木陰ひな田 『虐幸のくるちゃん(2)』: 他人事ではないと気づいてますか?

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▷ 書評:木陰ひな田『虐幸のくるちゃん(2)』(講談社)


一一いよいよ面白くなってきた。

第1巻がいささか期待外れだったので、この第2巻(本巻)が同じような調子なら、もう続きを読むのはやめようとそう思っていたのだが、本巻を読んで、さらに続きも読もうという気になった。

本巻では、主人公の「くるちゃん」こと逢坂來未(おうさか くるみ)が、そのネーミングからも分かるとおり、自身の「鏡像」とも言うべき人物・遠野美蕾(とおの みらい)に出逢って、「気づき」のとば口に立つからである。

第1巻があまり評価できなかったのは、いわゆる「毒親」である母親が、娘(來未)に「私はあなたのために、こんなに献身している」アピールをすることで、娘を心理的に束縛し、コントロールしている様子が、やや極端な感じで描かれており、その結果として、巻末では、來未が傷害事件を起こすところまで描かれているのだが、そのあたりが「ショッキングさを売り物にする商業主義」を感じさせて、いささか鼻白まされたためだ。


もちろん、こうした毒親というのは現に存在しているし、それを漫画で表現する場合、記号表現である漫画においては、表情などが「誇張」気味になるのも、やむを得ないところではあるのだろう。

だが、なにしろセンシティブな内容であるだけに、娯楽作品の常である、誇張によるインパクトやショッキングさで読者を圧倒するような描き方は決して好ましいものではなく、下手をすると「サイコホラー」もどきの作品にもなりかねない。

また、そう危惧されてもいたので、巻末の傷害事件シーンには「やれやれ、こんなふうにやっちゃうか」と、期待はずれの脱力感を否めなかったのである。つまり、

ドラマとして盛り上がれば、それでいいのか?
ウケさえすれば、それでいいのか?
不幸な親子問題さえ、単なる商品にしてしまって、それでも良心の咎めを感じないのか?

一一と、そんなふうに感じたからである。

また、そうしたわけで、第1巻巻末の予告に、次巻では自傷癖のある少女が登場して來未と友達になる、というようなことが書かれていたので、私は「毒親問題だけではなく、自傷問題まで持ち出してきて、不幸のてんこ盛り漫画にでもするつもりか」と、そんなふうに否定的な予測をしてしまい、本巻(第2巻)には、ほとんど期待できなかったのだ。


私が第1巻にあまり良い印象を受けなかったのには、同巻の帯に刷られていた惹句(煽り文句)への嫌悪もあった。

「地獄」「動機がやばい」「解像度が高すぎる」「私の人生が描かれてた」

連載開始初日から超大反響!
悲鳴と共感の嵐を巻き起こした
ある“幸せ”な家族の物語


上の「」書きの部分は、読者の声ということなのだろうが、ハッキリ言って、凡庸かつ馬鹿っぽい感想だ。
強い言葉で自身をアピールしたいだけなんじゃないかと、そう皮肉りたくもなってしまう。

また、下の惹句は編集部によるものだろうが、『連載開始初日から超大反響!』というのは、要は、中身ではなく、インパクトでウケたということしか意味しないし、それを裏づけるように『悲鳴と共感の嵐を巻き起こした』と続く。
もちろん、問題なのは『悲鳴』の部分だ。

普通なら「感動と共感の嵐」となるところが、そんな使い古された決まり文句ではもう読者の目が惹けないとばかりに、まるでホラー作品ででもあるかのように「悲鳴」としたところに、編集部の姿勢も窺えようというものだったのだ。

要は、「毒親」問題を、センシティブな問題だとはとらえず、ショッキングな「悪魔憑き」事件扱いにしているということである。

 ○ ○ ○


そんなわけで、この第2巻でまず目を惹くのは、帯に刷られた、漫画家・押見修造と小説家・湊かなえによる、2本の推薦文だ。

押見修造
自分しかわからない痛みを伝達するためには、その痛みを追体験してもらうしか無い。同じ痛みを感じる毒を飲ませる。そのために物語が必要なのだ。

湊かなえ
気づけ、気づけ、気づけ、と祈るしかない。
「くるちゃんは私だ」ではなく、「くるちゃんのお母さんは私だ」と。


まず、押見修造の推薦文に関して言えば、「痛み」を読者に追体験させるのは、「何のためだなのだ?」と、そう問いたい。

それで「虐待問題への理解者が増えて、少しでも虐待問題が減るから」なのか、それとも「ショッキングさが売りの商品だから」なのか、それとも、その「二股ねらい」なのか、ということだ。

そもそも、漫画表現おけるショッキングさにおいて、読者に「虐待の痛み」を追体験させたところで、それが虐待問題の解決に、少しでも益するものだと、押見は、本気でそう思っているのだろうか?

それとも、それはあくまでも「大義名分」でしかなく、所詮はそういう「商品」を売り物にしている業者の、自己正当化のための偽善的な小理屈なのかと、そう問いたいのである。

一方の、湊かなえの推薦文については、基本的に共感した。

たしかこの人も、ことさらに「歪んだ人物」の登場するミステリー小説、いわゆる「イヤミス」の書き手として売れっ子になった人だから、その意味では「人の不幸を売り物にしていた」という部分も無いではないはずなのだが、それについて、多少なりとも後ろめたさなり反省なりがあるから、こんなふうに書いたのかも知れない。
つまり私は、湊かなえには、一定の反省なり責任意識があって、この推薦文を書いたのだと、そう見たのである。

というのも、前記のとおり第1巻の帯にあったし、Amazonのカスタマーレビューにもあったはずだが、「くるちゃんは私だ」式の「読者の声」が、本作には複数寄せられている。

そして、そうした声を目の当たりにして、私と同様、湊かなえも、そうした感じ方が決して好ましいものではないと感じたのだろうと、そう推察したのだ。

なぜならそれは、平たく言ってしまうならば、「私は被害者であり、私は何も悪くない。悪いのは、母親なのだから、私はこのままで良いんだ。なんで私が変わらなくちゃならないんだ」といった「自己正当化」意識が、そこに色濃く垣間見えるからである。

たしかに、「虐待被害者」には同情するけれども、その結果、被害者の心に何らかの歪みが生じたのだとしたら、その歪みは「正されなければならない」。

「正される」ことで「癒されなければならない」のだが、被害者意識ばかりが強すぎると、前記のとおり「私は何も変わる必要などない」と、痛みを伴う変化による回復(修正)を拒絶して、毒親を責める(恨み続ける)ことさえしていれば良いという「現状肯定」に落ち着いてしまいがちなのだ。

だが、そうすると、虐待に由来する「歪み」は温存されることになり、その「歪み」が、やがて、自分よりも弱い他者に向かってしまうことにもなりかねない。

つまり、よく言われるとおり「虐待は連鎖する(しがちな)」ものであり、それは、虐待被害者に生じた「心の歪み」つまり「心の傷」が、癒されないままになっているためなのだ。

「傷を癒す」というと、単純に「楽になる」と考えがちだが、そうではない。
なぜなら、傷が深ければ深いほど、治療にはそれ相応の「痛み」がともないがちだからだ。

心を癒すのに、心に麻酔をかけるわけにはいかない。だから、心の治療にも、しばしば相応の痛みが伴うのだが、被害者はその痛みに対して「被害者である私が、どうしてそんなに辛い目を見なくてはならないの」と、それを拒否しがちなのである。

一一そしてその結果、「虐待の連鎖」ということにもなってしまうのだ。

だからこそ、皆かなえは「くるちゃんは私だ」ではなく「くるちゃんのお母さんは私だ」と、そう気づかなければならないと訴えたのである。
自分には治癒が必要なのだと、そう気づくべきだと。

言葉は厳しくなるが、しかしいつまでも「被害者気分」でいたら、気づかない間に、自分が「加害者」になってしまいますよと、湊かなえは、そう警告したかったのだろう。

そもそも、なぜ「くるちゃんのお母さん」は、毒親になってしまったのか?

この第2巻までは、そうした過去の事情は描かれてはいないけれど、容易に予想できるのは、「くるちゃんのお母さんのお母さん」もまた、毒親だったのだろう、ということである。
つまり、「くるちゃんのお母さん」もまた、毒親の被害者だった蓋然性が、十分に高いということである。

だから、本気で「毒親」問題と向き合い、その被害者を減らしたいという気があるのならば、大切なのは、自身を「被害者と同一化」させて満足することではなく、自身の「加害者」性を疑ってみることが、どうしても必要なのだ。

「くるちゃんのお母さん」だって、自分が「加害者」だとは少しも思ってはいない(自覚が無い)のだが、だとしたら「あなただって、くるちゃんであるばかりではなく、くるちゃんのお母さんなのかも知れないんですよ」と、そう、湊かなえは、この推薦文で訴えているのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、私は第1巻を眉に唾しながら読み、巻末の傷害事件の展開で、やれやれと、そう感じずにはいられなかったし、次巻に「自傷少女」が登場すると知らされて「さらに燃料投下のつもりなのか」と、そう疑っていたのだ。

だが、幸いなことに、第2巻ではそういう展開にはならなかった。

本巻で登場した、自傷少女である遠野美蕾は、自傷少女であるばかりではなく、やはり母親に問題のある、被虐待少女だった。

主人公の來未が「母親からの精神的虐待」を受けているのに対して、美蕾の場合は、それに止まらず「母親からの身体的虐待」をも受けていたのだ。

しかし、それでも二人の少女に共通するのは、「母親への愛情に縛られている」という点である。

虐待を受けているのだから、母親を恨んでもよさそうなところなのだが、そうはならず、逆に母親への愛情に縛られてしまっている。

來未の場合は、母親が來未に「罪の意識」を植えつけることで「贖罪意識としての不自然な愛情(過剰な執着)」を強いていたのに対し、美蕾の場合は、肉体的な暴行まで受けながら、それでも母親への愛情に執着する、その合理的な理由(心理的な機序)は、今のところ描かれてはいない。

しかし、本巻で注目すべき点は、「母親こそが大事」という共通点で結ばれた來未と美蕾だったけれども、美蕾が母親からひどい暴行被害を受けていたことを知った來未が、美蕾への同情のゆえに、その暴行被害について「ひどい」「許せない」と感じた点である。

それで來未は、頼まれもせずに美蕾の暴行被害について、児童相談所に通報して助けを求めた結果、美蕾は保護されるものの、そのことによって、來未は美蕾に非難されてしまう。


美蕾にとっては、自分に対する暴行まで含めて「母親の愛情(表現)」だったのであり、そこまで含めて美蕾は母親を愛しているのに、それがわからない來未が、余計なマネをして自分と母親の間を引き裂いたと、そう美蕾は來未を非難したのである。

それで來未は「そんな愛情なんてあるの? 私にはそれが愛情表現だとは、どうしても思えない」と、そう感じるのだ。
つまり、通報したことも間違いではなければ、美蕾を母親から一時的に引き離したことも間違いではないと、そう考えたのだ。

しかし、虐待されていながら、それでも、それは虐待ではなく愛情表現なのだと信じ切っている美蕾の姿を見て、來未は「自分と美蕾とは、どう違うのか?」と、そんなおそろしい疑問を、初めて抱いたしまう。

來未は「私のお母さんは、美蕾のお母さんとは違う。だって、私のお母さんは、私を傷つけたりしない(暴行したりはしない)し、私のために献身してくれているではないか」と、そう考えようとするのだが、どこか自分たち母娘が、美蕾母娘と似ているという直観的な疑いを拭いきれない。

そこで意を決した來未が、母に対して「もう自分の人生をすべてお母さんに委ねるから、その代わり、私を一生手放さないでね。最後まで責任を取ってね」と迫り、そしてそんな娘の、これまでとは違った態度に、母親が呆然とした様子を見せるところで、本巻は幕を閉じるのである。


だが、來未の言葉に対する、母親の「想定外」だと言わんばかりの、呆然とした態度とは、一体どういうことを意味しているのであろうか?

それは無論、これまでは「手綱を緩めれば離れていきかねない娘の心を、巧みに縛りつけておく」という「攻めの立場」に「全能感」を感じていた母親が、娘から「じゃあ、すべてあなた任せにするから、その代わり責任は取ってね」と「義務と責任」を押しつけられる「受太刀(受動的立場)」に立たされてしまったことへの、驚きと畏れなのだ。

これまでは、娘をどうするかは、自分次第であり、自分の自由裁量であったのに、娘に開き直られて、義務を課せられ、選択権を奪われて、「娘に縛られてしまった」。

「こんなはずではなかった」のに、いきなり立場が逆転したのである。

つまり、來未が「毒娘」になってしまったのだ。

一一そんなわけで、ここまで展開したからには、次は、この母娘が、歪んだ「共依存」関係をどのように乗り越えていくのかという展開になるものと予想される。

当然それは、これまでのサイコホラーじみた展開とは違ったものになるだろうが、私はそちらにこそ期待したい。

「虐待の連鎖」を断ち切る解決という難問に、作者がどのように立ち向かうのか、それを見届けたいと思うのである。

 ○ ○ ○

さて、ここで私が、ぜひとも強調しておきたいことがある。
それは、本書で扱われている「毒親」問題とは、多くの人にとっても、決して他人事ではない、という点である。

例えば、「毒親とそれに尽くす子供」という関係とは、今や社会現象であり、その「経済効果」が持て囃されてさえいる、「推し」関係と、ほとんど同じ構造のものなのだ。

つまり、來未の態度とは、「私の推しはお母さん」だから「私は私の生活を破綻させてでも、お母さんに貢ぐことをするし、それが喜びなのだから」ということであり、この「お母さん」の部分に、「アイドル」などのタレントや著名人だけではなく、各種の「趣味」を代入してみると良い。

自分の生活を切り詰めてまで、大変なカネを「推し」なり「趣味」なりにつぎ込んでいる人は、決して珍しくはないはずなのだ。

むろん、消費も浪費も、それが「喜びの対価」なのであれば、それで良いではないかという理屈は、私も理解できる。

と言うか、何十万円というような初版本を買っていたようなコレクターであった私は、言うなれば「初版本推し」の推し活をしていたようなものなのだから、無理な推し活をしている人を、他人事のように笑ったり批判したりできるような立場の人間ではない。

しかしながら、そう考えれば、「お母さん推し」だって、好きでやっているのなら、どこが悪いという理屈にもなるだろう。

つまり「健全な愛情と不健全な執着の境界線」は、果たして引けるものなのか、という難問である。

他人事なら「そんなの異常だよ」と簡単に言えても、「推し」だの「趣味」だのといったものは、それに興味のない第三者には、そもそも「異常(過剰)」としか映らないはずなのだ。

だから私たちは、「毒親」問題をただそれだけの他人事と見て終わらせるのではなく、自分事として、一度は考えるべきなのである。

まして、当たり前の「趣味」などとは違い、明らかに「資本主義経済」の原理に従って「絞り取れるだけ搾り取ろう」とする意図の明らかな「推しビジネス」については、「みんなもやっていることだし」では済まされない、「プロパガンダによる社会的洗脳」というところまで考えるべきだと、私は考えている。

例えば、オリンピックにしろ万博にしろ、あれほど「くりかえし宣伝」をされなければ、そもそも自分が興味を持つほどのものだったのだろうか、もしかして自分の欲望は、作られた欲望だったのでないだろうかと、一度はそう疑ってみる必要があるのだ。


私が最近レビューを書いた、人気評論家・三宅香帆の著書『推したちとどう生きるか』(新潮新書)の中で、三宅香帆は「推し」文化を素晴らしいものだと称揚しつつ、しかし「推しに裏切られた(騙された)」と感じたファンが、一転して攻撃的になるという問題を捉えて、次のように書いていた。

『 推しにも、ファンにも、知らないことや隠していることがあることは当然のことなのである。』(P166)

『 推しは常にファンの理想にはなれない。ファンの理想を裏切るものである。だがファンもまた、推しにとっての理想にはなりきれない。推しから離れることもあるだろう。
 常に秘密を持ち、裏切りあいながら、それでもいられるだけ一緒にいたいと願うことが、推しとファンの関係なのではないだろうか。
 もちろん、母と子が永遠に一緒にはいないように、推しとファンも永遠に一緒にいると思っている人は少ないだろう。だがそれでも、一緒にいられるときは、目いっぱいそのときを楽しめたらいいはずだ。
 生きることは、苦しい。それでも、夢を叶えてほしいと願える他者に出会えたことがあるのならそれは、幸福な出来事であるはずだ。
 裏切りながら、秘密を抱えながら、そういう前提で、関係が続くことを願って。ハッピーエンドを目指して、私たちは推しと駆けていく。』(P167〜168)


私は三宅香帆のこの物言いを、所詮は「推される側(貢がせる側)」に立った者の、手前勝手な屁理屈でしかないと、次のように批判した。

『(※ 三宅香帆が)「私は、推し活する人の味方です」と(※ そう自身で強調して)言うのなら、どうして「(※ ファンに対する)裏切り者の推し(※ 推されていたタレントなど)を、責めてはいけない」などと言うのだろうか?

簡単なことだ。
それは、三宅香帆自身が「推される側の人間になったから」に他ならない。

つまり、「推し活」的なものが無くなってしまっては、「推される」ことで稼いでいる側としては、いかにも不都合なのだ。
だから、「推し」という行為がどんなに問題含みであっても、ひとまず「推し」文化は続いてもらわねばならず、要は、どんどん私に「投げ銭(投資)してね」と、そういうことなのである。』


つまり、三宅香帆のような、こうした「経済的な推しを期待する人たち」というのは、「毒親」ならぬ、自覚的な「毒推し(毒のある推し対象)」だと考えるべきなのだ。


こうした「推し」問題は、時に社会問題化されながらも、資本主義経済の「搾取」原理に従っているからこそ、結局は「経済原理」に呑まれて、矮小化されがちだ。

「推しのいる人生って、素晴らしいですね」などと、空々しい綺麗事として「宣伝」されがちなのである。

したがって、「毒親」の問題を、他人事と考えてはならない。
これは、私たちに普遍的な「依存症」の問題なのだ。

身を滅ぼしかねないほどに「推し」に投資するファンも、「統一教会」に高額寄付をする信者も、みんなその時は、それによって「救われる」と信じ、「好きでやっていること」なのだ。

だが、「好きでやっているんだから、他人がとやかく言うことではない」では済まされない問題なのだという事実、そして、決して他人事ではないという事実を、私たちは自覚すべきだ。

私たちはしばしば「くるちゃん」であり、時に「くるちゃんのお母さん」であるという事実に気づくべきなのである。


(2026年9月12日)

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