▷ 書評:樋口恭介『何もかも理想とかけ離れていた』(双葉社)
ひさしぶりに樋口恭介の小説を読んだのだが、やはりこの人は小説の方が断然いい。
樋口は、小説家になる以前はIT系の経営コンサルタントをやっていた人で、「こうすれば ○ ○ ○ はうまくいく」式の提案に「SF的な発想」を絡めた「SFプロトタイピング」なるものを提案するSFプロトタイパーなんてこともやっている。
だから、おのずと小説よりも、批評系の提案的な文章が増えていた。
平たく言えば、小説での稼ぎなど高が知れているのだから、「SF作家の肩書き」で書く評論的な文章によって、コンサルタントの仕事の方に箔をつけることをすれば、その方が一挙両得なのである。
だが、だからこそ、樋口恭介の評論はダメなのだ。
なるほど、頭の良い人だから、それなりにユニークな理屈を立てて、読ませる力は持っている。
しかし、その理屈とは所詮、笠井潔が言ったところの「理屈なら何とでもつく(つけられる)」といった類いの、不実なものでしかない。
つまり、理屈としてはいかにももっともらしいのだけれど、さてそれが、どれほど現場での実用に供し得るものなのか、現に役に立つのか立たないのか、そのあたりがいささかあやしいのだ。
香具師(やし・てきや)の物販口上と同じようなもので、完全な嘘ではないとしても、それをそのまま信じるには、きわめて危険な「ある種のレトリック」を含んだものであり、結果の保証までするものではないのである。
例えば、経営コンサルタントは、自身の助言について、その結果責任を負うという保証はしない。
あくまでも、自分のすることは提案・助言であって、それをどの程度採用するかしないかは、経営者の判断であり、経営者の責任でしかないのである。
当然のことだが、コンサルタントの助言が絶対確実なものならば、そのコンサルタントは、コンサルタントなどしてはおらず、みずからが経営者になって金儲けをしているはずなのだ。
つまり、コンサルタント的に「岡目八目」の優位性があると言ったって、それにも当事者性の欠如という限界があるのである。
そんなわけで、樋口恭介の評論(的エッセイ)というのは、こうしたコンサルタント的なスタンスにおいて、多少なりとも香具師的な巧言令色のレトリックを弄するものなのだから、話半分に聞いている分には面白いが、決して丸ごと真に受けてはならないものだし、その意味では、「私の真実を語る」という「作家(小説家)」のものではない。
小説というものは、そういうスタンスでは書けないものなのだ。
小説というものは、自分の「知識」や「レトリック的技巧」だけで書かれるものではなく、自分の「弱さ」や「愚かさ」や「卑怯さ」や「無知」さえさらけ出して、それと対峙するところにおいて、深く人の心をうつ、「文学」となり得る。
無論、ここで言う「文学」には、単なる「エンタメ(小説)」は含まれない。
「エンタメ」とは、読者を楽しませるためなら「どんな嘘でも平気でつく」という姿勢を基本とするものなのだ。
それは単に、現実にはあり得ないことを書くといったことだけではなく、作者の考えを偽ることだってするものなのである。
例えば、作中で「薬物の害悪による悲劇」を切々と描いて、読者に対して「決して薬物に手を出してはいけない。それは愚かな行為だ」というメッセージを発している作者が、本音では「お上の言うことを真に受けて、薬物をやらないなんて大馬鹿だ」なんて思っていても、何の不思議もない。
「エンタメ」とは、そういうレベルでの作物なのである。
で、樋口恭介の小説はどうなのかというと、それは良い意味で、「文学」なのだ。
自身を偽らず、自身と切り結ぶ中で書かれている小説であり、その点で明らかに「エンタメ」ではない。
まただからこそ、SF小説に「エンタメ」を求める読者には、「無駄に難解」だという印象を与えてしまいもする。

しかし、そんな「エンタメ」読者がいうところの「難解さ」とは、決して「科学的あるいは哲学的な専門知識や素養が無ければ理解できない」といったような意味での「難解さ」ではない。
なぜなら、エンタメ小説を書くのであれば、そうした門外漢には難解な概念を使ったとしても、しかしそれが作品理解の妨げにはならないように書くものだからだ。
だからこそ、エンタメ小説における専門知識・専門用語というのは、しばしば.もっともらしいだけの、レトリックの一種に止まりもする。
「楽しませるための作品」なのであれば、むしろそれが当然なのだ。
だが、樋口恭介の小説の「難解さ」とは、そうした性質のものではない。
樋口の小説において「難解」なのは、使用されている言葉や概念ではなく、「語りたいこと」そのものなのである。
ではなぜ、作者の「語りたいこと」が読者に伝わりづらいのか?
なぜ「語りたいこと」ならば、それを平易に語ることで、率直に読者に伝えようとしないのか?
それは、樋口恭介の場合、「語りたいこと」が、そのまま「隠したいこと」でもあるからなのだ。
本当に「語りたいこと」を、隠しながら語っており、それでいて「理解して欲しい」という気持ちを持っている。
そうした切実かつアンビバレントな感情が込められている作品だからこそ、読者からすれば「何かを訴えたいという気持ちは伝わってくるけれど、肝心なその内容がハッキリしない」と、そんな印象を受けることになる。
だからそれを、「難解」だと評することになるのだ。
しかしながら、人間というものは、大切なことほど、そう簡単には語れないものなのだ。
大切なものだからこそ、信じているものだからこそ、それを赤の他人に伝えるのは困難だし、そう簡単に理解してもらえるとは信じ難いから、表現するにしても躊躇があるし、その表現も韜晦的なものになってしまいやすい。
ストレートに書いてしまえば、「なんだ、そんなことか」とか「そんなこと、わざわざ読まされなくても、初めから知ってるよ」というようにしか受け取られないおそれがある。
逆にそれが、どうでもいい「建前の嘘」なのであれば、読者にどう受け取られようと、そんなことは大した問題ではない。
例えば、「すべての人間は平等です」「他者を愛しなさい」とかいった、世間に通りの良い託宣は、自分自身それをそのまま信じているわけではないからこそ、読者がそれを信じてくれなくても、それで自分が傷つくことはないのだ。
けれども、自分が本当に大切にしていることを語って、それが多くの人から受け入れられないとか、誤解されてしまうとかすれば、当然、作家はその期待はずれに傷ついてしまうだろう。
だから、自分が本当に大切にしていることを書こうとする時、人はしばしば、それを「隠しつつ表現する」といったことをするのだ。だからわかりにくくなる。
しかし、「深く人間を描く(書く)」というのは、たいがいの場合、そういうものなのであり、その困難に挑むのが「文学」というものなのだ。
文学者は、自分の根底にあるものを表現しようとし、しかしそれが根底的なものだからこその、表現の困難性に立ち向かうことにもなる。一一それが「文学者」の態度なのだ。
つまり樋口恭介の場合、評論的な文章は、難解そうに見えても、所詮は「エンタメ」的に「読者を喜ばせるためのもの」、それで「対価を得るためのもの」でしかない。
だが、小説の方は、そうではなく、どうにかして自分の根底にあるものを表現したいとしてもがく、「文学」なのである。
だから、両者共に「難解」ではあっても、その質が、本質的に違うのだ。
樋口恭介の「評論家的な文章」は、所詮は読者を喜ばせるための「エンタメ」的なものだから、見かけ上は難解そうでも、メッセージとしては、決して難解なものではない。
例えば、SFファンに対して「SF的な発想でいけば、世の中うまくいく」というメッセージを発すれば、その説明過程でどんなに難解な専門用語を使おうと、読者の多くは「よくわかった。私もそう思っていた」などと、納得してくれるだろう。
だが、そんなことをしている自分自身にジレンマを感じ、そのジレンマを表現したい、隠しながらも吐露したいと、そうした思いから書かれた「文学作品」は、そんな複雑な思いを共有しない読者には、ほとんど伝わらない。
人は、自分の中に無いもの理解することなど不可能だからで、まして、そうした思いを率直に語るのならまだしも、その本音を韜晦しながら語られても、それでは読者の方は、お手上げになるしかない。
またそこで読者の方は、その「理解不能」を自己正当化するために、そうした「作者の韜晦」を指して、「難解」だと言うのである。
○ ○ ○
そんなわけで、樋口恭介の「小説」は、「文学」作品であり、しかも屈折しているから、ストレートに理解することが難しい。
字面には本音が出てこず、それは字面の下に秘められているからこそ、読者はその字面を透視するようにして読まないかぎり、樋口の語りたいことを理解することはできない。
では、樋口恭介が本当に語りたいこととは、いったい何なのだろうか?
それは、本書の表題作である「何もかも理想とかけ離れていた」において、かなり率直に、つまりかなり「例外的」に語られた。一一「理屈じゃないんだよ。結局は気持ちでしょ?」という、そんな思い(不満)なのだ。
つまり、樋口恭介の「難解」とされるレトリックは、この「身も蓋もない本音」を、読者に対して偽るための、つまり、隠すためのレトリックでしかなかった。
本来「理屈」とは、「正しい論理」のことであり、それは「理想」を実現するものであるはずだ。それが、「理屈」の論理的な帰結でなければならないはずなのだ。
ところが、現実には、そううまくはいかない。
「理屈ではそうなるはずなのに、現実にはそうならなかった」ということの、山ほどあるのが、現実というものなのだ。
そして、そのことを、きわめて率直に描いているのが、表題作「何もかも理想とかけ離れていた」なのである。
科学的な検査や医学的措置の進歩した近未来において、危険な「自然分娩」をあえて選び、遺伝子治療なども拒否した「自然主義カルト」的な母のおかげで、人並み以下の能力しか授かれなかった本作の語り手の女性にとって、彼女の母親は、決して「理想的な母親」などではなかった。
「なんで、こんな私に産んだの?」と、そんな恨み言を堪えることのできない相手だったのである。
けれども、その彼女が大人となり、恋をして子供を授かった時、「科学的に見て、堕胎した方が母子のためだ」という医師の助言に反して、彼女は子供を産んだ。
そしてその結果、その子は母親以上に、世間の当たり前に劣る能力しか持てない子供として生まれてきたのだ。
しかしそれでも、母親となったその女性は、その子が生まれてきたこと、その子を産んだことを後悔はしておらず、心の底から「生まれて来てくれてありがとう。あなたに会えたことは、何よりも幸せだ」と、心からそう思う。
そして、自分を生んだ母の気持ちも理解できるようになって、子供の頃とは違い今となっては、母に「私を生んでくれて、ありがとう」という気持ちを持てるようになったのである。
無論、そうした「科学的知見に反して産む」という選択が「母親のエゴ」でしかないこと、世間から非難されるしかないものであることを、語り手の女性は理解している。
だが「だからどうだと言うのか」というのが、彼女の思いなのだ。

自分にとって大切なのは、他人の(客観的な)評価などではなく、「大切なのは、自分自身の思いなのだ、そうではないのか?」というのが、彼女の「反理性的」な思いであり、「主情的」と呼んでもいい、主張なのである。
当然、こんな「思い」を語る小説は、「いつもの樋口恭介らしくない」のだが、ここで言う「いつもの樋口恭介」とは、「批評に表れる樋口恭介」であり「コンサルタントである樋口恭介」であって、「素の樋口恭介」でもなければ、「小説家としての樋口恭介」でもない。
樋口恭介の小説とは、「批評に表れる樋口恭介」や「コンサルタントである樋口恭介」、つまり「建前仮面としての樋口恭介」を裏切ろうとする、樋口恭介なのだ。その本音の声なのである。
それは、そんな「身も蓋もない本音」や「エゴ」を抑圧して、世間の目から隠しおおそうとする「批評家としての樋口恭介」や「コンサルタントである樋口恭介」に対して、「理屈や理想なんてクソ喰らえだ」と抵抗する、「素の樋口恭介」なのだ。
樋口恭介に酒乱の傾向があるのも、それはこうした「抑圧」があるからだろう。
日ごろは保身的に「心にもない理屈や理想」を「不本意にも(無難かつ偽善的に)語っている」という意識があるからこそ、酒を飲むと、そのタガが外れてしまう。
しかしながら、小説とは、飲酒などによる理性の麻痺に頼らないで、本当の自分を表現しようとする「自己葛藤的な行為」なのだ。
だからわかりにくいし、難解だということにもなるのだが、しかしそこにこそ「文学」にのみ語りうる、理想的とは言い難い、いや、しばしば理想からはかけ離れてさえいる、「人間の真実」が表現されうるのだ。
だからこそそれは、「読むに値する現実=対決するに値する人間的な真実」の表現なのである。
だから、私は本書をオススメしたいと思う。
一一これが「文学」なのだ、と。
(2026年5月29日)
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