▷ 書評:岸本佐知子/三浦しをん/吉田篤弘/吉田浩美『『罪と罰』を読まない』(文藝春秋)
ハッキリ言って、不快きわまりない本だった。この本は「クソ」であると、そう断じても良い。
反論があるなら、本書執筆者は無論、誰からのそれでも受けるから、匿名の荒らしではなく、堂々と名乗って反論してこいと言っておこう。

本書は、英米文学の翻訳家で人気エッセイストでもある岸本佐知子、『まほろ駅前多田便利軒』『風が強く吹いている』『舟を編む』などの大ヒット作があり、BLに詳しい直木賞作家の三浦しをん、そしてデザイナーとしてセンスの良い装丁の自著を刊行する「クラフト・エヴィング商會」として知られる吉田篤弘・吉田浩美夫妻(吉田篤弘名義の単著もある)の4人による座談本である。
座談のテーマは、タイトルに『『罪と罰』を読まない』とあるとおりで、ドストエフスキーの『罪と罰』を読まないで、その中身(主としてストーリー)を推理する、というものだ。

だが、このタイトルからして、すでに「嘘」なのである。
「『罪と罰』を読まないで、その中身を推理する」というからには、当然「中身を知らないまま推理する」のだろうと、普通はそう理解するだろう。
ところが、この座談会の場合、そうではないのだ。
座談会の企画段階では、たしかに4人は『罪と罰』を読んでいなかったのだろうし、内容的な知識をほとんど持っていなかったのだろう。
だが、座談会を始めるにあたり、『罪と罰』の内容についての情報が皆無だと「推理のしようがない」という当たり前の理由で、岸本の訳した(英訳からの重訳)『罪と罰』の冒頭の1ページと結末の1ページが読み上げられる。
この段階ですでに『『罪と罰』を読まない』というタイトルは嘘で、正確には『『罪と罰』をほとんど読まない(ぜんぶ読むわけではない)』でしかない。
だがまあ、これくらいなら大目に見てもかまわないと、そう思って先を読んでいくと、岸本が「1ページではなく3ページかと勘違いして、その先まで読んでしまいました」とか「きっちり1ページ分だと、途中で文章が切れるので、その先の切りの良いところまで訳しました」ということで、最初はその次のページの、文章のキリの良いところまでが、座談会メンバーの前で読あげられることになる。
つまり、最初から厳格に「冒頭の1ページと結末の1ページ」だけに限定しての推理など、する気が無かったというのが、徐々に明らかになる。
(1)「冒頭の1ページと結末の1ページ」+アルファ、だけではなく、各章の冒頭部分やその数ページ先を恣意的に選んで、1ページ分ほど読み上げるというルールが、まず付け加えられる。
(2)前述のとおり、座談会の前は、4人のメンバーは『罪と罰』を読んでおらず、その内容に無知だと紹介されていたのだが、吉田浩美から「じつは、名作文学紹介のテレビ番組で、『罪と罰』のストーリーを15分ほどにまとめた影絵劇を見ているから、ストーリーの大筋のところは知っている」という事実が、後になって明かされる。
また、その後も「たった15分だから、詳しくは知らない」ということが、自己弁護的に繰り返し強調されるのだが、当然、この吉田浩美のこのアウトサイド情報は、他の座談会メンバーにも共有されることになる。
(3)この座談会の黒子である編集者らしき人物が、座談会メンバーの求めに応じて、ドストエフスキーに関する情報を一部提供したり、『罪と罰』の「登場人物表」を提供したりする。
当然のことながら、この登場人物表には、主たる登場人物の氏名が記されているだけではなく、その性格や職業や立場や、他の登場人物との関係、さらにはその人物がこの物語の中でどの程度の役割を担うのか、といったことまで書かれているのだ。
しかし、これではとうてい「『罪と罰』を読まない」で内容を推理するという建てつけが崩れ、大嘘だということにもなるので、それをチラ見しただけで、いったんは回収されたことになった。
岸本 これ、いいのかなあ。これを読んでると、どんどん(※ 内容が)わかってきちゃうけど。
三浦 うん、(※ 読まずに推理するという建前がある以上)もう見ないほうがいいですね。
篤弘 多少、リークしてもらうくらい(※ ならOKということ)でねー一。
岸本 そう。必要なときに教えてもらえれば、それでいいですよ。
(※ 編集者)一一わかりました、そうしましょう。 (P141)
だが、そもそも登場人物表の回収が事実か否かも疑わしいし、いずれにしろ、その知識がそのままその後の推理に利用され、また上で語られているとおり、適宜参照されもするである。
一一さて、これでも、『『罪と罰』を読まない』などと、大きく出る資格が、この4人にはあるだろうか?
これが、TVコマーシャルだったら、私はきっと『嘘、大げさ、まぎらわしい』過大広告の好例として、「ACジャパン(旧・公共広告機構)」に通報したことだろう。
ACジャパンが何かしてくれるわけではないかもしれないが、こうした過大広告が、世に害悪をもたらすという事実がある以上、そうした「不当表示商品」に関する啓蒙活動の、参考資料にしてもらえればと考えるからである。
さて、ここまでの紹介でも、本書の「『罪と罰』を読まないで、そのストーリーを推理する」という建てつけが、所詮は過大広告でしかなく、現実には「随時、カンニングペーパーによる情報提供をうけた上での推理」でしかない、というのがご理解いただけたであろう。
一一だが、それだけではない。
実際のところ、「随時、カンニングペーパーにより情報提供をうけた上での推理」をしたあと、結局この4人は、『罪と罰』を読むことになるのである。
その意味で、本書のタイトル『『罪と罰』を読まない』というのはまったくの嘘で、「『罪と罰』を読んでいなかったけれど、結局は読みました」という内容をでしかないのだ。
さて、当然のことだが、「作品を読まないで、その内容を推理する」という「お遊び」は、世間にも存在する。
例えば、SF作家でSFプロトタイパーを名乗る樋口恭介は、『SFマガジン』誌の特集企画案として、「絶版で読みたくても読めない本を、タイトルだけで内容を想像して小説にする」特集号というアイデアを出した。
このアイデアは、アイデアそのものとしては面白いのだが、それをネット上での関係者とのやりとりとして公開したために、絶版本の著書やその関係者などから厳しい批判を受けることになり、企画が流れたのは当然として、樋口恭介だけではなく、企画を依頼した『SFマガジン』誌の編集長までが、謝罪しなければならない事態に立ち至ってしまった。
つまり、純粋な「お遊び」としてなら、「読まずにその内容を推理」するといったことも、十分に許されはするだろう。
だが、他人の作品をダシにして、金儲けをするというのなら、当然話も違ってこよう。
無論、純粋な「批評」なら、それで儲けようと、それはそれで「文芸作品」のひとつなのだからかまいはしない。
だが、読みもしないで、勝手にあれこれ言うだけなら、それは「批評」ではなく、扱う作品をダシにして、商用利用しているだけなのである。
実際、作品を読まないで、タイトルだけで内容を推理することなど、よほど「内容紹介的なタイトルの作品」でもないかぎり、とうてい不可能だ。
だが、それが不可能なことだからこそ、それは「お遊び」として成立もすれば、作品や作者に対する無礼にもならない。
なにしろ「何も知らずに、勝手な想像を口にしているだけ」というのが、ハッキリしているからである。
だが、岸本佐知子・三浦しをん・吉田篤弘・吉田浩美の4人によるこの座談会は、「中途半端な情報を頼りに、適当な推理を語っている」のだから、タチが悪い。
どう悪いのかと言えば、所詮は「お遊びに毛の生えた、無責任な推理ごっこ」にすぎないものが、ドストエフスキーを読んだこともないような読者には「すごい! けっこう当たってる!」といった具合に受け取られ、『罪と罰』やドストエフスキーに対する、誤ったイメージを刷り込んでしまうことにもなりかねないからだ。
無論、ぜんぶ読んだ上での感想なら、それがどんなにトンチンカンなものであろうと、誤ったものであろうと、そこに「故意の悪意」が無いのであれば、やむを得ないことだとは言えるだろう。
無能な評論家は、意見を公表してはいけない、本を出してはいけない、などということにはならない、「言論の自由」があるからだ。
だが、この座談会の場合、「まったく読まない」のでもなければ「ぜんぶ読む」わけでもなく、わざわざ「中途半端に読みかじった」上で、中途半端に適当で無責任な推理という名の「放言」をならべ立てているのだから、これが『罪と罰』という作品やその作者に対して失礼な「遊び半分」であることは、否定できまい。
それとも、この4人のような「著名な文筆家」なら、こうしたことが許されるとでも言うのだろうか?
無論、そうではあるまい。
むしろ、彼(女)ら自身が文筆家だからこそ、作家が精魂を込めて書き上げた作品に対する敬意を失してはならないのではないのか。
そしてむしろ、文学者として「範を示す」べきではなかったのか?
実際、『罪と罰』を読んだあとの座談会の末尾は、次のような会話が締めくくられている。
篤弘 そうですね。読んでみたら、分厚さを恐れる必要はなかった。読み終えて最初にノートに書いたのは、「怖じ気づく、自分」という一行だったんだけど(笑)。やっぱり、すごい小説であることは間違いない。だから、未読座談会で、あんなに茶化してよかったのかなって。
三浦 いや、茶化してないですよ。
岸本 胸を借りただけです。
浩美 こういう機会がなかったら、やっぱり読まなかったのかな。
岸本 いや、ほんと、読めてよかった。
篤弘 俺、ついに『罪と罰』を読んだんだなぁー。
三浦 そんな大人にはなるまいと思ってたのに、明日から、「絶対に読まなきゃだめよ!」なんて言い出したりして。 (P285)
つまり、本書の「未読座談会」は、『罪と罰』とドストエフスキーを、完全に「茶化している」のだ。
ただ、それをやった当事者が、その「犯意」を否定し(三浦しをん)、詭弁を弄して自己正当化している(岸本佐知子)だけなのである。
実際、「未読座談会」の部分は、批評的にほとんど無内容な、単なる「ストーリー当て」でしかなく、そこでの売りは「茶化し芸」であり「ツッコミ芸」であり「ボケ芸」でしかない。
しかし、こうした「茶化して、ツッコミ、ボケる」というのは、「『罪と罰』を、きちんと読んでいない」からこそ、可能なことなのだ。
「いやー、なにしろ読んでいなかったもので。適当なこと言ってすみません」
と、頭でも掻きながら、ヘラヘラ笑いを浮かべて、かたちばかりの謝罪をすれば、それで済まされるという「計算」があっての、小狡いやり口なのである。
しかも、こんなことができるのは、いうまでもなく、ドストエフスキーが外国人であり故人だからで、極東の片隅の田舎作家たちがどんなことを言おうが書こうが、遺族を含めて、どこからも文句が出ないことを確信した上でやっていることなのだ。
当然、現役の日本人作家の作品で、同じことをする度胸など、彼らには100パーセント無いだろう。
本書の中で、弘兼憲史の『社長島耕作』や井上雄彦の『SLAM DUNK』に言及する部分があるのだが、その際の呼称はいずれも「先生」。弘兼憲史先生、井上雅彦先生である。
無論、この座談会で『ドスト』呼ばわりされ、呼び捨てにされているドストエフスキーと、弘兼憲史や井上雄彦の、どちらが「偉い」のかという話ではない。
そうではなく、悪口の届かない人物ならどんな大物でも平気で茶化すくせに、声が届く可能性のある人物については、わざわざ「先生」呼ばわりして見せるところが、この4人の、姑息な「世渡り」を、よく表しているということなのだ。
実際のところ、『罪と罰』を論ずる座談会において、別の作家を参照して語るのに、敬称をつける必要はないし、普通なら、わざわざ敬称などつけないだろう。つまり、
「弘兼憲史の『社長島耕作』に、こんなことが書かれていましたよ」
と言う方が当たり前なはずなのだが、それが活字になる座談会だと、ゲラでの加筆段階で敬称をつけたのか、あるいは、声の届く可能性のある人物について、人前で言及する際には必ず「先生」をつけるという、保身的な習慣が身についてしまっているのか、それは知らない。
だが、いずれにしろ、ここでの「弘兼憲史先生」「井上雄彦先生」呼ばわりは、業界臭ばかりが鼻について、いかにもわざとらしいのである。
実際、この4人はお互いに「さん」付けで呼び合っているが、実際にはお互いに「先生」付けで呼び合っていた可能性も十二分にある。
以前から親しかったのであれば別だが、作家に対する編集者は無論、作家同士も、普通はお互いに「先生」呼ばわりし合うのが、この業界の常識なのだ。
これは、作家による対談トークショーなどを見たことのある人なら、よくわかるはずである。
(ちなみに、年長・先輩作家は後輩作家を「くん・さん」付けで呼ぶこともあるが、今どきは、それも減っていることだろう)
だが、こうした日常的な呼称でのやりとりを本にする場合、互いに「先生」呼ばわりというのは、いかにも「不自然」で鼻につくから、無難に「さん」付けに書き換えられたりするだろう。
そうしないと、人間関係的な「忖度」が見え透いてしまい、本音で語り合っているようには感じられないためである。
つまり、本書の座談会は、「未読放言座談会」の形式に仕上がっているが、実際には、意図的かつ事後的にも「作り込まれている」と見て良いのだ。
どこがどのように「作り込まれている」のかと言えば、それは「飲み会での、ざっくばらんな馬鹿話」のような雰囲気が、自覚的に演出されており、そのことによって「所詮は、読みもしないで好き勝手言ってるだけのお遊びなんだから、大目に見てよ」というメッセージを、読者に向けて発することで、そのふざけた態度を大真面目に非難されないよう、「予防線」を張っているのだ。
つまりは、じつのところ、この4人は「確信犯的にふざけて見せて」いるのであり、それでいてそれを隠し、発言責任を回避しようとしているのである。
「あの時は酔ってましたので、気が大きくなってたんです」という「言い訳」と、同様のパターンなのだ。
この、「読書会」とは呼びない「未読座談会」が、かなり作り込まれたものであろうことは、「前書き」にあたる吉田篤弘の文章「読まずに読む」や、座談会の最初の方の、殊更な「無知ぶりの強調」にも明らかだ。
(1)『 とある宴席の片隅で、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがあるか? という話になった。
「ない」「ないです」「文庫本は持ってるけど」「読んでない」
居合わせた四人が四人とも首を横に振った。
「どういう話なのか知ってる?」「たしか、主人公がラスコーなんとかっていう青年ですよね」「おばあさんを殺しちゃうんじゃなかった?」「それってお金が目的で?」「たぶん、そうじゃないかな」
四人ともきわめて不確かな情報しか持ちあわせていなかった。これまで、表向きは「なんとなく知ってるけど」とお茶をにごしてきたが、いざ、問い詰められると、「じつは、ほとんど何も知りません」と白状するしかなかった。
「白状」の二文字を使わざるを得ないのは、四人が本に関わる仕事! それもとりわけ「小説」にたずさわる仕事をしてきたからで、このような世界的名作を、「読んでない」「知らない」と明言するのは、じつのところ、大いに憚られるのだった。
これは何も『罪と罰』に限ったことではない。幸か不幸か、世界的名作と呼ばれる小説はこの世に数えきれぬほどあり、「さてあなたは、いったいそのうちの何作を読みましたか」という質問こそ、小説にたずさわる者が最もおそれている質問である。』(P6〜7)
(2)『約束どおり、ドストエフスキーの『罪と罰』を読まずに都内某所に集合した岸本佐知子、三浦しをん、吉田篤弘、吉田浩美の四名。某所内の某会議室にて、今回の「未読座談会」のために岸本が英訳版『罪と罰』より日本語に翻訳した冒頭の一ページおよび結末の一ページのプリントアウトを手にし、立会人による開会宣言を待たずして、なしくずし的に話し始める四名一一。(※ 以上は、編集部による状況説明文)
(中略)
篤弘 じゃあ、『罪と罰』について、それぞれが知っていることを挙げてみましょうか。
岸本 私から言うと、最初の一ページを訳したあとに、もしかして訳すのは三ページだったかなあと不安になって、そのあと二ページ続けて読んじゃったんですよ。
浩美 それだけ読んだら、結構、重要なことが出てきません?
岸本 それが大したことなかった(笑)。何が書いてあったかというと、主人公がとにかく貧乏で、学生で、家賃を滞納していて、腹ぺこで、大家さんに合わせる顔がなくてびくびくしてる。で、場所はサンクトペテルブルグ。
篤弘 サンクトペデル‥‥‥ってそれがもうちゃんと言えないよ。
(中略)
浩美 そうか、三人称の小説なんだ。なんとなく一人称なのかと思ってた。
篤弘 たしか、主人公はラスコなんとかー。
岸本 ラスコーリニコフ。
篤弘 その名前は、いきなり出てくるんですか? 「彼は」ではなく、いきなりラスコール?
岸本 ラスコーリ‥‥‥ニコフかな。
三浦 主人公がラスコなんとかっていうのは知って(ドヤ)。 (P16〜18)
まず、ここで不自然なのは、『罪と罰』を読んでいなくても、「サンクトペテルブルク」という街の名前や、主人公「ラスコーリニコフ」の名前くらいは、知っているんじゃないか、という点である。
この座談会当時、岸本は55歳、三浦は39歳、吉田篤弘は53歳、吉田浩美は51歳ほどの年齢になっている(誕生日までは確認していない)。
しかも、いずれも著述家であり、吉田篤弘を供述しているとおり、いずれもそれなりに「本(小説)を読んでいる」という建前になっている。
そんな4人が、仮に『罪と罰』を読んでいなかったとしても、「サンクトペテルブルク」や「ラスコーリニコフ」と書かれた資料を渡され、それを読んでもなお、まだまともにその名を発語できないなどということが、果たしてあるだろうか?
「サンクトペテルブルク」が、かつてのロシア帝国の首都であることを知らなかったとしても、テレビでロシア革命などを紹介したドキュメンタリー番組を見たり、紀行番組をなどを見たりしておれば、その特徴的な名称を記憶まではしていなくても、何度かは耳には入っているはず。
だから、文字資料を読めば、その音声記憶と結びついて「サンクトペテルブルク」と発話することくらいは、その言葉の見かけより、はるかに容易なことのはずだ。
なのに吉田篤弘が、ここでまともに発語できないのは、ドストエフスキーを読んでいないだけではなく、吉田はこれまでの半世紀あまりの人生で、「サンクトペテルブルク」の名称が登場する、そうしたTV番組や映画なども見たことがないためだ、とでも言うのだろうか?
また、これは「ラスコーリニコフ」についても同じで、『罪と罰』を読んでいなくても、50を過ぎた読書家ならば、「ラスコーリニコフ」の名前くらい知っている人の方が多いはずだ。
なぜならそれは、各種の「文学史」や文学研究書、文学エッセイ、あるいは教科書などで、しばしばドストエフスキーの代表作のひとつとして『罪と罰』が取り上げられ、併せて主人公ラスコーリニコフの名前にも言及されるからだ。
例えば、「夏休みの読書感想文」用の推薦図書として『罪と罰』は、少なくとも以前は定番の一冊だったし、その簡単な内容紹介文でも、多くの場合、主人公ラスコーリニコフの名前が記されていたからである。
したがって、『罪と罰』を読んでいなくても、その名称が書かれた二次資料を読んだ直後に、その名称を素直に発話できないというのは、いかにも不自然なのだ。
つまり、ここでの吉田篤弘の「まともに発語できません」という態度は、あとの「推理」を際立たせるための、「無知」の強調演技だったのではないか、ということになる。
最初に自身を下げておけば、あとで少し上がっただけでも、とても上がったように見えるという演出だ。
そもそも、最初3ページと結末の1ページを翻訳した岸本佐知子が、「ラスコーリニコフ」とまともに発語できない吉田篤弘に対して、最初は「ラスコーリニコフ。」と明確に補足しておきながら、そのあと「ラスコーリ‥‥‥ニコフかな。」と、曖昧になるのはどうしたことなのだろう?
一部ではあれ、翻訳までしたのなら、主人公の名前くらい、ハッキリと言えるだろうに、岸本も、ここでは上のように自信なげに発語するのである。
つまり、私がここで言いたいのは、彼らは最初に自己申告しているほど、ドストエフスキーにも『罪と罰』にも無知ではないはずで、むしろ「ある程度は知っている」という事実を、読者に対して殊更に隠していたのではないか、ということなのだ。
だからこそ、吉田浩美が「影絵劇による15分のあらすじ紹介」を見た、などと、座談会がある程度進んだ後になってから、初めて自己暴露したりするのである。
つまり、『罪と罰』を通読したことは無かったとして、「あらすじ」くらいは知っていたのなら、そのストーリーを推理することは、さほど難しいことではないし、一部はずしたところで、「読んでいない」という建前になっているのだから、「そのわりには、よく当てている」と、むしろその「推理力」を読者に印象づけることにもなれば、賞賛されることにもなるだろう。
したがって、吉田篤弘の前書き文にもあるとおり、建前としては「『罪と罰』も読んでいなくて、お恥ずかしい」というポーズを採りながらも、結果としては、自身の推理力を自慢する内容となっているのが、本書なのである。
「たしかに読んではいなかったけど、でも私の読解力は人並みじゃないよ」という自己喧伝を、むしろしているのだ。
実際、吉田篤弘は、先の前書き文で、こう書いている。
『「読んだことはないけれど、なんとなく知っている人たちと、「読んだことはあるけれど、よく覚えてない」人たちの認識に、さほど大差はないのだった。』(P7)
これは明らかに「読んでたって記憶してないのなら、読んでいない人と大差はない」という、読んでいない自身の立場を弁護的に肯定評価するものだ。
しかし、「読む」ことの価値とは、「記憶量」で決まるようなものではない。
実際、読んだからといって、いちいちぜんぶ記憶してなんかいると頭がパンクしてしまうのだけれど、ほとんど覚えてはいなくても、その「雰囲気」くらいは記憶に残っている。
一一そこが、読んでいない人との、大きな違いなのだ。
読んでいる人は、細かな筋は覚えていなくても、「ラスコーリニコフって、頭でっかち野郎だったな」とか「ソーニャって、聖女っぽい感じだったな」とか「『罪と罰』って、ラスコーリニコフという頭でっかちの若者の、再生を描いた作品だったんだ」くらいの印象は残っており、この作品が殺人事件を描いてはいても、決して推理小説ではないことくらいは「印象」として記憶している。
つまり、そうした大掴みな理解こそが、細かい筋の記憶よりも、むしろ大切なことなのだ。
「ドストエフスキーって、なんかわあわあ言ってる感じだな」といった印象感受こそが、細かな筋の事実記憶よりも大切であり、それは、読まなければ得られない、ある種の認識で、例えばそうした「印象」を得た読者だけが、バフチンの「ポリフォニー論」を読めば、「なるほど!」と膝を打つ理解にもつながるのである。
したがって、読むことは.作品理解や作家理解においては、当然必要なことなのだ。
それは単なる「記憶情報量」の多寡の問題などではないのである。

三浦しをんもまた、あとがきにあたる文章「読むのはじまり」の中で、こんなことを書いている。
『 小説は、「読み終わったら終わり」ではない。余韻を楽しんだり、「あのシーンで登場人物はどんな思いだったのかな」と想像したり。あらすじや人物名を忘れてしまっても、ふとした拍子に細部がよみがえり、何度も何度も脳内で反響する作品もあります。
小説にかぎらず、創作物はなんでもそうだと思いますが、「読む」(あるいは「見る」「聞く」)という行為を終え、作品が心のなかに入ってきてからがむしろ本番というか、するめのようにいつまでも噛んで楽しめる。一冊の本を読むという行いは、ある意味では、そのひとが死ぬまで終わることのない行いだとも言えると思うのです。
「読む」は終わらない。じゃあ、いつ、「読む」ははじまるのか。私はこれまで、「本を開き、最初の一文字を目にしたとき」だと、漠然と考えてきました。しかし、そうではないのだと、今回の試みに取り組んでみて、思い知らされた。
『罪と罰』をまだ一文字も読んでいないときから、我々四人は必死に「読んで」いました。いったいどんな物語なのか。期待に胸ふくらませ、夢中になって、「ああでもない、こうでもない」と語りあいました。それはなんと楽しい経験だったことでしょう。ページを開くまえから、『罪と罰』は我々に大きな喜びを与えてくれたのです。
もしかしたら、「読む」は「読まない」うちから、すでにはじまっているのかもしれない。世の中には、私がまだ手に取ったことのない小説が無数にあります。そして、まだ語られず、私たちのもとに届けられていない物語も、これから無数に生まれてくるでしょう。それらはいったい、どんな小説、どんな物なのか。愛と期待を胸に思いめぐらせるとき、私たちはもう、「読む」をはじめているのです。
「読む」には、終わりもはじまりもない。』(P289〜290)
いかにも「読者を感動させるエンタメ小説作家のレトリック」である。
ここで三浦しをんが何を言っているのかと言えば、
「読んでいなくても、すでに読み始めているんだよ。だから、まだ読んでいないことは恥ずかしいことではないし、結局は、すでに読んでいるのと同じことなんだ」
という、半ば宗教がかったレトリックなのだ。
「死ぬことと生きることは、結局同じなんですよ。だから死を恐れることはない」とかいった類いの「説教」と同じなのだ。
また、笠井潔流に言えば、
「理屈なら何とでもつけられる」
という、例のやつである。
ともあれこのようにして、三浦しをんは「読んでいない自分」を、「すでに読んでいたも同然」だと、自己正当化して見せたのである。
しかし、このように最後は力技で自己正当化するにしても、最初からそれをしては「厚かましい」と言われるだけ。
だから、ひとまずは威張ったりはせず、「ぜんぜん知りません」という「謙虚さ」を強調しておいて、そののちカンニングペーパーを見ながら、「何にも知らないのに、この推察力はどうだ!」とやって、読者を感心させる。
『罪と罰』を読んでいない(予備知識を持たない)」ということを事前に強調しているからこそ、その推理力が「実際以上のものに見える」し、間違っている部分があっても「なにしろ読んでいないのだから、それも仕方ない」と、大目に見てもらえもする。
すでに、紹介したように、本書における「未読座談会」は、『罪と罰』やドストエフスキーを茶化したものであり、その意味で、ずいぶん「上から目線の物言い」が目立つ。
ラスコーリニコフに対しても、作者のドストエフスキーに対しても「どうしてそうなる⁈」といったツッコミがなされ、それは『罪と罰』やドストエフスキーを読んだことのない人には、一定の説得力を持ち、その指摘に「さすが」と感心する人もいるだろう。
「これだけの情報で、よくもそこまで見抜けたものだ」とか、
「たしかに言われてみればそうかも知れない。ドストエフスキーを読んだことはないけど、だいたいそんなところなのではないか。他の人も、実際には読んだこともないくせに、みんながすごいすごいと言っているから、それに調子を合わせているだけなんじゃないの? それに対し、冗談めかしながらも、わずかな情報だけで、その弱点を鋭く指摘するこの4人はすごい!」
と、そういう印象だけを与えてしまうのではないだろうか。
だが無論、本書を読むのは、『罪と罰』を読んだことのない人ばかりではない。
また、各種の『罪と罰』論やドストエフスキー論を読んだことのない読者ばかりだとは限らない。
そうした、少数ではあれ、作品自体の声や先達の理解努力に、謙虚に耳を傾けてきたドストエフスキーファンが本書を読めば「二流作家が、何を知ったかぶりをして」と、そう見られるのは必定だ。
だからこそ本書には、そのタイトル『『罪と罰』を読まない』に反して、『罪と罰』を読んだあとの既読座談会が付されており、そこで「やっぱり『罪と罰』は傑作だ!」「ドストエフスキーはすごい作家だ!」と絶賛する「自己フォロー」が付け足されているのである。
一一そんなことは、彼らとても初手からわかっていたことであるにもかかわらずだ。
知ったかぶりであれこれ言っただけでは、玄人筋からの批判を招きかねない。
だから、「読んだら、やっぱりすごいと思いましたよ(だから、読んでいなかった段階での放言は、お遊びとして大目に見てください)」と、本書はそういう構成になっているのである。言いたいことを言った後で、手のひらを返して絶賛して見せる、というやりくちなのだ。
私がこの4人を許しがたいと思うのは、「ドストエフスキーと比べるならば、あきらかな二流作家の分際で、ドストエフスキーをコケにした」というようなことではなく、正々堂々と批判する勇気もないくせに、「他人のふんどしで相撲をとった」という、その「卑怯さ・姑息さ」が許しがたいのだ。

実際、「未読座談会」においては、4人は『罪と罰』を、まるで三浦しをんが書く「エンタメ小説」を論ずるのと同じような評価軸によって、論難している。
「登場人物が、一人で長々と何ページにもわたってしゃべるのは、不自然だし、読者としてもウザくてたまらない」とか「伏線が回収されていない」とか、そうした評価の仕方である。
だが、これは、自覚的になされた「為にする批判(悪口)」なのだ。
というのも、彼(女)ら自身、ドストエフスキーの小説が「筋で楽しませるような小説」でもなければ「単なる娯楽小説でもない」ことくらいは、じつは先刻承知の上で、あえて筋違いの批判をして見せているだけなのである。
ドストエフスキーの小説が、日本のエンタメ小説とは、そもそも狙いが違うというのを前提として読んでしまえば、それは普通の「文芸評論」座談会になってしまう。
しかしそうなると、今さら彼(女)らに付け加えられるものなど何も無いというのは明白なので、『罪と罰』を「文学作品」だとか「思想小説」だとは読まず、あえてそうした側面は無視して、自分たちのフィールドである「エンタメ文学」の基準だけで測り、筋違いの難癖をつけて見せたのだ。
例えば、三浦しをんは、こんなふうに言っている。
『私、この小説を読んでも、ソーニャにあまり感情移入できず、ラスコの理屈にはもっと腹が立ってしまいそうな予感がして、すごく(※ 読むのが)怖いんですけど。』(P181)
エンタメ小説なら、登場人物に感情移入できないとか、ましてや主人公が苛立たしい人物だというのは、明白な欠点である。
なにしろ、「エンタメとは、読者を気持ちよくされるための、接待ご奉仕小説」なのだがら、不愉快にさせることなど、その目的からして、見当ちがいも甚だしいからである。
だが、「文学」作品とは、そういうものではない。
作者が「描きたいと考えたもの(や内容)」を描くためならば、感情移入できない登場人物や不愉快の主人公を描くことなど、当たり前にあることなのだ。
三浦しをん個人は、そういう読者を「あえて不愉快にさせる」ような文学作品が好きではないのかも知れないが、ドストエフスキーが書くような小説は、読者ご奉仕小説でないのだから、それをドストエフスキーに求める方が、むしろ「畑違いの見当ちがい」な要求でしかない。
「魚屋に行って、野菜を売れと要求する」ようなものなのだ。
これは、文学作品とエンタメ小説の「どっちが上」という話ではなく、それらは目的を異にする「似て非なるもの」なのだから、その一方しか知らない(味わえない)田舎者が、味噌とクソを一緒にするなと、そういう話だ。
味噌が好きなのも、クソが好きなのも、それはその人の趣味だから、どちらでもかまわない。
だが、その区別くらいはつけろ。でないと、傍迷惑だ。一一と、そういう話なのである。
しかしながら、この4人が、文学作品とエンタメ小説の区別が、本当についていなかったというのであれば、それは「馬鹿かよ」のひと言で済ませるしかないだろう。
わかる能力のない奴に、わかれと命じても、それはどだい無理な話だからである。
だが、じつのところこの4人は、その区別がついていなかったのでない。
そうではなく、前述のとおりで「話を面白くする為に、わざと区別がつかないフリをしていた」だけなのだ。
例えば、吉田篤弘は、「未読座談会」の最後の最後になって、今さらのように、こんなふうに言っている。
『「人物表」を見ながら物語を想像していると、どうもベタな話になりがちなんだけど、実際は人物描写や独特の思想とか、ストーリーより細部を読むタイプの小説なんだよね、きっと。』(P188)
この程度のこと、ドストエフスキーの名前を知っていれば、あるいは、世界文学と呼ばれるものを多少とも読んでいれば、最初から検討がついていたことのはずだ。
しかし、最初から、そういう「特殊な小説」であるかも知れないと、それに配慮していたら、「登場人物が、一人で長々と何ページにもわたってしゃべるのは、不自然だし、読者としてはウザくてたまらない」とか「伏線が回収されていない」とか、そうした「つまらない指摘(ツッコミ)」など入れられなくなるから、知っていたのに「知らんぷり」をして、「飲み会での馬鹿話」みたいな「楽しい座談会」に、故意に仕立て上げたのだ。
無論、『罪と罰』を読んだ上で、そんなことを言えば「おまえら、何を読んだんだ?」と、お叱り受けることにもなりかねないけれど、なにしろ「読んでいないんだから、誤解もやむ得ないところでしょう?」と、そんな「逃げ道」を作った上での、「放言座談会」だったのである。
その証拠に、さんざ、ラスコーリニコフやドストエフスキーに、品のないツッコミを入れていた三浦しをんも、「読後座談会」では、手のひら返しでドストエフスキーを絶賛し、その上で、
『私たちの感覚からすると、たしかに会話文の処理が洗練されていないように見えるんですけど、いまの小説みたいな形になったのがごく最近で、しかもそれは、映像や映画からの影響もかなり大きいと思うんです。現在よく見かける、セリフの掛け合いとアクションで物語が動いていくようなスタイルが確立される前の文章表現は、こういうものだったんじゃないでしょうか。』(P221〜222)
『『罪と罰』はたぶん、近代小説と現代小説のあいだですよね。』(P280)
などと作家先生ヅラで、したり顔で言うのだ。
だが、この程度のことは、読む前から「わかりきっていた話」でしかない。
それを、「話を盛り上げる為」に、故意に無視しておいて、後になって「前からわかってました」ヅラをするというのは、厚かましいにも程がある。
そもそも、ドストエフスキーの五大小説を1冊も読んでいない、現代小説に偏った知識しかない持たない者が、ちょっと人形浄瑠璃のことを知っているからといって、ここぞとばかりにその知識をひけらかして、だから私は「近代文学のことも理解してしているのです」ヅラをするのは、厚かましいにも程があろう。
最初に、殊更に「知りません、知りません。無知でごめんなさい」と言っていたのも、結局は最後に「でも、私は大切なところは押さえているんですよ。だから単なる無知なんかじゃないんです。そのあたり、誤解のないようにね」と、ドヤ顔をするための「前振り」でしかなかったのである。
一一そんなわけで、この座談会の問題点は、古典作品を読んでいるとかいないとかいった「知識レベル」の話ではなく、その「心根」レベルの問題なのだ。
この4人のやったことは、「心根が卑しい」のである。
実際、この「未読座談会」が演出されたものだというのは、この4人の解釈が大きく違ったり、対立したりすることがない点にも、明らかだろう。
『罪と罰』を読んでいようがいまいが、それぞれが本気で推理すれは、解釈の違いが出てきて当然なのだが、この座談会は「人気小説家」である三浦しをん先生の「筋読み」を支持し、絶賛するというのが、基本線となっている。
つまり、「お互いに褒め合い(保証し合い)」をすることで、自分たちがいかに「鋭い」かを、演出しあっているのである。
意見が割れれば、そこに優劣がつくから、それをお互いに避けて、意気投合してみせているのだ。
言い換えれば、最初から、本気で内容当てのゲームを楽しむ気などはなく、ゲームと見せかけた、半分は出来レースをやっていたというのが、この座談会であり、本書なのである。
だからこそ私は本書を、とにかく不快だと感じるのだ。
○ ○ ○
本書を読むきっかけのなったのは、私がSNS「note」に書いた岸本佐知子の著書についてのレビューのそのコメント欄に、本書を薦めてくれた、岸本ファンであり三浦ファンの方がいたからである。
そこでその人は、
『年間読書人様
岸本佐知子好き過ぎて 本業翻訳物より唯一無二毒舌エッセイの方を愛読する不届き者です
抱腹絶倒感嘆驚嘆必至の『「罪と罰」を読まない』(彼女と更に狂気の三浦しをんと吉田篤弘·吉田浩美夫妻著)をぜひ』
『☝️は何と読まないでストーリー推測する暴挙譚でございまする
クセ強4名の 中でもしをんの天才加減がこれでもか!と溢れる傑作 この素晴らしくも馬鹿げた座談会企画が通るとは嬉しい限り』
と、こんな具合に薦めて下さった。
そこで私は、次のように応じている。
『> ☝️は何と読まないでストーリー推測する暴挙譚でございまする
こう説明されても、今ひとつピンと来ません。なにしろ『罪と罰』は、ラスコーリニコフが若者らしい変な理屈で、金貸しの老婆を殺したあと後悔し、心美しい女性に懺悔して改心する、みたいな話(うろ覚え)だったのは有名ですから、読んでいなくても、(※ 著書の4人は)大筋はご存知のはず。
ということは、細かいところのストーリーを推測するということなのかな?
昔、三浦しをんはBL好きの若手作家だったけど、そっちの方向に暴走するとか…?
まあ、気になるので読んでみましょう。
でも、その4人が『罪と罰』を読んだことがないのなら、そっちの方が驚きだけど、読んでて、また別のストーリーを推測するのなら、それはそれで芸でしょうね。』
つまり私は、この4人が本当に『罪と罰』を読んでいないのであれば、側聞した程度のごくわずかな知識で、詳細部分まで推理し、当ててみせるという芸を見せてくれることを期待したのだ。
また仮に、本当は読んでいたとしても、本物の『罪と罰』とはまったく違った物語を捻り出してみせる、というような芸当を期待したのである。
ところが、現実には『読まないでストーリーを推測する』どころか、カンニング的なヒントを山ほど与えられた上で、当たり前に『罪と罰』のストーリーを推理するだけ。
「読んでいないから知らない」が故の「妄想炸裂」的な面白芸すら見せてはくれなかったのである。

そんなわけで、私からすれば、ぜんぜん的外れな推薦書だったとは言え、しかし、好意から自信を持って薦めてくれた本を批判・酷評するようなことは、私だって、心情的にはしたくなかった。
だが、誰の推薦であろうと、ダメなものはダメだと言うのが批評であり、批評家であろう。
だからこそ私は、本稿を書いたのである。
本書を薦めてくれた方に、不快な思いをさせるのは本意ではないが、評価は曲げられなかった。
「こんなもんを絶賛しているようでは、読書家としてぜんぜんダメだ」というのが、私の正直な評価だったからである。
○ ○ ○
ちなみに、本書における三浦しをんの発言には、引っかかる「表現」が目についた。
これはたぶん「飲み会での馬鹿話」的な楽しさを醸し出すための、誇張された演出だったのであろう。だが、それにしても、その品のない言葉遣いには不快を禁じ得ない。
(1)『(※ ラスコは)金もないのに、悪所通いを夜々しておるに違いない』(P60)
この言葉が問題なのは、「悪所通い」を問題にしているのではなく、「貧乏人のくせに身の程を知れ」と言っている点なのだ。
これでは、ラスコーリニコフひとりを批判するに止まらないのである。
ちなみに、似たような言葉には「貧乏人は麦を食え(白米を食うな)」とか、「生活保護受給者がパチンコなんかするな」といった言葉のあることを、念のために書き添えておこう。
(2)『やっぱり「彼」(※ と表現されている指名不詳の人物)は(※ 女性ではなく)男でしょう。もしくは幻覚。むろん、「ソーニャ=デブ説」を採ってもいいですが。』(P 80)
(3)『ラスコ(※ ラスコーリニコフ)はかなり早い段階でソーニャのことを知っていて、好いたらしく思っている。殺人の動機は、革命資金を奪うためでもあるけれど、こんないい娘が大変な目(※ 生活苦)に遭って(※ いるというのに)、あの因業ばばあどもはウォッカとか飲んでデブデブしてる。それが許せないから(※ 殺すの)でもある。そのほうが読者は共感できる(※ 溜飲を下げる)んじゃないですか。』(P117)
ここで問題なのは、むろん「デブ」という言葉が、侮蔑語として意識的に使われている点だ。
例えば(3)の場合、「因業ばばあ」だから非難したいというのであれば、その部分を次のように書き換えても良かったのだ。
『殺人の動機は、革命資金を奪うためでもあるけれど、こんないい娘が大変な目に遭って、あの因業ばばあどもはウォッカとか飲んで悠々自適な暮らしを享受してる。それが許せないからでもある。』
因業婆さんたち非難しているのだから「ばばあ」呼ばわりまでは許そう。
しかし、婆さんたちと「デブ」とは、何の関係もないのだから、この表現は、単に「デブ(太っていること)」を「好ましくないこと」だとする三浦しをんの認識から出た、悪意ある侮蔑表現に他ならない。つまり平たく言えば、「肥満者差別」の言葉でしかないのだ。
しかしながら言うまでもなく、太っていようが痩せていようが、チビであろうがハゲであろうが、それで差別される謂れなど無いのである。
無論、三浦しをん自身が「デブ」の部類だったからこそ、自虐的にこうした表現を使ったのかもしれない。
だが、そこに三浦の「太った姿の写真」を添えてでもおかないかぎり、これを読んだ人は「デブ」は「見苦しく、好ましいものではない」という差別的価値観だけを刷り込まれることになるし、太っている人が読めば、きっと不快な思いをするだろう。
つまり、三浦しをんの自己意識がどうであろうと、こういう言葉遣いは「社会悪」なのである。
で、こうした、品もなければ、社会的な配慮もない言葉遣いをして、「飲み会の馬鹿話」でもするようにして4人で盛り上げ合うものだから、岸本佐知子や吉田浩美の言葉遣いも、こんな具合になる。
篤弘 ルージンがスティーブ・ブシェミなら、スベ(※ スヴィドリガイロフ)は誰だろう。
三浦 ヴィゴ・モーテンセンはどうでしょうか。
岸本 あ、いいかも。
浩美 ああ、ヴィゴ、ぴったりだね。
三浦 うふふ、超素敵! ほら、もうみんなスベの虜ですよ。
浩美 ヴィゴのあのなんとも言えない色気がね。
三浦 しかも変態くさいでしょ、絶妙に。
岸本 なにか釈然としない感じとかね。
三浦 そう、女の人が「この人ちょっと危ないな」と思いつつ、素敵かもって魅了されちゃう感じ。
浩美 かっこいいとかじゃなくて、ダダ痛れるフェロモンにやられちゃう感じだよね。
三浦 スベは女たらしですけど、ラスコは童貞なんですかね。
岸本 推理では「悪所通い」とか言ってたけど、違ってたね。
浩美 ソーニャとも、身体の関係はなかったみたいだし。
岸本 童貞くさいよね。
浩美 二十三歳ですよ。 (P249〜250)
ここで三浦しをんの言う、映画俳優ヴィゴ・モーテンセンについての「変態くさい」という言葉は、決して侮蔑表現ではない。
その「変態くささ」を魅力的に感じる自分の方が、「萌え豚の変態」だという趣旨で言っているからである。
だが、三浦の「ラスコ(※ ラスコーリニコフ)は童貞なんですかね。」という問いを受けての、岸本佐知子の『童貞くさいよね。』と、吉田浩美の『二十三歳ですよ。』という言葉は、明らかな「性体験の少ない男性」を蔑視した言葉である。

例えばこれは、彼女らに対して「蜘蛛の巣が張ったようなばばあが変に色気づいて、偉そうなことを言うな」と、若い男性から反論されても、文句の言えないところだろう。
例えば、たしか独身である三浦しをんについて「処女くさい」と言うことが許されるのか、というのと同じことだ。
一般に、男性には「処女」をありがたがる慣習があった。しかしそれも、女性が若ければであって、「年増女の処女」をありがたがる男は、昔も今もそう多くはないはず。
だから、年増女性について「処女くさい」などと言えば、むしろそれは男性に対する「童貞くさい」という表現と同じで、侮蔑語にしかならないのだ。
ましてや今どきは「アロマンティック・アセクシュアル」などという概念まで登場して、人は「恋愛するのが当然だ」とか「性交したくなるのが当然だ」という考え方は、差別的な「偏見」だと考えられるようになっている。
たしかに本書の刊行は、2015年だから、まだこうした概念は知られていなかったのだろうが、とは言え、この座談会の三女性は、女性を男性よりも愚かな存在だと見ているような、男性優位主義的(家父長制的)な古い偏見の持ち主らしきラスコーリニコフへの批判を隠さないのだから、「性差別」を許さないというのであれば、彼女たち自身も「性差別」をしてはならない。それが、人としての筋というものだ。
一一だが、その程度のことが、彼女らは、ぜんぜんわかっていない。
性差別は、男性が女性に対してするものだと思い込んででもいるのか、その逆のあることを想定して、自戒するということが、まったく出来ていないのである。
例えば、若い女性にもフェミニズムが浸透したはずの現在においても、次のような指摘がなされている。
『(※ 主として若い女性による、おじさんのハーフパンツ姿は)「キモイ」「不快」(※ という評価)を強調した(※ 一部メディアによる)報じ方は、無用な争いを生むなど目に余るものがあります。
前述したように「“おじさんイジリ”で数字を稼ごう」という戦略も、「一部の人の意見を多くの人々が言っているように見せよう」という編集も、確信犯的。そして、それを見る人々は「何となくわかっていながらけっきょく乗せられてしまう」という状況が続いています。
これは「もう性別や年齢のイジリに反応して、数字稼ぎに加担しない」という、1人ひとりの行動で変えていくしかないのかもしれません。
また、そんなメディア報道を見ていて、あるテレビ番組のインタビューで「嫌」「不快」などと語る若い女性の姿に危うさを感じました。そのインタビュー映像は切り抜かれてネット上に残るリスクが大きく、今回のネガティブなコメントはデジタルタトゥーに近いものを感じさせられます。
(中略)
(※ おじさん世代の)ハーフパンツでの勤務は慣れの問題で、違和感がある人もいずれ薄れていくでしょう。これは他の服装、髪型、体形、話し方、表情、仕草、振る舞い、持ち物なども同様であり、性別や年齢のギャップを感じるものでも徐々に慣れていくものです。』
これは、おばさんがハーフパンツを履いても、決して「キモイ」「不快」とは言われないし、言えば、ただでは済まされないのに、おじさんのハーフパンツ姿について、若い女性などが「キモイ」「不快」だなどと言っても許されてしまう「非対称」性を指摘した記事である。
当然のことながら、ここから女性が学べきことは、フェミニズムがせっかく勝ち得たものに胡座をかくことなく、女性もまた、異性に対する差別に敏感であるべきだ、ということだろう。
そうでなければ、無駄に男女間の断絶が生まれてしまい、時々指摘されるように、今どきの若者は、同世代の異性と一緒にいるよりは、同性と一緒にいる方を好む、などという傾向まで出てきてしまうのだ。
異性といると、何かと気を使わなくてはならない世の中になってきたためである。
私は何も、男性として、女性に喧嘩を売りたいわけではない。
私は昔から「女性を守る強い男性」としての「古いフェミニスト」を自認してきた人間だから、女性の権利はもっと拡大されるべきだと考えている。
けれど、さらなる女性の権利拡大のためにも、男性と同様、女性も「個人的な勘違いや思い上がり」には、警戒すべきなのだ。
そうでなければ、せっかくフェミニズムがこれまでに勝ち得た権利を、それに甘やかされた後進が台無しにして、「獅子身中の虫」ともなりかねないという、そんな現実があるからである。
主張すべき権利は主張すべきだ。
しかしそれは、「お互いに尊重しあい、折れ合うところは折れあってこそでおり、他者に配慮のない権利のぶつかり合いは、ろくな結果を生まないということを、男性は無論、女性も自覚すべきである。
そして、このように考えた場合、岸本佐知子や三浦しをん、吉田夫妻のような、著名な文筆家・言論人が、すでに指摘したような言葉遣いを、「ウケ狙い=金儲け」のためにすべきではない。
言葉の専門家であればこそ、言葉にはより大きな責任を負わなければならないし、その自覚を持たなければならないのである。
(2026年6月1日)
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