▷ 映画評:ピーター・ウィアー監督『トゥルーマン・ショー』(1998年/アメリカ映画)
たぶん本作は若い頃にテレビで見ているように思うのだが、あまり定かな話ではない。
あらすじを知っていたのは、本作を見たからではなく、どこかで紹介記事を読んだためかも知れないのだが、しかし、こんな私好みの作品を見ていないということなど、あり得ないようにも思うのだ。
しかし、これではまるで、フィリップ・K・ディックの「模造記憶」問題のようではないか。

ちなみに「私好みのパターン」とは、「メタフィクション」形式のことである。
「作中作」あるいは「世界内世界」を描いた、入れ子細工構造の作品だ。
メタフィクションの典型的なパターンとは、小説だと、その小説の物語の中に何らかの物語が登場して、その作品内物語と作中世界の境界が揺らぐといったパターンのもので、これは小説というものの持つ本質的な性格である「虚構世界」性を描いて、小説批評的な意識の込められた小説だと言えるだろう。
そうしたものの古典としてはセルバンテスの『ドン・キホーテ』などが有名なところだが、個人的に思い出すのは、山田正紀の『神狩り』だとか竹本健治の『腐食の惑星』や『闇に用いる力学』三部作、あるいは、そのルーツのひとつであろうフィリップ・K・ディックの諸作などだし、ミステリ作品であれば、やはり竹本健治の『匣の中の失楽』とか、都筑道夫の『怪奇小説という題名の怪奇小説』などが、若い頃に読んでいまも愛着のある作品だ。
もちろん、前述のフィリップ・K・ディックの作品が多数映画化されているとおりで、映画にもメタフィクション作品は多い。
例えば、二度映画化されたディック原作の『トータル・リコール』は、主人公が「自分がこれまで現実と思っていた生活は、後から植えつけられた模造記憶でしかなく、いま見ている世界こそが本物の世界なのか。いや、あるいは、いま見ているこちらの世界こそ、機械的に見せられている夢なのではないのか?」と、そう疑い迷う作品であり、本作『トゥルーマン・ショー』にきわめて近いSF作品だ。
また、『トータル・リコール』に非常に近いSF映画としては、ロバート・ロドリゲス監督の『ドミノ』(2023年)などもあるし、そのルーツのひとつとして、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』(2010年)なども忘れがたい傑作である。
また、同じフィリップ・K・ディック原作の映画『スキャナー・ダークリー』 (リチャード・リンクレイター監督・2006年)の場合は、ドラッグの常用によって、現実と妄想の混濁した世界が描かれるのだが、こちらも、『トゥルーマン・ショー』と同様の、被害妄想的あるいは統合失調症的な世界観を描いていている。
だが、しかしそれが、妄想なのか現実なのかという点については、ハッキリとは描かない。
むしろ『トゥルーマン・ショー』のように、それまで現実だと信じていた世界がぜんぶ偽物だったのだとハッキリ描く作品は、意外に少ないのである。
多くの作品は、どこまでが現実でどこまでが虚構なのか、その境界がよくわからないという「決定不可能性」から生じる「眩暈感の楽しみ」のようなところを狙うから、あまりハッキリと「ぜんぶ嘘でした」というパターンは、意外に少ない。
なぜなら、あまりハッキリと「あれはぜんぶ嘘でした」とやった場合、作品としてのリアリティが薄れてしまうからではないだろうか。
「そんな嘘っぽい世界を、丸ごと疑いもなく主人公が信じていたということの方が、むしろ不自然ったのであり、ご都合主義的だったのだ」と。
そもそも本作の場合、リアルな世界と思えたものが、じつはぜんぶ作り事(虚構)だったとするにしても、その設定には、案外リアリティがない。

巨大な街ひとつ作り上げて、究極の「リアリティ番組」をやったというところまでは認められるにしても、ひとりの人間の一生を、テレビ番組のために弄ぶというのは、どう考えたって、あり得ない話なのだ。




それは、人権無視も甚だしく、そのことを正当化するほどの、よほど特殊な社会背景設定をしないかぎり、当たり前のリアリティを持ち得ないのだが、本作には一人の人間の「人権」を蔑ろにして、その一生を弄ぶことを正当化するほどの、説得力のある背景設定などなされていない。
せいぜい親に捨てられた身寄りのない赤ん坊に、虚構の両親を与え、比較的恵まれた幸福な(虚構の)環境と人生を与えたということくらいであり、その代償として、本人には真実を伝えないまま、つまり騙し続けたまま、本人の許可もなくその人生を、いわば「晒しもの」にして、それで金儲けをしていたのだから、これは倫理的に見て、とうてい許されることではない。
つまり、作中世界の人々は、どうしてこんな「非倫理的なテレビ番組」を非難することもなく、楽しむことが出来ているのか、主人公の青年トゥルーマン(ジム・キャリー)を騙し続ける「俳優」たちは、彼らを信じているトゥルーマンを見て、どうして良心の呵責を覚えないのか。
その説明がまったく無く、その点でこの作品世界には、「当たり前のリアリティ」がまったく無いのである。




一一だが、本作には、リアリティが無いかわりに、不思議な「非現実感」のようなものがある。
まるで「夢の中の人生」のような、そんな「奇妙なリアリティ」ならあるのだ。
一見「楽しい日常」でありながら、どこか「見えない悪意」に取り囲まれているような、それでいて、これと名指しできないような「悪夢」的な感覚があって、それが本作の魅力になっているのである。
例えばそれは、いつの間にか周囲の人たちがすべて、宇宙人にすり替わっていたという恐怖を描く、ジャック・フィニイの小説『盗まれた街』を原作として何度も映画化された、『ボディ・スナッチャー』シリーズと酷似した感覚を惹起するものだ。
実際、本作『トゥルーマン・ショー』でも、それまで演技をしていた街の人々全員が、つまり母親だったはずの人も、妻だったはずの人も、親友だったはずの人も隣人も、そのすべてが、番組ディレクターの指令一下、この「作られた世界」からの逃亡を試みる主人公を、一致団結して探しだし捕えようとするその姿は、人間の演技をやめて、侵略者としての本性をあらわにして主人公を追いつめていく「ボディ・スナッチャーズ」の様子に酷似しているのである。



つまり、本作『トゥルーマン・ショー』の場合は、たぶんそもそも「リアルな偽の世界」を描こうとしたのではなく、「あり得ないことがあり得ている」というその不自然さにおいて、「不穏な世界」を描いているのではないだろうか。
「現実だと思い込んでいた世界が、実は虚構だった」というような、最後になって「世界認識のどんでん返し的な衝撃」を見る者に与えることを狙ったとした作品ではなくて、本作の場合は、常態的な「世界に対する違和感」あるいは「疎外感」的なものを描こうとした作品なのではないだろうか。




だからこそ、本作の場合、主人公トゥルーマンがテレビで見られている「客体的な存在」だということを、物語の最初から露骨に明かしてさえいたのである。
ラストで初めて「じつはぜんぶ嘘でした」と種明かしして、観客を驚かせようとするような作品ではなかったのだ。
つまり本作『トゥルーマンのショー』の場合は、普通のメタフィクション作品のように「現実世界の確固たる現実感を揺るがす」ことを目的とした作品ではない、ということなのではないだろうか。
本作が観客に問うているのは、「この現実世界は、そんなに確固としたものなのだろうか?」ということなのではなく、「あなたの人生は、真に自分のリアルに生きたと言えるものなのか?」と、そのように問うている作品なのではないだろうか。
言い換えれば、「あなたは、人に踊らされるままの無難な人生などではなく、本作の主人公トゥルーマンのように、困難でも真実に向き合うことで、自分の人生を自分の力で生き抜こうとする、そんな生き方をしていると言えるのだろうか?」と、そんなふうに問うている作品なのではないか。
トゥルーマンは、この街「シーヘブン(Sea Haven)」に住んでさえいれば、仲の良い家族や気持ち良い友人や隣人同僚に囲まれて、幸福な人生をおくれたのである。
たとえそれが「嘘(虚構)」だとしても、あえてその外へ踏み出そうなどとしないかぎり、つまり「嫌な現実には目を瞑っている」かぎり、それはそれで、ひとつの「幸福な現実」とも言えるものだったのだ。

けれどもトゥルーマンは、そんな「偽の幸福」に安住することを、潔しとはしなかった。
周囲を海に囲われて、外に出ることの出来ないこの街、彼が主人公であるこの世界(街)においては、彼は主人公ならばこそ、その生涯は保障されていた。
彼があえて、この世界の虚構性を暴こうとしないかぎりは、彼はそこで幸福に生きることが保証されていたのである。


だがトゥルーマンは、「何かおかしい」と気づいていながら、今の小さな幸福を守るために、自分の感じた「違和感」から、あえて目を逸らす、というようなこと(自己欺瞞)の出来る人ではなかったのだ。






一一さて、ここまで語れば、本作が何をテーマとした作品かは、もはや明らかであろう。
「あなたは、この世界の現実を直視し、その現実を前提として、自分自身のリアルな人生を生きているだろうか? そうではなく、誰かから与えられ虚構の(フェイクの)世界像にしがみつくことで、自分の小さな幸福にしがみつく、そんな生き方をしてはいないだろうか?」
私たちは、そんなことを本作のから問われているのではないだろうか?
実際、世界中の人々から「娯楽の対象」としてその人生に注目され、娯楽の対象として愛され支持されてきたトゥルーマンだったけれど、しかし彼は、そんな人たちの期待に応えるだけの人生ではなく、自分自身の人生を生きようと決断した。


だが、映画のラストで、トゥルーマンがその「囲われたテレビ番組のための世界」から出ていった勇気を、「感動」と共に拍手喝采で支持したはずの「視聴者」たちの方は、それで「トゥルーマン・ショー」が「終わった」と思った途端、あっさりと次の番組へチャンネルを変えてしまう。
一一そんな空疎な姿が、本作にはしっかりと描かれているのだ。
私は以前、「今どきのアニメファン」について、次のような批判をしたことがある。
それは、ある放送中のテレビアニメの中のヒロインを「俺の嫁」だと呼び、今でいう「推し」の対象として熱心に支持していたものの、しかし、その番組が終わって、次のクールの新作のラインナップが明らかになると、途端に「次の嫁」へとあっさり鞍替えしてしまう、そんな今どきのオタクにありがちな態度だ。
しかしそれは、あまりにも不人情であり、そのキャラクターを本気で好きだったとは言えないではないかと、そう批判した。


それは、そのキャラクターが好きだったのではなく、ただ、その時々、現実逃避するための「ネタ」として、「消費していただけ」なのではないかと、そう批判したのである。
そしてこれは当然、トゥルーマンの「自分の人生を生きるための勇気ある選択」を、喝采を持って支持した視聴者たちの態度と、まったく同じことなのではないだろうか。
彼らはきっと「トゥルーマンから、勇気と感動をもらいました」などと、理解者ヅラをして、誇らしげにそう言うことだろう。
だが、その言葉自体が、テレビから刷り込まれた「偽の言葉」であり「偽の感情」に他ならないのだ。
しかしまた視聴者たちは、その現実に決して気づきはしない。
いや、気づきたくないから気づけないのだ。
他人の人生に感動しても、そこから勇気をもらうことで「自分の人生を、勇気を持って生きよう」などとは、金輪際考えることのない軽薄な視聴者たちは、「トゥルーマン・ショー」が終わった途端に、トゥルーマンのことなどさっさと忘れて、次の「虚構の人生」に「虚構の勇気」や「虚構の感動」を求めて移動するだけ。
そうすることで、自身は「虚構の人生」の中に、ぬくぬくと止まり続けるのである。
だが、「本当にそれで良いのか?」
一一トゥルーマンはそう問うているのだ。
トゥルーマンとは、無論「真実の人」だ。
であれば、そんな虚構の人生に生きるあなたは、「偽りの人=見掛け倒しで中身のないハリボテの人間」だ、ということになるのではないのだろうか?

(2026年5月27日)
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