フランシス・フォード・コッポラ監督 『ゴッドファーザー PART III』: 縁故採用バッシングの裏側

▷ 映画評:フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー PART III』(1990年/アメリカ映画)


『1972年に公開された『ゴッドファーザー』および1974年に公開された『ゴッドファーザー PART II』の続編であり、三部作「ゴッドファーザー・シリーズ」の第3弾。
2020年に再編集版が製作され、タイトルは『ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期』(原題: The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone)に改められた。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」




ということで、「ゴッドファーザー」シリーズの最終作となった作品である。

ここで「三部作」と書かなかったのは、この作品もまた、当初から「三部作」を意図して作られたものではなかったからだ。

前作『PART Ⅱ』のレビューにも書いたとおり、一作目の『ゴッドファーザー』は、シリーズものを意図せずに作られた単発作品だった。
だが、その大ヒットを受けて、会社側の意向により『PART Ⅱ』が企画されたため、続編を考えていなかったコッポラは、当初、監督への就任を渋っていたが、やりたいようにやれるという全件委任を交換条件として出し、それが認められたため、『PART Ⅱ』を作ったのである。

したがって、『PART Ⅱ』で、やりたいことをやり切ったコッポラには、当然3作目を作るつもりなど毛頭なかったのだが、その『PART Ⅱ』がまたさらに大ヒット作となったからには、製作会社側はこの「ドル箱シリーズ」をそのままにしておくつもりなどなく、ヒットするかぎり何作でも作ろうと考え始めた。

たとえコッポラが監督を受けなくても、他の監督に撮らせればいいだけの話で、実際『スターウォーズ』にしろ『007』『ターミネーター』などにしろ、監督を替えながら続編を作ったし、それをしたところで、一般客はそんなことまでは、気にしないからである。

このように「作家性」を無視した映画製作が横行するのは、映画監督には「著作権」が無いからだ。
映画の著作権は、製作した映画会社側に帰属しており、監督のものではない。
監督とは、あくまでも、雇われの現場指揮官であり、筆頭演出家にすぎないのである。

だから、そのオリジナル作品(第1作)の監督が「続編など撮りたくない」と言えば、会社側は、別の監督を雇って続編を作るだけなのだ。
まただからこそ、その作品に愛着を持っている監督ならば、他人に任せるよりはと、嫌々ながら監督を引き受けるということもあるわけなのである。

ましてコッポラの場合、『PARTⅡ』を作った時とは違い、それから16年後に撮られた本作『PART Ⅲ』制作の時点では、製作会社側に対する立場が、ハッキリと弱まっていた。


『PART Ⅱ』では、第一作『ゴッドファーザー』のヒットを受けて、ほとんど完全なフリーハンドの条件を得て作ることが出来たのだが、コッポラはその後の作品で興行的な失敗が続いたために、莫大な借金をかかえる身となっていたのである。
とにかく、映画を撮らなければ借金を返せず、おのずと映画を撮れないことになる。つまり、「仕事」をしないわけにはいかなくなっていたのだ。

実際、コッポラが本作『PART Ⅲ』を引き受けるまでに、会社側がこの「ゴッドファーザー」シリーズをどのようにするつもりだったのかは、次のエピソードに明らかだろう。

『コッポラは過去の2作で「ゴッドファーザー」の全貌を語り尽くしたと考えており、続編の製作には後ろ向きであったため、続編の製作には前作から16年の歳月を要した。パラマウントは、この16年の間、折に触れてはこのドル箱シリーズの第3弾を、コッポラに作らせようと働きかけていた。(※ だが)80年代前半には、シルベスター・スタローンの監督・主演、ジョン・トラボルタの共演で『PART Ⅲ』の製作が企画されたこともあった。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」


今となっては、ほとんど冗談のような話だが、スタローンもトラボルタもイタリア系だし、スタローンが撮れば、激しい抗争アクションを描いてくれるのではないかという期待が、会社側にはあったはずだ。
また、トラボルタなら人気も実力もあるから、ヒット作を狙うのなら、この2人の起用も、あながち理解できないものではない。

けれども、これでは、このシリーズが単なる「ギャングもの」になってしまう公算も、決して低くはなかったのである。

無論、会社側としては、実績もあり、シリーズの生みの親であるコッポラに、できれば撮って欲しいとは思い、コッポラに働きかけたようだが、コッポラとしては「切りがない」という気持ちはあったはずだ。

結局、興行的に失敗しないかぎり、シリーズが延々と続いてしまうのは目に見えているし、それに最後までつきあい続けることなど不可能だ。
したがって、シリーズを終わらせようとすれば、自分の手で失敗作を撮って、みずからシリーズに引導を渡すしかないためである。

当然のことながら、こうした問題は、「ゴッドファーザー」シリーズに限られた話ではなく、その後も続いている、いかにもハリウッド的な難問なのだ。

だが、この難問をうまく切り抜けた事例として、私は、クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト・トリロジー(三部作)」の3作目『ダークナイト ライジング』について、すでに詳しく論じている。


『ダークナイト ライジング』で、ノーランが採った「続編を作らせない方法」とは、ノーランのバットマン、つまり「ダークナイト」シリーズでバットマンを演じたクリスチャン・ベールのバットマンを完全に引退させてしまい、バットマンを継ぐ人物まで描く、という手法だった。
こうしておけば、ストーリー的に「ダークナイト」シリーズの続編を作ったとしても、主人公のバットマンは、おのずとベールではなくなるから、実質的には別のバットマンシリーズになってしまうと、そういう寸法だったのである。

だが、「ゴッドファーザー」シリーズの場合は、そうはいかない。

なぜなら、作中において、肩書きとしての「ゴッドファーザー」を継ぐ人物は、代替わりしていくというのが大前提だからで、主人公がいくら変わり、演じる役者が変わろうと、それは「ゴッドファーザー」シリーズの続編であり、「別もの」ということには出来なかったためである。

したがって、コッポラが『PART Ⅲ』でやったのは、『PART Ⅱ』の主役である、マイケル・コルレオーネアル・パチーノ)を殺してしまい、少なくともコッポラの「ゴッドファーザー」シリーズに、完全にけりをつけるということだったのであろう。

コッポラが第3作のタイトルを『ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期』にしようとしたのは、そうした意図があったからだと見て、まず間違いない。

そうでなければ、会社側が提示した『PART Ⅲ』という「当たり前のタイトル」に、最後まで抵抗する理由など無かったはずだからだ。
『PART Ⅲ』を認めてしまうということは、『PART Ⅳ』『PART Ⅴ』などまで認めてしまうも同然だと、コッポラはそう危惧していたのであろう。


実際、『PART Ⅱ』の段階で、主人公のマイケル・コルレオーネは、自身の行いの代償としての「孤独の境涯」に堕ちていた。
「ファミリー」のために、すべてを投げうち、みずからの人間性を殺してでもやってきた結果、その大切な家族からさえ浮いてしまう「孤独な独裁者」とならざるを得なかったのである。

一一そんなわけで、『PART Ⅱ』は、マイケルの行いに相応の代償を支払わさせたという意味において、完全に完結していたのだ。

ところが、金儲けのことしか考えていない会社側は、そんな「作品的な意味」など、気にはしない。

だから、黙って放っておけば、アル・パチーノを使って第3作でも第4作でも作っただろうし、アル・パチーノが歳をとれば、次の「ゴッドファーザー」に継がせて、また似たような作品を繰り返すことをしただろう。

そんな作品が観客から飽きられて見放されるまでは、その金蔓から搾り取れるだけのものを搾りとったであろうことは、疑い得ないところなのだ。

さて、本作『PART Ⅲ』の「Wikipedia」を見てもらえばわかるとおり、同作の評価において問題視されたのは、作品の内容や出来そのものではなく、マイケル・コルレオーネの19歳になった娘メアリー役に、コッポラが自身の娘ソフィア・コッポラを起用した点である。


それが、「縁故主義」採用であり「フェアではない」という批判は、一般的な意味では、決して間違いではないだろう。
私自身『PART Ⅲ』を見ていない段階で、この事実を知った時には、それに対する批判も当然だろうと思ったし、『PART Ⅱ』のレビューの中でも、そのような書いた。

『ただ、Wikipediaの語るところ『急遽のキャスティングで』抜擢された、コッポラ監督の実娘ソフィアの縁故主義的な登用と、その演技が問題になって、厳しい批判を晒されることにはなったようだ。

ソフィアの演技がどの程度のものなのかも、まだ見てはいないからわからないのだが、『特にキャリアがないまま』(Wiki)の登用だったというのは事実であり、またコッポラの場合は、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカ監督のように、故意に素人をキャスティングするというタイプの監督ではないので、その点でも、縁故主義と批判されてもやむを得ないところではあっただろう。』


こうした批判に対して、コッポラは、次のように反論している。

『メアリー・コルレオーネ役のソフィア・コッポラに対する批判は、急遽のキャスティングで特にキャリアがないままに縁故主義的な形で主要な助演女優に抜擢されたこともあり、映画公開前から苛烈なものであった。コッポラ監督は、批評家たちが「私を攻撃するために(私の)娘を利用した」と主張し、父の罪のためにメアリーが究極の代償を払う映画の結末と照らして皮肉なことだと述べている。これには主演のアル・パチーノも「私はあの子が大好きだし、当時は大したものだった」と同情している。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」


見てのとおり、コッポラは『批評家たちが「私を攻撃するために(私の)娘を利用した」と主張』したのだが、これだけを見れば、いささか手前味噌で「被害妄想」的な主張のようにも聞こえるだろう。

しかしだ、ここで「コッポラから、ゴッドファーザーシリーズを取り上げようとする意思が、そこに働いていたとしたら」と考えてみたらどうだろう。

たしかに本作『PART Ⅲ』は、前作『PART Ⅱ』ほど興行的に成功したわけではない。つまり平たく言えば、前作ほど稼いだわけではなかった。
しかしながら、稼げなかった失敗作だというわけではないのだ。

公開
パラマウント・ピクチャーズの配給で1990年12月20日にビバリーヒルズでプレミア上映され、12月25日に全米で公開された。クリスマス当日に合計600万ドルの史上最高額を叩き出し、1997年に『タイタニック』に抜かれるまで、7年間この記録を保持した。国内の劇場レンタル料は6700万ドルで、前作『PART II』より2000万ドルも多かったが、最終的な興行収入は米国とカナダで6670万ドル、その他の地域で7010万ドル、全世界で1億3680万ドルとなり、前作には及ばない結果となった。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」


つまり、ヒットはしたのだが、前作には及ばず、その点で会社側が期待したほどではなかった、というにすぎないのである。

しかし、会社側とすれば、期待したほど稼げる映画の撮れなかったコッポラに、今後も撮らせ続ける理由など無いし、コッポラに義理だてしなければならない理由もない。
なにしろ「ゴッドファーザー」シリーズは「会社の財産」であって、コッポラのものではないからだ。

だが、『PART Ⅲ』の出来が、歴史的名作である前作『PART Ⅱ』に多少劣ろうと、映画ファンは、そうは考えてくれない。

なにしろ、名作となった『ゴッドファーザー』と『PART Ⅱ』は、コッポラあっての作品だったからで、『PART Ⅲ』が会社側の期待ほどにはヒットしなかった(稼がなかった)からという理由で、コッポラ抜きで続編の継続を強行しようとすれば、会社側への非難の声の高まりは、避けられないところだからである。

一一ならば、どうするか?

それは、『PART Ⅲ』について、「作品の出来そのもの以外」のところ、つまりコッポラその人に対して徹底的にケチをつけて、コッポラがシリーズを任せるに値しない人物だというイメージを捏造することだ。
つまり、コッポラを、スキャンダル的に貶めるのである。
そうすれば、次作から監督が別の人物になっても、ファンも文句は言わないだろうからである。

さて、私がこのように推理するようになったのは、本作『PART Ⅲ』を見たからに他ならない。

そして、ソフィア・コッポラが、過酷なバッシングさらされなけらばならないほどの、酷い役者だとは思わなかったためだ。

実際、そうだと知らされていなければ、メアリー・コルレオーネ役の女優が、コッポラの娘だなどと気づく人は、ほとんどいないだろう。
それほど、ソフィアは十分に美人だし、演技だって、決して大根だというわけではない。

もちろん、優れた性格俳優のような精緻な演技まで出来ていたわけではないが、メインの脇役の一人であるメアリー役としては、十分な演技であったと言えよう。

だから、評論家の中には、こうしたバッシングに異を唱える者も現にいる。

『著名な映画評論家のロジャー・イーバートは、その批評の中で「前2作を知らずにこの映画を理解することは不可能だ」と述べながらも、熱狂的な批評を書き、この映画に星4つ中3つ半を与え、彼が当初『PART II』に与えた評価よりも高い評価となった(2008年の再評価では、『PART II』に4つ星を与え、彼の偉大な映画リストに加えている)。また、ソフィア・コッポラをミスキャスティングではないと擁護し、「フランシス・フォード・コッポラが、当初この役を演じることになっていた経験豊富で才能ある若手女優ウィノナ・ライダーから、どのような演技を引き出したかを予測することはできない。しかし、ソフィア・コッポラは、メアリー・コルレオーネに独自のクオリティをもたらしたと思う。この役柄にふさわしい、率直な弱さと素朴さがある」とした。ゲイリー・フランクリン(英語版)は、ソフィア・コッポラのキャスティングについて「インスピレーションを受けた」と呼び、彼女のキャラクターは「見事に演じられた」と述べた。オーウェン・グレイバーマンもまた、ソフィア・コッポラを「この非女優は熟した思春期の妖艶さを持っている」と評価した。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」

『キャリン・ジェームス(英語版)は、2020年に「『ゴッドファーザー PART III』が不当に悪魔化されている理由」と題した寄稿をBBCに掲載し、その中で「コッポラが新たに復元、再編集、改名したバージョン(※ 『ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期』)を抜きにしても、この映画がいかに深刻な過小評価を受けているかは、後知恵だけでわかるはずだ」と述べた。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」



ソフィア・コッポラは、このエミリー役でゴールデンラズベリー賞の「最低助演女優賞」と「最低新人賞」を与えられている。
だがこの賞は、いささか偏った「名作・名演主義」に偏して、当たり前のエンタメ的な作品や演技を、極端に見下して嘲笑する傾向のあるというのは、それまでの受賞作や受賞者を見てもわかることだ。

実際、演技の未熟な新人女優などいくらでもいるだろうが、その中でなぜソフィア・コッポラに同賞が与えられたのかと言えば、それは「ゴッドファーザー」シリーズが、ヒット作であり注目度の高い作品だったからに他ならない。

つまり、ゴールデンラズベリー賞が、ソフィア・コッポラに与えられたのは、彼女の演技が際立ってダメだったからではなく、悪口を言うのなら、大物を標的にしないと話題にもならないという、賞としての自己顕示性から出たものに、ほかならないのである。

このように、ソフィア・コッポラの演技は、袋叩きにされなければならないほど酷いものではなかった。
一一なのにどうして、あそこまでバッシングされたのかと言えば、それは彼女がコッポラ監督の娘だったからに他ならない。
「将を射んとすれば、まず馬を射よ」ということだ。

もちろん最初に書いたとおり、「縁故採用」というのは、決して好ましいものではない。

けれども、それを言うのであれば、第1作の『ゴッドファーザー』から、音楽を担当しているのは、コッポラ監督の実父であるカーマイン・コッポラなのに、それを「縁故採用」だと批判する人はいない。

要は「勝てば官軍」であり、結果としてヒット作になれば、その作品に縁故採用があろうとなかろうと、そんなことは問題にはならないのだ。
「結果よければ、すべてよし」で、「下手くそな他人を使うより、上手い身内を使うのは当然だ」ということで済まされてしまう程度の話なのである。

実際、『PART Ⅲ』でも、縁故採用は、ソフィア・コッポラやカーマイン・コッポラだけではなかった。

『この映画でカメオ出演した他のコッポラ親族には、監督の妹のタリア・シャイア(コニー役)以外に、監督の父親のカーマイン・コッポラ(バンドリーダー役)、叔父のアントン・コッポラ(オペラの指揮者役)、孫娘のジア・コッポラ(コニーの孫娘役)などがいる。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」


最後のジア・コッポラなどは、幼児であるがゆえに演技さえしていないのだが、その無邪気な素の行動を活かしたシーンは、私が本作で最も好きなシーンでもあった。


みずからの受賞パーティーにおいて、マイケルが娘のメアリーと踊るシーンで、コニー(マイケルの妹)の孫娘が(叔母にあたる若い)メアリーの脚元にまとわりついて離れず、それで3人で踊るという、じつに微笑ましいシーンである。
こんなシーンは、どんな名子役を使っても、撮れはしなかったはずだ。

(マイケルとエミリーが父娘で踊ろうとするも、コニーの幼い孫娘がエミリーにしがみついて離さないので、最後は3人で踊って、拍手喝采を受ける)


また、ここでは「カメオ出演」とされているが、コンスタンツァ・“コニー”・コルレオーネ・リッツィ役のタリア・シャイアは、決してカメオ出演などではない。
コニーは、マイケルの妹であり、第一作から登場して、徐々に変わっていく、けっこう重要な役どころなのだ。

(マイケルの妹コニー)

だが、その彼女が「縁故採用」だと批判されたことは、一度もない。
そもそも、コッポラのイタリア系らしい「家族主義」は、当初から黙認されていたことなのだ。


そして私はここで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ や『スーパーマン』(2025年版)などで知られるジェームズ・ガン監督のことを思い出す。
彼もまた、家族主義者で「縁故」採用の好きな「身内主義者」なのだが、それを批判されることなど、絶えて無いのである。


だから、ソフィア・コッポラについての「縁故採用」批判は、ためにするものだった蓋然性が、決して低くはない。

エミリー役に、いきなりソフィアを抜擢したというのならまだしも、実際には、予定したキャスティングがうまくいかなかった結果としての、急遽の採用だったのだから、この場合、縁故俳優の採用も、それなりにあり得る選択であったはずなのである。

『メアリー・コルレオーネ役には、当初はジュリア・ロバーツが決まっていたが、スケジュールの都合で降板した。マドンナはこの役をやりたがったが、コッポラは彼女がこの役には年を取りすぎていると感じた。レベッカ・シェーファーがオーディションを受けることになっていたが、熱狂的なファンに殺害された。ウィノナ・ライダーは神経衰弱のため、土壇場でこの映画から脱落した。最終的に、監督の娘ソフィア・コッポラがメアリー役に選ばれた。ソフィア・コッポラは幼児期、『ゴッドファーザー』でマイケル・コルレオーネの幼い甥を演じており、同作品の終盤の洗礼式で登場した(『PART II』でも、9歳のヴィト・コルレオーネがエリス島に蒸気船で到着するシーンで小さな移民の子供として登場)。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー PART III」


私に言わせれば、エミリー役にマドンナを採用するよりは、ソフィアの方が「普通の女の子」らしくて、よほど正解だったと思う。

だから、私たち映画ファンは、ソフィア・コッポラが「縁故採用」で大バッシングを受けたという(プロパガンダ)情報に惑わされることなく、彼女の演技を見て評価して欲しいと思う。
そうすれば、特別素晴らしい演技だということではなくても、当たり前に十分な演技であったことが確認できるはずだ。

そして、肝心なことは、このバッシングが、「ゴッドファーザー」シリーズから、コッポラを切り離したいがための、会社側の画策(陰謀)であった可能性もあながち否定できない、という事実である。
つまり、金をもらって、コッポラ父娘を非難した映画評論家が、何人かはいたはずだ、ということである。

クソみたいな作品でも、原稿料さえもらえれば褒め称えるのも芸のうちだといった評論家が山ほどいるのだから、金をもらい、その意向に従って悪口を書き立てる「影響力のある映画評論家」がいても、何ら不思議ではないし、その影響を受けて追随する、自分の目で判断することのできない三流評論家など、山ほどいるだろう。

なにしろ、金に汚いことで有名なハリウッドのことなのだから、映画マフィアじみた映画会社が、それくらいのことをしても、なんの不思議もないのである。

本作『PART Ⅲ』では、バチカン(カトリック教会)の、実話に基づく犯罪が描かれている。

歳をとり、子供たちのためにもカタギになろうとしたマイケルが、事前活動を行う上でバチカン銀行との関係ができ、逆にそちらからいかがわしい要請を受けることによって、またもや好まざる犯罪に巻き込まれていくというのが、本作『PART Ⅲ』の目新しいところなのだが、本作中でマイケルは、次のような趣旨の「真理」を語っている。

「上を目指して言えば、いずれ犯罪とは無縁な真っ当な世界で生きられるようになると信じて頑張ってきたのに、現実には社会の上層へ行けば行くほど、欲に塗れた連中の世界だった。バチカンだってその例外ではない」


(老いて病み、疲れの隠せないマイケル。期待した息子アンソニーがカタギになると後継ぎを固辞したため、死んだ兄ソニーの私生児であるヴィンセントに3代目ドン・コルレオーネの地位を譲る)


ハリウッドが、表向きは「輝ける夢の世界」だとすれば、その裏が度しがたく欲に塗れた世界であっても、何ら不思議ではない。
(例えば、ミュージカル映画の大スターだったジュディ・ガーランドの末路が、その典型的な実例だ)

また、今風の言葉でいえば、ハリウッドは「コンテンツ産業」の世界であり、そのコンテンツの有効活用のためなら、個人の作家性などというものは、むしろ邪魔なものでしかなく、可能であれば、いとも容易く作家たちの尊厳を踏みにじってみせることだろう。

私は、そうした実例を、日本を代表するコンテンツ企業である「KADOKAWA」のプロデュースした、歴史的な大ヒットアニメ『けものフレンズ』における、功労者「たつき監督切り捨て事件」で、露骨に見せつけられた経験がある。


だから、コッポラ監督の「私を攻撃するために(私の)娘を利用した」という主張は、あながち被害妄想でも手前味噌な主張でもないと思えるのだ。

実際、『PART Ⅲ』が「期待されたほどにはヒットしなかった」作品だとしても、やはり会社側は、コッポラを外した上での続編を考えていたのである。

続編の可能性
1990年代後半には『PART IV』製作の噂が流れの、アンディ・ガルシア(※ マイケルから跡目を継いで、三代目のドン・コルレオーネとなるヴィンセントを演じた)やレオナルド・ディカプリオが出演するといわれたが、実現しなかった。一時期、ディカプリオの起用にコッポラが意欲的であると伝えられたが、1999年にマリオ・プーゾが死去したため、今後続編が作られる可能性は低いとみられている。コッポラはプーゾの死を受け、彼なくして(プーゾとの脚本共同執筆なくして)続編の制作はあり得ないと語った。
(中略)
2020年の米『ニューヨーク・タイムズ』誌の記事によると、コッポラは「『ゴッドファーザー』の権利は私が所持している訳ではない」としたうえで「可能性として『ゴッドファーザーIV』『V』『VI』が作られるかもしれない」「但し私は監督はやらない」と語っている。同記事によると、権利を所有しているパラマウント・ピクチャーズ側は『ゴッドファーザー PART III』続編について「更なる映画の予定は現状ありません」としながらも「描くべき物語が出来れば可能性はある」と答えている。』

(Wikipedia「ゴッドファーザー」


先に引用した、コッポラの「私を攻撃するために(私の)娘を利用した」という言葉の主語は、「批評家たち」となっている。

批評家たちが「私を攻撃するために(私の)娘を利用した」と主張


これはたぶん、金の無くなったコッポラが映画作家として映画を作っていくためには、評論家を批判することは出来ても、映画会社そのものを敵に回すわけにはいかなかった、ということなのではないだろうか。
だから、仮に「批評家たち」の向こう側に「製作会社」の存在を見ていても、そうと指摘することまでは出来なかった。

当然、「ゴッドファーザー」シリーズの生みの親としては、他の監督による『ゴッドファーザーIV』『V』『VI』の制作など、決して歓迎すべき話ではなかったけれど、しかしコッポラは、それを止められる立場にはなかった。
だから、上のように「奥歯に物が挟まったような物言い」になってしまったのである。

私たちは、人気シリーズが、監督を替えながらでも、延々と続くことを単純に歓迎しがちである。

そして、結果として失敗作になった場合にのみ、そのとき初めて、その監督を批判することはしても、そうした「安直な続編企画」そのものを批判することは、ほとんど無い。

だが、コッポラがDVDのコメンタリーで、

「観客や製作会社は、いつでも過去を見て、その夢よもう一度という態度だ。だが、作家というのは、本来は未来を目指し、新しいものを作ろうとするものなのだ」


と語ったとおり、本物の作家ならば、ヒットしたからと言って、好きこのんで同じようなものを量産しようなどと考えはしない。そんな者は作家ではなく、商売人なのだ。

だから、私たち映画ファンに、もしも映画における作家性を大切にするつもりがあるのであれば、この種の「続編企画」に対しては、むしろ厳しい目を向けるべきであろう。

かつては「柳の下の二匹目のドジョウ」を狙うというのは、「愚かな行為」の喩えだったのだが、今では二匹目どころか、すでにドジョウのいなくなった柳の下へ、よそから持ってきたドジョウを放ってでも、10匹目、100匹目のドジョウを狙って見せるのが、今のハリウッド型ビジネスなのだ。

そして、そんなことが横行するのは、結局のところ、『あの大ヒット作が帰ってきた!』式の宣伝に、多くの人が踊らされてしまうからであろう。

どんなジャンルであれ、作品の質を低下させるのは、客の水準の低下だという事実を、私たちは、くれぐれも肝に銘ずるべきなのである。




(2026年5月26日)

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