言えば、その場その場で言うことが変わっていてもかまわない。それに実行性があるのなら、それで良いではないか、という発想である。

『 女性参政権の成立には女性の戦争協力にかかわる取り引きがあったというように言われることがありますが、女性参政権運動活動家には、このジャネット=ランキンのように、戦争に反対する女性たちもいたことを忘れるべきではないでしょう。』(P117)


『女性参政権の成立には女性の戦争協力にかかわる取り引きがあったというように言われることがありますが』などと書いているが、それが、動かぬ「事実」であることは、本書の中でも繰り返し語られている。

第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、アメリカでもイギリスでも日本でも、戦争のたびごとに、女性の権利が「他国民の血の犠牲」によって贖われてきたという事実は、本書でも、歴史的事実として、繰り返しはっきりと語られているのだ。

ところが、そうした事実を、研究者として資料を駆使して語ったはずの江原は、ここでは『というように言われることがありますが』それは事実ではない(かも知れない)、と言わんばかりの「印象操作のレトリック」を駆使している。

女性の権利が拡大されるのなら、戦争への協力も悪いことではなかったかのように語っておきながら、最後は「印象操作」で、それを無かったことのように見せかけようとする。

これは、江原由美子が、本来の意味での「学者」ではなく、所詮は「フェミニズム教の護教神学者」であり、要は「党派理論家」でしかないためである。

したがって、江原由美子が最終章で次のように書いているのも、手慣れた「大嘘」だ。

『「近代社会」からフェミニズムを見る
 ここまで、市民革命期から現代までのフェミニズムの流れをおおまかに描いてきました。とはいえ、ここでは描き切れなかった様々な人物や活動、事件などが多々あります。なるべく客観的に記述してきたつもりですが、個人としての見方の偏りが残ってしまうことは避けることはできませんし、単に私が知らなかったり不注意であったために描き残してしまった重要な事項があるかもしれません。』(P242)


この『なるべく客観的に記述してきたつもりです』というのが、大嘘であることは、ここまでに縷々説明してきたとおりである。

むしろ、客観的に書こうなどとしてこなかったからこそ『個人としての見方の偏りが残ってしまうことは避けることはできませんし、単に私が知らなかったり不注意であったために描き残してしまった重要な事項があるかもしれません。』だなどと、先回りの自己弁護である、「故意の否認」をしているのだ。

「わざとじゃありません。過失です」というわけだ。

これは、殺人犯などが「殺そうと思って刺したんじゃありません。ただ、カッとなって、よくわからないまま刺しちゃったんです」などと言い訳するのと、まったく同じことである。
「故殺」ではなく「過失致死」だと言いたいのだろう。

ともあれ、こんな人が、わが国においては「フェミニズム研究の第一人者」なのだから、そりゃあ、一、二の例外は別にして、日本の大学フェミニズムが、基本的に「フェミニズム屋のカルテル」でしかないというのも、当然のことだ。

文芸評論家の与那覇潤が、

『かつて自分もその一部だったかもしれませんが、とにかく日本では書評ですら「自由にものを言わせない」空気や同調圧力が強いですね。「学者どうしは貶しあわない」みたいなものが典型です。そうした面々が、コロナやウクライナ(※ の問題)でも庇いあいを存分に発揮した結果、社会で丸ごと信用を失いつつあるのが現在かと。』

「オープンレター総まとめ: Yes, Their Brains are OPENed」コメント欄より)


と書いたのは、まさにこういうことだ。

江原由美子は、最終章の末尾を、次のような「ご立派な言葉」で締め括っている。

『これからのフェミニズムに求められているのは、近代社会形成期以来の規範を、その意義を十分に踏まえながら、男性だけでなく女性や子どもの人権をも尊重しうるように見直していく、丁寧な議論だと思います。大鉈でぶった切って終わりとするような乱暴な理論では、疑問や不満が解消しないだけでなく、分断が強まるばかりです。それぞれの立場からの疑問や不満を理解しつつ、俯瞰的視点も踏まえて議論していく中で、新しい連帯を作り上げていくこと、今ほどそれが強く求められているときはないかもしれません。』(P267)


お前のその口が言うのか?一一という話である。

「いや、これは本気です」と言うのであれば、私が本稿で提示した「疑義」に答えてみせるがいい。
それとも、大学教授というのは、同階級の者しか相手にしないとでも言うのか?

突っ込みどころは他にもたくさんあったが、面倒なので、本稿ではこのくらいにしておいたが、私の批判や問いに応じてくれるのなら、付箋を貼った部分について、全部ぶつけて差し上げよう。

「議論が大事。それが民主主義だ」とか言いながら、いざとなるといつでも「あんな差別主義者とでは、話にならない」と言って、「ノーディベート」で逃げをうつような輩こそが、世の分断を生む。

「私は議論します」と言うのであれば、まずは私と、直接公場での議論をしようではないか。


(2026年5月5日)

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