▷ 映画評:『十年』(2015年/香港映画)
その昔、香港は清朝・中国に属していた。だが、中国と帝国主義国家イギリスの間で戦われた「アヘン戦争」で中国が敗れたことにより、イギリスへと割譲された街である。
だが、第二次世界大戦後、植民地の独立が進む中で、香港は中国に返還された。
そしてその際、中国とイギリスの間で取り交わされた「中英共同声明」には、「外交」と「防衛(国防)」の2分野は中国中央政府が管轄し、それ以外の分野(司法、行政、経済、金融など)については、香港には高度な自治が認められ、従来の資本主義や市民の自由が維持される、ということになっていた。
当然のことながら、イギリスは自由主義国であり、中国は共産主義国だから、イギリスの自由主義経済下で発展した香港が、いきなり共産主義化されるというのは、どうにも無理がある。
それで、50年という年限を設けて、「共同声明」に謳われたような、折衷的な政治体制である「一国二制度」が設けられたのだ。
ちなみに、英中間の「共同声明」がなされたのは1997年であったから、「一国二制度」は2047年まで維持されるはずだった。
だが、イギリスが香港から撤退してしまうと、中国中央政府は香港に対して、外交と防衛以外の政治面においても、影響を強めていった。
イギリスの統治下において経済的に発展し、自由主義国ならではの自由を謳歌してきた香港とそこに住む人たちにとって、清朝とは違い、共産主義国家となった中国への復帰には不安が尽きなかった。
だが一面、同民族・祖国への思いもあって、ひとまず50年間の「一国二制度」を受け入れていたのだが、中国本土はその取り決めを守らず、独裁国家らしい政治的干渉を強めていったのである。
そんなわけで、「香港の歴史」については、私も参照させてもらった下の記事に要領よくまとめられているので、是非そちらを参照して欲しい。
さて、本作『十年』は、5人の監督による独立した短編映画をまとめた、オムニバス作品である。
共通するテーマは、本作が制作された2015年の「10年」後に、香港はどうなっているのか、それを描く、ということである。

収録作は、次のとおりだ。
第1話『エキストラ』(クォック・ジョン監督)
第2話『冬のセミ』(ウォン・フェイパン監督)
第3話『方言』(ジェス・チャン監督)
第4話『焼身自殺者』(キウィ・チョウ監督)
第5話『地元産の卵』(ン・カーリョン監督)
以上の各話の「あらすじ」については、下のサイトに詳しいので、ここではそれは割愛させてもらう。
さて、ひとことで言えば、本作には「明るい10年後」を描いた作品は、ひとつもない。
なぜなら、この映画が作成された2015年の段階で、すでに中国中央政府による政治的干渉が露骨になされており、香港の人たちは危機感を募らせていたからである。
つまり、「一国二制度」の維持すら当てにできない、中国中央政府としての中国共産党の正体を見た以上、香港では独立するしかないと考える人たちと、実質的に後ろ盾を欠いた一都市でしかない香港が、巨大国家である中国から独立することなど不可能だから、中国本土とうまくやって行くしかないという立場に二分されることになる。
しかし、一部の政治エリートや富裕階級などは別にして、庶民の多くは「このまま」であることを期待した。
もちろん、独立できるものなら、それに越したことはない。けれども、それがほとんど現実味を持たない以上、せめて「一国二制度」の、期限いっぱいまでの維持を望むのだが、それさえ現実には困難になってきていたのである。
一一そんな、不安な状態におかれていた2015時の香港において、本作『十年』は作られた。
当然「明るい未来」など描けるわけもなく、ただ「こうなりたくなければ、抵抗するしかない」という主張の込められた作品になってしまうわけなのだが、しかしそれも「今からでも遅くはない!」と力強く訴える作品とはならないところが、当時の香港の現実を、リアルに反映しているとも言えるだろう。
「このままで良いわけがない。だから、私たちは抵抗しなければならない。けれども…。」
そんな暗澹たる気分とヴィジョンが、いずれの作品にも満ち満ちているのである。
第1話の、クォック・ジョン監督による『エキストラ』は、政治的テロリズムにさえ利用されてしまう、庶民の哀れな姿が描かれている。

第2話の、ウォン・フェイパン監督による『冬のセミ』は、中国中央政府による統治が完成して、それまでの香港の歴史や文化が失われた世界を描いている。
そこでは、二人の男女が、失われたすべてのものを標本化してゆき、やがては自分たちをも標本にしてしまうという悲惨な姿が、暗く幻想的なタッチで描かれている。

第3話の、ジェス・チャン監督による『方言』は、香港の日常語である広東語にかわって、中央政府の推奨する標準語が広まりつつある社会が描かれており、広東語しか話せないタクシー運転手の主人公が次々と直面する困難を描いて、2015年当時の香港の空気を、そのままリアルに描いている。
真綿で首を絞められるような、そんな空気が、すでに当時の香港にはあり、それを「標準語の段階的な強制」というフィクションによって、見事に描いているのだ。
例えばこれは、今の日本で言うなら「AIが使えないような奴はいらない」といって排除される、高齢者の悲哀にも似たところがあるだろう。「もう、この流れには逆らい得ない」という、怯えに似た感情である。

第4話の、キウィ・チョウ監督による『焼身自殺者』は、香港独立を訴えてイギリス領事館前で焼身自殺をした活動家をめぐる物語だ。
彼がなぜイギリス領事館前で自殺したのかと言えば、それは「中英共同声明」を忠実に履行しない中国に対し、イギリス政府がそれを黙認していたからであり、その無責任さを批判して、イギリスの政治的干渉を一死をもって要求するものだったのである。
そして、そんな青年が残した言葉とは「僕は憎しみによって闘うのではない。また、勝てると思って闘うのでもない。ただ、希望を捨てないために闘うんだ」と、おおよそそのようなものだった。
つまり、香港独立はおろか、中国本土からの干渉に対する抵抗運動さえ、絶望感を満ちたものであったことが、この言葉からは感じられるのである。

第5話の、ン・カーリョン監督による『地元産の卵』は、自由な言論や生活が制限されていく日常を描いた作品だが、ここで注目すべきは、子供たちがそれに利用される姿である。
子供たちを組織した「少年団」が、政府から与えられた制服を着て、与えられた「禁止語リスト」を手に、それに違反するものの摘発に励んでいる。おそらくこれは、「文化大革命」時の「紅衛兵」をモデルにしたものなのであろう。「歴史は繰り返す」というおそれが、そこに語られている。
しかしながらまだ、それで政府からの直接弾圧を受けるわけではない。子供たちから卵をぶつけられるなどの嫌がらせ程度で済んでいるのだが、しかしまた、そんなことをされても、そんな子供たちを叱ることすらできないのだ。
また、そうした「禁止語」の中には「地元」という言葉も含まれており、主人公の営む食料品店で「地元産卵」と表示していたために、「少年団」から警告をうけるのだが、主人公は少年団の少年に対して、「教えられたことを鵜呑みにするのではなく、いったんは立ち止まって、自分の頭でよく考えろ」と教え諭すのであった。
そして、そんな少年団の一員となりながらも、まだそうした思想に染まっていない、主人公の息子であるマンガ好きの少年の「『ドラえもん』まで禁止するなんて、バカだよね」という言葉で、本作は締めくくられるのである。

一一このように「暗い10年後」を想定して作られた本作5篇だったが、現実はそれよりも早く展開して、いまや香港は、完全に「中国の一都市」となってしまった。
もはや香港に「抵抗運動」は存在せず、かつて抵抗運動をリードした人たちは、捕えられて刑務所にいるか、釈放ののち厳重な監視下に置かれているか、あるいは国外に逃亡し、亡命するかしている。
だから、今の香港の街は、表面上、中国共産党体制の下に「平穏な日常」が営まれ、人々はそれに順応したかに見える。
だが、無論そんなことはない。
多くの香港人たちは、言論の自由が制限される国家体制下において、やむなく「従順な市民」を演じているだけ、いや、それを強いられているにすぎないのだ。
そして、こんな本作を見て私が考えるのは、当然のことながら「独裁国家は恐ろしい」とか「共産主義国家には自由が無い」とか、その程度の話ではなく、「政治にフリーハンドの権力を与えてはならない」ということだ。
ありがたいことに、まだまだ「生ぬるい社会」であり得ている日本においては、「国家」がそこまで暴走することはないだろうという、そんな「楽観」がある。
だが、そうではないのだ。
私だってあなただって、絶対的な権力が与えられれば、自身を特別視し、他人を同じ人間だとは思わないようになってしまうおそれが、十二分にある。
だから、「あいつは信用できる」とか「あいつは信用できない」というのではなく、「どんな人間だって、100パーセント信用できる存在ではない」と、そんな厳しい現実認識を持ち、特に「政治権力」については、これを厳しく監視していかなくてはならない。政治家など、信用しなくても良いのである。
当然、政治家が「国民のため」に働いてくれるなんて綺麗事を、鵜呑みにしてはならない。
そうではなく、彼らは「自分のために」こそ、「国民のために」働いているかのような態度を採るだけなのだと、そのくらいの警戒心は持つべきだ。それは、与党議員であろうと野党議員であろうとである。
無論、中には本気で「国民のために」はたらいている政治家もいるだろう。
だが、そんな人であっても、絶対権力を与えられれば、たぶん「狂う」のである。
なぜなら、「神のごとき絶対権力」とは、人間という器には、収まりきらないものだからだ。
それは人間を破壊し、狂わせてしまう「暴力」なのである。
人間にとって「10年」後の社会とは、わかるようでいて、じつはよくわからない。
誰が、トランプ大統領の登場や、イランへの先制攻撃を予想し得たであろう。
今どき、世界的な石油王ショックが起ころうなどと、誰が予想し得たか。
だとすれば、台湾有事も想定されて然るべきではあるけれども、その際に、アメリカが日本と一緒に戦ってくれるという保証など、どこにもないと、そう考えておく必要があろう。
だから、日本を守ろうとすれば、アメリカを後ろ盾とした反中国など論外であり、両国を相手にした、外交が必要となる。
アメリカが中国についた時に、日本に何ができるのか、武力対抗が可能なのか否か、そこまで考えておく必要があるのだ。
国際政治においては「友人」はいない。ただ「友人」づきあいをしなければならない「潜在的な敵」がいるだけだということを、孤立無援だった香港が、私たちに教えてくれているのではないだろうか。
(2026年5月30日)
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