スラヴォイ・ジジェク、ジョセフ・E・スティグリッツほか 『あなたの知らない「世界の新常識」』: 資本主義的な「理想」の害悪

▷ 書評:大野和基編『あなたの知らない「世界の新常識」』(インターナショナル新書)


現代社会というものを考える上で決して無視できないジャンルの最先端をいく、学者・思想家8人に対するインタビュー集である。

一人あたり26ページほどの長さだから、それほどつっこんだ議論がなされているわけではないが、日ごろ接する機会のないジャンルの話を聞けるという点で、大変ありがたい一書だと言えよう。

本書の内容を個々に紹介するわけにはいかないので、次の「目次」から、おおよその雰囲気をつかんでいただきたい。

第1章
スラヴォイ・ジジェク (哲学者)
常識の時代は終わった

第2章
ジョセフ・E・スティグリッツ (経済学者)
「自由」は常に犠牲をともなう

第3章
エリック・カウフマン (人口学者)
白人はマイノリティになる

第4章
ジェイソン・ヒッケル (経済人類学者)
資本主義の次の世界がやってくる

第5章
ジョセフ・ヘンリック (人類学者)
西洋人は「奇妙な」少数派にすぎない

第6章
ジャック・アタリ (経済学者 思想家)
日本はなぜナンバーワンになれなかったのか

第7章
ミチオ・カク (理論物理学者)
量子コンピュータを最初に開発した国はそれを公表しない

第8章
ジェレミー・リフキン (経済社会理論家)
水のインターネットが基礎インフラとなる



本書のインタビューは、各インタビュイーの最新著書の問題意識についての質問から入って、それが今後の世界にとってどのような意味を持つものなのかと問い、その解説を受けるというかたちになっている。

また、その最後の部分には、インタビュー後に発生した、米国ドナルド・トランプ政権による、ベネズエラへの武力による政治干渉と、その後のイラク攻撃などの事態を踏まえて、「今後、世界の〝常識〟は、どのように変わっていくと考えるか?」という質問にたいする、それぞれの回答をつけ加えられている。
本書のタイトルは、この最後の質問を踏まえたものであり、インタビュアーで本書の編者である、ジャーナリスト大野和基の問題意識を示すものだと言えるだろう。

本書の「はじめに」は、大野和基によるものではなく「インターナショナル新書編集部」名義となっているが、その締めくくりの言葉は、次のようなものだ。

『 八人のインタビューは千差万別のようですが、通して読むとある共通点がみえてきます。それは自分の周りの小さな「常識」を疑い、より広い世界、より長いスパンの歴史の中から新たな「常識」を見定めようとする強い意志です。彼らの声は、やがて訪れるポスト・トランプ時代へ多くの示唆を与えてくれます。ここに私たち日本人が未来を見通す指針となる「世界の新常識」が見つかるはずです。』(P5)


本書の面白さとは、まさにこの「目先の事象だけに捕らわれるのではなく、退いた目を持って現在の世界をとらえた上で、より良き未来を切り開くために必要な知とは何か」と、それを自身に問う姿勢にこそあろう。

人は誰しも、得手不得手があり好き嫌いがある。だから、専門の学者ではなくともほとんどの人は、自分好みのジャンルについての知識は深め得ても、それ以外については、あまり配慮しないものだ。
また、興味があったとしても、すべてのジャンルについて、深い知見を得、深く考えるというようなことは、物理的に不可能であろう。
だからこそまた、ひとつのジャンルを深掘りして極めることで、安心を得ようともするのである。

もちろん、そうした「深掘り」が重要だというのは論をまたない。
けれども、そうして得られた知識を過信するが故の「思考のタコツボ」化も、決して好ましいものではない。

とすれば、大切なのは、このたかだか220ページほどの薄っぺらい新書から「決定的な洞察」を得ようなど欲張ったことを考えるのでなく、「自分の知らないところで、さまざまな思考努力がなされている。自分が知っていることなど、この世界のほんの一側面にすぎないのだな」ということを、「実感を伴って理解すること」なのではないだろうか。

言い換えれば、本書に「正解」を求めるという安直な愚行ではなく、「私は何も知らない」という原点に立ち戻る契機として、本書を利用するべきなのだ。
それをすれば、私たちは現状に絶望するだけではなく、ひとまず新たな思考をそこから始めることができるからである。

 ○ ○ ○

さて、本稿では、個人的にピンと来た部分にかぎって、いくつか紹介させていただくことにする。
そこに私なりの問題意識が示せるはずだ。

まずは、スラヴォイ・ジジェクの、次の議論である。

『 例えば、ドイツでは毎年何千件もの似た事件が起きています。ドイツの高校に入ったイスラム教徒の家庭出身の移民の少女が、ドイツ人のボーイフレンドと親密な関係になり、
西洋の女性の自由な生き方を知ります。彼女は家族から逃げ出し、家族は彼女を連れ戻そうとします。そして彼女は警察に保護を求めます。ドイツには現在、亡命したスパイのための隠れ家が二五カ所あるそうです。そういうところに身を隠します。
 こうしたケースに対して明確なルールを定めるべきです。欧米には、女性の自由、ゲイの自由など、確立されている考え方があります。それを尊重してほしい。「あなたの文化では女性の自由は認められていない」としましょう。もしあなたの娘が自由を望まないのなら、それでもいい。でも、もしあなたの娘が自由がない生き方を望まないのであれば、あなたに強制する権利はありません。
 そしてもう一つ。ドイツでは特にそうですが、フランスや他のヨーロッパ諸国でも多くのイスラム教徒が、自分たちの価値観を一般の人々に押し付けようとしています。例えば、スウェーデンの友人は、イスラム教徒の男子がいる高校では、親が(※ イスラムの教えで、食することを禁じられている)豚肉を出さないように要求していると言っていました。なるほど、それは理解できます。豚肉の臭いが気になるから、食事には豚肉を一切出すな、と。さらに続きます。女子が短いスカートをはいていると、男子にレイプするよう誘っているようなものだから、女子はズボンとか長いスカートをはかせるべきだと。
 私は、どこかで制限を設けなければならないと思います。異なる文化が共存するということは、まず女性の権利のような基本的な価値観を共有するということです。多文化主義は終わりました。「移住してきた者は、その土地の価値観を尊重しなければならない。そして第二に、自分の価値観を押し付けてはいけない」ということです。』(P23〜24)


多文化主義は終わりました。』とは、ある種の人には、かなりショッキングな言葉なのではないだろうか。

当然のことながら、「互いの個性や文化を尊重しましょう」という考えは、まったく正しい。

一一けれども現実には、両立し得ない文化というものもあって、相互に尊重したくても出来ないものも多々あるのだ。

無論、妥協点が見出せるのならそれに越したことはないが、例えば「侮辱した者に対しては、死を持って報いよ」というような思想と「人を裁いてはならない。許しなさい」という思想とは、とうてい両立し得ない。妥協点など見出せないのだ。

では、その場合、現実にはどうなるかというと、力のある方が自分たちの「倫理」を、立場の弱い側に押しつけることになるだろう。

あるいは、「多文化主義」を信奉して、自分のものとは違う文化をも大切にしなければならないと、そう真面目に他者のことを尊重しようとする方が、他者の価値観を立てて、自分の方が退き下がることになるだろう。

つまり、こうした「文化対立」においては、「中庸」というようなことは、現実にはあり得ないのだ。

どちらかが「押しつける」か「退き下がる」しかない。
しかし、それを主体的に選んだ個人はそれで良いとしても、その「決定」を、制度として強制された者は、決して納得はしないだろう。
「なぜ、われわれの方が遠慮しなければならないのか?」と、そう考えるからだ。
一一これは「当然」のことである。

つまり、対立した2つの価値観があって、現実的にその折り合いをつけなければならない際に、どちらか一方が折れれば、当然、折れた方には不満が残るし、不満が残れば、それは文化的な他者に対する反発へと転化するだろう。

「どちらかが遠慮しなければならないのだとした、それがわれわれである必要はない。われわれが遠慮するのではなく、彼らが遠慮すればいい」と、そう考えるのだ。

しかし、双方がこう考えるのなら、あとは力づくの喧嘩で決着をつけるしかないだろうから、それでは共存も多文化主義もあったものではなくなってしまう。

したがって、異文化が接する場所では、どうしたって「抽象観念でしかない理想」のゴリ押しは、かえって問題をこじらせることにしかならない。

本来ならば、譲るところは譲る、推すところは推すという駆け引きの中で妥協点が見出されていくべきなのに、いきなり「こう考えるのが正しいのだから、皆さんには今から、この方針に従っていただきます」では、済まされないのだ。

つまり、ジジェクの言う『常識の時代は終わった』というのは、単に「トランプのやることは常識はずれであり、これまでの常識が通じない世界へと変えられつつある」というような話ではない。

こうした言い方には「これまでの常識は素晴らしいものだった」ということが大前提(常識)となっているのだが、ジジェクの言う「終わった常識」とは、そういう「自明に肯定的なもの」などではなく、それは「ある種の独善」だった、ということなのだ。

「これは常識だから、あなたにも従っていただきます」という言い方や発想には、主流派の「独善」が隠されており、だからこそそれに反発する人たちも出てきたのだし、トランプはそうした感情をうまく掬い上げて利用したから、アメリカ大統領という地位にもつけ、やりたいことがやれているのである。

だから、私たちが考えなければならないのは、自明に優位な認識としての「常識」などというものは存在しない、ということなのだ。
それは、ある時代、ある地域における「多数派の意見(世界理解)」であって、全人類共通の「常識」などというものは存在しない。
存在するのは、多種多様な「常識」だけなのである。

だからだとすれば、ジジェクがここで言うような「郷に入っては郷に従え」といった「古いとされた常識」も、決して軽んずることはできないのだ。

「古い常識」と「新しい常識」があったとしても、それは「立場」の違いでしかなく、自明なこととして前者が後者に劣っている、ということにならない。人間は、案外「進歩しない」のだ。

だから、前者を信奉する人たちに、後者を問答無用で押しつけることはできない。
それは、端的に間違った行いだからで、それでもそれを「常識」だからと押しつけようとすれば、最後は力づくの「殺し合い」になるしかないのである。

だから、自分たちの「常識=正義」を捨てられないというのであれば、殺し合いをして決着をつけるか、さもなければ一緒にはいない(住まない)かしかないだろう。

民主主義的には「話し合って妥協点を見出す」というのがベストだというのは論をまたないのだけれど、その結果は、決して両者ともに満足のいくものにはならないし、その点で「遺恨を残す」ことにもなるのだという現実を、決して忘れるべきではない。
そして、遺恨が残る以上その「妥協的決定」は、決して永遠のものではないのである。

この点について、ジョセフ・E・スティグリッツは、見出しにもなっているとおりで、端的に『「自由」は常に犠牲をともなう』と言っている。

ここで言う「犠牲」とは、私が先に書いた「妥協」と同じことだ。
誰かが、自分の意志を通すことで「自由」を得たとしたら、きっとその陰で「犠牲」や「妥協」を強いられている人がいるのだ。

『 (※「自由」とは何かについての)三つ目の考え方は、もう少し微妙で複雑なものです。それは、時には個人の自由への「制限」がより多くの人の「自由」を増大させることもあるということです。皮肉な話に聞こえますが、私が本書の中で挙げている例は、信号機が自由を侵害しているということです。青になるまで動けませんから、これは規制です。でも、ニューヨーク市に信号機がなければ、人もクルマも交通渋滞に巻き込まれ、誰も動けなくなります。ところが、信号機があれば交代で通行でき、渋滞は軽減され、全員の自由度が高まります。行動の可能性が広がるのです。』(P40〜41)


「自由」とは、人間にとって最高の価値なのだから、それは誰人にも不幸をもたらすものではない、一一などというのは、現実には「現実を見ない戯言」にすぎない。

私たちが、ご飯を食べられるのも、スマホを使えるのも、そんな「自由な生活」を享受できるのも、世界のどこかで私たちの生活を支えるための「犠牲」になっている人がいるからだという事実を、私たちは忘れてはならない。

私たちが「常識的な権利」である「自由」を主張し、それを獲得した時、世界の裏側では、その人の「自由」のために、「自由を奪われている」人がいるということを忘れてはならない。

自由とは、いつでもどこでも「正義」であるわけではないのだ。

この点について、経済人類学者のジェイソン・ヒッケルは、資本主義社会の次に来るべき「脱成長社会」において重要なことは、進歩しないということではなく、資本主義的な「資本の蓄積のための、為にする生産活動」ではなく、「真に必要なものにのみ、リソースを割く生産活動」なのだと訴えている。

「ポスト資本主義への具体策としては、富裕国の大量消費をやめさせることがまず最初にやるべきことでしょうか?」(P105)


という、インタビュアー大野の質問に対して、ヒッケルは次のように答えている。

『 いいえ、違います。消費の視点からみるのは間違っています。それは典型的な環境活動家の考え方です。脱成長が指し示しているのは、問題は消費それ自体ではないという事実です。問題は消費の前段階、生産システムなのです。先ほど言ったように、資本主義では生産が過剰になりますが、皆が本当に必要なものを十分に生産していません。
 もしあなたが都会に住んでいて、仕事に行くときに公共交通システムがなければ、自動車に依存せざるを得ません。それについては選択の余地がありません。ですから車に乗る回数を減らすことは選択肢の中に入りませんね。しかし、公共交通のような設備があれば、異なる消費の選択ができるようになります。変わらないといけないのは、根底にある生産システムで、ここでも資本蓄積ではなく、人間の幸福、福祉やエコロジカルな目標を達成するのに必要な生産様式に重点を置かなければなりません。』(P105〜106)


つまり、「権利」も含めて、「何でもたくさんあるに越したことはない」というような「自由」の追求は、物理的には不可能事であり、資本主義は、その不可能なものを求めるものだったからこそ、地球環境にツケをまわし過ぎて、かけがえのないそれを破壊することになった、ということなのだ。

言い換えれば、私たちに本当に必要なものに限って生産するかぎりにおいては、地球環境はその回復力によって無限の恵みを、私たちに与えてくれる、ということなのだ。

だから、私たちは「資本主義システムを回すための過剰な生産=生産のための生産」ではなく、真に必要なものを必要なだけ作る社会にシフトしなければならない。
それが、ポスト資本主義としての「脱成長社会」なのである。

で、ヒッケルのこの議論を、物理的な生産物ではなく、「権利」や「自由」に置き換えて考えてみれば良い。

「無限の権利の追求」「無限の自由の探究」というのは、一面の「理想」ではあっても、物理的・現実的な根拠を持たない「理想=抽象観念」でしかない。

だから、それを「理想」であり「常識」だといって、やみくもに「生産」しようとすれば、社会に対して過大な負荷をかけてしまい、社会環境を破壊してしまうことにもなるのである。


だから、私たちが求めるべきなのは、人間という不完全な存在の「身の丈に見合った」権利であり自由でなければならないのだ。

いくら理想を追求したところで、現実を見ないのであれば、それはどこかの誰かに「犠牲(ツケ)」を強いる、「独善(手前味噌)としての偽善」にしかならないのだということを、そろそろ私たちは自覚すべきであろう。

「足るを知る」という古い言葉は、決して古くはなく、新しい知恵とすべきものなのである。



(2026年5月27日)

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